字後新古屋の城館遺跡の次は、その北隣の尾根にある龍貝館跡に行きました。両者は直線距離で約200メートル余りしか離れていませんが、道がなく草薮だらけの谷間に隔てられています。城ファンや研究者は藪をかき分けてでも最短距離をゆこうとする傾向がありますが、私たちは安全な農道からのアクセスを選びました。
そこで、日照プラントの斜め向かいの農道入口まで引き返して車道に戻り、そこから鹿島臨海鉄道の高架に向かって約60メートルほど進んだ左手の脇道に入りました。上写真のように、入口には不法投棄を禁止する旨の立て看板が立てられています。
この農道は、字後新古屋の城館遺跡への農道よりも下草が多く、最近はあまり使われていないという雰囲気がありました。轍の跡を走っていても、草や石などでタイヤが時々横滑りしそうになったりするのでした。
農道は、上写真のような感じでずっと続いていました。こちらは道端に廃棄ゴミが余り見当たらないので、そのことを言ったら、「甘いな、不法投棄はもっと目立たない林の中とか湿地とかを探してこっそり行われてるのが普通だから、こういうあけっぴろげな所ではやらないよ。あと、軽トラでゴミを運んで行くんだから、こういう幅ギリギリの一本道ではまずやらない。近くに車を転回させられるぐらいのスペースがあることが条件だな」と答えてきたU氏でした。
その言葉通り、少しゆくと道端の湿地帯や山林内に目を覆うばかりの大量の産業廃棄物や家電ゴミが散乱していて、その先の池の脇には車を転回させられるぐらいのスペースがありました。池にはカモの群れが居ましたが、あっカモさんチームだ、などと楽しく冗談を言ったりしている場合ではありませんでした。池脇のスペースには、最近に車が転回した痕跡が轍となって残っており、近くには真新しい冷蔵庫が四つも捨ててありました。
「これが大洗町の実態なんだよ。不法投棄の聖地、ってな。イベント等で集まって騒いでるガルパンファン、大洗に魅せられて毎週のように来ているリピーターの人達も、こういう痛々しい現実については知らないままなんだよ」
「・・・・・・」
「聞いた話では、ガルパンファンの一部が大洗で色々と清掃活動などをやっているそうだが、街中や海岸で小さなゴミだけ拾って満足してるようじゃ話にならんぞ。本当に大洗のためを思ってくれているのであれば、まずは何十年も続いている不法投棄のゴミ問題にも向き合って、こういうゴミも撤去して掃除するという試みもあっていいんじゃないかな」
「・・・・・・」
「こういう現状は、大洗の行政がゴミ問題を長く放置してきたことに原因があると、この辺りの地域住民はみんな知ってる筈だよ。ガルパンの商店街の皆さんもおそらく知ってるはずだよ。何度も社会問題になってるんだから。でもガルパンブームで大勢がやって来て盛り上がっているなかでも、こういうゴミの問題については全く触れられていないし、だれも声を挙げようとしない。行政側もこういうマイナス的な部分は隠しちゃうんだろうな。そういう風潮が、一部の不法投棄の輩をつけあがらせているのも事実だな」
いつになく怖い表情で真剣に述べるU氏でした。その通りだという実感が、眼前のゴミの山を通して強く私の心にも刻まれました。最近は警察も取り締まりを強化しているそうですが、まだまだ根絶には至っていないのが現状のようです。
ゴミの散乱しているすぐ横にも農地がありましたが、近くの湿地には廃油も浮いていたので、耕作環境としては問題があるように思えました。車を転回させられるぐらいのスペースは、本来はこの農地での作業用として設けられたのだと分かりました。
なぜかというと、その先の農道は、完全に使われていないような感じで、ここしばらく車も通っていないと分かるほどに草に覆われつつあったからです。この先にはもう投棄ゴミはないだろうな、と背後でU氏が呟きました。
それからは自転車で普通には走れず、降りて自転車を草薮に突っ込むようにして押してかき分けつつ、歩いて進みました。左手は薄暗い山林でしたが、右手は上写真のように荒廃した農地跡が広がっていて、全てが自然に還りつつあるといった雰囲気でした。
ゴミ問題のことが頭に重くのしかかってきたこともあり、しばらく無言で歩いていたので、後ろでU氏が「おい、どうした?この道で合ってるのか?大丈夫か?」と心配して声をかけてきました。それほどにすさまじい草の繁茂で道が覆われていたからです。しかし、地図で事前に確かめても、この農道以外に道が存在しないので、間違いようが無かったのでした。
100メートルほどは背丈ほどもある草薮の中を進み、それから竹林と植林地域のなかに出ました。道はゆるやかに左へカーブしたのが急に右に曲がっていて、尾根先端が張り出していることをうかがわせました。農道入口から進んで始めてぶちあたる明確な尾根筋なので、目指す龍貝館跡の位置する尾根筋であろうと判断しました。
「よし、自転車はここに置いてゆこう。後は歩いて遺跡に行くで」
「遺跡の場所は分かってるのか?」
「大体な。あそこに尾根の稜線が見えるやろう?さっきの字後新古屋の微高地の尾根筋の隣の尾根があれだと思うんで、あの上まで登ってみる」
「登ってみるって、道が無いぞ」
「こんな山林の中じゃ、道があっても落ち葉や草に埋もれてすぐに分からんようになる。道よりも地形を辿ったほうが確実なんや」
「そういうものなのか・・・」
不安に駆られたのか、急に周囲の雑木林を見まわしているU氏に、鉈を貸してくれ、と頼みました。相手は思い出したようにザックから鉈を取り出して手渡してきました。まったくの新品でしたので、頼もしく思われました。尾根筋に向かいつつ、眼前に近づいてくる横枝や笹竹の葉などを鉈で切り払い始めました。
「ああ、鉈ってそういうふうに使うのか。なるほど」とつぶやく声が後ろで聞こえました。
20メートルほどは邪魔な枝葉を切り払いながら直進しました。すると左手に不気味な廃屋が現れました。うわわ、とU氏が驚いていました。かつての植林事業の作業小屋であったものでしょうか。
といことは、先ほどの農道から小屋に通じる道があったことになります。そして私たちが枝葉を切り払いながら進んでいた直線ルートが、実はその道の痕跡にほぼ一致していたことが、廃屋の横に残る明瞭な山道の状況から判明しました。
あとは、その山道をそのまま50メートルほど進むだけで足りました。間もなく眼前の山林下に、草に覆われた土塁が見えてきたからです。上写真がその土塁ですが、お分かりでしょうか。
「ここが城館遺跡やな、龍貝館跡やな」
「迷わずまっすぐに遺跡に到達出来るとは凄いな、さすがに大和国の城館遺跡300ヶ所余りを転戦した歴戦のベテランだけのことはあるな。鉈で切り払ってる時なんか、まるで本物のサムライみたいだったぞ」
「よしてくれ、今回はたまたま迷わずに到達出来ただけやで」
その通り、今回は幸運にもピタリと城館遺跡にたどり着けました。広い山林内で遺跡を見つけられずに苦労した経験がたくさんあるだけに、一回も迷わずに行けたのは本当に嬉しかったです。
しかし、私以上にU氏が嬉しそうでした。「これが戦国の、いまは自然に還りつつある城館遺跡の生の姿か」と感動しながら何枚も写真を撮っていました。
この龍貝館についても、P氏のサイトの記事がとても参考になりました。現状では農道すら草薮になってきてかなりアクセスが難しい場所なので、先行探査の記録が紹介されているのには本当に助けられます。
遺構の状況も、P氏の図面の通りでした。あらかじめプリントしておいた図面をU氏にも渡し、二人で土塁の上にあがって郭内をのぞきました。上写真のように、一面の草薮でした。
「おい、これでは中に入れんぞ」
「ここいらにはもう何年も人が来ていないんだろう。農地だったらしいが、耕作放棄されてから随分経っているみたいや」
「こういう城館の土塁の内側には何かあるものなのか?」
「内部はだいたい平坦面だけのケースが一般的やな。大和や畿内の城跡でも、郭内に建物跡の土壇があるとか、中にも土塁が巡っているとかはあんまり見たことが無いな。大体は掘立柱やったと思うから、そういうのは発掘でもしないと痕跡が分からんやろうな」
「一辺が50メートルぐらいの方形ということになってるが、こういうのも館とか屋敷とかにあたるのかね?」
「そこまでは分からんよ。砦とか物見場の可能性もあるんで・・・。館や屋敷なら、さっきの字後新古屋の遺跡のほうがそれらしい雰囲気やったけどね」
「ああ、なるほどな、それは同感だ」
続いて、南辺の土塁のほぼ中央にある切れ目を見ました。上写真がその切れ目ですが、草葉が繁っているので分かりにくいです。P氏のサイトの報告においては、虎口の可能性が指摘されていますが、見た感じでは後世の破壊跡にも見えるので、虎口としての可能性は半々かな、と思いました。むしろ、土塁が削られて無くなってしまっている東辺の方に虎口があったかもしれないからです。北側は急斜面に接しているので、出入り口の空間があったようには見えませんでした。
全体的には半分ほどが後世に破壊されているという感じで、西側に浅い堀の痕跡があるほかは遺構が見えず、南西隅の土塁が幅広に造られて櫓台のような雰囲気を示しているにとどまりました。
興味深いのは、土塁で囲まれた区域が、尾根上の北側を占めている点です。北側への意識を強く持った施設であることがうかがえますが、その北東方向には谷をはさんで登城遺跡の台地が位置しています。何らかの関係があったのでしょうか。
したがって、土塁区画の南側には平坦面があり、上写真のように広さが感じられます。U氏はこの範囲を城外とみていたようですが、私自身は、これも龍貝館の遺跡範囲に含められるスペースだろうと考えました。尾根先端に城館が位置する以上、その尾根全体が城館の機能と有機的に関連するスペースとして意識されただろう、と思われるからです。
遺跡には30分ほど滞在し、それからもと来た道を引き返して入口の車道まで戻りました。不法投棄ゴミの山を目の当たりにして重い気持ちにもさせられましたが、これで大洗町の貴重な歴史遺産の一部である字後新古屋と龍貝館の二ヶ所の遺跡を、無事に回ってくることが出来たので、ホッとしました。
上写真のように、龍貝館へと通じる農道の入口は、鹿島臨海鉄道の高架下を西へくぐってすぐの右側にあります。白い立て看板が目印です。 (続く)
どうして行政は、もっと真剣に事にのぞまないのか?憤りを感じるばかりです。
多少お金はかかっても、怪しい回収業者にはまかせず、行政の粗大ごみ回収を利用する。
できることから、始めましょう!
そういえばおかあきさんはこの種の問題に詳しいのでしたね。ゴミのリサイクルにも詳しいのでしたかね?
いっそのこと、二人で大洗にてリサイクル業を初めてゴミ回収してリサイクルショップも運営するってのはどうですか?(笑)
大洗の不法投棄は、以前は業者が多かったそうですが、最近はリサイクル法の影響からか、一般市民がこっそりと捨てに来るケースが多くなっているそうです。嘆かわしいものですね。
放置されているのは、商売にしても儲からないからだと推測します。
でも、鉄の回収をしたら、ガルパンプラン一泊分の稼ぎにはなるかも?(^^;)
鉄も多かったですが、プラスチック類が最も多かったように思います。ビンとか空き缶はそこらじゅうに、って感じでしたね。
初めて聞きました。今まで大洗にてそのような話を聞いたことがありませんので・・・。そうであれば、喜ばしいことです。
ガルパンファンの有志で不法投棄のゴミを撤去して掃除するとか、現地に何度か足を運ぶとか、方法はいくらでもあると思いますが・・・。