幸田文の『みそっかす』(岩波文庫)を再読。
幸田文の文章は嘆息するばかりにテンポがよくて描くイメージが鮮やかでしかも格調高い。見事。
百先生の文章を名文とする意見があるが、あれはどちらかというと論理的明晰さに秀でた文章であって、醸し出す余韻や情緒にも西洋近代的な(ドイツ語的な?)硬質さが感じられる。
幸田文の文章は、語彙の選び方がいちいちシャープな割に、というのかだからこそというのか、文章にメリハリが利いていて、さぬきうどんの如き柔らかいコシがある。
むしろこちらの方が名文の麗称にふさわしい。と私は思う。
あの知的怪物・露伴先生の。といっても今や『五重塔』、かろうじて『幻談』を例外として、ほとんど人に読まれることはないのだろう。
その露伴先生の家庭だけに、登場する人物がみんな一癖も二癖もあって、その変ぶりが文さんの筆でくっきりと描写されている。
私の好きなエピソードは色々あるが、露伴の「おっかさん」(文さんのおばあさん)が、顔面神経痛でピクピクする眼で、当時は珍しかった西洋蘭の切花をじーっと見据え、「花品の上なるものではない」と看破するところ。
花でも書画でも美人でも、ひたすら凝視することによって本当の底が見えてくるという。
私も文さんに倣ってこの鑑定法を信仰するようになった。
さてこのおっかさんのおっかさんとなるとさらにうわ手で、座敷に端座していると庭に青大将が鎌首もたげて現れた。しゃんと座ってしばらくじっと見据えた挙句に「実に立派な姿だ」と呟くのを聞いて、若き露伴先生は「取って押さえられたような気がした」という。
こういう腹の据わった古武士のような女の人が昔はいたのである(今もどこかにはいるのかもしれないが)。
かといって座りこんで偉そうなことばっかり言ってるわけではなくて、家事の切り盛りは迅速にして正確、掃除から裁縫から電光石火に万事をこなしたという。
『父・こんなこと』(新潮文庫)を読むと、露伴先生に伝わったその家事の手練ならびに理論の一端を垣間見ることができる。
ハタキの扱い、雑巾の絞り方、襖障子の張り替え、刃物の研ぎ方(この辺の描写も実に鮮明で、露伴先生の発する名文句とあいまって風景がありありと目に浮かぶ)。
いまどきそんな厄介な家事は必要ないじゃないかといわれればその通りなのだが、ものごとに当たるについていかに合理的かつ端正かつ謙虚であるか、というのはものすごく大事なことである。
出自の尊卑、上品・下品、器用・不器用を問わず、生活に根を張った思想はひとまず信用できる。
おこいさんのエピソードも印象深い。
文少女は実母のお葬式で金巾の着物を嫌がってだだをこね、おばあさんに一撃を加えられる。
一度しか言わないからよくお聞き。
お父さんの拵えてくださった着物が嫌なら嫌で構わない。
子は親の葬式にぜひとも出なきゃならないんだから、裸で歩いて行くかい。
我を張るなら張るで立派におやり。
しかも帯を緩く締められてぐずぐずになっている超不機嫌な文少女。
そのときそっと衝立の陰に呼んで帯を締めなおしてくれた親戚らしき色白の女性が、子供心にも嬉しく懐かしくて忘れられなかった。
しかし成人してから父露伴に「あれは誰だったの」と尋ねてみたら、とんと心当たりがないという。
「お前が子供心にもそれほどに身にしみた人だからどうかして思い出してやろうと思ったが、どうにも心当たりがない」。
父自身が確かに「おこいさん」と呼んで親しげに話していたのに、叔母たちに聞いても誰ひとり分かる者がない。
露伴先生は間違っても「お前の勘違いだろう」てなことは言わない。
「人の世には夢があるものだ。そういうことを追っかけるんじゃないよ」という結論のつけ方が実におしゃれで含蓄深いではありませんか。
これで偏屈・酒飲みでなければものすごくかっこいい父親なのだが。
ほかにも夭折した姉の話、露伴と不仲だった継母の話などがキレのよい文章で綴られて飽きない。
もはや分かりにくくなってしまった単語もぼつぼつ出て来るが、こういうビビッドな感受性ときっちりした文章表現が共存している文章は、高校一年生あたりで読んでおくと大変よろしいのではなかろうか。ていうか読んどきゃよかった。
幸田文の文章は嘆息するばかりにテンポがよくて描くイメージが鮮やかでしかも格調高い。見事。
百先生の文章を名文とする意見があるが、あれはどちらかというと論理的明晰さに秀でた文章であって、醸し出す余韻や情緒にも西洋近代的な(ドイツ語的な?)硬質さが感じられる。
幸田文の文章は、語彙の選び方がいちいちシャープな割に、というのかだからこそというのか、文章にメリハリが利いていて、さぬきうどんの如き柔らかいコシがある。
むしろこちらの方が名文の麗称にふさわしい。と私は思う。
あの知的怪物・露伴先生の。といっても今や『五重塔』、かろうじて『幻談』を例外として、ほとんど人に読まれることはないのだろう。
その露伴先生の家庭だけに、登場する人物がみんな一癖も二癖もあって、その変ぶりが文さんの筆でくっきりと描写されている。
私の好きなエピソードは色々あるが、露伴の「おっかさん」(文さんのおばあさん)が、顔面神経痛でピクピクする眼で、当時は珍しかった西洋蘭の切花をじーっと見据え、「花品の上なるものではない」と看破するところ。
花でも書画でも美人でも、ひたすら凝視することによって本当の底が見えてくるという。
私も文さんに倣ってこの鑑定法を信仰するようになった。
さてこのおっかさんのおっかさんとなるとさらにうわ手で、座敷に端座していると庭に青大将が鎌首もたげて現れた。しゃんと座ってしばらくじっと見据えた挙句に「実に立派な姿だ」と呟くのを聞いて、若き露伴先生は「取って押さえられたような気がした」という。
こういう腹の据わった古武士のような女の人が昔はいたのである(今もどこかにはいるのかもしれないが)。
かといって座りこんで偉そうなことばっかり言ってるわけではなくて、家事の切り盛りは迅速にして正確、掃除から裁縫から電光石火に万事をこなしたという。
『父・こんなこと』(新潮文庫)を読むと、露伴先生に伝わったその家事の手練ならびに理論の一端を垣間見ることができる。
ハタキの扱い、雑巾の絞り方、襖障子の張り替え、刃物の研ぎ方(この辺の描写も実に鮮明で、露伴先生の発する名文句とあいまって風景がありありと目に浮かぶ)。
いまどきそんな厄介な家事は必要ないじゃないかといわれればその通りなのだが、ものごとに当たるについていかに合理的かつ端正かつ謙虚であるか、というのはものすごく大事なことである。
出自の尊卑、上品・下品、器用・不器用を問わず、生活に根を張った思想はひとまず信用できる。
おこいさんのエピソードも印象深い。
文少女は実母のお葬式で金巾の着物を嫌がってだだをこね、おばあさんに一撃を加えられる。
一度しか言わないからよくお聞き。
お父さんの拵えてくださった着物が嫌なら嫌で構わない。
子は親の葬式にぜひとも出なきゃならないんだから、裸で歩いて行くかい。
我を張るなら張るで立派におやり。
しかも帯を緩く締められてぐずぐずになっている超不機嫌な文少女。
そのときそっと衝立の陰に呼んで帯を締めなおしてくれた親戚らしき色白の女性が、子供心にも嬉しく懐かしくて忘れられなかった。
しかし成人してから父露伴に「あれは誰だったの」と尋ねてみたら、とんと心当たりがないという。
「お前が子供心にもそれほどに身にしみた人だからどうかして思い出してやろうと思ったが、どうにも心当たりがない」。
父自身が確かに「おこいさん」と呼んで親しげに話していたのに、叔母たちに聞いても誰ひとり分かる者がない。
露伴先生は間違っても「お前の勘違いだろう」てなことは言わない。
「人の世には夢があるものだ。そういうことを追っかけるんじゃないよ」という結論のつけ方が実におしゃれで含蓄深いではありませんか。
これで偏屈・酒飲みでなければものすごくかっこいい父親なのだが。
ほかにも夭折した姉の話、露伴と不仲だった継母の話などがキレのよい文章で綴られて飽きない。
もはや分かりにくくなってしまった単語もぼつぼつ出て来るが、こういうビビッドな感受性ときっちりした文章表現が共存している文章は、高校一年生あたりで読んでおくと大変よろしいのではなかろうか。ていうか読んどきゃよかった。