GLAY Story

GLAY関連の書籍を一つにまとめてみました。今まで知らなかったGLAYがみえてくる――。

 上京後の初仕事

2009-10-11 | アマチュア時代




 印刷工場は、面白い仕事場ではなかった。

 雑誌の版下を作る仕事なのだが、与えられた作業をこなすだけの緩急のない毎日。新入社員としては、仕事のダイナミズムをどこで感じていいのかわからなかった。

 とはいえ、不服があったわけではない。初任給は、確か16万円。制服は支給されたし、3食付きで1カ月1万円の寮も完備されていたから、衣食住はタダみたいなものだった。

 僕やテッコを採用してくれた会社の人には申し訳ない言い草だけれど、東京の足場としては文句のつけようがない環境だった。

 これで仕事が面白かったりしたら、そもそも東京に来た理由を忘れてしまいかねない。それじゃなくても、職場に入ったとたん、自分の時間が自由に使えなくなるということは身に染みて感じていた。


●意思の力を奮い起こす

 仕事は朝の8時から夕方の5時までと聞いていたけれど、実際には定時で引き揚げられるような雰囲気ではなかった。

 夜の10時、11時まで残業があるのが普通という生活の中で、バンドの練習時間を捻出するには意志の力を奮い起こさなければならなかった。いつ、そういう生活に埋もれてしまっても不思議はない。

 アマチュアバンドの難しさはそこにある。いくら大きい夢があっても、固い決意があったとしても、あっという間に生活の中に埋没してしまう危険をいつも伴っている。

 生活するためには、働かなきゃいけない。そして、働くということは、もうこれはいうまでもなくみんなわかっていることだが、それが生活の中心になってしまうということだ。

 世の中はそんなに甘くない。そして、人はそんなに強くはできていない。バンド活動は誰に強制されるわけでもない。練習をさぼろうと思えば、いくらでもさぼれる。

 それでなくても、生活に追われる毎日なのだ。休みたいとか、眠りたいとか、遊びたいとか。そういう人間的な欲求にメンバーの誰かが負けて、先細りになっていくバンドはいくらでもある。

 生活をするために、誰か1人が仕事を増やす。たとえば、昼も夜も仕事を始めてしまう。それだけで、練習ができなくなってしまう。生活がかかっているわけだから、仕事を休めとはなかなかいえない。

 たったこれだけのことで、バンドは存続の危機にさらされてしまうのだ。


●バンドに常にオイルを

 僕は、とにかく動こうと思った。GLAYの今後をどうするとか、音楽性をこうしようとか、そういう話はあとで考えればいいことであって、とりあえず今は動かなきゃいけない。

 人間の関節だって動かさなきゃ、すぐにがちがちに固まってしまう。潤滑油をささなければ機械だって止まってしまう。バンドにも常にオイルをさしてやる必要があった。

 バンドのオイル。

 それは音楽をする喜びだったり、音楽から得られるカタルシスであったりするのだけれど、そういうものをメンバー同士で、お互いに与え続けなければ、どんなバンドであろうといとも簡単に崩れ去るものだということは、常に意識していた。

 だから、どんなに忙しくてもスタジオを取って週に2日ペースの練習だけは欠かさないようにした。

 ドラムとベースが欠けた状態だったけれど、助っ人でもなんでもいいからとにかくメンバーをそろえて、初ライブにこぎつけるべく奔走した。なんといっても、ライブは僕たちのエネルギー源みたいなものだったから。

 GLAYのいい出しっぺであるがゆえにリーダーになった僕が、リーダーらしいことをしたことがもしあるとすれば、そういうことだった。

 この十数年というもの、GLAYというバンドが錆びついてしまわないように、止まってしまわないように、一定の刺激を与え続けたということだけは胸を張っていえる。


●テッコの初給料

 話を戻そう。印刷工場にいた頃の話だ。

 そういうわけで、僕は日々焦りまくっていたのだが、テッコの方はどうもそうではなかったようで、たとえばこういうことがあった。もしかすると、あれは最初の給料だったんじゃなかろうか。

 テッコは初めて自分の汗と引き替えに得たその記念すべきお金を、貰った翌日には、こともあろうにパチンコでスッカラカンにスッてしまったというのだ。僕は呆れた。

 しかしテッコは、懲りもせずに、次の給料もパチンコにつぎ込んだ。が、このときはどうやら勝った。相当に儲けたらしい。しかし、それで話が終わるようならテッコではない。

 あいつは、その金を持って赤羽の駅前の焼鳥屋に飲みにいき、たまたま隣に座ったどこかの体育の先生と意気投合してしまう。そのまま2人で飲み歩いたのかなんなのか、とにかく貰った給料と、パチンコで勝ったお金をぜんぶ奢ってしまったという。

 で、またもやスッカラカン。

 それだけならまだしも、僕がバンドのことを考えて悩んでいるときに よりによって女子寮に遊びに行って、ちっとも帰ってこないということもあった。あのときばかりは、本気で怒った。

 「ふがいないよ……、ホントに」 まあ、その言葉はそれから約2年後に、そっくりそのままテッコから投げ返されるのだけれど……。


●このままではヤバイ

 このままでは、ほんとにヤバイことになると思った。

 いや、ほんとうは、僕自身が印刷工場の生活に埋没しつつあった。東京生活の足場に過ぎないとはいえ、面白味のない作業の連続とはいえ、一緒に仕事をしていれば人間関係というものも生まれてくる。

 どういう人間関係であろうと、僕はそれをないがしろにはしたくない。ましてあの工場には、僕らの夢を認めてくれる上司もいた。「大きな夢を持ってるんだな、がんばれよ」

 さっきも書いたように、寮で暮らしてさえいれば生活費もかからないから、そこそこ貯金をすることだってできた。ある日、仲良くなった先輩の部屋に遊びに行くと、狭いスペースにびっくりするくらい高価なオーディオセットが鎮座していた。

 先輩は僕がバンド活動をしているということを知っていたから、そのアンプがいかに優れているか、スピーカーがどれだけいい音を鳴らすかを、事細かに説明してくれた。

 「よかったら、いつでも聴きにおいでよ」先輩はちょっと自慢気に、宝物のようなオーディオに手を置いた。お金を貯めて買ったというけれど、そう思って見渡せば、この寮はきらびやかなモノであふれていた。

 表に出れば、最新型のバイクがならんでいる。何十インチか知らないけれど、よく部屋に入ったなと思うくらい大きなテレビを自慢にしている人もいた。僕は急に目の前が暗くなった。

 オーディオもバイクも、今は別に欲しいともなんとも思わない。けれど、僕だって人間だ。いつかは、そういうきらびやかなモノたちで、心を紛らわせるようになってしまうかもしれない。

 それは、そう遠くない未来の話のようにも思えた。それでなくても、朝から夜遅くまで仕事に追われ、狭苦しい寮の部屋の2段ベッドに寝起きする毎日なのだ。


●印刷工場を退職

 バンド活動は、東京の音楽事情に疎いこともあって、ちっともうまくいっていなかった。というより、悲惨な状況だった。

 それだけになおさら、このままでは駄目になると思った。生活の安定は、僕には甘い罠だった。もう、辞めようと思った。もっと、音楽に専念できる環境を探さなきゃいけない。

 「これ以上ここにいちゃ、良くないと思う。一緒に辞めるのはまずいから、俺が最初に辞めるよ。先に、東京の音楽シーンをきっちりリサーチしておくからさ。テッコもなんとか言い訳つけて、2、3カ月したら辞めなよ」

 それだけ、テッコに言い残し、僕は3カ月で印刷工場を退職した。上京していた函館の友だちのアパートに転がり込んで、それからは、いわゆるバイトらしいバイトをいろいろやった。

 ビルメンテナンスの会社に入って、ビル清掃をしたり、現場監督の助手をしたり。ペリカン便と、ビデオ屋の店員のかけもちもした。警備員の仕事もした。

 2人で決めた通り、テッコも3カ月して辞めた。

 金髪でも雇ってくれるというので水道工事の仕事をするようになった。水道管を積んだ軽トラで、バンドの練習に来ることもあった。頭にタオルを巻いて、仕事着のままスタジオに現れたテッコを見て吹き出したこともある。

 まあ、それは僕の方も、同じようなものだった。





【記事引用】 「胸懐/TAKURO・著/幻冬舎


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