小説『雪花』全章

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小説『雪花』第一章-7節

2017-05-21 17:05:35 | Weblog


 
 翌朝、窓の外の、降り頻(しき)る雨の中で、凡雪の瞼が跳(は)ねて、目が覚めた。
 雀(すずめ)の鳴き声……。チッ、チッチッ、チッ……短く、速く、太く、罵(ののし)るような鳴き声だ。
 雨は際限(きり)もなく降っている。強くはないが、空気に絡(から)まり落ちている。
 凡雪は、雨に濡れた窓へ視線を向けて、口を動いた。
「陳とは、もう、関係ないのに、夕(ゆう)べ、あんな冷(ひや)やかな態度で、本当は、憎むはずなのに、なぜか、陳が恋しくて堪(たま)らない」
 凡雪は、首を振って、嘆息(たんそく)を零した。どうにか今の気持ちを追い出そうとした凡雪は、体を起こそうとした。ところが、力が抜(ぬ)かれたようで、動けなかった。
 しばらくして、また、体を起こそうとした。だが、胃がむかむかと焼(や)け、今まで体験した覚えがないような苦痛を感じた。
 嵐の前の黒い渦巻(うずま)き雲のように、幾度(いくど)となく喉元まで込み上げてくる。
「目が覚めた。調子悪いの?」と凡花が心配そうに凡雪を覗き込んできた。
「うん、ちょっとね」
「姉(ジエ)、顔色悪いよ。今日、休んだら。雨も降っているし。文化宮には電話をしとくから」
 凡花は頑(かたく)なに窓ガラスを見つめていた。横顔が薄い光の中で、半透明な娃(ワー)娃(ワー)(人形)のように見える。
 凡雪は妹へ視線を向けたまま、静かに頼んだ。
「花(ホァ)、陳と別れた件、暫くお父さんに言わないでね」
「そうね、言わないわ」
 凡花は屈託なく、鮮やかな口調だった。凡雪は黙って頷(うなず)き、窓ガラスの外側の冷たい霖雨(りんう)を想像した。 
「今日、姉(ジエ)は、ゆっくり休んで」
 凡花は唇を尖(とが)らせて、勝手に決めた。言葉に癒された凡雪は、妹を眺める。
 丸いおでこに、前髪を短く切り揃(そろ)えている。剃った眉毛も覆い隠されて、確かに、誰も気付かないようだ。
 いつも曇ったりしない膨(ふつ)っくらとした頬が、やや赤(あか)らんでいる。たまに滑稽(こっけい)な行動を起こす妹は、なんて可愛(かわい)のだろうと凡雪は、無性に凡花が愛(いと)おしい気がした。
「行ってきまーす!」の凡花の明晰(めいせき)な声が、部屋を響き渡った。
 霖雨は依然(いぜん)として深(しん)々(しん)降り続いている。 
 悲しみを拭い去ったように落ち着いた凡雪は、そろそろ起きなきゃと、ベッドから立ち上がった。胸が再びむかむかして、吐き出そうとした。
 凡雪は横たわって、両手の平で胃部を撫でた。目を閉じると、何故か、瞼の裏に、姚琴の温かい眼差しが浮んできた。
 目頭(めがしら)に涙が流れた凡雪は、うっと呻くような低い声を漏らした。
 無性に姚琴が恋しくなった凡雪は、ゆっくりと、ベッドから上がった。
       *
 雨は、いつしか止んでいた。まだ十一月なのに、鉛色をした空気を凍てつくように冷酷に感じた凡雪は、風で、さざめく柳に、視界を塞(ふさ)がれた。
 緑と、枯れた葉の茶色が混ざり合っている。
 家を出た凡雪は、厳吾弄沿いを歩き進めた。やがて、雑貨店前に着き、店内から、がやがやとした人の、喧騒(けんそう)が辺りに響き渡った。
 凡雪は雑貨店に入り、凍えた手で入口脇の公衆電話を取ると、堅く結んでいた唇を、おもむろに緩(ゆる)めた。
「凡雪です。姚さんに会いたい! お昼、会えませんか?」
「何かあったの? いいわよ」
 姚琴の透き通るような明るい声を聞いた凡雪は、ほっと一息ついた。
 店を出ると、乾(かわ)き切った口内に唾(つば)がずっしりと広がって来た。その時、凡雪は、心が少しだけ、楽になったような気がした。
 昼十二時前、凡雪は、姚琴の会社『東方(トウファン)建設(チエンス)厂(ツアン)』の近くの《振(ツン)興(シン)麺(メン)店(テン)》に足を運んだ。
 窓際のテーブルに近寄った凡雪は、足を止めて、テーブルを眺めた。
 真中の水滴(すいてき)が、動いた。端(はし)のほうに流れて、疵(きず)のように小さくなり、見えなくなった。
 凡雪は視線を向けたまま、言葉を濁(だく)して呟いた。
「今、私の、心の壁に疵を刻まれたいる。恨(くやむ)という疵」 
 弾(はじ)けるような笑顔の若い店員が近寄ってきた。凡雪は口許(くちもと)を締め、椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい。ご注文は?」
 女店員は眉根(まゆね)を開いて、返事を待つ。凡雪は女店員を一瞥(いちべつ)してから、店内に視線を巡らせた。昼時だったにも拘(かか)わらず、閑散(かんさん)として、客が少ない。
「注文は、後で。もう一人が、来るので」
 女店員は「分かりました」と、すぐ身を引いて、去っていった。
 空の鉛色を集めた振興麺店の窓ガラスには、雨水の垢(あか)が不規則曲線の模様を描いている。
 凡雪の視線は、ガラスを通して、空を見据えていた。ふと、哀れな自分を想像する。
 空に垂(た)れ込んだような雲を、紙で折られた天女が風を受けて、美しく舞いている。天女が破れて、散り散り落ちた……。
「雪(シウエ)、待たせて、ごめん!」
 ふと、我に返った凡雪は、姚琴と視線を合わせていた。
「あんた、顔色、ずいぶん悪いわね」
 テーブルの前に立った姚琴は椅子を引っ張り出して、座りながら凡雪を見つめた。
 凡雪は少し緊張し、身構えた。
「お仕事なのに。呼び出して、ごめんなさいね」
「いいのよ。まだ、食べてないでしょう。ここの虾(シャ)仁(ルン)麺(メン)(剝きエビ麺)、とても美味しいのよ。一緒に食べよ」
 姚琴はすぐ店員を呼び、注文を伝えた。店員が離れると、姚琴は改めて凡雪の顔を見つめた。凡雪の口内に苦味が、じんわりと滲んできた。
 凡雪は、一度、唇を軽く噛み、静かに伝えた。
「私たち、別れたの。陳からね」
 直ぐ驚いた表情を見せた姚琴は「まさか! 早過ぎるわ」と弾けた声を出した。
 目を微(かす)かに潤わせた姚琴は、凡雪から目を逸(そ)らし、窓へ移した。
 いつか、遠い星のような澄み透った歌が、《振興麺店》に入り、流れた。
 歌手の阿(ア)蘭(ラン)が、唄った『木(モ)蘭(ラン)香(シアン)』だった。
 ♪木蘭香遮不住傷(木蘭(もくらん)の香りが、痛みを呼び起こす)
 ♪不再看天上太陽透過雲彩的光(虹(にじ)を照らす太陽は、帰らぬ過去(かこ))
 ♪不再找約定的天堂(約束の地は見つからぬまま)
 ♪借不到的三寸日光(束(たば)の間(あいだ)の幸せだった)
 ♪不再嘆你説過的人間無常(この世の無常(むじょう)を嘆く(なげく)こともなく)」
 瞬(まばた)きもせずに歌を聴(き)いている凡雪は、口腔(こうこう)内で呟いた。
「天女よ、凍(い)てつく空の直中(ただなか)まで飛んで行ってらっしゃい。心臓が停止すれば楽になるよ」
 その時、笑みを浮かべた店員が、虾仁たっぷりのっけた麺を持ってきた。
「あんな男なんて、さっさと、忘れなさい! 食べよ。食べないと、何もできないわよ」
 言葉を振るい立たせながら喋る姚琴は、素早く箸を持ち上げた。
 凡雪も少しスープを掬(すく)って口に入れ、すっと喉に流し込んだ。
 朝から何も食べてないので、すぐ胃腑(いふ)に沁みた。だが、喉(のど)元(もと)には込上がらなかった。
 凡雪は、一息を漏らして、箸を取った。

つづく