5枚の新規パネルの設置場所が全て判明したので、道を引き返しました。白壁土蔵群の横の道も閑散としていて、観光客の来訪が昼過ぎにいったん途絶える状態がこの日も見られました。お昼時になると、食事処に乏しい町並みエリアには人影がまばらになります。
芽兎めうは、この日も元気でした。めうー。
倉吉博物館に入りました。時間がないので、常設展示のうちの歴史関連のみを概観するにとどめておきました。
倉吉の古絵図の模写を見ました。上図は打吹山城の部分で、「御城山」とあって東西南北の規模や城域の範囲などが記されています。城跡探査の第一歩は、こうした古絵図にて城跡の記載を確かめることです。
このような江戸期の絵画資料における城跡への認識や描写が、現在において遺跡を見学する際に重要な参考情報となります。
同じ絵図の、鳥取藩倉吉陣屋の描写です。「御屋敷」とあるように、実態は武家屋敷の形式にとどまっていたようです。石垣の上に長屋門と多聞櫓を構え、主殿と付属建築二棟が描かれますが、いずれも屋根は瓦を用いなかったようで、主屋はおそらく杮葺き、あとは藁葺きであったような描写です。
一般的に、江戸期の絵図は記録として扱われることが多かったため、建物や道路などの表現は誇張を避け、実際の様子を忠実に描いているケースが殆どです。陣屋と呼ぶには程遠い簡素な構えに、倉吉を治めた荒尾志摩家の質素な家風が偲ばれて興味深いです。
打吹山城の西麓の大手に伽藍を構えた長谷寺の描写です。「頼トモノ建立」とあるのは、寺が鎌倉初期に幕府の援助によって再興された事情を示しています。この場合、寄進者には当時の施政者の名を記すのが普通なので、「頼トモ」は源頼朝を指します。
本堂の屋根が宝形造で茶色に表される点や、懸造りの構えなどは、いまに現存する建物の姿とほぼ一致しています。室町期に建てられた本堂が、江戸期に今の姿に整備された様子がうかがえます。当時は本堂正面に藁葺きの前殿または向拝がつけられていたようです。
別の古絵図では、街区から見た打吹山の景観が描かれます。右手(西側)の中腹に長谷寺の境内地が見えますが、その境内地にひときわ高くそびえる大樹は、その後失われたようで、現在は見ることが出来ません。
手前に広がる民家群は、現在の東岩倉町辺りに相当します。その中を流れる川は、玉川のようです。それにしては橋の描写が立派なので、玉川ではなくて別の大きな川かもしれません。
これは、古代の伯耆国庁の全体図です。現在の国庁裏神社の境内地の西に中心区域が確認されており、一帯は史跡に指定されています。
古代の伯耆国の郡名です。現在の倉吉市域は、かつての久米郡に大部分が属していたことが分かります。久米郡の名は、明治29年まで続きました。
そして久米郡には、主に10の郷が配置されていたことが「和名類聚抄」の記載からうかがえます。古代の主要遺跡は国府川流域に沿って点在しており、古代の交通路と街区と寺院が国府川沿いの街道に沿って分布した様子が分かります。
この状況が中世期になると小鴨川の流域に移行し、やがて山名氏の支配化における田内城下そして打吹山城下の開発発展へとつながりました。
午後一時前に博物館を辞し、市役所横の観光駐車場にてTさんと合流し、観光交流課での意見交換会に臨みました。小一時間ほどにわたって「ひなビタ」イベントに関する企画部および観光交流課の担当者の説明などを受け、幾つかの質疑応答を重ねました。その時点での市当局のスタンスがよく理解出来、とても参考になりました。
その詳細については、言い出しっぺのTさんが公表を避けるという方針であるため、私もそれに従うことにしました。その代りに、意見交換会の内容を契機としてのガルパン大洗行きをTさんに提案し、9月上旬に実現することになりました。その経緯に関しては、後日、大洗巡礼記にて綴ることにします。
以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6」のレポートを終わります。