月刊ボンジョルノ

ほとんどツイートの転載です。

夏目漱石の聴いた落語

2014-09-23 | 伝統芸能
漱石が生まれたのは慶応三年(一八六七)。まさに明治維新の前夜であって、漱石の一生はほぼ明治時代とともに歩んだといっていい。父は東京の牛込から高田馬場一帯を治める名主だった。名主といえば、町人の身分でありながら、地域の行政や徴税を統括する大した名士だった。当時そのあたりで、芝居に出てくるような立派な玄関のある屋敷は夏目家だけだったから、近所の人は夏目家を「お玄関さん」と呼んだ。ちょっとした訴訟沙汰などはその玄関先で裁きをつけてしまうほどの権威を持っていたという。
漱石は赤ん坊の頃に養子に出されたが、物心ついてからは生家に戻って少年・青年時代を過ごした。もともと裕福な家柄ではあり、江戸がはぐくんできた町人文化をたっぷり楽しむことができる環境だった。ことに洒落者の兄たちの影響を受けて、講釈(講談)や落語を浴びるように聴いて育った。

落語か、落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った。何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになって仕舞ったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡の方へ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監で羽振りが利いて中々威張ったものだった。圓遊や其他の落語家が沢山出入りして居った。(「僕の昔」)

松本順は、チョンマゲ時代には御典医として幅を利かせ、明治になると初代陸軍軍医総監、貴族院議員にまで出世した人で、いち早く牛乳や温泉、海水浴の健康増進効果を説いたことでも知られている。こういう新政府の貴顕紳士がお屋敷を構えていて、その贔屓にあずかる芸人たちが近所をウロウロしている。そういう都会的な雰囲気の中で漱石は育った。圓遊は人呼んで「ステテコの圓遊」。妙ちくりんなステテコ踊りで一世を風靡した三遊亭圓遊である。
漱石の小説に落語と見まごうような場面が出てくることはかねがね指摘されている。例えばおなじみの「吾輩は猫である」で、美猫の「三毛子」が「吾輩」に自分の飼い主の噂をする場面。

「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたも余っ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」

あるいは寒月君が、ヴァイオリンを買いに出かけた顛末を苦沙弥先生らに語って聞かせる場面。

「森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は―末は、そうですね、まず布哇(ハワイ)の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道を遂に二丁来て、鷹台町から市内に這入って、古城町を通って、仙石町を曲って、喰代町を横に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町、名古屋町、鯱鉾町、蒲鉾町……」
「そんなに色々な町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」

こちらは「道中付け」と呼ばれる落語の手法をそのまま使っている。登場人物の移動する順序に従って、地名をつらつらと並びたてていく。「黄金餅」という落語では「・・・着いた頃にはみんなたいそうくたびれた」でポンと落とすが、漱石の場合も、最後に苦沙弥先生が割って入る呼吸などは憎いものだ。漱石の小説は会話のテンポがいい。漱石の体に落語や講釈といった江戸の話芸の呼吸がしみこんでいるからだ。
また漱石と落語といえば、いつも真っ先に引き合いに出されるのが「三四郎」である。九州から上京したばかりの三四郎が、大学で友人になった与次郎に寄席へ連れて行かれる。

次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家(はなしか)を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。
三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。

与次郎の口を借りて漱石が激賞した「小さん」とは、三代目柳家小さんのこと。小さんの「粗忽長屋」や「浮世風呂」は録音が残っていて、雑音越しにも弾むような間のよさと愛嬌を聴き取ることができる。漱石は弟子たちの前で、小さん演じる「うどんや」のものまねをして笑いころげたこともあったという。
本職は英文学者で、漢文に堪能で、俳句も一流で、日本近代文学を牽引した国民的文豪。口髭のせいか悟りすましたおじさんのような印象があるが、実は49歳で亡くなっている。激変する社会を眺めながら、新しい時代の日本は、日本人はどうあるべきか、といった難しい問題を考え詰めたあげく、重度の神経症や胃潰瘍を患った。ところが一方では、尻っぱしょりで駆け出すような、軽くて気さくな江戸のユーモアが体一杯に詰まっていた。人間は多かれ少なかれそういう複数の顔をもっているもので、どちらかを漱石の本質だと言い切ることはできない。天秤が片方にぐっと傾いたらば、もう片方に重しを乗っけて、ひっくり返らないようにバランスをとれるのがいい大人というものだ。漱石にとっては、その大事な重しが落語だったのではあるまいか。天才漱石の、なくてはならない一部分として、われらの落語がちゃんと組み込まれていた。落語を聴いても漱石のようになれる保証はないが、少なくともいい大人になるためには、落語はすこぶる役に立つ。
(国立劇場おきなわ『華風』2014.11)

森鷗外の『日蓮聖人辻説法』

2014-09-23 | 伝統芸能
森鷗外は近代日本を代表する文豪として名高いが、彼が演劇にも深い関心をもっていたことはあまり知られていない。ゲーテ、イプセン、レッシングなど、ヨーロッパの戯曲を次々に翻訳し、またドイツで学んだ最新の演劇学の理論を日本に紹介した。いわゆる「新劇」が日本に生まれるにあたっての大恩人である。
のみならず、彼は自身でも何本かの脚本を書き、実際に劇場で上演されてもいる。その一つが、明治三七年(一九〇四)四月に上演された『日蓮聖人辻説法』。その名のとおり、日蓮が鎌倉に草庵をむすび、道行く人々に辻説法を行ったという逸話をもとにしている。
時は建長七年(一二五五)正月、舞台は鎌倉小町の大路。比企能本の娘妙は進士善春と恋仲だが、善春が他宗を攻撃してやまない日蓮を敵視するので、日蓮を篤く敬う能本は二人の仲を許さない。善春は辻説法を行う日蓮に問答を挑むが、日蓮は近く蒙古の侵略による「他国侵逼(しんぴつ)難」のあることを述べ、善春を説き伏せる。善春はついに日蓮に帰依し、これを見た能本は妙との仲を許す。
初演時の主な配役は、日蓮に七代目市川八百蔵(後の七代目中車)、善春に一五代目市村羽左衛門、妙に六代目尾上梅幸。大正期の名コンビとして知られる羽左衛門・梅幸はまだ売り出し盛りの若手役者で、さらに青年時代の六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が脇役で顔を出している。
今では日蓮の伝記を扱った芝居が上演される機会はほとんどないが、昭和初期頃までの浄瑠璃や歌舞伎では、日蓮にまつわるエピソードを脚色した「日蓮記物」と呼ばれる演目がコンスタントに上演されて人気を集めていた。そのおなじみの題材を取り上げて、すでに文壇の大御所だった鷗外が自ら腰をあげ、日本演劇に新機軸を示すべく新しい芝居を提供してみせた。
評判はどうだったか。新聞の劇評では「情熱なし、想像なしといふことは鷗外氏が作物を通じて受くべき非難ならん」「彫琢刻苦の美文として世に残るを以て満足せざるべからざるなり」と叩かれた。ただ美辞麗句が並んでいるだけで、お芝居らしいドラマチックな筋立てがちっともないじゃないか、という攻撃である。
従来の歌舞伎では、複雑にからんだ義理人情に熱い涙をしぼる場面が、あるいは敵討ちや連続殺人のように、手に汗握る異常な事件が登場するのがお定まりだった。ところが『日蓮聖人辻説法』にはそれがない。

善春。 さらば御身の法とするは。
日蓮。 わが法こそは大覚世尊が、霊山(りょうざん)八年に説かせ給ひし、正直捨権(しゃごん)の実乗なれ。

という調子で日蓮と善春の交わす問答が唯一盛り上がるといえば盛り上がる場面だが、漢語の多い難しい問答や、登場人物の交わす全編いかにも雅な会話が、それまでの歌舞伎のように、観客の胸をどきどき高鳴らせたとは思えない。
一方で小説家の正宗白鳥は、「今の芝居好きはこの劇のやうに上品なムダのない、刺激的挑発的の科白(せりふ)のないものではアツケなく思ふであらうが」と先回りをしたうえで、「演劇をして識者の観覧に供し又教訓の具とするには」こうでなくてはなるまい、と、しかつめらしい顔で全面的に鷗外の肩をもっている。
坪内逍遥は「格式」があっていい、と評し、上田敏は「日蓮の独白を聴けば荘重の詞華口を衝いて出で来り、一種厳粛の感に打たれるではないか」「此曲に所謂(いわゆる)動作の変化少ないのは勿論始より期する所、目的とする所である」と書いた。
つまり「お芝居ならではの非日常的な刺激が足りないじゃないか」という非難に対して、当時の文学者たちはこぞって「いや、そもそもこれはそういう芝居ではない、荘重な美しさを狙った芝居なのだ」と反論しているわけで、どうもあまり噛み合った議論とはいえない。
それまで同時代演劇といえばまず歌舞伎しかなかったところに、新派、翻訳劇、さらにその影響を受けた新劇と、新興勢力が続々と現れた時代だった。百家争鳴、誰もが日本演劇の未来を手さぐりしていた。そんな状況を半歩引いたところから見つめながら、鷗外の示した新しい演劇のサンプルは、とにもかくにもその「新しさ」で一石を投じた、ということだろう。
この作品が初演された明治三七年は、日露戦争の勃発した年でもあった。当時陸軍第二軍軍医部長だった鷗外は広島に駐屯しており、上演の初日から二十日後には、宇品港から戦地に向けて出征している。
実は善春が日蓮を信頼する重要なきっかけとなっている「他国侵逼難」という考えは、鎌倉の辻説法より後、文応元年(一二六〇)に成立する『立正安国論』に書いてある。この作品の舞台設定とは年代が合わない。ということは、鷗外が年代違いを承知の上でわざとここに組み込んだわけで、これが開戦直後の日露戦争を意識した創作であることは疑う余地がない。『半七捕物帳』の岡本綺堂は「蒙古襲来が一首の背景をなしていて、日蓮が他国侵逼難を説くあたりは、やや時局を匂わしている感がないでもなく、劇場当事者もその意味から採用したらしいようであったが」と当時の人々の受け止め方を証言しているし、比企能本を演じた片岡市蔵も、「『高麗の王微力なれば』云々といふ白(せりふ)が今日の時節に当つて居て、誠に結構な文句でありますから、一々その白に力を入れてやつて居るのでございます」と、わが国の対外危機を訴えるせりふに鼻息を荒くしている。やはりどうしたって背後には戦争がちらついて見える芝居だったらしい。
これをとらえて、この作品は戦意高揚を目的として書かれたものだとする説がある。しかしいくら軍人とはいえ、鷗外がそう軽々しく戦争の旗振り役を買って出たかどうかは疑わしい。芝居という、観客を相手にしたナマモノの中での、いわばちょいとした目配せのようなものではなかったか。ことさらに戦時感情を煽ろうという意図よりも、むしろ日蓮というきわめて個性的な人間像への共感を読み取っておくべきではあるまいか。
鷗外が軍医の最高位である軍医総監にまでのぼりつめるまでには、軍部という巨大な組織の中で、わずらわしい摩擦や対立をいくつも経験したことが知られている。軍服姿で歩いている時に気軽に話しかけてきた友人を怒鳴りつけた鷗外であり、日露戦争に対する感想を求められたとき、軍人として特に言うことはないが強いて言えば「悲惨の極」、とコメントを残した鷗外であった。史上稀な軍人兼文学者の鷗外が戦争というものに向き合う時の、その何重にも屈折した感情は、われわれのなまなかな想像が及ぶものではないだろう。
若き日の鷗外は論争好きで知られていた。納得できない意見にはありったけの理屈を並べて突っかかっていく戦闘的なタイプだった。日蓮はあらゆる権威に気圧されることなく、どこまでもおのれの言葉を武器に時代と切り結んだ。信じる言葉をまっすぐ人々に投げ続けた日蓮の姿に、鷗外はほのかな憧れを抱いていたのではないだろうか。
(『中外日報』2014.1.11)

落語の風通し

2014-08-26 | 伝統芸能
文明開化の明治の世は、少々極端な時代でもあったにちがいない。なんでも人は本当のことを知らなくてはいけない。世界のあらゆる事柄は、理性と学問の力によって合理的に説明されるべきである。当然、目のカタキにされたのは「嘘」だった。
例えば歌舞伎の世界では、一流のインテリ先生たちが「演劇改良」という勇ましい旗を振り始めた。織田信長は小田春永、羽柴秀吉は真柴久吉と名を変えるのが、江戸時代以来の歌舞伎の決まりだった。このちょっとインチキくさい、しかし耳になじんだ名前でなければ、どうにもお芝居らしい感じがしない。鎌倉時代や室町時代の話なのに全員が江戸時代の着物と髪型で登場するのも、芝居好きにとっては暗黙の了解、いわば大人のお約束だった。ところがこれが「歴史的事実に反する」という驚くべき理由で槍玉にあげられた。歴史に合わない作り話は今後一切やめるべし。無知な民衆がそれを事実だと思い込んだらどうするのだ。刀を振り回して次々に人を斬り殺す、そんな残酷野蛮な場面ももってのほか。不自然で非合理的な演出、例えば女形も、黒衣も、三味線音楽も、早急に撤廃してしかるべきである…。
しかしそもそも人は、よくできた「嘘」を見るためにこそ、わざわざお金を払って劇場に足を運ぶのではあるまいか。血の臭いやお色気がふんだんに盛り込まれるのも、そのドキドキ感が退屈な日常からほんのひととき連れ出してくれるから。お芝居からきれいに「嘘」を拭い去ってしまえば、あとにはいったい何が残るというのだろう。ただし歴史には歴史の文脈というものがあって、当時のインテリたちにとっては、外国人に見せても恥ずかしくない、上品で知的な国民的演劇を作り出すことが緊急の課題だった。彼らに「嘘」を楽しむだけの余裕がなかったとしても、一方的に責めるのは気の毒というものだろう。
話芸の世界にも「改良」の波はおよんだ。昔ながらの「嘘」がだんだん演じにくくなってくる。不世出の名人三遊亭円朝が、古くからおなじみの「累の怪談」にわざわざ「真景」の二字を乗っけて『真景累ヶ淵』としたのは、「幽霊など迷信に過ぎない」「幽霊は神経病が見せる幻覚だ」という、当時流行の神経病説を意識したものだ。
ところが円朝は、皮肉交じりにこんなことも言っている。

狐に魅(ばか)されると云う事は有る訳の物で無いから神経病、又天狗に攫(さら)われると云う事も無いから矢張(やっぱり)神経病と申して、何でも可畏(こわ)いものは皆神経病に押付(おっつけ)て仕舞ますが、現在開けた博識方(えらいかた)で、幽霊は必らず無いものと定めても、鼻の先へ怪しい物が出ればアッと云って尻餅を搗(つ)くのは、矢張神経が些(ち)と怪しいので御坐いましょう。(『真景累ヶ淵』)

いくら幽霊を否定したところで、怖いものを怖がるのが人間というもの。それを幽霊と呼ぼうが神経病と呼ぼうが、要するに幽霊が出ることに違いはないじゃないか。
そういう、理屈だけではすっぱりと割り切れない、しかもどうにも逃げどころのない人間の業のようなものを、落語という作り話は、実に鮮やかに描き出してみせる。
例えば「粗忽長屋」。浅草の観音様で行き倒れの男が見つかる。通りかかった八っつぁんは、「行き倒れの当人」である熊さんを大慌てで呼びに行く。

「おい、ゆんべおまえは死んでるよ」
「誰が? 俺が? …どうも死んだような心持ちがしねえけどなあ」
「ばか、死んだのに気がつかずに帰って来ちまったんだ、おまえは」
「んー、そう言われてみると、なんだか心持ちが悪いような」
「そうれみろ。行こう、死骸を引き取りに」
「でも今さら『俺の死骸です、ゆんべ忘れてどうもすみません』なんて、きまりが悪い」

言葉が現実を猛スピードで追い越していく。噺家の口から飛び出す言葉の上に限っては、生きているものが死んでいて、死んでいるものが生きている、という摩訶不思議なことが平気で起きてしまうのだ。

「ほらおまえ、自分の死骸なんだから抱いてやれ抱いてやれ」
「…なんだかわかんなくなってきたぞ」
「なにが」
「抱かれてるのは確かに俺なんだが、抱いてる俺はいったいどこの誰だろう」

いまここにいるはずの「私」が、いっぺんに湯気のように曖昧な存在になってしまう。私とはなにか? 主観とはなにか? 生きているとはどういうことか? これこそ哲学のはじまりというもの。ことさらに苦悩に満ちた哲学者の顔よりも、長屋の熊さんのぽかんとした不審顔の方がよっぽど頼りになる。学校や会社で日々「私」をおさえつけて、生きているのか死んでいるのかはっきりしない向きは、自分を抱いて途方に暮れているもう一人の自分を想像してみれば、ちっとは胸の風通しがよくなるのではないだろうか。近代人が振り回す「私」なんて、たかだかそんな頼りないものなのだ。
こういう噺があるかと思うと、男女の心の機微を心憎いほどに描き出す噺だってある。
「厩火事」に出てくるおサキさんは、落語に出てくる女性の中でも最も「かわいい女」だろう。周囲の反対を押し切るようにして、うんと年下の男と所帯をもった。髪結いをして腕一本で亭主を食わせているが、自分が年上だけにいつ亭主が心変わりをするか心配でしょうがない。ある日心を試すために亭主の大切にしている瀬戸物をわざと壊してみせるが、亭主は瀬戸物のことはちっとも構わず、真っ先におサキさんの体を案じてくれる。

「んまあお前さん、そんなに私の体が大事なのかい」
「当たり前だ、おまえにケガされてみねえな、明日から遊んでいて酒が飲めねえ」

実際、女の気持ちはそういうものだろうし、男もまた大抵はこうしたものだろう。でもおサキさんとご亭主は、今日も「おかめ!」「ひょっとこ!」と悪口を言い合いながら、程よく寄り添って生きていくに違いない。有名な小咄に「おまえさんとこは喧嘩ばっかりしてんのにどうして一緒にいんの?」「だって寒いんだもん」というのがあるが、男女の微妙で奇妙な関係についていえば、声高に愛を叫びあうラブストーリーよりも、落語の方がどれほど真実を写し取っていることか。
つまりは、どこかにぽっかり風穴があいているのが落語のいいところなのだ。正面から説教するでもなく、思わせぶりなたとえ話で気を引くでもない。ただ「そういう人間の、そういう話」がポンとそこにあるだけ。ゆったりと聴いてさえいれば、おのずと人間の風通しがよくなる。浮世の義理、他人様とのおつきあい、時には色恋沙汰まで、人が生きていく上で引き受けざるを得ない厄介ごとは数知れない。落語を聴けば、知らず知らずのうちにそんな厄介ごととちょうどいい距離を置いてつきあえるようになる。
明治の改良派の先生がたは、芸能を利用して大衆を教育しようと考えていた。そのために「嘘」がワリを食ったわけだが、先生がたはハナっから大きな見込み違いをしていた。人間というものを学ぶのに、落語の「嘘」ほどうってつけの教科書はないのだ。
(国立劇場おきなわ『華風』2013.11)

明治の両雄 九代目市川團十郎 五代目尾上菊五郎

2014-08-26 | 伝統芸能
九代目市川團十郎は、天保九年(一八三八)十月十三日、名優七代目團十郎の五男として生まれた。本名堀越秀。生後七日で河原崎座の座元河原崎権之助の養子となり、若太夫の長十郎として幼少年期を過ごした。音曲、踊り、書画と、息つく間もないほどの厳しい英才教育を受けたという。嘉永五年(一八五二)、将軍家に男子長吉郎誕生のため、長の字をはばかり権十郎と改名した。
一七歳の時、長兄の八代目團十郎が興行先の大坂で自殺する。享年三二歳。美男で名高く人気絶頂のさなかだった。七代目には七男があったが、次男・三男には役者の才なく、四男も長兄に続いて夭折したため、五男の権十郎が九代目襲名の期待を一身に引き受けることになった。
この頃から本格的な立役をつとめるようになるが、大時代なせりふ回しと柔らかみに乏しい芸風で「大根の権ちゃん」と陰口を叩かれた。以後これという当たり役に恵まれず、三十歳を過ぎる頃まで長い雌伏の時を過ごす。『唐人殺し』の幸才典蔵を演じて、年齢にそぐわない地味さと渋さを「権さんも困ったものだ、今からこの役が出来るようじゃ末が案じられる」と四代目市川小團次に評されたのは二七歳の時だ。
ほぼ同世代の五代目尾上菊五郎や三代目沢村田之助らに比べて、團十郎が晩成であったのはまちがいない。しかしこれを即座に芸の良し悪しと直結させてよいものかどうか。芸をはかるモノサシも時勢とともに変わっていく。やがて明治の新時代を迎えると、客層ががらりと変わって、芝居は江戸っ子だけの宝物ではなくなっていく。あるいは明治期の時代物や活歴で開花する「肚芸」の萌芽が、江戸の芝居好きの目からは渋くて硬い「大根」と見えた、と考えることもできないだろうか。さすれば團十郎はいささか「早すぎた」ということにもなるわけだ。
明治七年(一八七四)、市川家に戻って九代目團十郎を襲名。この頃から『勧進帳』の弁慶、『忠臣蔵』の由良之助などで次第に高い評価を得るようになる。
歌舞伎史の中で團十郎を語るときに特筆されるのは、やはり「活歴」だろう。従来の荒唐無稽な筋立てや非現実的な演出を排して、史実と有職故実にきちんと即した歌舞伎を作ろうとした。明治二年(一八六九)初演の『桃山譚』あたりからその旺盛な活動は始まっている。金ピカの裃で隈を取っていた「佐藤正清」が、團十郎の手によって鎧具足とヒゲの老将「加藤清正」へと変貌していく。
旧弊野卑な歌舞伎を高尚化し、上流階級や外国人の鑑賞にも堪えうる芸術にせねばならぬ。この演劇改良の発想は、明治政府の要人に接近して歌舞伎の高級芸術化を図った一二代目守田勘弥の戦略とも一致した。勘弥が座元をつとめる新富座では、團十郎による活歴が次々に上演される。明治一七年(一八八四)には、依田学海らの学者・芸術家によるブレーン集団「求古会」が結成され、歴史考証と演出にウデをふるうという触れ込みだった。しかし実際に上演された活歴の多くは、「写実に傾きたる為か、遂に異様なる扮装となり」「團十一人を喜ばしむる為に設けたる狂言」などと不評を買い、難解・退屈という歴史的定評を得ることになる。それでも團十郎は、「ナニ、見物が二人になれば止めますが、三人までなら飢えて死んでもやり通します」と半ば意地になって活歴を上演し続けた。今日まで残る演目としては、『酒井の太鼓』『高時』『大森彦七』などが挙げられる。
團十郎の活歴は、歌舞伎の高尚化への貢献や、あるいは歌舞伎史の中に活歴というジャンルを確立するといった形で今日に足跡を残したわけではないようだ。あからさまには目に見えない形で、現代の歌舞伎に深く浸透している。つまりは歌舞伎の、特に時代物の演技・演出に、「写実」という考え方、それから「肚芸」と呼ばれる屈折した心理表現とを持ち込み定着させた意義が大きい。團十郎が直接手がけた演目のみならず、現在上演される時代物、とりわけ義太夫狂言の中で、彼の持ち込んだ明治風の「写実」なり「肚芸」なりの残り香を感じさせないものはほとんどない。要するに今の歌舞伎は活歴の波に頭からざんぶり洗われているのだ、といってもいい。團十郎の活歴について、ただその失敗を言い立てるだけでは本質は見えてこない。
ただしその團十郎も、還暦を迎える頃には「とてもモウ私の改良意見は行われない」と弱音を漏らしている。明治三三年(一九〇〇)の『馬盥』では、春永役の菊五郎が「あの人の事だから活歴でゆくに違えねえ」と思って顔も塗らずに地味なこしらえで出ていくと、團十郎が金の桔梗紋の紫裃で大芝居をするので大いに面食らったという。老いの足音が生んだ心境の変化だろうか。
いずれにせよ、活歴というプロセスを経て、團十郎という役者は大きく変貌を遂げたように見える。かつて一本調子とそしられたせりふ回しが、團十郎の名調子として歌舞伎界の宝になった。『鈴ヶ森』の長兵衛は「市川流の台詞廻しには天保度の江戸ッ子が涙を翻したり」と言われ、少年時代の谷崎潤一郎は團十郎の景清の「閻魔の庁で待っていろ」というせりふを声色で繰り返し真似た。
本領はもちろん時代物や荒事だが、世話物での貫禄や間の良さでも賞賛を受けるようになった。『天衣紛上野初花』の河内山の初演は團十郎だし、『湯殿』『鈴ヶ森』の幡随長兵衛、『侠客春雨傘』の大口屋暁雨など、團十郎の世話の芝居の特質についても改めて評価し直す必要がある。
幼少時よりみっちり仕込んだウデで、『娘道成寺』『鏡獅子』などの舞踊にも卓抜した技量を見せた。『伊達競阿国戯場』の政岡はもとより、『妹背山』のお三輪、『十種香』の八重垣姫など、およそ縁のないと思われる役々でも成功を収めた。あるいは菊五郎との共演が多かった散切物への出演、『娘道成寺』でのピアノとバイオリンによる伴奏の試みなど、実は芸の幅と懐がきわめて広い、一面ハイカラな役者でもあった。七代目の遺志を継いでは、『高時』『紅葉狩』『船弁慶』『鏡獅子』などを新歌舞伎十八番として制定した。
「劇聖」と神格化して語られ、むっつりと謹厳なイメージが強い團十郎だが、実生活ではべらんめえのさばけた江戸っ子だったらしい。書画をよくし、釣りが大好きだった。日焼けを避けるために、大目玉だけをぎょろりと出した白頭巾姿で、鱚を釣っては一日を暮らすことも多かった。あいにく後継ぎには恵まれなかったが、『九世團十郎を語る』『市川團十郎の代々』といった本を読めば、二人の娘を静かに愛した團十郎の、和気にあふれた家庭の様子をうかがうことができる。

五代目尾上菊五郎は、市村座の若太夫市村九郎右衛門として役者人生をスタートさせた。天保一五年(一八四四)六月四日の生まれだから、團十郎よりは六つ年下になる。本名寺島清。父は十二代目市村羽左衛門、母は三代目菊五郎の次女。七歳で十三代目羽左衛門を襲名し、幼くして市村座の座元になった。
遅咲きの團十郎に比べて、菊五郎の芸歴は十代から華々しい。一四歳の時の『鼠小僧』で、真っ黒な顔のリアルで哀れな蜆売りが絶賛された。現在も人気演目の筆頭に挙げられる黙阿弥の『弁天小僧』は、一九歳の羽左衛門の出世作となった。
明治元年に五代目菊五郎を襲名。翌年には中村座の座頭になったが、同じ年には権十郎時代の團十郎が権之助を襲名して市村座の座頭に、二代目沢村訥升(五代目宗十郎の長男)が守田座の座頭になっている。ご一新とともに、歌舞伎界もひとつの世代交代期を迎えた具合だ。
蜆売りの時もそうだったが、四代目小團次から引き継いだ「本物そっくり」の写実的表現が、菊五郎の生涯のテーマの一つになった。「事実に忠実に」という発想自体は、團十郎の活歴と同じ方向を向いている。現に菊五郎の世話物は「世話の活歴史」とも呼ばれた。見かけは違うが、團菊の二人がともに「写実」にこだわり抜いたのは、明治という時代を考える上で誠に興味深い。
ただし團十郎同様、江戸歌舞伎の継承という意味でもその存在感は圧倒的だ。菊五郎はその性格のうちに癇性ともいえるような細かさ・ナイーブさをもっていた。そのナイーブさで、『忠臣蔵』の勘平、『すしや』のいがみの権太、『伊勢音頭』の貢などに、精緻極まりないガラス細工のような「型」を作り出した。特に六段目の勘平は、一つ手順を間違えると一幕が滅茶苦茶になってしまうといわれるほど、緻密なプログラミングがほどこされている。菊五郎の編み出した数々の型は、単に手順が合理的か否かという問題ではなく、役の性根とみっちりつながっていて、もちろん現代の上演においても重要な教科書となっている。その役の性根に対する洞察は、頭で練り上げた論理的成果というよりは、天才的な身体運用能力に導かれて成った気味がある。例えば『四の切』で本物の忠信が衣紋を広げて見せるところ、『寺子屋』の松王丸が履物をはいてスタスタ出ていくところ。また『伊勢音頭』の「二見ヶ浦」で、貢が密書を読もうとして舞台を歩き回る足取り。そういう実になんでもないようなところがワクワクするほどおもしろい役者だったという。
立役、女形、時代物、世話物、舞踊と、團十郎をはるかにしのぐ芸域の広さだったが、やはり黙阿弥とともに作り上げた髪結新三、片岡直次郎、魚屋宗五郎、道玄などの世話物の役々が天下一品というにふさわしいだろう。新しもの好きで、『スペンサーの風船乗り』など、明治の新風物を舞台にあげた奇抜な際物にも果敢に取り組んだ。市川家の十八番に対抗して、『土蜘』『茨木』『戻橋』など、お家芸の妖怪変化物を中心とした「新古演劇十種」を定めた。
明治一八年には実子幸三が誕生、丑之助を名乗る。後の六代目菊五郎だ。この少年の天賦の才を見抜いた團十郎が「あの幸坊に踊りをみっちり仕込んでみたい」と呟いたのをきっかけに、丑之助は團十郎の別荘に泊まり込みで教えを受けることになった。つまりはこの六代目が、晩年の團菊の心を一層深く結びつけたフシがある。晩年の数年間は『妹背山』『吃又』などの古典作で共演を重ね、團菊の時代を総括するかのように円熟の光芒をはなった。当時の劇評はどれも絶賛の言葉で埋め尽くされている。
明治三二年(一八九九)には歌舞伎座の『勧進帳』で共演している。明治二〇年(一八八七)の天覧歌舞伎の際には菊五郎が義経だったが、この時は富樫を初役でつとめて、團十郎に教えを乞うた。稽古では團十郎が富樫をやってみせなくてはならないので、菊五郎が仮の弁慶役になった。菊五郎は「堀越の富樫で、仮に稽古にもせよ弁慶を勤めるとは」と感激したという。もちろん興行は大当たりだったが、菊五郎の富樫はこれが最初で最後となり、團十郎の弁慶もこの時が演じ納めとなった。この時の二人が一枚に写し込まれた珍しいプロマイドが残っている。晩年の團菊についてさまざまな想像をかきたてる不思議な一枚だ。
あるいは同じ年の一一月に撮影された『紅葉狩』の映画が残っている。音こそ付いていないが、われわれは幸いにも「動く團菊」を見ることができるわけだ。岡鬼太郎が「紅葉狩の維茂、あれが名優菊五郎の身上」と言った、その菊五郎の維茂のイキの良さ、見ていて心弾むような足取りを、粗い映像からもかろうじて感じ取ることができる。

こういう「両雄」は図らずも何かにつけて対照的な特徴を示すものだ。時代と世話、重厚と軽快。團十郎が細事にこだわらない大まかな性格だったのに対し、ぞろっぺえな職人や泥棒を得意にした菊五郎は、実に神経質な人だった。湯呑や煙草盆の位置が一寸でもズレていると承知できない性格だった。
菊五郎は、共演者に対して執拗なダメ出しを繰り返した。養子の六代目梅幸が、『伊勢音頭』のお紺のせりふの呼吸や、『忠臣蔵六段目』のお軽が茶を出すタイミングについて、切実な苦労をしみじみと語っている。
かたや團十郎は、誰に対しても「お前のやりいいようにおやり」という具合で、自分の方から芸の寸法を合わせてみせるタイプだった。あるいは、自分の芸に不足なく伴走できる役者などいない、という醒めた認識があったのかもしれない。他優の芸に対してコメントすることが少なかった。だから團十郎が菊五郎のことをどう見ていたかはよくわからない。ただこんな話が残っている。菊五郎は化粧の時間が異様に長かった。気に入らないと何度でも最初からやり直す。だから幕間がとんでもなく伸びるのが常だった。そんな時團十郎は、さっさと自分の化粧をすまして「あいかわらず長いな」と苦笑しながら待っていたという。好敵手ならではの、無言のうちの信頼感が伝わってくるような気がしないか。
菊五郎は團十郎の芸を極めて高く評価していた。世間でとやかく言われる活歴を、「時間といい、寸法といい、配合といい、堀越の活歴は実に旨いものだ、トテモ己(おれ)には出来ねえ」と見ていた。菊五郎は團十郎から一歩引いたところに自分の居場所を定めていたフシがある。もちろん團十郎が年長のこともあり、また市川宗家への敬意もあったろうが、名人だけが名人を知る、というところだろう。またそうでなくては「團菊」の名のもとに、全く同じ時代に両雄が並び立つことはなかったかもしれない。
明治三六年(一九〇三)二月、菊五郎が死去。棺を見送った團十郎は、劇界の長老として采配を振るい、菊五郎の息子たちに梅幸・菊五郎・栄三郎の名を襲名させた。披露の口上では「老年病後の團十郎、片腕をもがれた心地、悲歎堪え難のう御座ります」と悲痛な言葉で菊五郎を悼んだ。「跡を追うように」とはまさにこういうことを言うのだろう、同じ年の九月に茅ヶ崎の別荘で亡くなった。歴史ではしばしばこういう出来過ぎたドラマが起きる。またそういう出来過ぎたドラマにふさわしい両雄だった。江戸が終わり、歌舞伎をめぐる環境が劇的に変わっていく中で、大胆かつ巧みに舵をきって回した二人の功績の大きさは改めて言うまでもない。いまわれわれの見ている歌舞伎は、まちがいなくその流れのただ中にある。
(『演劇界』2011.6)

橋本治と鶴屋南北

2014-08-26 | 伝統芸能
「昭和五一年にして文政八年、さらに元禄一四年であり、しかも南北朝時代」とはどういうことか。
江戸時代の劇作家は、『義経記』とか『太平記』とか、大昔の物語の登場人物を流用して、同時代すなわち江戸時代の物語を作る。研究者は「仮託」という言葉を使うが、要するに歴史上有名なキャストと舞台設定とを丸ごと借りてきて、彼らに江戸時代の話を演じさせるわけだ。かといって彼らが江戸時代にタイムスリップしてくるというのとは訳がちがう。
例えば元禄時代(一八世紀)の赤穂浪士を描いた『仮名手本忠臣蔵』の冒頭にこうある。
「頃は暦応元年二月下旬。足利将軍尊氏公。新田義貞を討ち亡し」
明らかに室町幕府開府直後(一四世紀)の話になっている。でもこのあと登場する塩谷判官(『太平記』の登場人物)は、例の「松の廊下」とおぼしき所で高師直(同じく)に斬りつけて無念のうちに切腹し、その家来だった四十七人が高師直の屋敷に討ち入って敵討を果たす、というのが話の結末。つまり塩谷判官という名をもつこの男は、一四世紀の足利尊氏方の武将塩谷判官でもあり、同時に元禄一四年に切腹する浅野内匠頭でもあって、そこに何の継ぎ目も矛盾もない。
で、『東海道四谷怪談』。浪人民谷伊右衛門は、実はこの塩谷判官の元家来である。直助が死体の顔の皮を剥いだりお岩が悶死したりなんかしている間に、裏では『忠臣蔵』と同じく赤穂浪士の敵討計画が着々と進行している。しかも舞台上の大道具は初演当時(一九世紀)のリアルな長屋や売春宿であって、文政八年の観客たちは当然それを「今」の出来事として見守っている。ここに「文政八年、さらに元禄一四年であり、しかも南北朝時代」というキテレツな三段重ねの世界が完成する。
この「平然と、同時に別の時代でもある」という事態をためらいなく受け入れるのは、浅知恵のついた近代人にはとても難しい。しかし昭和五一年の橋本治は、「じゃもうイッコ時代が重なったってバチは当たんないんじゃないか?」と考えた(たぶん)。「ボクの四谷怪談」とは、「今生きているボクにとっての、あの四谷怪談」でもあり、「ボクが今生きている、この四谷怪談」でもある。実はこれは江戸時代の劇作家のスタンスでもあって、リアルタイムの話なんだから今を今として描いたってよいものを、わざわざ古い物語に「今」をおっかぶせることによって、すでに書かれた「歴史」と「今」との間に、つかず離れず絶妙の遠近感を作り出す。その結果、「今」がより鮮やかに浮かび上がってしまう。その辺のコツを憎いほど心得て『ボクの四谷怪談』を書き上げてしまった橋本治は、つまり江戸の歌舞伎を生きている人なのである。
だから浅草裏田圃が汚い公衆便所に、伊藤喜兵衛がタレント文化人に置き換えられているからといって、あわてて「巧みな現代化である」などと総括するには及ばない。鶴屋南北の原作にもちゃんと「そういうもの」や「そういう人」が描かれている。橋本治は鶴屋南北を見ているわけではなくて、鶴屋南北と同じものを見ているのだ。
早い話が民谷伊右衛門である。現在の歌舞伎を含めて伊右衛門は「利己的で冷酷な殺人者」という線で造形されるのが常套になっているが、原作をよくよく読むと、各場面で彼の意志がどこにあるのかはよくわからない。というよりも、一貫して伊右衛門には強固な意志の存在が感じられない。要は女にモテて状況に流されやすいイケメンがその場その場で飛んで来た球を打ち返しているうちに、はたから見れば極悪人になってしまったということに過ぎないのではあるまいか。だからこそ、橋本治の伊右衛門は「なんだヨ! 俺が何したって言うんだヨォ!」と実に的確かつ切実な叫び声をあげる。このせりふは南北の伊右衛門の口から零れたとしてもほとんど違和感がない。それどころか『東海道四谷怪談』に登場する誰のせりふでも差し支えない。原作では腹に出刃包丁を突っ込み、首を落とされて血まみれで死んでいく直助・お袖だってそうだ。こんなはずじゃなかったのに、気がつけばもうどうにもならなくなっている人たち。誰もがツイートの「(爆)」のノリでこの世からけし飛んでいく。死と生の境のなんと頼りないことか。そのぼやけた境目を人は生きている。いつの時代も、誰の隣にもお岩がひっそりと座っている。
このたびいかなる奇縁か、「昭和五一年にして文政八年、さらに元禄一四年であり、しかも南北朝時代」の上に、「なおかつ平成二四年」がめでたく加わることになった。『ボクの四谷怪談』が今、人の世の「四谷怪談的なるもの」をつかみ出して鼻先に突きつける。
(2012.9 シアターコクーン『ボクの四谷怪談』公演プログラム)

江戸歌舞伎から木挽町へ

2014-08-26 | 伝統芸能
そもそもは徳川家康の江戸開府にさかのぼる。かつて太田道灌の築いた簡素な江戸城を、天下を統べる幕府にふさわしいように、家康は次々に拡張していった。大規模で長期にわたる土木工事のため、各地から職人たちが大勢移り住んだ。木挽町の一帯には、一六〇六年(慶長十一年)にノコギリを作る鋸匠たちを住まわせたとも、あるいはそれを使う木挽職人を住まわせたとも伝えられる。それが町名の由来であり、今でいえば銀座四丁目・五丁目付近にあたる。
木挽町における歌舞伎の歴史は山村座という芝居小屋に始まる。起源には二つの説があってはっきりしない。一つは寛永十九年(一六四二)、山村小兵衛が木挽町四丁目で歌舞伎の興行を始めたというもの。もう一つは正保元年(一六四四)、岡村長兵衛が木挽町六丁目に芝居小屋を建て、その二代目が山村長太夫を名乗ったというもの。いずれにせよ、木挽町と歌舞伎との深い関係は、この山村座の創立から現代の歌舞伎のホームグラウンドである歌舞伎座まで、約三百七十年の歴史をもっていることになる。
続いて慶安元年(一六四八)(一説に明暦二年/一六五六)には河原崎権之助が木挽町五丁目に河原崎座を創設、さらに万治三年(一六六〇)には同じ五丁目に森田太郎兵衛が森田座を開く。芝居小屋には観客サービスのための芝居茶屋が必ず付設され、人出目当ての様々な商売も自然に集まってくる。役者や関係者も軒並みその近隣に居を構える。「芝居町」という呼び名がある通り、芝居小屋を中心とする一帯には、相当な規模の「町」があっという間に形成されるわけだ。この頃書かれた浅井了意の『東海道名所記』に「こびき町の方(ルビ:かた)へ行たれば。喜太夫が浄瑠璃其外、実(ルビ:まこと)か。うそか。異類異形のものを見する」とあるように、歌舞伎の山村座・河原崎座・森田座のみならず、浄瑠璃や見世物小屋など各種の興行物も盛んに行われ、江戸の一大娯楽エリアとなっていた。
一方山村座の創設からざっと二十年前、寛永元年(一六二四)に猿若勘三郎が中橋南地(現在の京橋近辺)で歌舞伎の興行を始めたとされている。これが後の中村座で、いわば江戸における歌舞伎の濫觴。移転して堺町に腰を落ち着けた中村座は、寛永十一年(一六三四)に目と鼻の先の葺屋町にできた市村座(当初の名は村山座)とともに、やはり賑やかな芝居町を形成していた。これが今の日本橋人形町、堀留町のあたりで、堺町と葺屋町とを合わせてこの一画を二丁町と呼んだ。つまり日本橋と銀座の二か所にはそれぞれ繁華この上ない芝居町が存在していたわけで、その核となっていた中村座・市村座・山村座・森田座を江戸四座という。
しかし正徳四年(一七一四)、木挽町の山村座は、同座の役者生島新五郎と大奥の老女江島との密通が露見したいわゆる「江島生島事件」に巻き込まれ、廃座の憂き目をみることになる。残った森田座と中村座、市村座を合わせて江戸三座といい、官許、すなわち晴れて幕府の公認を得て歌舞伎を上演する劇場は江戸にこの三座だけだった。江戸三座は近世を通じて互いに覇を競いながら江戸歌舞伎の全盛を現出する。
芝居町としての木挽町の雰囲気をうまくうがった川柳がある。

  呉魏蜀の一ツはなれて木挽町
  千両の役者を蜀へかゝへこみ

つまり江戸三座を中国三国時代の呉・魏・蜀になぞらえれば、木挽町はさしずめ蜀のポジションだというのである。中村座と市村座を擁する堺町・葺屋町エリアに比べれば、物理的な距離と同時に心理的にも微妙な遠隔感があったようだ。あるいは堺町・葺屋町とはどこか色合いの異なる、独自の気風・土地柄を人々が感じ取っていたのかもしれない。
森田座の安定した興行は七十年ほど続くが、やがて経営難で休座すると、享保二〇年(一七三五)、森田座の興行権の臨時代行という建前で、二代目河原崎権之助が河原崎座を再興する。以後、森田座は経営状態によって再興と休座とを繰り返し、休座のたびに河原崎座が興行を代理で受け持った。このように、本来の江戸三座である「本櫓」が興行不能になった場合には、二番手の「控櫓」が代理興行を行うことが他座でも慣習化し、江戸の歌舞伎興行の安定継続を助ける大きな要因となった。
ところが、水野忠邦による天保の改革が進行中の天保一二年(一八四一)、不幸にして中村座から出火。これを絶好のきっかけとして翌年すべての座が浅草聖天町(浅草六丁目付近)への移転を命じられる。当時の浅草はまさに郊外というべき田園地帯であって、江戸の町が極度に火災を恐れたという理由もあっただろうが、やはり華美贅沢を嫌った天保の改革が、この百万都市の華美を象徴するような歌舞伎を僻地の一区画に封じ込めたとみるべきだろう。
このあたり、あの吉原も似たような歴史をもっている。そもそもは元和三年(一六一七)、後に市村座ができるあの葺屋町に産声をあげた吉原遊廓は、明暦三年(一六五七)の明暦の大火で焼失し、やはり江戸の中枢から隔離するかのように浅草の田んぼの真ん中に押し込められた。

  吉原と芝居は賽の裏表

堺町・葺屋町が二丁町と呼ばれたのに対し、吉原の中には町が五つあって五丁町と呼ばれた。歌舞伎でいえば、追われる助六を揚巻が打掛の中に隠して「その棒の端がわしが身へ、ちょっとでも触るが最後、五丁町は暗闇じゃぞ」と胸のすく啖呵をきる、あの五丁町である。二と五はちょうどサイコロの表と裏。表裏一体で江戸の蕩尽文化を担った芝居と吉原には、どちらもたった一日に千両の金が落ちると言われた。ともに「悪所」という毒を含んだ名で呼ばれ、幕府の風紀粛正政策の格好のターゲットとなった。しかし郊外に追いやられたからといって、芝居も吉原も決して衰えることのなかったところがおもしろい。人は悪所の空気を吸うためなら手間ヒマかけていそいそと出かけて行くもののようだ。
三座の引っ越しによって突然江戸随一の芝居町となった聖天町は、中村座の始祖・猿若勘三郎にちなんで猿若町と名を改めた。ことほどさように中村座は江戸三座の中でも最も権威のある劇場とされていた。猿若町の詳しい地図を見ると、その中村座を筆頭として三座の敷地がメインストリート沿いに配置され、通りの向かい側には人形浄瑠璃の薩摩座・結城座も軒を連ねている。周囲を茶屋や菓子屋、役者の自宅などがぎっしりと埋めつくす。なにしろ江戸三座が至近距離に顔を突き合わせ、客を奪い合って互いにシノギを削るのだから、その全盛期の活気と勢いはまさにうなるようだったろう。恐らくは世界でも指折りの華やかな興行街が江戸に栄えた。
森田座は幕末に座名の表記を「守田座」と改めた。田の上が森で陰るよりも、田を守る方が繁盛するだろうという思いつき。やがて世が維新を迎えた明治五年(一八七二)には、剛腕をもって鳴る一二世守田勘弥が新富町に大劇場を新築して守田座を移転させ、その三年後には新富座と改称する。
一方市村座は明治二五年(一八九二)に下谷二長町(台東区台東一丁目付近)に移転。中村座は次第に経営不振に陥って座元が転々とした挙句、明治二六年(一八九三)に廃座。ここに「猿若町時代」とも呼ばれた江戸歌舞伎の一時代が、そして江戸三座の伝統が終焉を迎えることとなった。
木挽町と歌舞伎との関わりは、かつての猿若町への移転をもって一旦途絶えてしまっていた。ところが明治二二年(一八八九)一一月二一日、歌舞伎座の開場によって再び木挽町に芝居の灯がともる。当時の地番で言えば京橋区木挽町三丁目二十番地。約二千坪の土地は、東京府第三勧工場の所有地だった。カンコウバとはすなわちスーパーマーケットの前身で、安手の小売店の寄り集まった名店街のようなもの。どうかするとこの辺りはお店の立ち並ぶ商業地域になってしまう可能性もあったわけだが、江戸開府以来、山村座・河原崎座・森田座があまたの人を呼び寄せ続け、歌舞伎の記憶が深く刻みつけられた土地であったことは言うまでもない。土地にしみついた記憶は歴史の中である日伏流水のように湧き出すことがある。歌舞伎座の仕掛け人である福地源一郎と千葉勝五郎は、いったんは芝居と縁の切れていた木挽町に目をつけた。
なにしろそれまで芝居小屋の名には座元の姓を冠するのが通常であったのに「歌舞伎」という大上段の名詞をいただいたところ、文字通り日本の歌舞伎の殿堂となるのだ、という鼻息の荒さを感じさせる。何によらず「カイリョウ」がもてはやされた時代だった。座名も当初は「改良演劇場」「改良座」などという案があったほど。開場時の番付には「新旧の演劇を興行し、改良の質を挙げ可申候」と高らかに謳いあげてある。こうして木挽町に上がった改良のノロシが、歴史の波に揉まれ揉まれるうちに、いまや伝統芸能を守り続けるべき砦となったのは興味深い。現代人がかろうじて江戸の空気を吸うことのできるこの貴重な空間が、木挽町で歴史の新たなページを開こうとしている。
(『東京人』2013.5)

書評 渡辺保著『明治演劇史』

2014-08-26 | 伝統芸能
伊原敏郎、筆名を青々園という演劇評論家がいた。明治・大正・昭和の三代を生きて、それぞれの時代に『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』という三部作を書き上げた。最後の『明治演劇史』が出たのは昭和八年だが、三冊とも今もって重宝がられている。
ナントカ史と大看板をあげた本は教科書臭さが鼻について飲みこみにくいものだが、それは学者先生のガクガクした筆さばきのせい。青々園や、近年なら大笹吉雄の『日本現代演劇史』がそうであるように、物知りが何十年何百年という時間をダイナミックに描いてみせる通史の類は、読めば本来とてもおもしろいもののはずだ。
『江戸演劇史』から三年、いよいよ著者の筆が明治に及んだ。世間という廻り舞台がぐるりと反転し、新時代の高波はおのずと演劇の世界にも押し寄せた。それは取りも直さず、年代記に記すべき歴史的事件が目白押しということなのだが、うっかり事実の山に足を取られると、肝心の歴史が霞んで見えなくなってしまう。木を見て森を見ず。その点著者の眼差しは常に「人間」に注がれてブレることがない。能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎、新派、新劇。それぞれを行き来しながら、演劇を真ん中に据えた一時代の人間模様をまるごと再現してみせる。
著者を執筆に踏み切らせたのは伝説の名優・九代目市川団十郎だそうだ。他に類のない、渋い写実の芸風で、具体的にどこがどう良かったのか、後世の者には見当がつかない。団十郎を追いかけ、明治という時代を探るうち、そこには能の梅若実が、人形浄瑠璃の豊沢団平がいた。「団十郎はひとりではなかった」。生身の人間が表現と苦闘する姿から、鬱蒼とした明治の演劇の森が浮かび上がる。
歴史がもともと「語られたもの」ならば、人はもっとその語り口に注意を払うべきだろう。あたかも続き物の講談のように、と言うと著者に叱られるかもしれないが、消え去った芸と人間とを語る、その語り口が芸になっている。著者の見た明治は「血沸き肉躍る人々の冒険の世界であった」。読めば血沸き肉躍る、そういう演劇史がありがたいことにまた一冊生まれた。
(日本経済新聞 2013.1.6)

書評 立川談四楼著『談志が死んだ』

2014-08-26 | 伝統芸能
私自身の経験から自信をもって言うが、芸能する人の多くは実に面倒くさい。自意識が途方もなく肥え太っているから。もっともそうでなくては芸をなりわいにすることなどできないが、それが芸の起爆剤になることもあれば、手枷足枷になることもある。厄介なのは、自分の描く自分と他人に見られる自分との間に塞ぎきれない隙間が生じる場合であって、時には「老い」がその隙間を乱暴にこじ開けることもある。マクラで「老いるってことにどう向き合ったらいいのかわかんないんだろうね、俺は」という言葉を聴いたのは、談志のどの高座だったか。
帯には「虚実皮膜の間に描き尽す長篇小説」と銘打ってあるが、人物や会社やお店はすべて実名。どこからどこまでがフィクションなのか判じがたい。談志の逆鱗に触れたという弟弟子の著書をめぐっての会話、「ホントのことばっかりじゃ面白くも何ともありませんから」「本ではいるはずの人がいなかったり、いないはずの人がいるという」の要領で、恐らくは尾ひれ背びれの先っぽにちょっとした演出が施してある程度のことだろうが、まあそんな詮索に大した意味はない。三島由紀夫割腹の時、参院選の時、落語協会脱退の時、痩せ細った晩年、死去の直後。談志の周りにはこんなような景色があり、こんなようなことを思う著者が立っていたのだ、と思えばそれでいい。著者にまで累が及んだ先の逆鱗を「オレが間違ってた。忘れろ」「そういうことだ、水に流せ」で収める談志の「老い」を、著者は自分の感情の渦と並べてじっと見詰める。師匠と弟子。一人のアカの他人をこれだけ見詰め続けるのは恋人同士でも難しい。
死者は生者の声によってしか語られない。しかし葬式や法事で思わぬ悲喜劇が演じられるように、死者は生者を狼狽させ、普段は周到に隠された生者の姿をさらけ出す。だからこそ生者が死者を語ることには意味がある。本屋に行くと「談志本」の数の多さに驚く。つまりは談志があまたの声で語られるべき稀有な人だということだが、その内にも本書の声はとりわけ深く響いている。息子が父を語る時のようなほろ苦さがいい。
(日本経済新聞 2013.2.3)

「はなし」が芝居になるとき

2014-08-26 | 伝統芸能
かつて「はなし」が文化をリードした時代があった。当てる漢字は噺でも咄でも構わない。現実とは違う別の世界の出来事を、一人の人間が自分の肉声で描き出す。せきこんだ息遣いがそこに確かに生きる人の体温を伝え、長い沈黙が深い夜の冷たさを感じさせる。それにじっと耳を傾ける人々がいる。この、生身の人間の声と耳によって受け渡しの行われるところが重要であって、同じ物語を字で読むのとは、身にしむ度合いがまるで違う。日頃聞きなれ使いなれたはずの一語一語が、はなす―聴くという磁場に置かれることによって、もう一つの世界を鮮やかに立ち上げる。
饗庭篁村という安政生まれの人がいた。江戸の残り香たっぷりの小説を書いて当時随一の売れっ子だったが、いまや文学史でお目にかかることはまずない。明治時代の歌舞伎に興味のある人にだけ、穏健洒脱な筆をふるった劇評家「竹の屋主人」として知られている。
幸い『塩原多助一代記』初演時の劇評が残っていて、篁村が「はなし」と「芝居」との隙間についてあれこれ考えている。
「一体此狂言、人情は尽したれど義理は欠けたる事多し」という穏やかならぬ一文は、塩原角右衛門の強情ぶりをはじめとして、登場人物の行動にちらほらと合点のいかぬところがあって出たものらしい。
「根が円朝が寄席の高座で、一夜二夜で落着せず、二十日も三十日も掛りて話す続き話しなれば」
「其晩だけが面白ければ済むもの故、強(しい)て理屈には嵌めずとも、人情さえ穿(うが)てば夫(それ)でよし」
当時の寄席にかかる人情噺や怪談噺は、クライマックスにさしかかると「おあとはまた明晩」でポンと切り、一晩に一席ずつ連続で語り継いでいく続き物だった。だからその日その回ごとに盛り上がる聴かせどころがありさえすれば、多少の矛盾は気にならない。ところが一日で筋を通す芝居に直すと、どうしても計算の合わないところが出てくる。
「是を一日で仕舞(かた)のつく芝居狂言にして見ると、三五の十八となる所多し」
あるいは芸能としてのもっと本質的な違いについて。
「円朝の話しは下男でも下女でも皆な円朝の口より出るゆえ、それぞれ高下の分ちはあれど、妙は一つ妙なれど、芝居にすると大勢の俳優にふり分けるゆえ、引くるめて一体に妙とは云れぬ所あり」
「殊に話は聴人の方にて其場其人を黙想するゆえ、面白味を半分は自分で作るなれど、芝居は夫(それ)まで拵えて膳立の揃うなれば、一品気に喰わぬ事があっても咽喉の通り悪きものにて、話しと芝居とは大に行所差(ちが)うなり」
高座では名人円朝が世界のすべてをつかさどるのに対して、芝居では大勢の役者が登場人物を分担する。しかも聴き手がそれぞれ自由に想像していた景色や人物を、芝居ではいちいち具体的に目に見えるようにしてあげなくてはならない。まさに耳で聴く「はなし」と、目で見る「芝居」との決定的な違いだろう。意味合いはいささか違うが、小説が映画になり、漫画がアニメになった時に「こんなんじゃない」とガッカリする、あの感じに近い。
では芝居は「はなし」にかなわないのかというと、さにあらず。当然、芝居には芝居ならでは表現しえない魅力がある。青との別れを演じる菊五郎の立ち姿には、円朝をしのぐほどの「妙味」があったらしい。
「馬を繋ぎ捨てゝ見返り見返り立去るところ、何とも云れぬ妙味あり。此場だけはいかに滑かなる円朝の舌も及ばぬところ」
ついでにひと世代下の劇評家、三木竹二の感想も挙げておこう。
「仮髪(かつら)のほうけし工合、背と筒袖とは色の褪めてかはりし布子を着たる拵(こしらえ)、已(すで)に涙なり」
「『今の話は駄目でがんす』といいはなし、籠をかつぎてさっさっと揚幕へ這入るところ、無慾の性根よく解りて、後に少しも気が残らぬ工合、無類なり」
筋から言えばどうでもいいことのようだが、こういう役者の身体が放つ一瞬のオーラは芝居の重要な魅力の一つであって、これはどんな名人の「はなし」でも味わえない。逆に言えば、役者の身体能力が最大限に発動してこそ、芝居は原作の「はなし」に拮抗することができる。
篁村が「近ごろ狂言作者の新作は船間(筆者注:途絶えて欠乏すること)と見え、その新の字を冠って出るものも、多くは講釈また人情話の焼直しにて、講釈師と落語家は作の問屋ともいうべき不思議の時なり」と書いている。なるほど、三世瀬川如皐や河竹黙阿弥・新七師弟の作品をはじめとして、「はなし」を脚色した幕末・明治の歌舞伎の演目は枚挙にいとまがない。一方でこの頃、講談や落語は娯楽読み物の形でもさかんに出版され、まさに「はなし」が一時代の文化を牽引した趣がある。
他の分野のコンテンツを原作にするのは、何もアイディアが枯渇したからネタを拝借するのだとは限らない。機械的に独創性を尊しとする考え方が幅をきかせると、創作という行為に対する考え方はひどく狭苦しいものになる。すでに目の前にある物語をいかに上手に書き替えてみせるか。伝統芸能ではごく当たり前だったこの創作の技術を、われわれはもっと見直すべきだろう。
本当に優れた物語は表現の様式を問わない。例えば今のドラマや映画でも、オッと目を惹くものの多くは原作が漫画である。それは、より魅力的な物語の作り手が、文学やシナリオの世界ではなく、漫画の世界にたくさん集まっている時代だということに他ならない。その時代に最も才能ある人材に恵まれ、活気にあふれた分野が、その時代に最もふさわしい物語の供給源になる。
してみれば三遊亭円朝、松林伯円を擁した明治期の「はなし」の世界は、いかに豊饒な物語をたたえた水源であったことか。そしてそれを芝居に見事に変換してみせた作者と役者たちの才能もまた、目を見張るべきものだった。
(2012年10月 国立劇場歌舞伎公演『塩原多助一代記』筋書)

私のこの一冊 《野口達二『歌舞伎』》

2014-08-26 | 伝統芸能
もはや大学生のほとんどは平成生まれ。だから驚く必要はまったくないのだが、面と向かうといまだに「そうか、平成生まれかあ」と感慨にふけってしまう。恥ずかしながら私が今は亡き歌舞伎座に通いだしたのは平成になる寸前のこと。芝居に関してはまさに平成生まれのヒヨッコだ。
初の歌舞伎体験で歌右衛門の不可解なオーラにすっかりやられてしまった。インターネットがまだ普及していない頃で、頭でっかちの大学生はとりあえず本を買おうと思い立った。何かとっつきやすい歌舞伎の本をと思って、通りすがりの古本屋で買ったのがこの本。500円の値札が付いている。いろんな本を代わりばんこに手に取ってみた挙句、これを選んだ決め手は写真だった。昭和四十年の出版だが、なにしろこの本、一見手軽な入門書のようで写真のセレクトが実に渋い。
四代目芝翫の五右衛門、二代目延若の三二五郎七、初代鴈治郎の「だんまり」の盗賊、七代目中車の光秀、七代目宗十郎の帯屋長右衛門、四代目富十郎の阿古屋、河原崎長十郎の鎌倉権五郎、寿海の実盛、十三代目仁左衛門・我童の小春治兵衛、訥升時代の九代目宗十郎の「賀茂堤」の八重、などなどなど。明治の半四郎や源之助の顔だって拝めるし、先代愛之助の『女団七』のおくら婆ァ、なんてのもある。
どんな芝居だかよくわからないまま、小さなモノクロ写真の中の異形の者たちを呆けたように眺め続けた。そう、歌舞伎のどこが気に入ったといって、私の場合は「異形」に尽きたのである。これらの写真に飽きもせず見入ることは、それを繰り返し自分の内で確認することでもあった。歌舞伎というものを知りそめた、そのしょっぱなでこの本に出会ったのはなかなかよかったと思っている。ツルツルピカピカのグラビア写真も結構なものだけれど、平成生まれを相手にする授業の時には、なるべく古くて怪しい写真を使うことにしている。一人でも多くの若者が歌舞伎の異形にハマることを念じつつ。
(「家で楽しむ歌舞伎」、『演劇界』2012.5)