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けいおん!の聖地をゆく9 その5 船岡山

2017年07月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金閣寺を退出して、金閣寺道バス停より204系統に乗って船岡山バス停へ引き返しました。歩いても行ける距離でしたが、この日は時間が貴重でしたので、市バスを積極的に利用しました。


 バス停からすぐの所に、船岡山公園の北口があります。


 案内説明板です。応仁の乱の際に城が築かれ、攻防戦が展開されたほか、戦国期の永正年間にも戦場となった歴史が述べられています。一帯では唯一の高地であるだけに、ここを拠点とすれば゛戦いを有利に運べるはずなのですが、実際にはこの丘に拠った側が負けています。城塞としてはあまり堅牢ではなかったのかもしれません。


 遊歩道の傍らに建つ戦跡碑です。一帯は公園になっており、自然をめでながら散策する方が多いです。戦跡碑は植え込みの陰にあるため、気付かずに通り過ぎてしまう方が殆どでしょう。


 ですが、船岡山公園のほぼ全域に点在する平坦面は、かつての城塞の郭であったとされています。よく観察すれば、複数の平坦面が階段状に連なって、丘の斜面に並んでいるのが分かります。


 平坦面の一つは、1期番外編(第14話)「ライブハウス!」に登場します。


 劇中に登場する場所は、正確には特定出来ていませんが、東に向いていて初日の出が拝める平坦地は、上図の場所ぐらいです。眺望が良いので、ベンチが設けられています。


 初日の出の美しさに感動するHTTの五人。名シーンの一つだと思います。


 平坦地の背後は、このように段差となり、城塞の横堀と言われている大きな溝へと繋がります。この景色も劇中に出ています。この大きな溝については、いまだに分かっていないことが多く、城郭研究者の間では船岡山城の防御施設の遺構ではないかとする見解があるようです。
 現地で出会った地元の方に話をうかがったところ、下の公園に水が流れ込むのを防ぐための排水路だろう、と話しておられました。


 東の北寄りにのぞまれる最高峰が比叡山です。天台宗延暦寺の境内地となって平安京の鬼門を護る信仰の山です。


 北東に見える甍の波は、大徳寺のそれです。


 その奥にみえる低丘陵が松ヶ崎地区の背後の丘です。山肌が三角に表れる部分が松ヶ崎大黒天背後の五山送り火の位置です。


 船岡山の山頂にある露岩です。磐座として崇められた歴史があり、中世期には今宮神社の結界地に含まれて御霊会の儀式が行われた場所であるそうですが、いまでは山頂の展望所の一角に露出するただの岩、といった風情です。

 この船岡山を戦場とした応仁の乱に関しては、最近に再評価および新視点からの考察が進み、刊行物が次々に発売され、ちょっとしたブームになっていると聞きます。しかし、その歴史に対する考究の基本軸は従来と変わっておらず、同時期史料にみられる当時の人々の認識および証言から、応仁の乱の本質的な発生原因と経緯を読み取る作業が常に重要視されています。

 私は学生の頃から畿内の中世戦国史に関心があり、図書館で数多くの専門書や史料をひも解いて調べ、関連史跡も大体回って見学しています。応仁の乱は、その後の戦国時代に繋がる日本最大の内戦であるわりには実態がつかみにくく、その謎めいた歴史が知的好奇心を大いにかきたててくれます。当時は奈良に住んでいたので、奈良県の中世戦国史を勉強しつつ、京都との関係や応仁の乱の様相とリンクさせるようにして学びましたが、意外にもそれが正しかったようで、分かりにくかった応仁の乱の構図が、次第に分かってきたのでした。

 端的に言えば、応仁の乱とは、もとは管領畠山氏のお家騒動が、やがて幕府や御家人や地方の守護勢力を巻き込んで拡大発展した騒乱です。当時の知識階級の代表格とされる興福寺大乗院門跡尋尊が、その日記「大乗院寺社雑事記」にて、成身院こそが応仁文明乱の元凶であると罵っていますが、確かに、筒井成身院光宣が応仁の乱を引き起こした張本人の一人であるのは間違いありません。この筒井成身院光宣が、畠山氏のお家騒動に無用の加担を成して結果的には御霊合戦を誘発させ、この戦闘が応仁の乱の発端となりました。

 ですが、張本人はもう一人いると思います。戦争とは二つの勢力が争う出来事ですから、双方にキーパースンが居なければ応仁の乱のように激化拡大しません。筒井成身院光宣は、細川勝元側について東軍の大将に連なりましたが、対する西軍にて山名持豊側についた大将が畠山義就であるのが重要です。
 この畠山義就こそ、管領畠山氏のお家騒動の元凶でありますが、当時の武将のなかでは抜きんでて戦上手でした。戦闘を自らしかけて状況を複雑にしている場面が多く、要するにこの畠山義就がいなければ、畠山氏のお家騒動も起こらず、御霊合戦なども発生し得なかった筈ですので、この人物もまた応仁の乱の元凶の一人であると言って良いでしょう。

 従来、応仁の乱は、細川勝元と山名持豊との争いが中心であるとする史観が大勢を占め、いまだに教科書でもその見解が述べられますが、室町幕府の体制をふまえて考えると、これほどおかしな構図はありません。細川氏は三管領家の一、山名氏は四職の一つとして侍所頭人となった有力御家人です。共に将軍より任命され、将軍を補佐して幕府体制を担う立場です。
 したがって、この両人が敵味方に分かれると、それだけで室町幕府は瓦解してしまいます。そんな愚を両人が果たして犯すでしょうか。畠山氏のお家騒動は畠山氏の家の内情に過ぎず、本来ならば、細川勝元と山名持豊が協力して騒動の調停を進める、というのがあるべき姿でした。
 もともと細川勝元と山名持豊は親交があり、長らく碁敵として楽しんでいたぐらいなので、応仁の乱に至るまでの一連の騒動を、ともに内心では苦々しく思っていたはずです。筒井成身院光宣が余計な画策をしなければ、畠山義就があそこまで暴れまわったりしなければ、あんな成り行きにはならなかっただろう、と時勢を客観的に判断出来ていた筈です。ともに乱の総帥に担がれつつも、最後まで煮え切らなかった両人の動きに、それぞれの内心の葛藤と悔恨が垣間見えるようです。

 そんなことをつらつら考えつつ、山頂からの景色を眺めて休みました。時計を見ると、船岡山に登ってから一時間が経とうとしていました。 (続く)

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