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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その7 「発掘された堀切です!!」

2014年12月20日 | 大洗巡礼記

 大貫台地上には、いくつかの「首切り山」がありますが、西光院裏手を過ぎてから右手に見えてくる、上写真の低い丘などは、木が全て伐採されているため、異様な存在感を放っていて遠くからでも目立っていました。


 振り返って右手を見ると、西光院裏手の竹藪が横たわっていました。この竹藪がかつては丘陵上の雑木林に繋がっていて、そのなかを通る道も昼なお薄暗い、不気味なところだったそうです。


 道は、やがて二手に分かれます。現在は左がメインルートになっていますが、かつての街道筋は右の細い道なので、迷わず右に進みました。


 まもなく国道51号線との信号交差点に出ました。この交差点をまっすぐ進んで向こうの道へ渡りました。


 道は最近に新設されたばかりで、歩道も完備した広い車道でした。この道路の延長計画というのが、問題の道路工事にあたるわけです。右手に広大な敷地を構える「千代田テクノル」は、大洗の夏海にある原子力施設にも関連事業所をもつ原子力事業関連の企業で、基盤事業として研究開発事業、線量測定事業を行っているそうです。
 その施設敷地の決定に伴い、当該地区の発掘調査が行われ、縄文時代の貝塚や戦国期の城郭遺跡などが検出されました。一帯の字名が「常福寺」であるため、「常福寺遺跡」の名称で知られています。


 車道は「千代田テクノル」の敷地の端に合わせて切れており、そこから先は飛城遺跡および登城遺跡と呼ばれる中世戦国期の城郭遺構の範囲となります。その範囲を分断する形で車道の延長計画があり、すでに重機が入って工事用の仮道を築きにかかっていました。
 上写真に見える、仮道の盛り土の下には広い谷間があり、一部は城郭の堀切に繋がっていたのではないかと思われましたが、その肝心な場所を埋め立てにかかっているのでした。

 現場に居た三人の工事関係者に挨拶して来意を告げると、今日は工事前の現状撮影作業だけですので、と教えられ、工事現場への立ち入りも快く許可していただきました。一人は工事の監督者の方で、道路計画の概要を説明して下さいました。それによると、城郭遺跡の南側の東寄りにある平坦面まで地山を削って下り坂の道路を約400メートルほど作るということです。その先は未定だ、ということなので、どこかの道路へ繋いで開通させるというような内容の道路新設ではなく、単なる延長のようでした。
 その、単なる道路延長のために、大洗の貴重な文化遺産である城郭遺跡を潰すのか、と暗澹たる思いに沈まずにはいられませんでした。


 とりあえす、発掘調査が実施された範囲を見学するべく、「千代田テクノル」の敷地の端にそっている農道へと降りることにしました。その農道は、かつての堀切の跡で、その一部にトレンチを入れて遺構を確認したのが、この秋の発掘調査の中身でした。


 トレンチの北側に回って、トレンチ全体の規模を見ました。約20メートルぐらいの長さで堀切跡に堀り込みを入れ、戦国期の地表面まで堀り下げてありました。堀底まで3メートル以上はありましたが、現状の農道の地面も2メートル余りの深さにあるのて、戦国期の堀底面との差は50センチぐらいのようでした。つまり、堀切の底を農道にしたためか、そんなに埋まっていなかったことになります。


 トレンチの南側に回りました。上写真の奥に見えるのが、今回利用した榎澤輪業商会さんのレンタサイクルです。その大きさと比較すれば、トレンチの規模や深さが分かるでしょう。堀切は箱型のタイプで、両側の地面をほぼ縦に掘り込んで2メートル余り下まで急斜面を形成してありました。


 トレンチの南端の内部を上から見下ろしました。落ち葉が積もっている地面が戦国期当時の地表面であり、現在の地表面からは約150センチほど下に位置しています。断面を観察すると、地層面が少なくとも五つあり、城郭遺跡が後世に農地として利用された時期の堆積層とみられます。下から二番目の層は分厚いので、城郭を埋めてしまう、いわゆる破城の行為による層かもしれません。

 破城、というと、石垣造りの城では石垣を崩したり堀を埋めたりする作業を指しますが、それ以前の戦国期までの城郭は土造りなので、土塁を壊して堀を埋め、建物や柵などを撤去する作業になります。なかでも堀が防御のメインなので、堀を埋めるというのが、戦国期までの城郭の廃止方法の中心であったわけですが、ここでもそういった痕跡が残されているのかもしれません。
 ですが、堀切そのものは埋められずに後世に農道として利用され、現在もそのまま歩いて移動出来ますから、破城の行為があったとしても、城郭全体を完全に埋めてしまうまでには至らなかったのかもしれません。


 トレンチの中に降りて、戦国期の地表面に立ちました。積み重なった地層が、戦国期以降の長い歴史の流れを語りかけてくるようでした。それぞれの地層は土の色も少しずつ異なっているので、それぞれの時期に地形の改変などがあったのかもしれません。


 トレンチからいったん外に出て、堀底面を見下ろしました。下に見える赤いカラーコーンまでの高低差だけでも3メートルはあるので、相当な規模の堀切だということが改めて実感出来ました。近畿地方の中世城郭ではこれだけの規模の堀は稀ですが、この程度の堀切は関東地方ではざらにあるそうです。


 ほぼ縦に堀り込まれた様子がよく分かります。堀底面に一度降りてみて、そこから戦国期の地表面に上がろうと試みましたが、深さが2メートル近いうえに傾斜面が垂直に近いので、踏み台などが無いと上がることが出来ません。深く掘った堀切の防御効果が良く分かります。


 トレンチから西へは、堀切跡が農道または山道となって奥へ続いています。つまり、全面的に発掘すれば、現状よりも一回り大きな箱堀の姿が現れるわけです。左右の傾斜面はかなり埋まっているようですが、農道面と堀底面との高低差はそんなにないので、深さに関しては現状でもあんまり変わっていないということが出来るでしょう。


 トレンチ付近より東側を見ました。御覧のように盛り土がされて仮道が築かれています。従来の地表面が窪んでいたために盛り土をして平らに均してあるわけですが、その窪地が東の谷間に繋がっていたのですから、東の谷間もかつては堀切の一部であった可能性が高いです。ただ、まっすぐに繋がるのではなく、右に一折れして谷間に続いていたような形跡があります。その重要な地点を、重機で埋め立ててしまうのですから、行く機会がもう少し遅れていたら、堀切の屈折のポイントすら分からなくなってしまっていたに相違ありません。

 だから、工事等によって破壊消滅の運命をたどる遺跡には、何がなんでも機会を捉えて出来るだけ早く見学に行かなければならないのです。


 いずれにせよ、今回は工事着手の直前というきわどいタイミングで遺跡を訪れることが叶いました。もう破壊されて埋められているかもしれない、と何度も心配しただけに、なんとか間に合った、という思いが強かったです。トレンチも見ることが出来たし、堀切全体の状況もおおよそつかめました。トレンチから南側は以前の発掘調査区域に含まれるので、昨日役場にていただいた報告書の図面にて詳細を知ることが出来ます。

 問題は、発掘調査区域の外側です。この城郭遺跡における発掘調査区域は東側のみであるので、西側は未調査のままです。その西側へ行くには、トレンチから西へ続く農道をたどるのが早道になります。
 それで、この農道を行けるところまで辿ってみることにしました。かつては巨大な堀切の底であったところなので、そのラインを見失わずに見てゆけば、この城郭遺跡の西側の防御線をこの目で確かめることが出来るわけです。大洗町では完全に忘れ去られている、中世戦国期という歴史のドラマチックな実態を目の当たりに出来るわけです。
 それが、今回の大洗行きの主目的でしたから、いよいよだ、と胸の高鳴りを覚えずにはいられませんでした。 (続く)

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2 コメント

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行政ってやつは・・・ (おかあき)
2014-12-21 19:32:25
そのものの価値より、目の前のお金に注目してしまう。
後になって後悔しても、手遅れなのに・・・悔しいですよね。

堀切って、防衛用に掘ったものですよね?
風雪によって溝が埋まってしまうと思うのですが、まめに堀りなおしたりして、メンテナンスしていたのでしょうか?
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堀切 (ホシノ)
2014-12-21 20:41:12
堀切はもちろん防御用に設けたものですが、通路として機能した例もあり、その場合は堀底道と呼ぶこともあります。
大部分は風雪で埋まってしまって痕跡がかろうじて見えるケースが多いですが、道として再利用された場合は、あんまり埋まらずに形をとどめているのが普通です。掘り直したというより、人が通ったりしていれば、あんまり埋まらないんです。長年の間の流れ土などで少し埋まるという程度ですね。
茨城に限らず、関東地方の中世城郭は堀が巨大な例が多いので、見応えがあります。

おかあきさんは山登りに目覚められたようですが、戦国の城跡巡りというのは大体山登りを伴うので、私は奈良県や近畿各地の城のある山に多く登っています。大洗の城跡はみんな低地にあるので、山登りは必要ありませんが、城跡の濃厚な歴史的かつ非日常の空間はどこでも一緒です。
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