生誕300年記念若冲展 (18日に行ってまいりました)
東京で初めて釈迦尊像 動植綵絵が勢ぞろいしました。
1716年 京都
青物問屋の長男として産まれたが 商いが嫌い 跡取りにもかかわらず嫁も取らず
40歳で家督を弟に譲り隠居
そこから ほとんど独学で始めた絵の道
3年後に 前代未聞の制作に挑む
1757~66年
釈迦尊像
飾られている順
中央 釈迦如来像 鮮やかな色彩を重ね 強烈なコントラストで描かれている
右 文殊菩薩 青い獅子に乗っています
左 普賢菩薩 真っ白い像に乗っています
動植綵絵 縦148cm 横80cm の 極上の絹地に描かれています
綵絵の綵という字には 美しい彩り という意味があるそうですね
描かれているのは身近な動物達 30幅のうちの半数は「鳥」
なかでも多いのは鶏 8幅も描かれています
若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めました。
すぐには写生をせず、鶏の生態を朝から晩まで徹底的に見つめる。
そして一年が経ち見尽くしたと思った時、おのずと絵筆が動き出した。
鶏の写生は2年以上も続き、若冲は鶏だけでなく、
草木や岩や あらゆる生き物を自在に描けるようになった。
群鶏図 13羽の色とりどりの鶏 どれ1つとして同じ姿 表情が見当たりません
この鶏達 3Dかと思うほど 羽がフワッと浮き上がっているように見え
どうして このように見えるのか 不思議で不思議で。。。最高です♪
以外には 植物の世界 匂い立つような満開の花々 水族館のような魚達
これらは全て 京都の相国寺に寄進するために 若冲が描いたものです
相国寺の大典顕常(1719-1801)は 若冲という名を授けた人
青物問屋の主だったころ出会い 影響を受け禅の道へ。
家業を捨て 絵の道へすすんだ若冲を支えた大典 だた1人でした
その恩にこたえようと描いた作品
釈迦尊像(13~14世紀ころ)は 同じ京都の東福寺が持っていた仏画を
鮮やかな色彩で模写したもの(1765年頃)
釈迦尊像のまわりを飾り立てるように描かれたものが動植綵絵であります。
作品は驚くほどリアルで過剰なほどの緻密さ
1cmにも満たない南天の実など 1粒1粒が恐ろしいまでに描かれている
降りしきる雪は まるで生き物のようです
紫陽花の花は 輪郭線のように見える部分には 絵具が塗られていません
没骨法と言われる技法で 余白で輪郭を表していて
花びらの隙間は なんと1mmほど。
膨大な下図を繰り返し描き 途方もない手間と時間をかけ 30幅を
たった1人で書き上げた天才。
動植綵絵は 宮内庁三の丸尚蔵館にあります
動植綵絵の修復と調査(1999~2004年)が行われ
スズメの目からは多くの鉄分が検出され 黒漆が使われていた可能性を裏付けました。
そして 鳳凰の白さに光を感じるような表現はどのように工夫したのか
白い絵絹に薄墨を塗り それを下図の上に。
膠で顔料の胡粉をとき 羽の質感を出すために濃淡をつけて描いていきます
次に黄土。 羽の金色に見えた部分は 金ではなかったのです
その黄土を絵絹の表ではなく裏からも彩色
これを表から見ると羽が金色に!
裏彩色した黄土が光沢のある絵絹と表面に塗られた胡粉を通すことによって
金色に輝いて見えるのです。
その輝きが羽の光沢と柔らかな質感を見事に映し出す
更に 美しい羽を より際立たせるために絵絹を裏打ちする紙にも
薄墨で染めていたことがわかった
芍薬群蝶図
飛び交う白い蝶 下の2匹は「している」 上の2匹は「していない」
裏色彩をしていない白い蝶はぼんやり見え 遠近感が表現されてます。
若冲は絵具にも費用を惜しまず上質な品を求めた
群魚図の中に入る「ルリハタ」
もっとも苦労して この魚に塗った藍色は美術史の定説を覆したのである
深い藍色 1704年ドイツで発見された プルシャンブルー 西洋の顔料である。
日本に入ってきたばかり お値段も相当な額であった。
発色も良く しかも色あせない この絵具を若冲はいち早く使ったのだ
日本で広まったのは19世紀 葛飾北斎も この藍色の虜になった
日本で使われたのは 1770年前半と言われていましたが
その10年前に 若冲は使っていたのである
若冲の真の狙いは 永久不変な美を描くこと
だからこそ 変色しない この絵具に拘ったのである
ルリハタ 本当に色あせていず美しい藍色でした。
「世間に画名を広めたいという軽薄な志で描いたのではありません
全てを相国寺に喜捨し荘厳の具となり 永久に伝えられることが望みです
若冲の寄進状より」
五百羅漢像(1776-1800)若冲が下絵を描き彫らせた石仏
五百羅漢信仰は仏教の中でも 特に広まったもので 若冲も熱心に禅を学んでいた
禅の大切な教えの中に「犬」が登場する。
30代で描いた犬の絵 厖児戯帚図 1764年以前
画面を横切るには しゅろで出来た箒 その後ろに黒い子犬
この絵には 禅問答の問と答えがある
「犬に仏性があるか 無いか」 この教えは若冲にとって生涯の問いかけとなった。
答えは 「無」 有無ではなく色々な欲望を超越してから 忽然と悟るもの
そして若冲が亡くなる1年前のこと 集大成と言える1枚を残した
百犬図 1799年 (これは個人蔵のため 残念なことに8日までの展示でありました)
この作品は画家としてのリベンジでもあった。
若冲は10年かけて描き上げた「釈迦尊像」「動植綵絵」を相国寺び50代で寄与した
この時 自分のお墓を相国寺に建てたのだ
動植綵絵を描き切ったら余生と考えていた若冲
そして 大典に自分の墓に銘を刻んでほしいと頼んだ
一大傑作を寄与してくれた稀有な人と書くのが普通だが
大典は
動植綵絵を超えるものを描くのは この先無理かもしれない
ならば わずかな米代と引き換えに水墨画でも描こうかと若冲は言うが
それはあまりにも後ろ向きというもの。 御仏がこの世のすべてを作られたように
筆であらゆるものを描きつくしてこそ 安らかな気持ちで
この墓に眠れるのではないか
この大典の言葉が 若冲に前を向かせた!
乗興舟 1767年 木版画に挑戦
今日と伏見から 大阪まで ゆったりとした舟旅
伏見人形図 1800年
ぽっちゃりとした布袋さん
鳥獣花木図屏風 18世紀
美術ファンの間では とても有名なモザイク模様の屏風
そして80代 画業の集大成として描いたのが子犬
百犬図
毛並みは1本1本まで執拗に描きこまれている
絵が描かれている絹地も 動植綵絵と同じ大きさ
人生最後に描かれたこの作品は おそらく動植綵絵に匹敵する特別なもの。
白い子犬がくわえている緑の切れ端
30代で描いたしゅろの箒の色と似ている
実は この箒の持ち主こそ 犬に仏性があるか?と問いかけた禅僧なのである
子犬と箒の絵 若冲は数枚描いている 若冲には重要な課題
子犬たちが奪い合う紐も おそらくこの箒の1部
箒がバラバラになってしまうまで 若冲は禅問答を考え抜いたということか
その思いを ここに描き上げた若冲。
何故ここまで大事にしていた作品を動植綵絵に盛り込まなかったのか
犬という画題が禅にとって重要であるからこそ描きにくい
動植綵絵を描いてる時まだ未熟な若冲では描ききれないと思い回避した
しかし 80代半ばになり 今描かなくて いつ描くという思いで書き上げたようです
禅と犬という生涯のテーマに 80代の絵師は百犬図で見事にこたえたのであります。
動植綵絵を描いていた時に知り合った人物がいる
若冲は その人物の生き方を人生の手本とした。
天明8年 天明の大火
最大の火災があり焼け出された若冲は 伏見の石峰寺の門前に住むことになった。
ここにも若冲のお墓が・・・
ちなみに
相国寺のお墓は若冲が生前に建てられた生前墓で、
石峰寺のお墓は若冲が亡くなった時に遺体を葬ったお墓だそうです
このころ 70代にして初めて絵を生きる糧にすることに。。。
斗米翁 と名乗り わずかなお米と引き換えに絵を描く
それは 若冲が人生の師と仰いだ人物の生き方そのもの
売茶翁図 1757年
相国寺の禅僧大典についで 若冲の人生を大きく変えたにが売茶翁
いずれは 由緒ある寺の住職になる人物であったが その道を捨て
自ら 茶道具を担ぎ 生きる糧として一服のお茶を売り歩く
その生き方に感銘を受けた若冲。
動植綵絵を描いていた40代に出会った売茶翁
若冲の描く その見事な出来栄えに
「丹責活手の妙 神に通ず」 売茶翁が若冲に与えた書
貴方の芸術は 神に通ずるものがある
震えるほど感動した若冲は
妙 丹
通 責 ← その言葉を印章に刻んだ
神 活
手
この印章が押されている作品は 全作品の中で わずか4点
百犬図 (そして動植綵絵の中から3点)
池辺群虫図 牡丹小禽図 蓮池遊魚図 である。
しかし 30年以上も経ち 百犬図になぜ?
動植綵絵の中で 押されている作品は 若冲が自分でも最高傑作と自負しているもの
それが 百犬図にも押してあるということは
若冲にとって 本当に時別な作品だったことの表れである。
禅と犬という画題に再び向き合う
80代の今なら 動植綵絵を超えて より自由に大胆に描ける
師が授けてくれた この大切な印章に
今こそ ふさわしい力があるんだと若冲は 百犬図で宣言したのであります。
とにかく 全てが素晴らしい この言葉以外が思い浮かばないほどの作品でありました
動植綵絵 みているうちに飛び出してくるのでは?
そんな気持ちにさせてくれた あまりにもリアルな作品
百犬図 本当に残念であります
できれば もう1度。。。。。後ろ髪ひかれながらの帰宅でありました
自分でも予想外に長文になってしまいました
東京で初めて釈迦尊像 動植綵絵が勢ぞろいしました。
1716年 京都
青物問屋の長男として産まれたが 商いが嫌い 跡取りにもかかわらず嫁も取らず
40歳で家督を弟に譲り隠居
そこから ほとんど独学で始めた絵の道
3年後に 前代未聞の制作に挑む
1757~66年
釈迦尊像
飾られている順
中央 釈迦如来像 鮮やかな色彩を重ね 強烈なコントラストで描かれている
右 文殊菩薩 青い獅子に乗っています
左 普賢菩薩 真っ白い像に乗っています
動植綵絵 縦148cm 横80cm の 極上の絹地に描かれています
綵絵の綵という字には 美しい彩り という意味があるそうですね
描かれているのは身近な動物達 30幅のうちの半数は「鳥」
なかでも多いのは鶏 8幅も描かれています
若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めました。
すぐには写生をせず、鶏の生態を朝から晩まで徹底的に見つめる。
そして一年が経ち見尽くしたと思った時、おのずと絵筆が動き出した。
鶏の写生は2年以上も続き、若冲は鶏だけでなく、
草木や岩や あらゆる生き物を自在に描けるようになった。
群鶏図 13羽の色とりどりの鶏 どれ1つとして同じ姿 表情が見当たりません
この鶏達 3Dかと思うほど 羽がフワッと浮き上がっているように見え
どうして このように見えるのか 不思議で不思議で。。。最高です♪
以外には 植物の世界 匂い立つような満開の花々 水族館のような魚達
これらは全て 京都の相国寺に寄進するために 若冲が描いたものです
相国寺の大典顕常(1719-1801)は 若冲という名を授けた人
青物問屋の主だったころ出会い 影響を受け禅の道へ。
家業を捨て 絵の道へすすんだ若冲を支えた大典 だた1人でした
その恩にこたえようと描いた作品
釈迦尊像(13~14世紀ころ)は 同じ京都の東福寺が持っていた仏画を
鮮やかな色彩で模写したもの(1765年頃)
釈迦尊像のまわりを飾り立てるように描かれたものが動植綵絵であります。
作品は驚くほどリアルで過剰なほどの緻密さ
1cmにも満たない南天の実など 1粒1粒が恐ろしいまでに描かれている
降りしきる雪は まるで生き物のようです
紫陽花の花は 輪郭線のように見える部分には 絵具が塗られていません
没骨法と言われる技法で 余白で輪郭を表していて
花びらの隙間は なんと1mmほど。
膨大な下図を繰り返し描き 途方もない手間と時間をかけ 30幅を
たった1人で書き上げた天才。
動植綵絵は 宮内庁三の丸尚蔵館にあります
動植綵絵の修復と調査(1999~2004年)が行われ
スズメの目からは多くの鉄分が検出され 黒漆が使われていた可能性を裏付けました。
そして 鳳凰の白さに光を感じるような表現はどのように工夫したのか
白い絵絹に薄墨を塗り それを下図の上に。
膠で顔料の胡粉をとき 羽の質感を出すために濃淡をつけて描いていきます
次に黄土。 羽の金色に見えた部分は 金ではなかったのです
その黄土を絵絹の表ではなく裏からも彩色
これを表から見ると羽が金色に!
裏彩色した黄土が光沢のある絵絹と表面に塗られた胡粉を通すことによって
金色に輝いて見えるのです。
その輝きが羽の光沢と柔らかな質感を見事に映し出す
更に 美しい羽を より際立たせるために絵絹を裏打ちする紙にも
薄墨で染めていたことがわかった
芍薬群蝶図
飛び交う白い蝶 下の2匹は「している」 上の2匹は「していない」
裏色彩をしていない白い蝶はぼんやり見え 遠近感が表現されてます。
若冲は絵具にも費用を惜しまず上質な品を求めた
群魚図の中に入る「ルリハタ」
もっとも苦労して この魚に塗った藍色は美術史の定説を覆したのである
深い藍色 1704年ドイツで発見された プルシャンブルー 西洋の顔料である。
日本に入ってきたばかり お値段も相当な額であった。
発色も良く しかも色あせない この絵具を若冲はいち早く使ったのだ
日本で広まったのは19世紀 葛飾北斎も この藍色の虜になった
日本で使われたのは 1770年前半と言われていましたが
その10年前に 若冲は使っていたのである
若冲の真の狙いは 永久不変な美を描くこと
だからこそ 変色しない この絵具に拘ったのである
ルリハタ 本当に色あせていず美しい藍色でした。
「世間に画名を広めたいという軽薄な志で描いたのではありません
全てを相国寺に喜捨し荘厳の具となり 永久に伝えられることが望みです
若冲の寄進状より」
五百羅漢像(1776-1800)若冲が下絵を描き彫らせた石仏
五百羅漢信仰は仏教の中でも 特に広まったもので 若冲も熱心に禅を学んでいた
禅の大切な教えの中に「犬」が登場する。
30代で描いた犬の絵 厖児戯帚図 1764年以前
画面を横切るには しゅろで出来た箒 その後ろに黒い子犬
この絵には 禅問答の問と答えがある
「犬に仏性があるか 無いか」 この教えは若冲にとって生涯の問いかけとなった。
答えは 「無」 有無ではなく色々な欲望を超越してから 忽然と悟るもの
そして若冲が亡くなる1年前のこと 集大成と言える1枚を残した
百犬図 1799年 (これは個人蔵のため 残念なことに8日までの展示でありました)
この作品は画家としてのリベンジでもあった。
若冲は10年かけて描き上げた「釈迦尊像」「動植綵絵」を相国寺び50代で寄与した
この時 自分のお墓を相国寺に建てたのだ
動植綵絵を描き切ったら余生と考えていた若冲
そして 大典に自分の墓に銘を刻んでほしいと頼んだ
一大傑作を寄与してくれた稀有な人と書くのが普通だが
大典は
動植綵絵を超えるものを描くのは この先無理かもしれない
ならば わずかな米代と引き換えに水墨画でも描こうかと若冲は言うが
それはあまりにも後ろ向きというもの。 御仏がこの世のすべてを作られたように
筆であらゆるものを描きつくしてこそ 安らかな気持ちで
この墓に眠れるのではないか
この大典の言葉が 若冲に前を向かせた!
乗興舟 1767年 木版画に挑戦
今日と伏見から 大阪まで ゆったりとした舟旅
伏見人形図 1800年
ぽっちゃりとした布袋さん
鳥獣花木図屏風 18世紀
美術ファンの間では とても有名なモザイク模様の屏風
そして80代 画業の集大成として描いたのが子犬
百犬図
毛並みは1本1本まで執拗に描きこまれている
絵が描かれている絹地も 動植綵絵と同じ大きさ
人生最後に描かれたこの作品は おそらく動植綵絵に匹敵する特別なもの。
白い子犬がくわえている緑の切れ端
30代で描いたしゅろの箒の色と似ている
実は この箒の持ち主こそ 犬に仏性があるか?と問いかけた禅僧なのである
子犬と箒の絵 若冲は数枚描いている 若冲には重要な課題
子犬たちが奪い合う紐も おそらくこの箒の1部
箒がバラバラになってしまうまで 若冲は禅問答を考え抜いたということか
その思いを ここに描き上げた若冲。
何故ここまで大事にしていた作品を動植綵絵に盛り込まなかったのか
犬という画題が禅にとって重要であるからこそ描きにくい
動植綵絵を描いてる時まだ未熟な若冲では描ききれないと思い回避した
しかし 80代半ばになり 今描かなくて いつ描くという思いで書き上げたようです
禅と犬という生涯のテーマに 80代の絵師は百犬図で見事にこたえたのであります。
動植綵絵を描いていた時に知り合った人物がいる
若冲は その人物の生き方を人生の手本とした。
天明8年 天明の大火
最大の火災があり焼け出された若冲は 伏見の石峰寺の門前に住むことになった。
ここにも若冲のお墓が・・・
ちなみに
相国寺のお墓は若冲が生前に建てられた生前墓で、
石峰寺のお墓は若冲が亡くなった時に遺体を葬ったお墓だそうです
このころ 70代にして初めて絵を生きる糧にすることに。。。
斗米翁 と名乗り わずかなお米と引き換えに絵を描く
それは 若冲が人生の師と仰いだ人物の生き方そのもの
売茶翁図 1757年
相国寺の禅僧大典についで 若冲の人生を大きく変えたにが売茶翁
いずれは 由緒ある寺の住職になる人物であったが その道を捨て
自ら 茶道具を担ぎ 生きる糧として一服のお茶を売り歩く
その生き方に感銘を受けた若冲。
動植綵絵を描いていた40代に出会った売茶翁
若冲の描く その見事な出来栄えに
「丹責活手の妙 神に通ず」 売茶翁が若冲に与えた書
貴方の芸術は 神に通ずるものがある
震えるほど感動した若冲は
妙 丹
通 責 ← その言葉を印章に刻んだ
神 活
手
この印章が押されている作品は 全作品の中で わずか4点
百犬図 (そして動植綵絵の中から3点)
池辺群虫図 牡丹小禽図 蓮池遊魚図 である。
しかし 30年以上も経ち 百犬図になぜ?
動植綵絵の中で 押されている作品は 若冲が自分でも最高傑作と自負しているもの
それが 百犬図にも押してあるということは
若冲にとって 本当に時別な作品だったことの表れである。
禅と犬という画題に再び向き合う
80代の今なら 動植綵絵を超えて より自由に大胆に描ける
師が授けてくれた この大切な印章に
今こそ ふさわしい力があるんだと若冲は 百犬図で宣言したのであります。
とにかく 全てが素晴らしい この言葉以外が思い浮かばないほどの作品でありました
動植綵絵 みているうちに飛び出してくるのでは?
そんな気持ちにさせてくれた あまりにもリアルな作品
百犬図 本当に残念であります
できれば もう1度。。。。。後ろ髪ひかれながらの帰宅でありました
自分でも予想外に長文になってしまいました