皇居内での皇族の生活や料亭での政治家の極秘会談等、一般国民にはなかなか窺い知れない世界がこの世の中には幾つも存在するが、拘置所内での死刑囚や死刑の実態というのもその1つだろう。以前、刑務官を務めていた人物の手記が発表され、それを実際に読んだのだが、想像していたのとは異なる実態に愕然としたものだった。
「週刊朝日(4月13日号)」に、この3月で静岡刑務所分類審議室長として退職された藤田公彦氏(60歳)の手記「幹部刑務官が激白① 私が押した死刑執行ボタン」が掲載されていた。藤田氏はサラリーマン生活を経て、1973年に大阪拘置所の刑務官となり、退職する迄に西日本の刑務所や拘置所を中心に勤務して来た。今回、退職を機に手記を発表したのは「刑務所、拘置所の問題になると、直ぐに死刑廃止論と結び付けられてしまう。しかし、その在り方でもっと治安や社会が変わる可能性が在る。刑務所の生の姿を語る事で理解を深め、どう変われば良いか議論して欲しい。」という思いからだとか。
死刑執行の場、即ち刑場の様子が詳細に記されている。刑場は半地下の構造で、執行ボタンを押す為に階段で刑場に下りるのだが、これが良く言われる様な「13階段」では無く、17か18段だったという。中はひんやりしていて、湿気が充満し、重苦しい雰囲気。昔の死刑囚は白装束を着用した上で死刑執行されていたが、今は普段着のままという事で、最後に御経を上げたり、キリスト教ならば御祈りをして、執行台に連行される。
死刑囚は目隠しをされ、手錠と、そして足にも手錠の様な物がかけられる。次に首にロープがかけられるのだが、ロープの継ぎ目は首の横に当たる様にするのだとか。これは死刑囚が落下した際に顔が正面を向く様にする為で、首の後ろに継ぎ目が当たると顔が横を向いてしまうという”見苦しさ”を避ける、「死の尊厳」を慮っての事。
執行ボタンは全部で5つ在り、それを5人の刑務官が同時に押すシステムになっている。どのボタンが実際に機能するかは毎回金庫の様なダイヤルで設定し直されるのだが、これは誰が”本当の執行ボタン”を押したか判らなくする事で、刑務官の精神的負担を取り除く為。死刑囚の立つ床にはエア・ブレーキのシステムが応用されており、執行ボタンが押されると空気が抜ける事で床を支えている2本の鉄棒の支えが外れ、死刑囚は落下する仕組み。それ故にボタンを押した際には、「プシューッ」という音が刑場に響き渡るそうだ。落下して来た死刑囚を受け止める為、下に刑務官が1人配置されているという話も今回初めて知った。尚、死刑囚が吊るされている時間は平均12分。死刑囚の体重によって、大体どの位で絶命するかが判るのだそうだ。
手記では、藤田氏が実際に目にして来た死刑囚の様子も記されている。
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① A元死刑囚
高度経済成長の時代、警察庁の指定事件にもなった大量殺人(8人)を為し、昭和の犯罪史にその名を残すA元死刑囚。彼は刑務官を梃子摺らせた事でも有名だったとか。昔は死刑囚ばかりを集めて教誨師等から話を聞く、極刑囚集会というものが在ったのだが、その会合でA元死刑囚は借りていた鋏の留め金を外してバラバラにした上で、気に入らない他の死刑囚の背中を突き刺すという事も在った程。普段は死刑執行の場に立ち会いたがらない死刑官が少なくないのだが、彼の執行時には「俺がやりたい。」、「吊るされたら、下から足を引っ張りたい。」と公然と口にする刑務官も居たとか。
② B元死刑囚
上記した極刑囚集会では、死刑執行の際に備えられた饅頭等の供物を皆で戴く事が在る。或る日、3人を殺害した死刑囚が死刑を執行された際、集会で供物を皆で戴いていると、B元死刑囚が「あいつは3人も殺したから仕方ない。俺は1人だけだ。」と語ったのだとか。
その後、彼は再審で無罪を勝ち取ったのだが、新聞等で「無罪」の気配が報じられ始めると、「再審が決定したら、どれ位の新聞記者が来るだろうか。」、「無罪になったらスチュワーデスと結婚する。」、「なんぼ位、金が貰えるのだろうか?」と英雄気取り。弁護士や支援者の前で「無実の罪だ!」と言いながら、刑務官の間では「あいつはやった。」というのが常識だったとか。
「24時間収容者と接している刑務官は彼等の”真の姿”が判るし、”無罪の人”ならば判る。」と藤田氏は語っている。それだけに司法の一端を担っている刑務官という立場乍ら、この時の再審無罪の報に触れた際には非常に複雑な思いが在ったそうだ。
③ C元死刑囚
罪を犯して刑務所に入っている時に奥さんと離婚、出所後に別れた奥さんと再婚した夫、そして2人の子供を殺害して死刑判決を受けたC元死刑囚。死刑執行では目隠しを拒否した上、遺言として「子供がもう1人居た。そいつを殺せなかったのが悔しい。死刑になる事ビビッてませんで。」と言い、ワッハッハァと大声で笑い執行された。「笑って執行された死刑囚は、C元死刑囚しか聞いた事が無い。」と藤田氏は語る。
④ D元死刑囚
強盗殺人で死刑になったD元死刑囚は小柄で大人しい人物で、藤田氏は何度も「本当にあんな大それた事件をやったのだろうか?」と思ったという。文鳥を2羽飼い、我が子の様に慈しんでいたD元死刑囚が死刑執行された後、後片付けの為に彼の入っていた独房に入った所、首を捻じ曲げられて死んでいる2羽の文鳥を発見し、死刑囚の冷酷さを痛感させられたという。
⑤ E元死刑囚
D元死刑囚のケースでは死刑囚の冷酷さを痛感させられた藤田氏だが、このE元死刑囚のケースでは死刑囚の「生」に対する飽く無き執念を思い知らされたという。死刑執行を言い渡すべく刑務官がE元死刑囚の元に出向いた際、それを察知した彼は「今から再審請求を出しますから。」と書類を突き出した。事前に作成した再審請求の書類に、死刑執行が言い渡されたら日付だけを書き加えて、再審請求で時間を稼ごうという魂胆。
その日は死刑囚2人の執行が午前中に予定されており、このいきなりの奇策にうろたえてしまって、誰も判断が出来ない状態に陥ってしまったが、結局は何時間遅れかで執行される事となったとか。
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今回の手記が第一弾という事で、次号以降にも一般国民が知らない世界が語られて行くのだろう。「群盲、象を撫ず」という諺が在るが、事を論じる前に先ずその実態を把握しなければならないというのは重要で、その意味からも藤田氏の手記は貴重とも言える。
尚、彼は「夕刊フジ」にも(上)・(中)・(下)と3回に分けて、同様の手記を発表している。なかなか興味深い内容なので、御時間が在れば是非読んで戴きたいのだが、特に印象に残った彼の言葉は次のものだった。
「もし死刑が廃止されたら、彼等(死刑囚)は刑務官を平気で殺傷して脱走を図る様になる。」
死刑制度に関しては人それぞれの意見が在ろうが、以前にも書いた死刑制度賛成という自分の考えは変わらないままで在る。
「週刊朝日(4月13日号)」に、この3月で静岡刑務所分類審議室長として退職された藤田公彦氏(60歳)の手記「幹部刑務官が激白① 私が押した死刑執行ボタン」が掲載されていた。藤田氏はサラリーマン生活を経て、1973年に大阪拘置所の刑務官となり、退職する迄に西日本の刑務所や拘置所を中心に勤務して来た。今回、退職を機に手記を発表したのは「刑務所、拘置所の問題になると、直ぐに死刑廃止論と結び付けられてしまう。しかし、その在り方でもっと治安や社会が変わる可能性が在る。刑務所の生の姿を語る事で理解を深め、どう変われば良いか議論して欲しい。」という思いからだとか。
死刑執行の場、即ち刑場の様子が詳細に記されている。刑場は半地下の構造で、執行ボタンを押す為に階段で刑場に下りるのだが、これが良く言われる様な「13階段」では無く、17か18段だったという。中はひんやりしていて、湿気が充満し、重苦しい雰囲気。昔の死刑囚は白装束を着用した上で死刑執行されていたが、今は普段着のままという事で、最後に御経を上げたり、キリスト教ならば御祈りをして、執行台に連行される。
死刑囚は目隠しをされ、手錠と、そして足にも手錠の様な物がかけられる。次に首にロープがかけられるのだが、ロープの継ぎ目は首の横に当たる様にするのだとか。これは死刑囚が落下した際に顔が正面を向く様にする為で、首の後ろに継ぎ目が当たると顔が横を向いてしまうという”見苦しさ”を避ける、「死の尊厳」を慮っての事。
執行ボタンは全部で5つ在り、それを5人の刑務官が同時に押すシステムになっている。どのボタンが実際に機能するかは毎回金庫の様なダイヤルで設定し直されるのだが、これは誰が”本当の執行ボタン”を押したか判らなくする事で、刑務官の精神的負担を取り除く為。死刑囚の立つ床にはエア・ブレーキのシステムが応用されており、執行ボタンが押されると空気が抜ける事で床を支えている2本の鉄棒の支えが外れ、死刑囚は落下する仕組み。それ故にボタンを押した際には、「プシューッ」という音が刑場に響き渡るそうだ。落下して来た死刑囚を受け止める為、下に刑務官が1人配置されているという話も今回初めて知った。尚、死刑囚が吊るされている時間は平均12分。死刑囚の体重によって、大体どの位で絶命するかが判るのだそうだ。
手記では、藤田氏が実際に目にして来た死刑囚の様子も記されている。
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① A元死刑囚
高度経済成長の時代、警察庁の指定事件にもなった大量殺人(8人)を為し、昭和の犯罪史にその名を残すA元死刑囚。彼は刑務官を梃子摺らせた事でも有名だったとか。昔は死刑囚ばかりを集めて教誨師等から話を聞く、極刑囚集会というものが在ったのだが、その会合でA元死刑囚は借りていた鋏の留め金を外してバラバラにした上で、気に入らない他の死刑囚の背中を突き刺すという事も在った程。普段は死刑執行の場に立ち会いたがらない死刑官が少なくないのだが、彼の執行時には「俺がやりたい。」、「吊るされたら、下から足を引っ張りたい。」と公然と口にする刑務官も居たとか。
② B元死刑囚
上記した極刑囚集会では、死刑執行の際に備えられた饅頭等の供物を皆で戴く事が在る。或る日、3人を殺害した死刑囚が死刑を執行された際、集会で供物を皆で戴いていると、B元死刑囚が「あいつは3人も殺したから仕方ない。俺は1人だけだ。」と語ったのだとか。
その後、彼は再審で無罪を勝ち取ったのだが、新聞等で「無罪」の気配が報じられ始めると、「再審が決定したら、どれ位の新聞記者が来るだろうか。」、「無罪になったらスチュワーデスと結婚する。」、「なんぼ位、金が貰えるのだろうか?」と英雄気取り。弁護士や支援者の前で「無実の罪だ!」と言いながら、刑務官の間では「あいつはやった。」というのが常識だったとか。
「24時間収容者と接している刑務官は彼等の”真の姿”が判るし、”無罪の人”ならば判る。」と藤田氏は語っている。それだけに司法の一端を担っている刑務官という立場乍ら、この時の再審無罪の報に触れた際には非常に複雑な思いが在ったそうだ。
③ C元死刑囚
罪を犯して刑務所に入っている時に奥さんと離婚、出所後に別れた奥さんと再婚した夫、そして2人の子供を殺害して死刑判決を受けたC元死刑囚。死刑執行では目隠しを拒否した上、遺言として「子供がもう1人居た。そいつを殺せなかったのが悔しい。死刑になる事ビビッてませんで。」と言い、ワッハッハァと大声で笑い執行された。「笑って執行された死刑囚は、C元死刑囚しか聞いた事が無い。」と藤田氏は語る。
④ D元死刑囚
強盗殺人で死刑になったD元死刑囚は小柄で大人しい人物で、藤田氏は何度も「本当にあんな大それた事件をやったのだろうか?」と思ったという。文鳥を2羽飼い、我が子の様に慈しんでいたD元死刑囚が死刑執行された後、後片付けの為に彼の入っていた独房に入った所、首を捻じ曲げられて死んでいる2羽の文鳥を発見し、死刑囚の冷酷さを痛感させられたという。
⑤ E元死刑囚
D元死刑囚のケースでは死刑囚の冷酷さを痛感させられた藤田氏だが、このE元死刑囚のケースでは死刑囚の「生」に対する飽く無き執念を思い知らされたという。死刑執行を言い渡すべく刑務官がE元死刑囚の元に出向いた際、それを察知した彼は「今から再審請求を出しますから。」と書類を突き出した。事前に作成した再審請求の書類に、死刑執行が言い渡されたら日付だけを書き加えて、再審請求で時間を稼ごうという魂胆。
その日は死刑囚2人の執行が午前中に予定されており、このいきなりの奇策にうろたえてしまって、誰も判断が出来ない状態に陥ってしまったが、結局は何時間遅れかで執行される事となったとか。
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今回の手記が第一弾という事で、次号以降にも一般国民が知らない世界が語られて行くのだろう。「群盲、象を撫ず」という諺が在るが、事を論じる前に先ずその実態を把握しなければならないというのは重要で、その意味からも藤田氏の手記は貴重とも言える。
尚、彼は「夕刊フジ」にも(上)・(中)・(下)と3回に分けて、同様の手記を発表している。なかなか興味深い内容なので、御時間が在れば是非読んで戴きたいのだが、特に印象に残った彼の言葉は次のものだった。
「もし死刑が廃止されたら、彼等(死刑囚)は刑務官を平気で殺傷して脱走を図る様になる。」
死刑制度に関しては人それぞれの意見が在ろうが、以前にも書いた死刑制度賛成という自分の考えは変わらないままで在る。
そりゃ目の前で執行などを見たらこんなことは言えないかも知れませんが。
この間、年老いた受刑者に外の世界より手厚い看護をしているところをTVで見ましたが、それも何か変だと思いました。もっといろいろ見て、考えなければならない問題でしょうが、一般人の女性の考えはこんなものじゃないでしょうか。
他者を殺めたという事実は何等変わりが無く、等しく法に基づいて厳粛に裁かれる可きとは思うものの、幼児期より親から虐待され続けた挙句に、その親を殺害してしまった子供なんていうのは正直同情の思いが湧いてしまいます。又、方向違いの逆恨みなのは頭で判っていても、元死刑囚にして手記「無知の涙」を発表した故・永山則夫氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB)等にも複雑な思いを持っております。
唯、一般的には他者の生命を理不尽&残虐に奪った人間に対しては、同じ死を以って罪を償うというのが自分は正しい在り方ではないかと思うのです。「複数人を殺害しなければ死刑にならない。」なんて”暗黙の了解事項”はどうしても納得出来ないし、「1人の生命を奪ったら即死刑。」でも良いとすら感じています。勿論、先に記事にした「”殺害教師”事件」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/e1297b5e7581b398933d00dae792fedd)の様な冤罪”とも思える”事件も在りますので、その調査は充分&慎重に行なわなければならないというのは言う迄も在りませんが。
とくに今後、海外からの移民・不法滞在者が増えてくると、凶悪な強盗殺人事件も増加するわけで、それら悪人たちを死刑によって「片付けて」いかなければ、国家財政は破綻してしまいます。
ところで死刑とは国家の暴力ですね。
拘置所という所とは無縁に生きているふつうの人間にとっては、凶悪な殺人犯が死刑に処され、この世から消えていくことを、当たり前のように考えていますが、もしも死刑執行の任務についたら、と思うと、誰だって死刑というものを真剣に考えざるをえないのではないか等と思いました。
すなわち死刑囚の様々な生態、死を前にしての様々な人間的反応をこの目で見ながらも結局は、国家の暴力装置の歯車として、執行ボタンを押さなければならない。いったい自分はどんな死刑囚に対しても冷静沈着に執行ボタンを押せるのか。死刑囚の一人がどう見ても冤罪に見えるという場合に、その人を死刑に処する自分とはいったい何なのか。これは戦場という異常な状況において、目の前に現れた敵兵の、恐怖に怯えた表情を見ながら、彼を撃ち殺すことはできるかという問題と同じです。
ここは国家の歯車になりきって執行ボタンを押さざるをえない、というのが常識的な答えでしょうか。例え死刑囚が自分の親であってもです。
しかしそこまで自分は国家という怪物に忠誠を尽さなければならないのか、という問題が出てくる。執行ボタンを押したくないなら、押すことを拒否する生き方もあるのじゃないかと。
もちろんそれは軍隊からの脱走と同じく相当な責任を伴うわけですが。
死刑廃止論とは「みんな執行ボタンを押すことをやめましょう」ということで、これは一番安易な、逃げの議論です。そんなことでこの世の中の矛盾が解消されるわけがない。
最終的には何らかの「暴力」によってしか凶悪犯は始末できません。
で、今のところ国家にかわる暴力のシステムはなさそうです。他にあるかな?
ちなみに拙は死刑廃止でよいと思います。
その代わり『仇討ち』を合法化せよ、と。
死刑は国家による(国家誕生以前からある)復讐権の纂奪です。我々には復讐する権利があるはずです。
他人任せが『民主主義』でないとするなら、自分でボタンを押すことに迷いがあろうはずがないのではありませんか?
私は被害者家族の救いになるのであれば 賛成です。残りの命を家族の手にゆだねる形での死刑制度なら意味はあるのでは、、、
国の判断による死刑には 大反対です
特に国益、たとえば国家反逆とか要人を狙うなどは論外です!!
「人を一人殺害しただけでは死刑にならない。」といった”暗黙の了解事項”が在りました。もし自分の身内が理不尽且つ残虐な形で殺されたとしたら、とてもこんな事は受け容れ難く、加害者の死を以って償って欲しいという気持ちが在ります。全ての被害者家族が同じ思いとは言いませんが、そう思われる人は少なく無いのではないでしょうか。死刑は復讐刑に過ぎないと言われますが、それは確かにそうだと思いますし、そうで在って良いと自分は”感情”から思います。これは理屈とか理論じゃないんですよね。
唯、上記(マヌケ様宛てのレス)しました様に、情状酌量の余地が在るケースも無い訳では無く、その場合には死刑の適用に躊躇を覚えるでしょうね。それに独裁国家で在りがちな、為政者の都合によって死刑が適用されるというのは、自分も断固として反対です。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
被害者1人でも動機が身勝手なら死刑にしてほしいです
被害者は強盗目的、強姦目的で殺され、全裸にされ山中に捨てられても死刑にならないと言う異常な判決。
殺された人がどれだけ苦痛、恥辱を味わって殺されたか考えるとそういう凶悪事件は必ず被害者1人でも死刑が妥当
人を殺した時点で人間ではなくモンスターです
モンスターに人権は無い
法治国家で在る以上、どんな人間で在っても「人権」は等しく尊重されなければならないと思っています。其れが「殺人者」で在っても同様で、「犯罪の内容」によって「人権」がどうこうと言う事になってしまうと、時の為政者の判断によってどうこうと言う事に繋がり兼ねないからです。
「命を奪う。」という行為は、非常に重い事で在り、“原則としては”「1人の命を奪ったら、其の実行犯は死刑。」で在るべきと考えます。まさ丸様が書かれている様に「理不尽な理由で、罪の無い人を殺した。」場合なんぞは、死刑にならないのが理解に苦しむ。「情状酌量」というのは考慮されるべき概念ですが、「理不尽な理由で、~」というのは全く当該しないと思っていますので。
今後とも、何卒宜しく御願い致します。