西光院を出て、城跡の幾つかの郭を見て回りました。この日持参した「茨城の城郭」収録の縄張図のコピーを見ながらU氏が言いました。
「ここ烟田城は、大きく分けると四つの郭があるみたいだな」
「一応、縄張図を書いた方はそう解釈している、ってことやな。実際にそういう区分になってたかどうかは分からんけども、現存する遺構から分析した限りではそう解釈出来る、ってことや」
「難しいもんだな」
「城跡ってのは、完全な状態で残る事自体が稀なんでな。土塁は崩される、堀は埋められる、ってのが普通なんやから」
「なるほど。後の時代に再利用されるってわけか」
縄張図によれば、西光院の境内地も郭の一つであったようです。そしてその西側に、面積では二番目の広さを有したとみられる郭が広がります。上図のように雑木林と農地になっています。
この郭の西側には、堀状の切り込みがあって、現状は上図の如くです。上図左端に見える高まりが外周土塁の端にあたります。この切り込みは郭内へ行くにしたがって上に上がりますので、城内の連絡用通路であった可能性も考えられます。この切り込みの西側は現在も道として使われているので、東の大手に対する西の搦手と考えることも可能です。
城跡の中心部は、新宮小学校の敷地になっています。その西側に残るのが上図の土塁です。高さは3メートル近いので、本来の土塁の高さに近いのではないかと思われます。土塁の上面は平坦になっていて犬走り状になっています。西日本の城跡の土塁は一般的に小型ですので、こういう立派な土塁を見ると、ああ東日本だなあ、と感心してしまいます。
土塁の脇には、城跡の案内板が立てられています。
案内板を読みました。これによれば、西光院は城の廃絶後に現地に移転してきた、とあります。でもそれは寺院としての西光院が移転してきたのであって、観音堂はずっと以前から現地にあって、後に西光院の中に取り込まれた、という経緯が示唆されます。
奥さんはその点を何度も強調していましたが、仏像の古さからみても、観音堂が西光院とは別の存在であったことが容易に推定出来ます。
また、新宮小学校の建設時、および南側からの連絡道路を敷設する時に、かなりの範囲の土塁や堀が破壊されて消滅したことが記されます。現存遺構が断片的なのもそのためでしょう。
土塁の外側には空堀が回っていますが、ほとんど草で埋まってしまっていました。深さは2メートル前後だということですが、現状では実感出来ません。
さらに西側にはもう一つの郭があり、城跡の西端にあたって地形的には段丘の先端になります。比高差は20メートルもあり、周囲は断崖で囲まれます。眺めがとても良いので、西から南へかけての物見も可能であったことでしょう。大半は雑木林になっていますが、一部に土塁や横堀の痕跡が残されています。
南西方向には、北浦の湖面も望まれました。鹿島臨海鉄道の列車が、長い陸橋の上を走ってゆくのが見えました。
新宮小学校の敷地となっている中心郭の南西隅には、三角状の張り出しがあり、先ほどの高土塁がその外側まで巡っています。現在は氷川神社の境内地となっています。
氷川神社の背後の高土塁の現状です。竹林越しに、下の空堀が見えます。位置的には物見用の櫓台のような構えで、南への視界は開けていますから、ここに櫓があったとても不思議はありません。
南側の外周土塁の残存部分です。氷川神社を江戸期に勧請した際にかなり削られたようで、現状では1メートル以下になっています。氷川神社への参道は、かつての城の裏道を再利用したもののようです。
氷川神社の鳥居の下から、新宮小学校の敷地を見ました。中心郭がいかに広かったかがうかがえます。体育の授業らしく、子供たちがサッカーの試合をやっていました。それを三人でしばらく見ていました。
氷川神社の参道を辿って南側に降りました。振り返って見上げると、氷川神社のある張り出し部分がかなりの高さに見えました。思っていたよりも高低差があり、城の防御正面が南側であることが改めて理解出来ました。
「ここに裏道というか、通路があったから、監視場所としての張り出し部分があると考えていいのかね」
「ええと思うよ」
「じゃあ、こっちも搦手口の一つかな」
「その可能性もあるね」
城郭においては出入り口は一つだけとは限りません。中世戦国期の大型城郭では、三ヵ所ぐらいの出入り口があるのがむしろ一般的でした。有事の際に、城主は周辺住民も城内に避難させてかくまってやるのが義務の一つでしたから、各方面から人々が逃げ込めるように出入り口が四方に設けられていることが多かったのです。
城の守備兵というのも、内実は支配領域の住民からの徴兵でありましたから、彼らが戦時には近隣住民を先導して城内に入り、時には住民一体となっての徹底抗戦の指揮単位にもなったわけです。なので、一般的に言われる「落城全滅」と言う表現は、城主一族や守備兵だけでなく、避難入城した周辺住民の三分の二以上が死んだことを意味します。
東日本では、落城後に生き残った人々も何割かは撫で切りと言って殺されることが多く、悲惨さは極まりないものでした。残った人々も奴隷の身分に落とされて人身売買の対象にもなっていました。とくに人身売買の風習は、古代以来の奴婢制度の残存の流れにあって、地域の疲弊や荒廃の原因にもなっていました。これでは国がいずれ滅びてしまうし、労働人数を前提とする地域の経済も発展しないから、農業生産力も軍事力も向上しません。
だから、織田信長や豊臣秀吉が、戦国の終焉と国力の再建を図るための一環として、人身売買を中止する禁令を何度も出したのは、当然のことと言えましょう。
城の南側に降りてみますと、その断崖上の構えがよく分かります。この方面から攻め上がることは不可能です。まさしく天然の要害です。北は烟田氏の本拠地ですから、後顧の憂いは無かったわけですが、それも鹿島大掾氏の支配が安定していればの話です。北の常陸大宮から勃興して急速に支配地を拡げてきた佐竹氏の圧迫が、ここにまで及ぶとは予想も出来なかったことでしょう。
「時代の流れ、時勢の変転はいつの世にもめまぐるしいもんだな」
「そうやな」
「室町幕府も安泰だったのは僅か。織田信長すら本能寺に斃れる、明智光秀も数日天下に終わる。羽柴秀吉がとった天下も、徳川家康に取られてしまう・・・」
「戦国乱離の常やな。諸行は無常や」
「伯耆守、そういえば、君の先祖は織田家の家臣だったと聞いたが」
「家臣というより、正確には神人やな。熱田の大宮司の系列で神職を務めて織田家の祭祀も司っていたらしい。菩提寺は信長の祖父の信定の代から清須にあったが、墓地は神宮の杜の後ろにあったらしい」
「だから本籍地が熱田神宮の境内地なのか」
「そう」
「そういう君からみて、織田信長はどう映るかね」
「まあ、視点は色々あるけど、歴史を変え得る逸材であったことは確かやな」
すると奥さんが聞いてきました。
「じゃあ、織田信長が本能寺で倒れなかったら、もっとよい日本になっていたと思いますか?」
「よくなったかどうかはともかく、戦国の終焉が早まったことは確かでしょう。天下布武の事業が東国にも及んで、東日本の諸勢力は実際の歴史以上に淘汰された可能性もありますね。豊臣政権は基本的に在地勢力を取り込んで生かしてゆく方針やったけど、織田政権の時はとにかく出来るだけすり減らす戦略でしたからね、四国は長宗我部だって潰す、西国では毛利でも許さん、九州に入ったら島津も消す積りだったらしいから、こちらですと佐竹も潰すほうになった可能性が高い」
「すると、鹿島大掾氏は、どうなります?」
「これも淘汰された可能性が高いですね」
「そんな・・・」
「美和さん、何度も言っておりますが、中世以来の歴史や秩序は、新たな国と仕組みに向けての再建発展には障害になる要素が多かったのも史実なんです。織田信長がなぜ浅井朝倉を滅ぼしたか、なぜ比叡山や本願寺を敵視して撃破してきたか、という答えの一つは、中世的価値観や思想や秩序の整理、ということだったんではないかと思うのです。長く続いた戦国乱世の根本的な根っこは、それを起こした人々の価値観や思想や秩序にある、とみて、その破壊一新を天下統一事業の核にしてるわけです。いずれそれを誰かがやらないと、戦国の世が終わらない。さらに大勢の人々が死んでゆかなきゃならない。血で血を洗った時代の後始末は、血で贖わないとどうにもならない。織田信長はそれが良く分かっていた、当時には珍しい人物だったと思うんです。人身売買も禁止してるし、楽市楽座も奨励しているし、さらに東日本でやっていた撫で切りを、滅多なことではやらなかった。生かして有効ならば、生かして役立てる方向にもっていく。それでも言う事を聞かない人や抵抗勢力があれば、徹底的に皆殺しにして根絶やしにするわけです」
「・・・・・」
「つまりはですね、鹿島大掾氏や烟田氏が、ずっと中世的な価値観や思想や秩序とかを維持してゆくのであったならば、それは絶対に続かない。織田が来ても佐竹が来てもその他の誰が来ても、当時の政治権力側からみると鹿島大掾氏や烟田氏の有様は旧悪にしか映らなかった筈です。新しい日本の政治支配の仕組みと新しい思想、秩序に切り替えましょう、と言ったって、ハイと聞いて領地などを献上する鹿島大掾氏や烟田氏だった、とお思いですか?」
「それは・・・、やっぱり、思わないです・・・」
「でしょう、そうならば、いずれ淘汰されることになります。中世を引きずった者は、みんな滅びてしまったのが、あの時代の歴史ですから」
「・・・」
その、中世を引きずった人々の夢の跡を、車道から振り返りました。南側に続いて西側も高い崖面に囲まれていますから、下から見ると要害の様子がよく分かります。
ですが、戦国末期の発達した戦闘形態のなかでは、こうした要害もさほどの効果を発揮できなくなっていたのが史実の示すところです。その潮流を読み取れなかった勢力は、どこでもやられていきましたから、当地の烟田氏も例外では無かったわけです。
そのことは、U氏にはよく理解出来ていたようなのですが、奥さんはまだ先祖への愛着や敬愛の念が強いようなので、頭では理解出来ても感情の面では受け入れ難い、といった部分があるようです。それはそれで仕方の無いことではあるな、と思いました。 (続く)