写真 最高の万能アスリート、ジム・ソープ
『万能の天才たち』で紹介してきた通り、歴史には、競技の枠を超えた活躍を見せる万能アスリートが無数に登場する。
その中でも、究極のマルチ超人といったら、男子ではジム・ソープ、女子ではベーブ・ザハリアスに尽きるだろう。
◆ジム・ソープ◆
ジム・フランシス・ソープ、本名ワソハックは、1888年、オクラホマ州の出身。サック&フォックス族の居住地で生まれ育った。
ソープの超人ぶりは、学生時代から飛び抜けていた。フットボールを始め、野球、陸上、ラクロス、バスケットボール、レスリング、水泳など、あらゆる競技で抜群の才能を示した。ちなみに、身長は185センチ、体重は82キロ。
母校であるカーライル校代表のひとりとして、ソープはラファイエット校との陸上対校試合に出場した。しかし、カーライルの代表が4人であるのに対して、ラファイエット校は47人。とても試合になるはずがなかった。
しかし、結果はカーライル校の圧勝だった。ソープが「120ヤードハードル」「220ヤードローハードル」「幅跳び」「高跳び」「砲丸投げ」「円盤投げ」の6種目で、ことごとく1位を独占したのだった。
ソープは、ストックホルム五輪の陸上競技アメリカ代表に選ばれる。5種競技と10種競技に出場し、圧倒的な成績で、2つの金メダルを獲得した。体系的なトレーニングも、記録向上のための環境整備も皆無だった時代にもかかわらず、その記録は、実に半世紀も破られることがなかったのである。
「走る」「跳ぶ」「投げる」といった、人間の肉体能力の全てを競う10種競技の覇者には、欧米では格別の崇拝が仰がれる。この記録だけでも、ソープのマルチアスリートぶりを証明するには十分だろう。
しかし、彼の万能ぶりには、限界がなかった。
彼は五輪の直後、母校の代表として、陸軍士官学校とのフットボール対校試合に出場する。相手選手の中には、後のアイゼンハウワー大統領もいた。
ソープはその試合において、自軍の10ヤードラインでボールをキャッチするが早いか、そのまま相手ゴールまで独走してタッチダウンした。だが、オフサイドのために惜しくもやり直し。
そして、ソープはさっきと同様に10ヤードラインでボールをキャッチし、再び独走、タッチダウンしてみせる。2度続けてフィールドを縦断する単独のソープを、鍛え抜かれた士官学校の選手たちは、誰ひとりとして止めることができなかった。
身体意識でいったら、かの宮本武蔵の剣技の極意とされるアウトサイドジンブレイド(斜め方向への移動を飛躍的に速くする)が発達していたのだろうか。
ソープは、カレッジ・フットボールでも文句なしでオール・アメリカに選抜された。
ソープの圧倒的な偉大さは、誰もが認めるところとなった。ところか、そんなとき突如として、ソープの持つ2つの金メダル剥奪の一報が届く。
その理由は、彼が五輪出場以前に野球の試合に出場し、報酬を受け取っていた事実が、アマチュア規定に反するというものだった。しかし、実質的にはネイティブ・アメリカンであるソープへの人種差別であることは明らかだった。
カーライル校では生徒に対して、夏休みにはスポーツの試合に出場することを指示していた。一介の在校生であるソープに、それを拒む権利はなかった。
彼はマイナーリーグの試合に出場したが、ギャラの大半は学校に入った。手元に残ったわずか週給15ドルで、ソープは妹に靴を買ってやったという。
これが、プロとしての活動だと、全米体育協会及びIOCは強硬に主張した。そしてこの主張は、ソープのアマチュア競技からの永久追放を意味していた。
こうして、名声の絶頂にあったソープは、一転して「ダーティなインディアン」の汚名を着せられ、記録更新の機会も永久に奪われることになる。
人間は、自分の想像を絶する偉大さに直面したとき、反射的に拒絶反応を示すものだ。卓越した人物は、卓越しているがゆえに嫉妬を招き、不当な弾圧を受ける。いつの時代も変わらない方程式である。弾圧がないとすれば、それはまだ本物ではないのだ。
しかし、この弾圧はソープにアマでの活動をふっ切らせ、プロとしての活動に専念させる契機となった。
「競技に参加しない外野のお偉方に引っ掻き回されるのは、もうこりごりだ。選手自身の手で、スポーツ組織を運営したい……」
こうして、ソープは自らプロフットボール協会、すなわち今日のNFLを創立し、初代会長となる。同時に、自ら選手としてハーフバックを受け持ち、41歳まで現役でプレイした。
さらに、それでも物足りなくて、メジャーリーグにも掛け持ちで出場していた! ニューヨーク・ジャイアンツやブレーブスに所属し、日本にも遠征している。
NFLとメジャーをかけもちする。こんな選手は二度と現れないだろう。
引退からおよそ20年後に行なわれたスポーツジャーナリストへのアンケートでは、ベーブ・ルースなどを抑え、20世紀前半で最も偉大なアスリートに選ばれた。それでも、彼の汚名が晴らされることはなかった。
その死からおよそ20年後、全米体育協会は、ソープのアマチュア復権を認めた。30年後、IOCはソープの2つのメダルを公式記録として認定し、ようやく完全に名誉回復がなされた。
◆ベーブ・ザハリアス◆
ある意味で、ジム・ソープ以上の万能アスリートが、ミルドレッド・エラ・ベーブ・ザハリアス(旧姓ディドリクソン)だろう。
彼女が「ベーブ」の愛称で呼ばれるようになったのは、少女のころにさかのぼる。男子ソフトボールの試合に出て、13本ものホームランをかっ飛ばしたときからだった。
高校時代からバスケットボール、水泳、テニス、ゴルフ、バレーボール、ボーリング、ビリヤード、スケートと、あらゆるスポーツで抜群の能力を発揮し、注目を集める。
18歳で五輪代表選考会8種目に出場し、5種目の優勝を独占。本番では3種目の代表に選ばれ、80メートルハードル(11秒7)と槍投げ(43メートル68センチ)では、共に世界記録を樹立して堂々の金。走高跳でも世界記録を出したものの、頭からバーを飛び越える背面跳び「テキサス・ロール」がルールに触れるとされ、失格で惜しくも銀メダル。
それでも、五輪で一度に3つの世界新記録を出したことに変わりはなく、一躍全米のヒロインに。コマーシャルに出演するが、これがアマチュア規定に触れるとされ、彼女は五輪から永久追放されてしまった。これ以降、ベーブはプロとしての活動に専念することになる。
彼女はまず、「全米バスケットボール・チーム」を創設し、自ら唯一の女性選手として活躍。全米代表に3度も選ばれている。
その上、プロ野球にも出場し、男子の試合で投手として活躍した。彼女が17歳で叩き出した、野球ボール遠投90メートル20センチという女子のギネス記録は、いまだに破られていない。
公式試合には出場しなかったが、競泳においても、100メートル自由形で世界新まであと1秒という記録を出している。本格的に専念していたなら、こちらでもおそらく世界記録を更新していただろう。
30歳からは、プロゴルファーとしても活動を開始。5年後には、自ら「全米女子プロゴルフ協会」を創立している。生涯で出場した88のトーナメントのうち、34回の優勝を果たしている。全米女子アマや全米オープンでも優勝している。
さらに、練習試合ではあったものの、男子の全米及び全英代表チームと対戦して、ベストスコアを出している。男子トーナメントへの出場を表明したこともあったが、前例が無いからと拒否されている。彼女が出たら、本当に優勝してしまう恐れがあったのだ!
晩年には末期ガンを患うが、42歳で全米女子オープンに出場し、3度目の優勝を飾っている。その2年後、44歳の若さで世を去った。
生涯で634の大会や試合に出場したが、1回戦敗退は、わずか2回だけだった。それも、団体競技であるバスケットのみ。ベーブ・ザハリアスこそ、「ミズ・アスリート」と呼ぶにふさわしいだろう。
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『万能の天才たち』で紹介してきた通り、歴史には、競技の枠を超えた活躍を見せる万能アスリートが無数に登場する。
その中でも、究極のマルチ超人といったら、男子ではジム・ソープ、女子ではベーブ・ザハリアスに尽きるだろう。
◆ジム・ソープ◆
ジム・フランシス・ソープ、本名ワソハックは、1888年、オクラホマ州の出身。サック&フォックス族の居住地で生まれ育った。
ソープの超人ぶりは、学生時代から飛び抜けていた。フットボールを始め、野球、陸上、ラクロス、バスケットボール、レスリング、水泳など、あらゆる競技で抜群の才能を示した。ちなみに、身長は185センチ、体重は82キロ。
母校であるカーライル校代表のひとりとして、ソープはラファイエット校との陸上対校試合に出場した。しかし、カーライルの代表が4人であるのに対して、ラファイエット校は47人。とても試合になるはずがなかった。
しかし、結果はカーライル校の圧勝だった。ソープが「120ヤードハードル」「220ヤードローハードル」「幅跳び」「高跳び」「砲丸投げ」「円盤投げ」の6種目で、ことごとく1位を独占したのだった。
ソープは、ストックホルム五輪の陸上競技アメリカ代表に選ばれる。5種競技と10種競技に出場し、圧倒的な成績で、2つの金メダルを獲得した。体系的なトレーニングも、記録向上のための環境整備も皆無だった時代にもかかわらず、その記録は、実に半世紀も破られることがなかったのである。
「走る」「跳ぶ」「投げる」といった、人間の肉体能力の全てを競う10種競技の覇者には、欧米では格別の崇拝が仰がれる。この記録だけでも、ソープのマルチアスリートぶりを証明するには十分だろう。
しかし、彼の万能ぶりには、限界がなかった。
彼は五輪の直後、母校の代表として、陸軍士官学校とのフットボール対校試合に出場する。相手選手の中には、後のアイゼンハウワー大統領もいた。
ソープはその試合において、自軍の10ヤードラインでボールをキャッチするが早いか、そのまま相手ゴールまで独走してタッチダウンした。だが、オフサイドのために惜しくもやり直し。
そして、ソープはさっきと同様に10ヤードラインでボールをキャッチし、再び独走、タッチダウンしてみせる。2度続けてフィールドを縦断する単独のソープを、鍛え抜かれた士官学校の選手たちは、誰ひとりとして止めることができなかった。
身体意識でいったら、かの宮本武蔵の剣技の極意とされるアウトサイドジンブレイド(斜め方向への移動を飛躍的に速くする)が発達していたのだろうか。
ソープは、カレッジ・フットボールでも文句なしでオール・アメリカに選抜された。
ソープの圧倒的な偉大さは、誰もが認めるところとなった。ところか、そんなとき突如として、ソープの持つ2つの金メダル剥奪の一報が届く。
その理由は、彼が五輪出場以前に野球の試合に出場し、報酬を受け取っていた事実が、アマチュア規定に反するというものだった。しかし、実質的にはネイティブ・アメリカンであるソープへの人種差別であることは明らかだった。
カーライル校では生徒に対して、夏休みにはスポーツの試合に出場することを指示していた。一介の在校生であるソープに、それを拒む権利はなかった。
彼はマイナーリーグの試合に出場したが、ギャラの大半は学校に入った。手元に残ったわずか週給15ドルで、ソープは妹に靴を買ってやったという。
これが、プロとしての活動だと、全米体育協会及びIOCは強硬に主張した。そしてこの主張は、ソープのアマチュア競技からの永久追放を意味していた。
こうして、名声の絶頂にあったソープは、一転して「ダーティなインディアン」の汚名を着せられ、記録更新の機会も永久に奪われることになる。
人間は、自分の想像を絶する偉大さに直面したとき、反射的に拒絶反応を示すものだ。卓越した人物は、卓越しているがゆえに嫉妬を招き、不当な弾圧を受ける。いつの時代も変わらない方程式である。弾圧がないとすれば、それはまだ本物ではないのだ。
しかし、この弾圧はソープにアマでの活動をふっ切らせ、プロとしての活動に専念させる契機となった。
「競技に参加しない外野のお偉方に引っ掻き回されるのは、もうこりごりだ。選手自身の手で、スポーツ組織を運営したい……」
こうして、ソープは自らプロフットボール協会、すなわち今日のNFLを創立し、初代会長となる。同時に、自ら選手としてハーフバックを受け持ち、41歳まで現役でプレイした。
さらに、それでも物足りなくて、メジャーリーグにも掛け持ちで出場していた! ニューヨーク・ジャイアンツやブレーブスに所属し、日本にも遠征している。
NFLとメジャーをかけもちする。こんな選手は二度と現れないだろう。
引退からおよそ20年後に行なわれたスポーツジャーナリストへのアンケートでは、ベーブ・ルースなどを抑え、20世紀前半で最も偉大なアスリートに選ばれた。それでも、彼の汚名が晴らされることはなかった。
その死からおよそ20年後、全米体育協会は、ソープのアマチュア復権を認めた。30年後、IOCはソープの2つのメダルを公式記録として認定し、ようやく完全に名誉回復がなされた。
◆ベーブ・ザハリアス◆
ある意味で、ジム・ソープ以上の万能アスリートが、ミルドレッド・エラ・ベーブ・ザハリアス(旧姓ディドリクソン)だろう。
彼女が「ベーブ」の愛称で呼ばれるようになったのは、少女のころにさかのぼる。男子ソフトボールの試合に出て、13本ものホームランをかっ飛ばしたときからだった。
高校時代からバスケットボール、水泳、テニス、ゴルフ、バレーボール、ボーリング、ビリヤード、スケートと、あらゆるスポーツで抜群の能力を発揮し、注目を集める。
18歳で五輪代表選考会8種目に出場し、5種目の優勝を独占。本番では3種目の代表に選ばれ、80メートルハードル(11秒7)と槍投げ(43メートル68センチ)では、共に世界記録を樹立して堂々の金。走高跳でも世界記録を出したものの、頭からバーを飛び越える背面跳び「テキサス・ロール」がルールに触れるとされ、失格で惜しくも銀メダル。
それでも、五輪で一度に3つの世界新記録を出したことに変わりはなく、一躍全米のヒロインに。コマーシャルに出演するが、これがアマチュア規定に触れるとされ、彼女は五輪から永久追放されてしまった。これ以降、ベーブはプロとしての活動に専念することになる。
彼女はまず、「全米バスケットボール・チーム」を創設し、自ら唯一の女性選手として活躍。全米代表に3度も選ばれている。
その上、プロ野球にも出場し、男子の試合で投手として活躍した。彼女が17歳で叩き出した、野球ボール遠投90メートル20センチという女子のギネス記録は、いまだに破られていない。
公式試合には出場しなかったが、競泳においても、100メートル自由形で世界新まであと1秒という記録を出している。本格的に専念していたなら、こちらでもおそらく世界記録を更新していただろう。
30歳からは、プロゴルファーとしても活動を開始。5年後には、自ら「全米女子プロゴルフ協会」を創立している。生涯で出場した88のトーナメントのうち、34回の優勝を果たしている。全米女子アマや全米オープンでも優勝している。
さらに、練習試合ではあったものの、男子の全米及び全英代表チームと対戦して、ベストスコアを出している。男子トーナメントへの出場を表明したこともあったが、前例が無いからと拒否されている。彼女が出たら、本当に優勝してしまう恐れがあったのだ!
晩年には末期ガンを患うが、42歳で全米女子オープンに出場し、3度目の優勝を飾っている。その2年後、44歳の若さで世を去った。
生涯で634の大会や試合に出場したが、1回戦敗退は、わずか2回だけだった。それも、団体競技であるバスケットのみ。ベーブ・ザハリアスこそ、「ミズ・アスリート」と呼ぶにふさわしいだろう。
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