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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その5 「大貫駅跡付近の線路跡です!!」

2014年11月06日 | 大洗巡礼記

 大貫駅跡の駐車場の脇には、当時の塀の一部が草に覆われて残ります。この塀が軌道跡の端にあたることは間違いないので、杭なども残っているのかなと思って探してみたところ、一本を見つけました。


 この杭には「水」の字が読めました。大部分は埋まってしまっているようです。


 大貫駅跡の駐車場です。路地道の向こうのオレンジ色の建物は、かつての「日の出屋商店」つまり現在の「お好み焼き道」です。


 駐車場から軌道跡を振り返りました。


 「茨城交通水浜線」に掲載されている、当時の大貫停車場の写真です。駅舎もあって「電車バス待合所」の看板がみえ、バスも発着していたことがうかがえます。当時のバス路線の一部は、現在の町内循環バス「海遊号」のルートに継承されていると聞きました。


 現在の大貫駅跡付近です。道も少し拡張されていて、踏切が存在した痕跡すらとどめていません。「お好み焼き道」の角の街灯には、本来の屋号「日の出屋」の看板もあります。


 駐車場から南へと続く道路を見ました。この道路も軌道跡です。奥にはマリンタワーが見えます。


 この辺りは多くの民家が一新されていて、道路も拡張されて側溝は暗渠となり、廃線跡の風情は微塵もありませんでした。


 ただ、右手にある長屋風の古い民家が、水浜線の古写真に見られた三角屋根をそのまま保って残っていました。僅かに残る景観の一部です。


 軌道跡は、「なめや旅館」の横を通っていました。宿を経営しておられるお婆さんが、当時の事をよく知っておられるのではないかと思いましたが、お話をうかがう機会には恵まれませんでした。


 「なめや旅館」の角から道と軌道跡とに分かれるので、道幅が広くなります。左に広がっている部分が軌道跡と思われます。


 現在は左へ曲がる車道となっている部分が、軌道のカーブ跡です。当時はすぐそばまで海岸線の砂浜が広がっていましたから、水浜線は海岸ぞいに走っていたことが古写真からもうかがえます。


 海岸ぞいに走っていたルートは、広い車道に転じていました。


 港湾整備事業にともなっての交通再整備計画の一端として、この道路も改修されて拡張されたと聞きました。軌道跡の雰囲気は完全に失われ、杭などの遺物すら見当たりませんでした。


 ゆっくら健康館の北の信号交差点です。このあたりの緩やかな曲線は、かつての海岸線のラインの名残りのようです。


 ひたすら道路脇を探しながら歩きましたが、遺物らしきものは何も見つけることが出来ませんでした。


 まっすぐ進むと曲松駅跡に行きますが、どこをどう見ても、廃線跡の雰囲気は感じられませんでした。


 今回の探索範囲を地図上にまとめました。遺物も少なく、軌道跡のカーブが僅かに痕跡をとどめている程度でした。町内で最も再開発や道路整備の進んだエリアなので、廃線跡を含めた昔からの地形そのものが失われているからでしょう。 (続く)

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4 コメント

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初めまして (吉野直也)
2014-11-07 00:29:40
初めまして、大洗探索の記事、毎回読ませて頂いております。

水浜線については高校時代(実は茨城出身です)に
水戸市立博物館で開催された展示会で初めて知ったのですが
去年2月に大洗に行ってから、近年まで大貫電停の駅舎が残っていたと言う事を知りまして
高校時代に行っていればと後悔したものでした。
今年のGWに電停跡向かいの金子屋薬局さんを尋ねた際にお話を伺った所
駅舎の方は先代さんが物置替わり使われていたと言う事をお話されていました。
またこの記事にあります水浜線本から引用された
大貫電停の写真内右側に「ミカド」と言う看板が写っていますが
金子屋さんによると今で言う立ち食い蕎麦屋だったそうで
水浜線全廃後の昭和45年頃に店じまいされたと・・・
お向かいさんの(恐らく)車庫として現存しております。

それと「大洗を行く11-1」にて触れられていた涸沼川橋梁ですが
ヴィンテージクラブむらいのマスターさんに
当時撮影された写真を見せて頂いた事がありますが
大洗町側は築堤・・・盛土して橋梁までの高さを合わせていたそうです
詳しい事は、もしかするとお持ちかも知れないかとは思いますが
江口さんのお店で扱っている自費出版本「水濱電車」で詳しく解説されておりますので、興味がありましたら・・・

最後になりますが、長文失礼致しました(謝)
返信する
水浜線 (ホシノ)
2014-11-07 10:17:57
いつも読んで頂き有難うございます。
大貫電停の駅舎が残っていたというのは「お好み焼き道」の先代さんにも伺ったのですが、詳しい状況まではお聞きしていないので、今回の御教示は大変参考になります。
「ミガド」が蕎麦屋だったというのは存じておりまして、その建物が現在は隣の民家の納屋として使用され現存しているのも確認しています。
涸沼川橋梁の大洗側はやはり築堤でしたか。いまの地面の高さが当時の橋梁の高さより低い位置にあることは分かっていたので、盛り土でもしないと線路が敷けないだろうな、とは感じておりました。その痕跡みたいなのが北側に段差のようになって残っていたと思います。宅地の地表面にも高低差がありますので。
自費出版本「水濱電車」ですが、これは江口さんに「これを読むのは廃線跡を実際に歩いてからにしたほうが良いよ」と言われました。なので、本そのものは存じておりますが、まだ購入していません。次の大洗行きの際に入手しようと思います。
返信する
遅くなってしまいましたが (吉野直也)
2014-11-15 23:41:17
こんばんは、お返事を頂きまして有難うございます。

「ミカド」の方はご存知でしたか
あの日、金子屋さんを辞した後
偶然シャッターが開いていて「ミカド」の中を目にする事が出来たのですが
確かにコンクリートの床に店舗だった頃の痕跡を微かに感じる事が出来ましたが
無くならないうちに持ち主の方からお話を伺ってみたいものです。

それで旧大貫電停の建屋ですけども、ここに貼るのは控えますが
95年頃に水浜線跡を探索された方の写真をWeb上で見る事が出来ますので
「水浜線 大貫」で検索を掛けてみると良いかと思います。
次に涸沼川橋梁ですが、念の為に国土地理院HPにある「地図・空中写真閲覧サービス」で
公開されている航空写真を見たのですが
昭和50年頃に撮影された写真で築堤を崩している様子が写っていますね
大洗・常澄側共に築堤がありましたが、大洗側の方が高い築堤であった様です
元々の土地の高低差と言うのも関わっているのでしょうね。

あと次項「11-6」内で水浜線に関する公刊資料の事に触れられておられますが
自分自身、同人誌の記事製作の為に国会図書館にて水浜線についての文献を探して調べておりますが
大洗町史よりも、現在水戸市の一部となっている常澄村史の方が少し深く触れておりましたね・・・
双方の刊行年や編纂者の考えの相違があるのかなと思います。
余談ですが、茨城交通の社史は国会図書館に納本されていない様なので
茨城県立図書館であれば確実に閲覧が出来る様です。
「水濱電車」は水浜線について、あそこまで濃縮された本はないですよ・・・江口さんではないですが、お勧めです(笑)

余談ですが、先日購入した昭和40年代の路面電車写真と現在の写真との定点観測本で
水浜線のカラー写真が掲載されておりましたが
以前ほんだ食堂のご主人に教示頂いた「若竹色」はこういう色だったのかと言う事を
先人の写真で再確認出来ました・・・雰囲気的には京阪電車の一般車の先代塗装を薄くしたような感じかと
誌名は「カラーで見る懐かしき鉄道シーン2 首都圏を往く路面電車」です。

最後になりますが、もし大洗訪問の際に時間がありました際は
旧常澄村内の平戸と水戸市内の浜田に残る水浜線の痕跡も訪ねて見て頂ければと思います
何気にGoogleアースに写っているのですよ

また長文、失礼致しました。
返信する
昔の航空写真 (ホシノ)
2014-11-16 00:28:59
吉野さん、こんばんは。
涸沼川橋梁の築堤、「地図・空中写真閲覧サービス」で御覧になられましたか。私も各時期の航空写真で水浜線の位置を確認していたのですが、昔の航空写真というのは本当に貴重な資料ですね。

常澄地区へは二度ほど出かけておりまして、涸沼川を渡った時点で常澄側がやや高いということは実感できました。
現に、県道2号線涸沼橋のルートでも大洗側は土盛りをして坂道を構築していますので、ああいう感じだったんだろうな、とは思いました。
以前に、平戸にある戦国期の城館遺跡を訪ねたことがあり、その際に移動した道が、水浜線の軌道跡でしたので、途中の痕跡などの一部も見ました。

例の本「水濱電車」ですが、昨日、江口又進堂にて読みました。江口さんが言うには「この著者は伝聞だけをまとめていて自分の足で歩いて確かめるという検証をやっていない」ということでした。

京阪電車の一般車の先代塗装を薄くしたような感じ、と聞くと私自身はなぜかかつての叡山電鉄の色を連想してしまいます・・・。ああいう若竹色の色調は戦時中の中島飛行機の機内塗装色に近いなあ、と思ったことがあります。

茨城交通の社史が茨城県立図書館にあるとは知りませんでした。次の機会に閲覧してみたいと思います。

今回も色々と貴重な御教示をいただき、大変参考になりました。長文は読みごたえがあって楽しいです。
どうも有難うございました。
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