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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その2 「磯浜駅跡手前の線路跡です!!」

2014年11月03日 | 大洗巡礼記

 涸沼川鉄橋跡から軌道跡ルートの車道を南へ進みました。辺りは宅地化によって地形も変わっているようで、水浜線が走っていた頃の面影を思わせるようなものは見当たりませんでした。


 ルートは、鹿島臨海鉄道の高架下で左に緩く曲がってゆきます。両側に並ぶ民家はどれも新しく、廃線後に建ったものばかりのようでした。


 江口さんの話では、鹿島臨海鉄道の高架の橋脚に「水浜線」と手描きされている、との事でしたが、見当たりませんでした。その代わり、黒く塗りつぶした上に「茨交架道橋」と白字で書かれたものがありました。後でそのことを江口さんに報告すると、書き替えちゃったのかねえ、と残念そうに言っておられました。


 高架下をくぐって直線路を進みました。廃線跡とは全く思えない、ごくありふれた街並みの景色でした。


 「大洗駅入口」信号交差点の西側の交差点に着きました。ここで右折すると大洗駅へ行きます。


 交差点の近くにはガルパン戦車パネル設置店の筑波銀行磯浜支店があります。


 交差点を横切ってさらにまっすぐ進みました。この辺り一帯はかつては田畑が広がっていたことが、終戦直後の米軍撮影の航空写真などからもうかがえます。さくらい食堂の女将さんも「磯浜の停車場からはずっと田んぼが広がって、そのまま川を渡っていったねえ」と話していました。磯浜の駅から大洗の街に入っていった、という話ともよく符合します。


 右手にある擁壁は、線路が丘を断ち切って通されたことを物語っています。終戦直後の米軍撮影の航空写真でも、細長い小丘陵がみえて水浜線がそれを断ち切る形で走っている様子がうかがえます。


 交差点を過ぎると道は二手に分かれますが、本来の道は右にそれていきます。まっすぐエコスの駐車場に伸びる道が、軌道跡です。側溝に沿って盛り上がった状態が、線路跡の雰囲気を僅かながらとどめています。


 手前の交差点脇の路上に、僅かに露出する杭の先端を見つけました。軌道の境界標のそれにみえますが、位置的にずれているので、宅地の地割の標杭である可能性が高いと考えました。軌道上の境界標であれば、もう少し線路に近いところに立てられると思われます。


 側溝を中心にして軌道跡の現状を捉え直してみました。盛り上げられた車道部分が、そのまま線路跡の様子をしのばせてくれます。こうした風情のただよう場所は、全ルートを振り返ってみても少なかったので、この地点の痕跡は、遺構に準じる貴重な状況と評価出来るでしょう。


 軌道跡の状態を比較的とどめている箇所であれば、境界標の杭などが残存している可能性もあります。以前に江口さんに教えてもらったところでは、この範囲に杭が二本残っている、ということでした。


 その二本のうちの一本が、軌道跡の東側にありました。水浜線を示す「水」の字がはっきりと読めました。本来は「水浜」と書かれている筈ですが、大半が埋まっているので「水」の字しか見えなかったのでした。
 ちなみに水浜線の名は、水戸と磯浜を結ぶ鉄道であることに由来します。線路が敷かれた当時の大洗町は磯浜町と呼ばれ、昭和29年に南隣の大貫町と合併しています。その範囲はいまの大洗町の大字名にも受け継がれており、役場を中心とする中心街区の住所はたいてい「大洗町磯浜・・・」となっています。


 近づいて撮影しました。コンクリートの質が、戦争中の粗悪品のそれを思い出させるような、礫石交じりのそれでした。よく似た状態のコンクリートを、奈良県の天理市にあった旧海軍柳本飛行場跡の諸施設遺跡にて幾つも見かけましたから、似たような時期のコンクリートであると感じました。昔はコンクリートも不足しがちでしたから、石や陶器片などを混ぜてかさ増ししたケースが一般的でした。
 現在のコンクリートは、石などは一切混ぜませんから、表面も綺麗で平滑に仕上がります。昔のコンクリートとの見分けは容易だと思います。


 似たような質のコンクリート片が幾つかありました。これも線路に関連するコンクリート建材の断片なのでしょうか。沢山の石を混ぜている様子がよく分かります。


 反対側の斜め向かいにも、それらしき杭の頭がのぞいていました。字は見えませんが、コンクリートの質からみて似通った遺物のように思えました。江口さんが教えてくれた二本の杭の一方はこれかな、と思いました。この杭から少し離れたところにも杭らしきものが見つかりましたが、いずれも字が刻まれていないので、本物かどうかは分かりませんでした。


 北を振り返ってみると、軌道跡と向こうの車道とがずれていることが分かりました。もとの線路はゆるやかにカーブして杭の残る軌道跡に続いていたのを、車道に替える際に直線に作り直したため、このような状態になったものと考えられます。


 以上の探査結果を地図に落とし込んでみました。現在のエコスがかつての磯浜駅の位置だったので、今回の見学範囲の軌道跡は、磯浜駅跡手前の線路跡に相当します。駐車場と宅地にはさまれた狭隘の土地であったため、大きな改変を受けることなく、軌道跡の痕跡を割合にとどめることが出来たのでしょう。
 私自身は、この段階で初めて「水」の字が読める境界標杭を見つけたことで、ようやく水浜線のかすかな記憶に辿り着いた気がしました。根気よく探せばまだまだ見つかるかもしれない、という気持ちが強くなりました。 (続く)

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