漱石が生まれたのは慶応三年(一八六七)。まさに明治維新の前夜であって、漱石の一生はほぼ明治時代とともに歩んだといっていい。父は東京の牛込から高田馬場一帯を治める名主だった。名主といえば、町人の身分でありながら、地域の行政や徴税を統括する大した名士だった。当時そのあたりで、芝居に出てくるような立派な玄関のある屋敷は夏目家だけだったから、近所の人は夏目家を「お玄関さん」と呼んだ。ちょっとした訴訟沙汰などはその玄関先で裁きをつけてしまうほどの権威を持っていたという。
漱石は赤ん坊の頃に養子に出されたが、物心ついてからは生家に戻って少年・青年時代を過ごした。もともと裕福な家柄ではあり、江戸がはぐくんできた町人文化をたっぷり楽しむことができる環境だった。ことに洒落者の兄たちの影響を受けて、講釈(講談)や落語を浴びるように聴いて育った。
落語か、落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った。何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになって仕舞ったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡の方へ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監で羽振りが利いて中々威張ったものだった。圓遊や其他の落語家が沢山出入りして居った。(「僕の昔」)
松本順は、チョンマゲ時代には御典医として幅を利かせ、明治になると初代陸軍軍医総監、貴族院議員にまで出世した人で、いち早く牛乳や温泉、海水浴の健康増進効果を説いたことでも知られている。こういう新政府の貴顕紳士がお屋敷を構えていて、その贔屓にあずかる芸人たちが近所をウロウロしている。そういう都会的な雰囲気の中で漱石は育った。圓遊は人呼んで「ステテコの圓遊」。妙ちくりんなステテコ踊りで一世を風靡した三遊亭圓遊である。
漱石の小説に落語と見まごうような場面が出てくることはかねがね指摘されている。例えばおなじみの「吾輩は猫である」で、美猫の「三毛子」が「吾輩」に自分の飼い主の噂をする場面。
「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたも余っ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」
あるいは寒月君が、ヴァイオリンを買いに出かけた顛末を苦沙弥先生らに語って聞かせる場面。
「森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は―末は、そうですね、まず布哇(ハワイ)の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道を遂に二丁来て、鷹台町から市内に這入って、古城町を通って、仙石町を曲って、喰代町を横に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町、名古屋町、鯱鉾町、蒲鉾町……」
「そんなに色々な町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」
こちらは「道中付け」と呼ばれる落語の手法をそのまま使っている。登場人物の移動する順序に従って、地名をつらつらと並びたてていく。「黄金餅」という落語では「・・・着いた頃にはみんなたいそうくたびれた」でポンと落とすが、漱石の場合も、最後に苦沙弥先生が割って入る呼吸などは憎いものだ。漱石の小説は会話のテンポがいい。漱石の体に落語や講釈といった江戸の話芸の呼吸がしみこんでいるからだ。
また漱石と落語といえば、いつも真っ先に引き合いに出されるのが「三四郎」である。九州から上京したばかりの三四郎が、大学で友人になった与次郎に寄席へ連れて行かれる。
次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家(はなしか)を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。
三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。
与次郎の口を借りて漱石が激賞した「小さん」とは、三代目柳家小さんのこと。小さんの「粗忽長屋」や「浮世風呂」は録音が残っていて、雑音越しにも弾むような間のよさと愛嬌を聴き取ることができる。漱石は弟子たちの前で、小さん演じる「うどんや」のものまねをして笑いころげたこともあったという。
本職は英文学者で、漢文に堪能で、俳句も一流で、日本近代文学を牽引した国民的文豪。口髭のせいか悟りすましたおじさんのような印象があるが、実は49歳で亡くなっている。激変する社会を眺めながら、新しい時代の日本は、日本人はどうあるべきか、といった難しい問題を考え詰めたあげく、重度の神経症や胃潰瘍を患った。ところが一方では、尻っぱしょりで駆け出すような、軽くて気さくな江戸のユーモアが体一杯に詰まっていた。人間は多かれ少なかれそういう複数の顔をもっているもので、どちらかを漱石の本質だと言い切ることはできない。天秤が片方にぐっと傾いたらば、もう片方に重しを乗っけて、ひっくり返らないようにバランスをとれるのがいい大人というものだ。漱石にとっては、その大事な重しが落語だったのではあるまいか。天才漱石の、なくてはならない一部分として、われらの落語がちゃんと組み込まれていた。落語を聴いても漱石のようになれる保証はないが、少なくともいい大人になるためには、落語はすこぶる役に立つ。
(国立劇場おきなわ『華風』2014.11)
漱石は赤ん坊の頃に養子に出されたが、物心ついてからは生家に戻って少年・青年時代を過ごした。もともと裕福な家柄ではあり、江戸がはぐくんできた町人文化をたっぷり楽しむことができる環境だった。ことに洒落者の兄たちの影響を受けて、講釈(講談)や落語を浴びるように聴いて育った。
落語か、落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った。何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになって仕舞ったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡の方へ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監で羽振りが利いて中々威張ったものだった。圓遊や其他の落語家が沢山出入りして居った。(「僕の昔」)
松本順は、チョンマゲ時代には御典医として幅を利かせ、明治になると初代陸軍軍医総監、貴族院議員にまで出世した人で、いち早く牛乳や温泉、海水浴の健康増進効果を説いたことでも知られている。こういう新政府の貴顕紳士がお屋敷を構えていて、その贔屓にあずかる芸人たちが近所をウロウロしている。そういう都会的な雰囲気の中で漱石は育った。圓遊は人呼んで「ステテコの圓遊」。妙ちくりんなステテコ踊りで一世を風靡した三遊亭圓遊である。
漱石の小説に落語と見まごうような場面が出てくることはかねがね指摘されている。例えばおなじみの「吾輩は猫である」で、美猫の「三毛子」が「吾輩」に自分の飼い主の噂をする場面。
「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたも余っ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」
あるいは寒月君が、ヴァイオリンを買いに出かけた顛末を苦沙弥先生らに語って聞かせる場面。
「森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は―末は、そうですね、まず布哇(ハワイ)の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道を遂に二丁来て、鷹台町から市内に這入って、古城町を通って、仙石町を曲って、喰代町を横に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町、名古屋町、鯱鉾町、蒲鉾町……」
「そんなに色々な町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」
こちらは「道中付け」と呼ばれる落語の手法をそのまま使っている。登場人物の移動する順序に従って、地名をつらつらと並びたてていく。「黄金餅」という落語では「・・・着いた頃にはみんなたいそうくたびれた」でポンと落とすが、漱石の場合も、最後に苦沙弥先生が割って入る呼吸などは憎いものだ。漱石の小説は会話のテンポがいい。漱石の体に落語や講釈といった江戸の話芸の呼吸がしみこんでいるからだ。
また漱石と落語といえば、いつも真っ先に引き合いに出されるのが「三四郎」である。九州から上京したばかりの三四郎が、大学で友人になった与次郎に寄席へ連れて行かれる。
次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家(はなしか)を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。
三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。
与次郎の口を借りて漱石が激賞した「小さん」とは、三代目柳家小さんのこと。小さんの「粗忽長屋」や「浮世風呂」は録音が残っていて、雑音越しにも弾むような間のよさと愛嬌を聴き取ることができる。漱石は弟子たちの前で、小さん演じる「うどんや」のものまねをして笑いころげたこともあったという。
本職は英文学者で、漢文に堪能で、俳句も一流で、日本近代文学を牽引した国民的文豪。口髭のせいか悟りすましたおじさんのような印象があるが、実は49歳で亡くなっている。激変する社会を眺めながら、新しい時代の日本は、日本人はどうあるべきか、といった難しい問題を考え詰めたあげく、重度の神経症や胃潰瘍を患った。ところが一方では、尻っぱしょりで駆け出すような、軽くて気さくな江戸のユーモアが体一杯に詰まっていた。人間は多かれ少なかれそういう複数の顔をもっているもので、どちらかを漱石の本質だと言い切ることはできない。天秤が片方にぐっと傾いたらば、もう片方に重しを乗っけて、ひっくり返らないようにバランスをとれるのがいい大人というものだ。漱石にとっては、その大事な重しが落語だったのではあるまいか。天才漱石の、なくてはならない一部分として、われらの落語がちゃんと組み込まれていた。落語を聴いても漱石のようになれる保証はないが、少なくともいい大人になるためには、落語はすこぶる役に立つ。
(国立劇場おきなわ『華風』2014.11)