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per l/a psicoanalisi

永遠に属する問題と身体(精神分析的な経験においては?)

2017-10-09 12:30:57 | Essay
永遠であるとは、始まりと終わりがないことだ。つまり、神学的には永遠なものは創造されない。


アガンベンは『王国と栄光』において、存在論 l'ontologia と実践 la prassi のあいだの亀裂を論究していた。アリストテレスからトマス・アクィナスに至るまで中世の神学的議論の俎上にのぼるのが、「世界の永遠性」と「創造」の問題だった。これは、カントにおいても純粋理性と実践理性のあいだの歪みとして問題になった。『判断力批判』においては構想力 l'immaginazione が両者を架橋するものとして、前景に出てくる。

そう考えると、根源のイメージ l'immagine dell'origine とは、永遠なものと創造を繋ぐような何かとして構想される。これは、ヘーゲルの媒介の論理やベンヤミンの静止した弁証法にも変奏される。

また、それは地上の身体と天上の身体というキリストの復活に繋がる議論としてもある。生成と腐敗に属する物質の身体と、エーテルの身体という神学上のテマティカ。

勿論、アガンベンはこれを『ニンファ』においても言及している。エーテルの身体とは、イメージの身体(身体のイメージ?)に近い何かであると。あるいは、ニンファはイメージのイメージ l'immagine dell'immagine であるとも。


つまり、根源が問題になるのは、時間に属するものと永遠に属するもののあいだにおいてなのではないだろうか? 運動を引き起こすものとしての時間性と永遠の非時間性が同時に問題になる。

先のキリストの身体と復活という神学的な難題にせよ、ある意味では哲学的な素地がそこにはある。あるいは、聖体拝受の祭儀中に全質変化 la transustanziazione が為されるという教理。


精神分析の経験においても、何が変化しないで、何が変化するのだろうか? この問いも、時間や永遠のテーマとしても考えられる。


◼️シニフィアンとアニマ?

なるほど、フロイトの終わりが自我分裂 Ich-Spaltung で、ラカンの始まりがそれに通じる部分もある。

生物主義とシニフィアン的な登記を巡るセクシュアリティの亀裂。そのあいだに、欲動論的な闘争性が存在し、それは生政治=死政治的でもあり、人格〔ペルソナ〕の非人称的なものに繋がる閾でもある。

シニフィアン連鎖は、運動の問題だろうか? あるいはアニマの問題なのか? ラカンとアリストテレスの思考を元に何がそこから浮かび上がるだろう?

アキレスと亀のパラドックス宜しく、運動だけで語れば、欲動にはアニマが付随しないことにもなろう。その場合、シニフィアン連鎖とはただの“運動の継起性”としてしか把握されない。(理論のみで考えてばかりいるなら、ここに躓きやすい)


«Quest'ultima [l'anima] è la "conditio sine qua non" dell tempo, perché senza di lei verrebbe a mancare l'esistenza del numerante e, di conseguenza, anche del numero.» (Ettore Barra, Tommaso d'Aquino e l'eternità del mondo)

「後者〔アニマ〕は、時間の“必然の制約”である。何故ならそれがないなら、番号のついている存在、結果的には、また番号の存在は欠けるようになるだろうから。」
(エットーレ・バッラ『トマス・アクィナスと世界の永遠性』)


つまり、アニマとはそれ無しには“運動の継起性”が存在しえないような何かであると、ここでは読み取れる。もし、われわれがアニマを忘れ去っているなら、その連鎖、つまり運動は無時間的なままに留まる。連鎖が単一のセリーか複数のセリーかもいいが、時間とアニマの問題を忘れれば元も子もない。

だが、われわれが再びアニマについて恥じ入るなら、それは想起への扉が開き、運動状態に置かれるかもしれない。

アニマには、永遠に属する何かがある。


◼️物体と空虚?(シニフィアンの物質性と場)

壺を動かした時、壺の内部の空間も運動していると言えるのか?(ドーナツを回転させた時のドーナツの穴でも構わない)

いや、言えないように思う。つまり、物と物の空間(=場)の関係がここから浮かび上がる。つまり、物に対して、場とは“最初の”不動点なのではないか? これは、シニフィアンと主体(シニフィアンの空虚の場を占める)の関係とアナロジーだろう。

仮に、シニフィアンの物質性の議論を導くにせよ、シニフィアンの場(物質性の空虚)と主体は、運動とは別の秩序にあるのかもしれない。

例えば、声や光も、ある運動(物質性の振動)を想定している。だが、場や主体はその中にあっても、不動点の繋がりを保存する。

何も思考ゲームをしたいわけではない。これは、トポロジーによって突き詰めることができる。ここでは、トポロジーの議論を紹介する前に、先ずアリストテレスの定義を見てみよう。

«il luogo è il primo immobile limite del contenente» (Aristotele, Fisica)

「場は、内容物に制限された最初の不動なものである」(アリストテレス『自然学』)

ここから、世界 il mondo が場 il luogo であるなら、世界は始まり—運動の起点としての—を持ち得なかったことが帰結する。仮に、世界の諸事物が始まりを持ち、運動において変化しようと、諸事物の場である世界は、最初の不動点への通路を保持している。

ここで問題になるのは、物 la cosa や物体 il corpo なのではない。それらの空虚 il vuoto の側である。あるいは、それらの剥奪 la privazione や貧しさ la povertà である。
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