GLAY Story

GLAY関連の書籍を一つにまとめてみました。今まで知らなかったGLAYがみえてくる――。

 GLAYの東京初ライブ

2009-09-23 | アマチュア時代




 GLAYの東京初ライブは、客がたったの2人だった。

 しかも、場所は東京ではなく、正確には埼玉県。浦和市の「ポテトハウス」というライブハウスだった。友だちも知り合いもほとんどいない東京での最初のライブだから、仕方がないといえばその通りだ。

 問題は、そういう状況がその後もずっと続いたということだ。


●客がゼロ

 2人入ったのはまだいい方で、客がゼロというライブもあった。1992年の正月のことだから、上京して2年目に入ってもまだそういう状態の中でもがいていた。

 ステージに立って客席を見回したら、目の前に誰もいないときの気分を言葉にするのは難しい。

 客が1人もいなくても、ステージに上がりスポットライトを浴びてしまっているわけだし、PAの人もスタンバイしているから、演奏しないわけにはいかない。

 こんなもん、だだっ広いスタジオ借りて練習してると思えばいいんだ。心の中で虚勢を張り、平静を装って演奏を始めるのだが、胸の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて、吐きそうになる。

 テッコの声が、がらんとしたホールに空しく響く。あいつは僕の何倍も辛かっただろうなと思う。少なくともギターは、慄えることを心配する必要はないのだから。

 でもあの時は無我夢中で、そんなことを思いやる余裕すらなかった。4曲か、5曲演奏したところで、パラパラと人が入ってきた。僕らの次に出演するバンド目当ての客だ。

 惨めな話だが、それでもいくぶんほっとしたことを憶えている。


●大海の真ん中を漂流

 東京で活動を始めてから、僕はずっとライブ日記をつけていた。ライブハウスの主人にどういわれたとか、客の反応がこうだったとか。今後の参考になるように、できるだけ客観的に記録していた。

 この日ばかりは、それができなかった。思いを文字にしようとペンを握ったとたん、ぐちゃぐちゃとため込んでいた声にならない叫びがほとばしり、ページを塗りつぶしていた。

 いくら東京では誰にも知られていなかったとはいえ、函館でやっていたのと音楽が変わったわけではない。

 なのに、あうん堂のホールを黄色い歓声で埋め、観客が興奮して床を踏み抜いてしまうんじゃないかと親父さんを心配させた僕たちの音楽が、どんなに頑張っても東京というお化けみたいな都市の心には響かなかった。

 人の心に、染みこんでいってくれなかった。水をもたずに、大海の真ん中を漂流していたようなものだ。まさに人の海のような都会にいながら、僕らはその一滴も飲むことができなかった。

 街ゆく人も僕らにとっては海の水と同じ、潤すどころか、喉を焼き、渇きを増すものでしかなかった。


●どこまでも堕ちていく日々

 客が入ったとか、入らないとかいうだけの問題ではない。他のバンド目当てか、それともなにかの間違いで客席がまばらに埋まっているときだって似たようなものだった。

 ステージに立ち、ギターを弾いていても、顔が上げられなかった。

 ミュージシャンは、客席の空気を吸って生きているようなものだ。客が僕らの音楽を聴いて、ちっとも喜んでいないことは痛いほど伝わってくる。

 つまらないのか、下手くそだと思っているのか、音楽をぶつけてもぶつけても、返ってくるのは冷ややかな反応ばかり。そうなると、とても客席を見ることができなかった。

 冷たい視線をあびるのが怖くて、視線は下がり、顔はうつむく。そんなことではいけないと、勇気を奮って前を見るのだが、今度はいつの間にか後ずさってしまう。

 首を垂れ、後ずさりするようなバンドの音楽を誰が好きになってくれるだろう。

 ましてや、そういう気分が奏でる音楽に影響をあたえないわけがない。そんなことわかりきっていてもどうにも仕様がなかった。客に受けない、僕らは下を向く、客はさらにシラケ、僕らはより深く首を垂れる。

 つまりはそういう悪循環で、GLAYはどこまでも墜ちていった。


●三人の間に結ばれた絆

 いや、墜ちていても不思議はなかった。地獄の底まで墜ちてしまわずに、その寸前で、踏みとどまることができたのは――。

 それを表現するには、思いっきり月並みな手垢のついた言葉、それでもきっと人間がこの地球上で生きていく限り、使い続けられていくであろう言葉を使うしかない。

 それは、友情のゆえだと思う。テッコとトノと僕。三人の間に結ばれた絆が僕らの財産だった。それだけは、断ち切られることがなかった。

 あの絆がなければ、GLAYなんてとうの昔に空中分解していたように思う。どんな逆境のときも、僕らは週に2回の練習を続け、あちこちのライブホールをかけずり回っては、週に1回のステージに立った。

 GLAYはずっとメンバー不足に悩まされていた。ドラムとベースが、何度人を入れ替えても長続きしなかった。

 ライブ当日に、ベーシストにすっぽかされたこともある。そのときは、僕が弾けもしないベースを弾いてなんとかしのいだ。テッコがドラムを叩いたこともあるし、トノがベースをやっていた時期もある。

 まるでツギハギだらけのジャケット。

 バンドとしてはこれ以上にショッパイというか格好悪いものはないのだが、それでもライブ活動は続けた。そうしなければ、僕らはただ日々の生活に追われ、バイトに疲れた兄ちゃんに過ぎなかった。


●僕ら三人の存在理由

 自分たちにできる限りのことをやって、GLAYを育て続ける。それだけが、僕ら三人の存在理由だった。そりゃ辛いといえば辛かったけれど、やっぱり僕らは楽しかったのだ。

 ガラガラのライブハウスで演奏するために、工事現場でバイトをしてお金を貯め、眠い目をこすりながらスタジオに入って練習をする。それでもなんでも、三人で音楽をやっていられることが楽しかった。

 いや、もうちょっと正直にいえば、僕らには結局のところ音楽しかなかったのだ。バンドをやる以外に、他にまともにできることなんて何もなかった。

 そうでなければ、あんなに音楽に夢中になれたとは思えない。僕に他にできることがもしあったとしたら、あの苦労を乗り越えることなんてできなかっただろうと思う。





【記事引用】 「胸懐/TAKURO・著/幻冬舎


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