気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その7 「過去から現在に戻ります!!」

2015年01月22日 | 大洗巡礼記

 登城遺跡の主要部はほとんど草薮に覆われていますが、発掘調査時の状態から数年が経てばどんな遺跡でも自然に還ります。空堀も埋まりつつありますが、まだ窪地となって残っていましたから、外からでも位置は分かりました。上写真は、Ⅰ郭とⅡ郭とを隔てる四号堀の部分で、草薮の中に窪地となって続いていました。


 Ⅱ郭は、北側が土居状になって一段高くなるので、これもかつては土塁で囲まれていたのかもしれません。土居状部分の向こうには、農道になっている堀跡があります。その北側の千代田テクノルさんの敷地にはⅢ郭があったようですが、これを取り巻く堀は完全に繋がっていなかったようです。


 Ⅱ郭の北端より、南を見渡しました。広大かつ複雑な空間構成をもった台地上の平城タイプの城郭の景色は、他県でもなかなか見られないものだけに、それ自体が貴重な歴史的景観となります。しかし道路設置によってその景観の何割かは消滅します。


 中世戦国期の歴史は、大洗においてはほとんど明らかになっていません。登城遺跡の広大な城館は、単なる地方の一勢力ではなし得ない規模を示し、その運営においても相当の経済力を必要とした筈です。常陸大掾氏とか江戸氏とかいった在地勢力との関連よりも、上位勢力の関与を想定するほうが良さそうですが、そうした勢力とは、常陸国においては佐竹氏しか思い浮かびません。


 Ⅱ郭北の堀切跡です。登城遺跡の堀遺構のなかでは最大の規模をもつので、城域を護る第一の防御線であったことは間違いありません。その造成に必要とされた土木量を考えると、これも在地勢力のなし得るところではないな、という気がします。やっぱり佐竹氏だろうな、と思いました。

 佐竹氏の関連史料の一つとして知られる「佐竹古證文」に収録される「文禄五年蔵納帳」には、当時の佐竹氏領の一覧がおさめられますが、そのなかに「大貫村」もみえます。その代官職が「根本賀茂三郎」とあるので、文禄五年の時点では佐竹氏家臣の根本氏が代官として大貫村の「千七十一石六斗九升」を統治していたことが分かります。
 根本氏は、周知のように藤原氏系の小野崎氏の庶流にあたり、常陸国信太郡根本を本願地とする武士勢力です。佐竹氏が本家の小野崎氏を傘下に加えるにあたって根本氏もこれに従ったとされており、戦国期を通じて佐竹氏家臣としての動きが諸史料に散見されます。「大貫村」を統治した「根本賀茂三郎」もその係累であった可能性は高く、文禄五年時点の代官支配も、それ以前からの状況を端的に伝えているのかもしれません。


 そうすると、大洗地域の在地武士であったとされる大貫氏は、根本氏の下に在ったと考えるべきでしょうか。道路工事現場の出入り口に至って遺跡の方角を振り返りながら、思いを巡らせました。
 「佐竹氏家臣系譜」に収録される大貫氏の「家伝書」では「譜代之由」とあって、大貫氏が佐竹氏に三代以上仕えた家臣であったことが判明するほか、別伝の「大貫系図」では本姓が小野木であり、「常州鹿島郡大貫郷由緒有ニ暫ク居住ス」と伝え、これによって「氏ヲ大貫ト改ムル」と記されます。いかなる「由緒」で大貫郷に居住したのかを知りたいところですが、大貫氏が一伝において常陸大掾氏の系譜に連なる者であるとされる点と関係があるのかもしれません。


 色々と考えながら自転車を走らせているうちに、大洗町の中心街に戻りました。中世戦国期の過去から一気に平成の現在に戻ってきたわけです。途中でココストアに立ち寄って、乾いた喉を潤すべく、飲み物を買いました。店先には、ガルパンの新しい幟が並んでいました。


 三村時計店に立ち寄り、店主さんに登城遺跡のことなどを話しました。三村さんは大貫商店会の歴史探訪スタンプラリーを発案し立ち上げられた方だけあって、大洗の歴史にも詳しい方です。それで私も色々と教えていただく機会が多いですが、今回は登城遺跡の発掘調査当時のエピソードなどを伺いました。


 昼食をとらずに動き回っていたので、空腹でした。食事処を探すのも面倒なので、途中でブリアンに立ち寄って「ガルパン」を買いました。ナカジマの缶バッジ付きでした。


 ナカジマです。中嶋悟ではありませんが、ナカジマです。


 ブリアンの店先に展示されている、ポルシェティーガーの完成品です。ファンの方からの寄贈品だそうです。ガルパン仕様に作ってあるようですが、そうでない箇所も見られました。「ガルパン」を食べながら見ているうちに、自分で作った場合にどれだけガルパン仕様に近づけられるだろうか、と考えたりしました。
 それで、よし次はこれにするか、とポルシェティーガーの制作を決めたのでした。


 曲松商店街まで進んで年宝菓子店の店先を通りました。秋山優花里が帽子とマフラーをまとっていました。最近の大洗商工会のルールにより、ファンの方がキャラクターパネルに服を着せたり飾り付けたりすることは禁じられましたが、パネルを設置している店舗の側で相談し合ってある程度の着せ付けを行なう流れになっているので、キャラクターパネルに何かを着せるという状況そのものは、あまり変わっていないように見受けられます。


 「ガルパン」一個では全然足りませんでしたので、かま家さんで海鮮丼を注文して美味しくいただました。さかなや隠居の常連客である関係で、隣のかま家でよく食事をしますので、店主さん夫婦ともすっかり顔なじみになっています。
 この日は大貫台地のゴミ投棄問題や、夏海の原発実験炉のことなどで話が盛り上がりました。いただいた逸見エリカの缶バッジは、いつの間にか、新しいデザインになっていました。そういえば、以前に店主さんが新たに申請していると話していたな、と思い出しました。 (続く)

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