この夏休みを終わらせたくない。僕たちが東京行きを選んだ理由を探すなら、つまりそういう気持ちがいちばん近い。
大きな夢は抱いていたけれど、それと現実の進路はまた別の話で、東京でプロになろうとか、有名になろうとかいう気負いがあったわけではない。ただ、GLAYをこのまま終わらせたくないという思いがあった。
みんなで東京進出を決めたとき、GLAYは僕たちの終わらない夏休みになった。
●東京という大きな海へ
実をいうと、この間の経緯については、どういうわけか暖昧模糊としていて、前後関係すら定かではない。
僕は僕で、札幌の音楽専門学校の資料を取り寄せた憶えがあるから、どこまで本気でGLAYの存続を考えていたかもわからない。卒業イコール解散は、高校生バンドの宿命みたいなものだ。
それが絶対というわけではない。続けるという選択もあるのだが、卒業の季節が近づいても、GLAYの今後についてまともに話し合いをした憶えがない。
すれば当然、解散という選択についても考えなければならなくなる。続けたい気持ちは山々だけれど、誰かが解散しようといいだしたら、説得するだけの決心を持ち合わせているわけでもなかった。
それが怖くて、避け続けていたのかもしれない。ようやくそれらしい話をしたのは卒業式の晩、GLAYラストラィブを終えた後のことだった。
ラストライブと銘打ったくらいだから、どこかで意識はしていたのだろうけれど、それは高校時代最後のライブと解釈することもできるわけで 解散という言葉は誰も一言も口にしていなかった。
この期におよんでも、はっきりとした結論は出なかった。解散したくないという気持ちでは、みんな一致した。
けれど、ではどうするか。それが誰にもわからなかった。進学したり、就職するなら、社会が敷いたレールというものがある。しかし、高校を卒業してもバンドを続ける方法については、マニュアルなどどこにもなかった。
親のスネをかじりながら、音楽を続けるなんて選択は論外だったから、GLAYを続けるなら都会に出て、バイトでもなんでもしながらということになる。札幌がいいか 東京にするか。
どうせなら、東京に出てみないか。そのくらいまで話したところで あとはなんとなくうやむやになった。
ドラムのナカモトは函館を離れるつもりはなかったし、ベースのヒトシは函館工業高等専門学校に入っていた。高専は5年制だから、あと2年通わないと卒業できない。東京に出るには、退学しなければならなかった。
だから正確にいえば、ある日誰かが「GLAYは東京に行く」と宣言したわけではない。ただ なんとなく、川の上流で孵化したサケの子が、海の匂いに惹かれていつの間にか大海に下るように、GLAYも東京という大きな海に移動していた。
●オリジナルメンバーへのこだわり
最初に積極的に東京に出るための行動に出たのはテッコ(TERU)だった。彼は煮えきらない僕を後目に、さっさと東京の印刷工場への就職を決めてしまっていた。
トノ(HISASHI)は好都合なことにちょうどこの時期、一家が東京へ引っ越すことになっていた。GLAYを続けることに異論はなかったけれど、オリジナルメンバーへのこだわりはなかなか捨てられなかった。
続けたかったのは、GLAYという名を残したいからではない。そういう意味では、GLAYへのこだわりなんて微塵もない。
僕にとってのGLAYは、抽象的な名前なんかじゃなくて 顔の見えるメンバーのひとりひとりだった。こいつらと音楽をやりたいからGLAYがあるのであって、もはやその逆ではあり得なかった。
ドラムのナカモトはすでに地元での結婚も決めていたらしく、決意は固かったから諦めざるを得なかった。
けれど、ベースのヒトシは迷っていた。最初にこの二人でGLAYを立ち上げたんじゃないかという思いもあって、かなり熱心に「東京へ行こう」と誘った憶えがある。高校生とはいえ、まだ子どもだったという弁解も通用しないくらい、無責任な誘いではあった。
ヒトシの将来のことなんてよく考えもせずに、行けばなんとかなるくらいの軽い気持ちで誘っていたのだから。ヒトシの場合、僕らとは事情が違った。ずいぶん悩んだようだ。
家族会議とかもたくさんあったらしい。最終的には、僕が彼の母親に呼ばれて、こう言い渡された。「ごめんなさい、ヒトシはあなたの夢には乗れないの」 それで、ようやく諦めがついた。
僕らはスカウトされたわけでもない、それどころか知り合いすらいない。なんの保証もないままに、ただ、東京に行こうとしていた。夢はあっても、他人を説得できるような計画はなにもなかった。
GLAYが三人になってしまうのは辛かったけれど、ことここに到っては、自分のやれる範囲でやってみるしかなかった。
●燃えるような自信
僕自身が東京に出ることについて、家族の反対はなかった。
母はそれまでもなにくれとなく、僕たちの活動を応援してくれていた。親の反対で楽器が買えないメンバーの、ローンの保証人にもなっていたほどだ。彼女にしたって、僕らが成功するかどうかなんてわからない。
「あなたたちの音楽は、私にはうるさいだけでよくわからない」 そういっていたくらいだから。それでも、彼女は音楽の力だけは信じていた。どうやらその虜になったらしい息子には、行くところまで行かせるしかないことを知っていたのだろう。
いつか諦める日が来るとしても、それは夢の結末を最後まで見届けた後のこと。ようやく東京へ行く決断をした僕は、テッコに相談した。彼はいつもの調子で、あっさりと答えを出してくれた。
「そっか。だったら、俺と同じ印刷工場に就職すれば?」 そんな簡単に決めていいのか。だいたい、就職試験はもう終わっているはずだ。「大丈夫。まだ、募集してるみたいだよ」 このときばかりは、テッコの身軽さに助けられた。
こうして僕は1990年の春、赤羽の印刷工場に勤めるために東京へと旅立った。ビートルズの詩集を一冊だけ胸に抱えて。
いや、もうひとつ、心に秘めていたものはある。誰も口にはしなかったけれど、心の中には燃えるような自信があった。自分たちの音楽は、誰にも負けていない。東京から聞こえてくる音楽と比べてみても、GLAYの方がずっといい音楽をやっているという自負があった。
函館でこれだけ人気を集めることができたのだから、人口の多い東京へ出ればさらにたくさんのファンをつかむことができる。
そう信じていた。なんの根拠もない、それはただの思い込みみたいなもので、大人を説得できるような材料はどこにもありはしないことはわかっている。それでも、僕はGLAYの成功を確信していた。
【記事引用】 「胸懐/TAKURO・著/幻冬舎」