若冲

2016-05-21 | 美術館
生誕300年記念若冲展  (18日に行ってまいりました) 
東京で初めて釈迦尊像  動植綵絵が勢ぞろいしました。


1716年 京都
青物問屋の長男として産まれたが 商いが嫌い 跡取りにもかかわらず嫁も取らず
40歳で家督を弟に譲り隠居
そこから ほとんど独学で始めた絵の道
3年後に 前代未聞の制作に挑む

1757~66年  

釈迦尊像  

飾られている順
中央  釈迦如来像  鮮やかな色彩を重ね 強烈なコントラストで描かれている
右   文殊菩薩   青い獅子に乗っています
左   普賢菩薩   真っ白い像に乗っています

動植綵絵  縦148cm 横80cm の 極上の絹地に描かれています

綵絵の綵という字には 美しい彩り という意味があるそうですね
描かれているのは身近な動物達   30幅のうちの半数は「鳥」
なかでも多いのは鶏   8幅も描かれています

若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めました。
すぐには写生をせず、鶏の生態を朝から晩まで徹底的に見つめる。
そして一年が経ち見尽くしたと思った時、おのずと絵筆が動き出した。
鶏の写生は2年以上も続き、若冲は鶏だけでなく、
草木や岩や あらゆる生き物を自在に描けるようになった。

群鶏図  13羽の色とりどりの鶏  どれ1つとして同じ姿 表情が見当たりません
この鶏達 3Dかと思うほど 羽がフワッと浮き上がっているように見え
どうして このように見えるのか 不思議で不思議で。。。最高です♪


以外には 植物の世界  匂い立つような満開の花々  水族館のような魚達

これらは全て 京都の相国寺に寄進するために 若冲が描いたものです
相国寺の大典顕常(1719-1801)は 若冲という名を授けた人
青物問屋の主だったころ出会い 影響を受け禅の道へ。
家業を捨て 絵の道へすすんだ若冲を支えた大典  だた1人でした
その恩にこたえようと描いた作品 
釈迦尊像(13~14世紀ころ)は 同じ京都の東福寺が持っていた仏画を
鮮やかな色彩で模写したもの(1765年頃)
釈迦尊像のまわりを飾り立てるように描かれたものが動植綵絵であります。

作品は驚くほどリアルで過剰なほどの緻密さ 
1cmにも満たない南天の実など 1粒1粒が恐ろしいまでに描かれている
降りしきる雪は まるで生き物のようです
紫陽花の花は 輪郭線のように見える部分には 絵具が塗られていません
没骨法と言われる技法で 余白で輪郭を表していて
花びらの隙間は なんと1mmほど。
膨大な下図を繰り返し描き 途方もない手間と時間をかけ 30幅を
たった1人で書き上げた天才。

動植綵絵は 宮内庁三の丸尚蔵館にあります
動植綵絵の修復と調査(1999~2004年)が行われ
スズメの目からは多くの鉄分が検出され 黒漆が使われていた可能性を裏付けました。

そして 鳳凰の白さに光を感じるような表現はどのように工夫したのか
白い絵絹に薄墨を塗り それを下図の上に。
膠で顔料の胡粉をとき 羽の質感を出すために濃淡をつけて描いていきます
次に黄土。  羽の金色に見えた部分は 金ではなかったのです
その黄土を絵絹の表ではなく裏からも彩色
これを表から見ると羽が金色に!
裏彩色した黄土が光沢のある絵絹と表面に塗られた胡粉を通すことによって
金色に輝いて見えるのです。
その輝きが羽の光沢と柔らかな質感を見事に映し出す
更に 美しい羽を より際立たせるために絵絹を裏打ちする紙にも
薄墨で染めていたことがわかった


芍薬群蝶図
飛び交う白い蝶  下の2匹は「している」 上の2匹は「していない」
裏色彩をしていない白い蝶はぼんやり見え 遠近感が表現されてます。


若冲は絵具にも費用を惜しまず上質な品を求めた
群魚図の中に入る「ルリハタ」
もっとも苦労して この魚に塗った藍色は美術史の定説を覆したのである

深い藍色 1704年ドイツで発見された プルシャンブルー 西洋の顔料である。

日本に入ってきたばかり お値段も相当な額であった。
発色も良く しかも色あせない この絵具を若冲はいち早く使ったのだ
日本で広まったのは19世紀   葛飾北斎も この藍色の虜になった
日本で使われたのは 1770年前半と言われていましたが
その10年前に 若冲は使っていたのである
若冲の真の狙いは 永久不変な美を描くこと
だからこそ 変色しない この絵具に拘ったのである

ルリハタ 本当に色あせていず美しい藍色でした。

「世間に画名を広めたいという軽薄な志で描いたのではありません
   全てを相国寺に喜捨し荘厳の具となり 永久に伝えられることが望みです
             若冲の寄進状より」


五百羅漢像(1776-1800)若冲が下絵を描き彫らせた石仏
五百羅漢信仰は仏教の中でも 特に広まったもので 若冲も熱心に禅を学んでいた
禅の大切な教えの中に「犬」が登場する。

30代で描いた犬の絵 厖児戯帚図 1764年以前
画面を横切るには しゅろで出来た箒 その後ろに黒い子犬
この絵には 禅問答の問と答えがある
「犬に仏性があるか 無いか」 この教えは若冲にとって生涯の問いかけとなった。
答えは 「無」 有無ではなく色々な欲望を超越してから 忽然と悟るもの

そして若冲が亡くなる1年前のこと 集大成と言える1枚を残した

百犬図 1799年 (これは個人蔵のため 残念なことに8日までの展示でありました)

この作品は画家としてのリベンジでもあった。
若冲は10年かけて描き上げた「釈迦尊像」「動植綵絵」を相国寺び50代で寄与した
この時 自分のお墓を相国寺に建てたのだ
動植綵絵を描き切ったら余生と考えていた若冲
そして 大典に自分の墓に銘を刻んでほしいと頼んだ
一大傑作を寄与してくれた稀有な人と書くのが普通だが
大典は 
動植綵絵を超えるものを描くのは この先無理かもしれない
ならば わずかな米代と引き換えに水墨画でも描こうかと若冲は言うが
それはあまりにも後ろ向きというもの。 御仏がこの世のすべてを作られたように
筆であらゆるものを描きつくしてこそ 安らかな気持ちで
この墓に眠れるのではないか

この大典の言葉が 若冲に前を向かせた!

乗興舟 1767年 木版画に挑戦
今日と伏見から 大阪まで ゆったりとした舟旅

伏見人形図 1800年  
ぽっちゃりとした布袋さん

鳥獣花木図屏風 18世紀
美術ファンの間では とても有名なモザイク模様の屏風

そして80代  画業の集大成として描いたのが子犬

百犬図
毛並みは1本1本まで執拗に描きこまれている
絵が描かれている絹地も 動植綵絵と同じ大きさ
人生最後に描かれたこの作品は おそらく動植綵絵に匹敵する特別なもの。
白い子犬がくわえている緑の切れ端
30代で描いたしゅろの箒の色と似ている
実は この箒の持ち主こそ 犬に仏性があるか?と問いかけた禅僧なのである
子犬と箒の絵 若冲は数枚描いている  若冲には重要な課題
子犬たちが奪い合う紐も おそらくこの箒の1部
箒がバラバラになってしまうまで 若冲は禅問答を考え抜いたということか
その思いを ここに描き上げた若冲。

何故ここまで大事にしていた作品を動植綵絵に盛り込まなかったのか
犬という画題が禅にとって重要であるからこそ描きにくい
動植綵絵を描いてる時まだ未熟な若冲では描ききれないと思い回避した
しかし 80代半ばになり 今描かなくて いつ描くという思いで書き上げたようです
禅と犬という生涯のテーマに 80代の絵師は百犬図で見事にこたえたのであります。


動植綵絵を描いていた時に知り合った人物がいる
若冲は その人物の生き方を人生の手本とした。

天明8年 天明の大火  
最大の火災があり焼け出された若冲は 伏見の石峰寺の門前に住むことになった。
ここにも若冲のお墓が・・・

ちなみに
相国寺のお墓は若冲が生前に建てられた生前墓で、
石峰寺のお墓は若冲が亡くなった時に遺体を葬ったお墓だそうです

このころ 70代にして初めて絵を生きる糧にすることに。。。
斗米翁 と名乗り わずかなお米と引き換えに絵を描く
それは 若冲が人生の師と仰いだ人物の生き方そのもの

売茶翁図 1757年
相国寺の禅僧大典についで 若冲の人生を大きく変えたにが売茶翁
いずれは 由緒ある寺の住職になる人物であったが その道を捨て
自ら 茶道具を担ぎ 生きる糧として一服のお茶を売り歩く
その生き方に感銘を受けた若冲。

動植綵絵を描いていた40代に出会った売茶翁
若冲の描く その見事な出来栄えに
「丹責活手の妙  神に通ず」 売茶翁が若冲に与えた書
貴方の芸術は 神に通ずるものがある

震えるほど感動した若冲は 

妙  丹
通  責     ← その言葉を印章に刻んだ
神  活
   手 

   
この印章が押されている作品は 全作品の中で わずか4点

百犬図   (そして動植綵絵の中から3点)

池辺群虫図  牡丹小禽図  蓮池遊魚図 である。

しかし 30年以上も経ち 百犬図になぜ?
動植綵絵の中で 押されている作品は 若冲が自分でも最高傑作と自負しているもの
それが 百犬図にも押してあるということは
若冲にとって 本当に時別な作品だったことの表れである。

禅と犬という画題に再び向き合う
80代の今なら 動植綵絵を超えて より自由に大胆に描ける
師が授けてくれた この大切な印章に
今こそ ふさわしい力があるんだと若冲は 百犬図で宣言したのであります。


とにかく 全てが素晴らしい この言葉以外が思い浮かばないほどの作品でありました

動植綵絵 みているうちに飛び出してくるのでは?
そんな気持ちにさせてくれた あまりにもリアルな作品

百犬図 本当に残念であります
できれば もう1度。。。。。後ろ髪ひかれながらの帰宅でありました

自分でも予想外に長文になってしまいました

カラヴァッジョ展

2016-05-11 | 美術館
2016年4月   カラヴァッジョ展

私が今回 「観たい」と思った絵は
法悦のマグダラのマリア 
エマオの晩餐
バッカス
メドゥーサ



彼の人生は 画家として 金銭面では困ったことはなかったという恵まれた画家。
しかし 自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回もあったり、
二週間を絵画制作に費やすと、その後の1~2ケ月は
召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩き
喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていた。
作品以外にカラバッジョが残した品は(ローマ国立古文書館)
警察調書と裁判記録のみで 20件以上にも及んだという
投石による傷害  刀剣の不法所持(この時代 刀剣を持ち歩いてはいけなかった)
絵筆を持っているより 刀剣を手にしている方が長いと言われるほど
彼の日常は殺気立っていた
1606年5月28日 ローマで対立していたグループと かけテニスの果てに
決闘し 相手を殺してしまった。
死刑宣告をされ ローマから逃亡

この時 逃亡先で描いた作品 

「法悦のマグダラのマリア」1606年 (キリストの死と復活を見届けたと言われる聖女)
カトリックでは娼婦であったという伝承から
罪深い女性とされながらも魅力的な身体を持つ怪しげな美女としてあらわされている。
この絵は カラヴァッジョが最後まで持っていたと言われていますよね
発見されたのが 2014年 本当にごく最近という事実に驚くばかりです
長い年月を経て 手の部分が黒ずんでしまっていました
赤外線で撮った写真から 元々の手の柔らかな描写がわかりました
巧みな陰影で出したこの柔らかな描写こそ カラバッジョの証。
いやいや 本当に美しい・・・この表現でいいのだろうか
とにかく引き込まれてしまいます。

同じ時期に描かれたのは 「エマオの晩餐」
光と闇のコントラスト
その闇は殺人だけの精神的な影響を受けたのではなく
彼の故郷に伝わっていた闇のルーツの影響もある と言われているようです。

まだ初期のころに描かれた 「バッカス」1597~98年頃
フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿が 彼の才能をいち早く見抜き
自分の屋敷に住まわせ 絵に没頭されたと言われていますね
その中で生まれたのが バッカス 
ローマの神話に登場する酒の神
カラヴァッジョ自身が「モデル」と言われています
絵の中の右下のワインの中に 
この絵を描いているカラバッジョ自身の姿も写っています
実物では わかりませんでしたが 出口近くのショップのレプリカで
しつこいくらい見つめ・・・発見 うれしかったです はい!

バッカスは初期1597~98年  法悦の・・・1606年 後期
8年程しか間がないのだが描写の変化を遂げている
共通するものは 徹底した現実の描写。

ローマ→ナポリ→マルタ→シチリア 逃亡

恩赦を求めようと騎士団になることを望み たどり着いたマルタ島
ここでは生涯最大の作品に取り組んでいますね
洗礼者ヨハネの斬首(1608年)聖ウルスの殉教(1609)展示されてませんw
これは闇が主役。 初期のころのバッカスと比べると、どんどん闇が深まる。 
祈りの空間と深いかかわりがあるのではという説があるそうです
彼の時代 昼間でも暗い教会の中 闇を見つめることに救いがあるのではないか。。。

トカゲに噛まれる少年という絵があるのですが
絵の中にはちゃんとした「教え」があるのに 
なぜか クスッと笑ってしまいました。

彼の最期
ナポリを発ったカラヴァッジョはローマに向かいます。
目的は「死刑」に対する恩赦を法王に求めるため。
このときカラヴァッジョは自身の作品3点を持参していました。
法王の恩赦を得るために、その甥のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に
作品を贈り助力を求めるためです。
手違いがあり カラヴァッジョを残したまま船は出航。
船を追いかけたカラヴァッジョは熱病にかかり、
トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去した。


しかし こういう説もあるそうです↓
2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、
この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている
この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた
発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、
この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い
当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。
さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、
このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。


カラヴァッジョ展・・・・思ったより楽しめました (失礼 汗)

ボッティチェリ展

2016-05-11 | 美術館
2016年2月  「ボッティチェリ展」にて 目の保養をしてまいりました。


今回は日伊修好通商条約150周年の記念として イタリヤ外務省や大使館の支援を受け
この先 何十年も日本では観られない数の作品が展示されましたね
これは 絶対に行かねばならぬ という意気込みで楽しんでまいりました。


「ラーマ家の東方三博士の礼拝」  「聖母子」 「温和なミネルウェ」
鑑賞した絵を書いたら キリがありませんが 本当に素晴らしいの一言でした
残念ながら ヴィーナス誕生はありませんでしたが 苦笑

「パリスの審判」  神話としては人気のあるお話ですよね
(私この絵に関しては ボッティチェリよりルーベンスの方が好きw)
この絵(シーン)になるまでの経緯も、好きな話ですが
この絵で パリスがためらうことなく(というより後先考えず欲情に走った決断)
金のリンゴをヴィーナスへ渡してしまったことからの女達(女神)の浅はかな見栄?
それが 1つの国を亡ぼすことにつながるとは。。。トロイア戦争だ。
1つの絵画からの神話が本当に面白い
その神話を思い出しながら鑑賞する絵  自然に時間も長くなるんですよね
だから混む? 爆


「美しきシモネッタの肖像」
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ
美しい髪 整った顔・姿態はフィレンツェの人々からLa Bella(美しき)と呼ばれました。
1475年に開催された馬上槍試合で優勝した「美男と言われた貴公子ジュリアーノ・デ・メディチ」に
スミレの花冠を贈り「永遠の恋人」と噂され
しかし翌年の1476年肺結核のために23歳の若さで急逝。
彼女の死顔の美しさは、生前の美を超えていたと言われている
ボッティチェリはシモネッタの肖像を何枚も残しています。
「フィレンツェ1番の美女」に対する多くの依頼があったのかもしれませんね

シモネッタの肖像画はピエロ・ディ・コジモも描いてますね
ボッティチェリのシモネッタとは ちょっと雰囲気が違って見えます
わたし個人的には ピエロのシモネッタのほうが好みかな♪

フェルメールとレブラント展

2016-05-11 | 美術館
IDを忘れたため なかなか入ることができずにいました。


2016年2月 フェルメールとレブラント展に行ってまいりました。

17世紀オランダを彩った様々な48作家の作品60点

わたし的には フェルメールの作品だけを観に行った感じなのですがねw
フェルメールの作品 今の世に残っているものは30数点
世界に散らばっているので まとめて観ることは難しい



レブラント・ファン・レイン 「ベローナ」1633年
物語に登場する人物を誇張することなく等身大で描き
新しい人物像を作り上げ 
光と影の効果を使い 人物の性格を浮かび上がらせる。

ヨハネス・フェルメール 「水差しを持つ女」
部屋に広がる美しい光の世界と 青
絵の下地に 当時の金と同じくらい高価なラピスラズリを使ったと言われております
作品全体が「青」の美しさに魅了されてる気がしました とにかく美しい「青」

このモデルになった女性は他の作品にも登場してますね
手紙を読む青衣の女  窓辺で手紙を読む女 手紙を書く婦人と召使
このモデルは「妻」との説もあります

そして 手紙を書く女性 額が広く他作品にも登場します
少女 ギターを弾く女  「娘」との説があるようですね。 はたして真実は?

全ての作品を見終え 出口の外へ(お土産が売ってますw)
そこには フェルメールの全作品が飾ってありました (当然 本物ではないですよw)

ここからは フェルメールの話に・・・w

謎多き画家 画家自身による手紙も著書も 生存中の作品売却記録もありません
わかっているのは 出生と亡くなった日


デルフトの眺望 1660-61年頃
画家の故郷 43年の生涯のうち ほとんどを過ごした場所

フェルメールの絵には 窓から差し込む光の中で描いた作品が圧倒的に多い
しかし それに匹敵するほど多かったのは 画中画
その画中画の中に寓意が隠されていると言われています

ヴァージナルの前に立つ女(1673-75年頃)
画中画に描かれている天使  たった1人に捧げる愛を意味しているそうです

天秤を持つ女性(1665年頃)
画中画は最後の審判  物事の善悪を見極めよ という教訓

画中画ではないですが 
真珠の首飾りの女 は、鏡の中の首飾りを観察することと
天文学学者がどのように星を観察するかを対比にさせていると言う説もあります

とても有名な 真珠の耳飾りの少女(1655-1666年頃)
この作品は「ベアトリーチェ・チェンチェ」(1599?頃?)の一種のオマージュとして
描かれたのではという説がありますね
何故なら 当時のオランダでは被る習慣のないターバンをモデルが巻いている 
  ということからだそうです
「ベアトリーチェ・チェンチェ」に関しては肖像画をめぐる謎・説がたくさんありますよね
私 この色々な「説」がとっても好きなんですが フェルメールとは関係ないので止めておきます
知りたい方 いないだろうしww

オランダの繁栄とフェルメールの世界観を
うかがい知ることができる貴重な2作があると言われています。

天文学者(1668年)
今では当たり前ですが 昔は有り得ない描き方をしていると言われているようですね

この作品 日本で展示されたのに 見逃した私。。。ゆえに執着がww

フェルメールの特徴は 
室内の一角で正確な遠近法と写実的な光の効果で描かれているということ。
ところが 人物はボンヤリした輪郭
カメラオブスクラ(復元) 当時 多くの画家はそのガラスに薄い紙を置き
そしてなぞることで正確な遠近法をつかみ絵を描いていた
カメラオブスクラの特徴は輪郭が柔らか。 今のソフトフォーカスになります
では フェルメールのボンヤリした絵もガラスに映った画像をなぞったのでしょうか

現代ではソフトフォーカスと自然に思うけれど この時代のフェルメールは
ガラスを使うことなく絵画によって空気感を描けている。

フェルメールのアトリエは屋根裏にあった
カメラオブスクラを使うには 被写体との距離が6,6m 必要
しかし彼の部屋の長さは 3,8m ここでは不可能
光あふれ そこに漂う空気感は」ガラスをなぞるのではなく 
自らの筆で描いていたという証拠になる。
だからこそ 唯一 無二の輝きを放ち 今なお世界中で愛されているのですね

天文学者 そこに描かれている球体は 地球儀ではなく天球儀である
その横には アストロノーム(天体観測器)
壁の右端には絵が掛けられています 画中画。。。

天球儀には 左上に おおくま座 中央には うしかい座
このような星座は神話の中の世界を案じています
手元にある本は オランダの化学者が書いた天文学地理学案内書(アドリアーン・マティウス著)
マニアックな本である。
しかも左に挿絵があることから刊行した第2版ということが分かるそうです
この作品をフェルメール最高の1枚にしているのは
室内に拡散する窓からの光をとらえた描写
学者の上着は光を照り返し柔らかなひだを作っている
詩集がされている布の上に煌く白い粒のような反射光もまた 
光の魔術師と言われたフェルメールならではの描き方

この絵には「対」とも言われている作品があります
地理学者(1669年)
どちらの人物も たっぷりとしたガウンを着ています
これは日本との貿易で輸入した着物をヒントにしたガウンで
知識層 や 富裕層の間で流行っていました。

この2枚 同じ人物に見えますが モデルは謎
候補として挙げられているのは 微生物学者 アントニー・ファン・レーウィンフック
顕微鏡を発明して 世界で初めて微生物を観察した人物。
でも 顔が似てない!

次は 哲学者のバールーフ・デ・スピノザ(父親と親交があったとか)
この人がモデルという論拠はないが そういう所を考え 想像するのも面白いところ

自然科学に精通している人物が注文しないと こういう絵の良さはわからないので
注文者がモデル という説もありました。


フェルメールが活躍した17世紀
オランダは東アジアとの貿易で莫大な利益を享受していた
この時代 海洋を航海する海には必ず天文学者と地理学者が乗っていました。
彼らがいなければ船の位置を判断できなかったからです
この天文学者(1668年)は オランダ繁栄の絶頂期に描かれた作品なのです.

さて天文学者の画中画ですが 旧約聖書の1節 モーセの発見

幼いモーセはエジプト王の虐殺から逃れるために ナイル川に流されました
その岸辺で水遊びをしていた王の娘に発見され 大事に育てられました
そして成長したモーセは 奴隷状態だったユダヤの民を引き連れて
エジプトを脱出し イスラエルに向かうことにした。

この旧約聖書のエピソードと天文学者との関係は何なのでしょう
モーセは天文学発祥の地エジプトで学問を修めたと言われ
エジプトからユダヤ人をイスラエルまで導いたことで
天文学にも詳しかったと言われております

この画中画は 
天文学者は聖書に出てくるモーセに通じる重要な学者だということを意味しています。
フェルメールは旧約聖書と天文学者の密接な関係を「この絵」で示していたのです。

そして絵の中の 机の上に置かれた天文学・地理学案内書
実際の本には 星を最初に観察し研究したのは 聖書に登場する人々であり
神からの助けを借りて我々のために計測し記録した。
この本も 天文学が聖書の時代から連綿と繋がる学問であり
神の導きによって探求されたということを示しているのでした。

この絵でフェルメールが背景にあらわしたかったのは
オランダ黄金時代到来に寄与した天文学者への畏敬の念
連綿と築かれてきた天文学の知識があればこそ 
今の繁栄がもたらされたということを描いているのでしょう

ちなみに ニュートンが「万有引力の法則」を発見したのは(1687)
こののちの20年後のこと
まさにオランダの絶頂期 繁栄がもたらした豊かな生活は芸術も豊かにした
その時代を支えた男たちに敬意をはらい この絵を描いた・・・という説。

フェルメールに限らず 1枚の作品に込められた「想い」って奥が深いですね。


2015-12-15 | 美術館
夏から心待ちにしていた場所に行ってまいりました

肉筆浮世絵  美の競艶 シカゴコレクション


肉筆美人画
木版画とは違い 最初から最後まで1人の絵師で仕上げる
木版の浮世絵 錦絵は版元が介在しないと出来ない
絵師の意図は如実に現されているのが肉筆の作品の魅力ですね
錦絵は大量生産される大衆商品で 絵師の表現には制約がありました。
一方の肉筆は1点物
時間をかけて生産されお値段も高価で 絵師の芸術性 技術が問われます
だからこそ 絵師は特別な思いをこめて描くのです。

129点 どれもこれも素晴らしい作品でした。
日本の美術館にあれば 観る機会も増えるのに残念ですね。

吉原正月の景 桂人詠歌図 美人戯犬図 短冊を結ぶ美人図。。。
見惚れた作品を上げたら キリガナイww

その中でも 私が心待ちにしていた作品は 

葛飾北斎の「美人愛猫図」(江戸時代) 日本初公開のため謎の多い作品だそうです
版画ではなく 絹本 (絹に描かれたもの)
左手は袖を通さず懐へ その手には猫。 猫の首輪も女性の襦袢と同じ鮮やかな赤
この猫の顔 どう見ても愛らしくない  
女性が猫を見る表情も愛おしさというより とまどい?

北斎は号を30回もかえてます
この作品の雅号は 「画狂老人 北斎」

北斎を名乗りはじめたのは40歳頃  北斎の下に印が押されています 

蛇亀
足毛 (きもうだそくの印) 北斎が40~50歳頃に使われていた印です。

この印から 美人愛猫図は1800年から1810年頃と推測できるそうです。

この絵は 源氏物語の若菜(上巻)の物語が埋め込まれているそうですね
光源氏の親友の息子 柏木が六条の庭で蹴鞠を楽しんでいると
光源氏の妻 女三宮の部屋から
小さな仔猫が別の仔猫に追われ逃げようともがいているのに気がつきます
その仔猫の首につながれていた赤い紐で御簾が乱れ
柏木は女三宮の顔を見てしまう
若菜 上巻 下巻を読まれた方なら ご存知と思いますが
女三宮に恋焦がれた柏木の最後は 失意のうちに亡くなりますよね
女三宮は結局 尼に。。。
興味のある方は 読んでください

美人愛猫図
猫の首には 御簾を乱した赤い紐
女性が着ている着物が乱れているのは 慌てて猫を追いかけたからか?
とまどった表情は 思いがけない出会いへの驚きか
1枚の絵から 想像が膨らむ 本当に面白く楽しめますね。
北斎の美人は 造形性絵画として自立性が強く 見た話を写し取るのではなく
芸術としてのたくましさを注ぎ込んだ美人
それを表現するには肉筆画でなければならないようです
絵師の想いと表現する技術があってこそ
観る者にさまざまな物語の想像をさせる。。。のだそうです。
鑑賞するだけの美人ではない 画狂老人北斎らしい美人画。


さて北斎 その前は 宗理と名乗っていましたね
葛飾北斎が美人がをもっとも多く描いたのは 宗理時代
宗理型美人スタイルを作り 人気を集めました
美人愛猫図は宗理から 北斎に雅号をかえて挑んだ新たな美人画です
富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(1830~34) 諸国瀧廻り(1833年頃)
などの風景画が有名ですが 読み本や挿絵など たきにわたっている
北斎漫画 1814~78年
30代半ばから40代の頃の北斎は美人画の名手として名を持てはやされていました。

江戸時代 浮世絵は庶民の娯楽 とくに美人画は人気
江戸時代初期の代表作 「見返り美人 菱川師宣作 1690年」
江戸時代中期     「雨夜の宮詣で 鈴木春信作 11765年」
対照的な美人画ですね

北斎が宗理時代に描いた美人画は 華奢な体にうりざね顔
小さな目鼻立ちを特徴とする上品な美人は 大衆の人気を集めました。

宗理と北斎の違い
宗理時代は 体も着物のしわも細い繊細な線で描いている大人しく端正である
北斎は 着物に太さの異なる線が使われて動きが画面に溢れてくるようになる
愛猫図の着物も 灰色の地味な色は 赤い襦袢や口紅を際立たせるためではなく
着物の黒い線を強調するするため  動きを見せることに拘ったそうです

酔余美人画 1807年 線を操る独自の美人を作り出した北斎
美人愛猫図は 北斎美人の誕生を告げる記念的作品

生涯で93回も引越しをした北斎
贅沢とは無縁で 食べること 着ることにも拘らず
ひたすら絵を描いていたという
自らが狂老人と名乗るほど 人生を絵にかけた北斎
100歳になる頃に本物の絵師になれると信じ 絵に全てのエネルギーを注いだ
そんな北斎が 描いた美人愛猫図

誰もが興味を持つはずですよね

晴れた土曜日 心も満たされた美しい土曜日になりました。


最後までお付き合いきくださり感謝いたします。

日の出は間に合わずww

2015-12-08 | 美術館
久しぶりに目の保養をしてきました。

東京都美術館 モネ展 

私が20代の頃 パリのオランジュリー美術館でモネを観た時

その美しさに目を見張った記憶が・・・
日本人には モネ好きが多いと聞きましたが 私も「その1人」ww


美術館には 午前中に到着しましたが すでに混んでる

モネが10代に描いたカリカチュア
発表されることのなかった家族の肖像画
「睡蓮」の連作 「日本の橋」 バラの小道
オランダのチューリップ 新聞を読むクロード・モネ など等

時間をかけてタップリと堪能させていただきました。

残念なことに 「印象・日の出」(1872年)は10月18日までの特別出展
諸事情から 間に合わなかったけど 
「ヨーロッパ橋 サン=ラザール駅」を楽しむことが出来ました。



ここからは展示されていない作品の余談が多いので 適当にスルーしてください

見逃した「印象・日の出」
このタイトルから印象派という言葉がうまれた歴史的にも名高い作品
北フランスの港町の朝を描いたそうです。
(当時のモネは それほど裕福ではなかったので売却)

モネが落選を繰り返す売れない画家時代に描いた作品で
画家仲間と共に独自の展覧会を企画  そこで この日の出を発表。
スケッチのような大胆なタッチに 当時は未完成と誤解されるほどだったそうですね

2014年 フランスで行われた日の出の調査。
赤外線をあて撮影した写真には 材質により写り方がかわり
鉛筆などの下書きは黒く浮き上がるそうです
モネと同時代のミレー「落穂拾い。夏」などは赤外線をあてると
緻密な下書きの線で描かれているそうですね
モネの日の出には 下書きの線が全くみつからなかったそうです
モネは形や構図より 大胆にも色と筆のタッチで描ききってしまう
モネが求めた新しい絵画・・・なのでしょう


日の出の7年前の作品 「草上の昼食」(展示されてません)
しっかりとした構図で描かれています
モネは何度もデッサンを重ね 降り注ぐ光をアトリエの中で描こうとした
しかし屋内では いきいきとした光が出せず 途中で完成を諦めてしまいます。
以来 屋外で実際の光を見ながら 創作することに拘り続けたモネなのです。

日の出は モネが定宿にしていたホテルの窓から見た景色と言われています
頭の中でシッカリ出来た構図を元に 一気に書き上げていったそうです。

水面に映し出された太陽の光は 想像を超えるすばやい描き方
赤と白の絵の具は殆ど混じりあっていないことがわかります。
水面に浮かぶ船は 奥にあるほど淡い色を使い遠近感をあらわし
あえて白い塗り残しを作り 流れる雲の動き 空の明るさを出しています。

この頃 写真というものが出てきました。
画家達に与えられた命題?に変化が起き始めた頃なのでしょうか。。。

展示されていた「サン=ラザール駅」(1877年) パリ市内のターミナル駅
蒸気機関車から立ち上る煙に光が降り注ぎます
その明暗をコントラスト用いて写しとっています

セーヌ川沿いののどかな行楽地を描いた「ラ・グルヌエール」(1869年)
水面に映る光をコントラストを強調して描いてあります
若い頃のモネにとって光は かつてない活気に満ちた都市の輝きを象徴するものでした。
(展示されていません)
この延長線上にある「積みわら」(1885年)
左奥に太陽が思いっきり当たっている積みわら
モネはあえて手前に日陰を描いています
家畜のえさのなる干し草によりかかるのは都会から来た親子
都会の人々が楽しむ のどかな休日をあらわす光のコントラスト

人々の楽しい場面を生き生きとさせているのが 「前半の光」

その3年後 「ジヴェルニーの積みわら 夕日」(1888年)
光の描き方にも変化 コントラストは用いず わずかに異なる色を隣り合わせ
光の微妙な表情を表しています
同じ風景を 朝・昼・夕  冬・夏  生きてるかのように変化する光を追い求めていきます
モネは この絵を境に 人物を描かなくまります

また積みわらの中身にも違いが。。
1885念の積みわらは干し草 1888年の積みわらは小麦
西洋の人々の主食の麦は大地の恵みの象徴
小麦を包み込む夕日 
そこに命を輝かせる光の力を見出したとの説も。

後半期の「生命の根源」としての光

モネ39歳で 妻エミールが病死
次男が産まれたばかりで 途方にくれ鬱々と暮らしていたモネ
1879年 大寒波が遅い 滅多に凍らないセーヌ川が氷結
自分の心のようにセーヌ川が凍ってしまったと更に落ち込むモネ
しかし 雪解けの時期がきた 春。  氷結していたセーヌ川が流れ始める瞬間が来た。
凍ったセーヌ川が流れるのを見たモネは
季節でも 1日のうちでも 日の光はこんなにもかわり
春が来る 凍ったセーヌ川も動かしてしまう と気がつきました
そしてモネは かわっていく季節とセーヌ川を描いてみようと 連作を思いついたのです。

モネ43歳 ジヴェルニーに移り住み 亡くなる40年間 ここで暮らすのである。

生命の根源に目覚めたモネは 自然を追い求めます
自ら庭を造った睡蓮の池  200点以上の作品を描いた
モネの視線は 睡蓮の花から 睡蓮が浮かぶ水面へ移っていく(水鏡)
(水も生命の根源)
水 そのものへの感心を強めていきます。
絵の主役だった睡蓮は 脇役になり その描き方も簡単なものになっていきます。

水に映る地球の壮大な命を追い求めたモネ
しかし 白内障を患い 失明の危機に直面。
それでも絵筆を折らずに 持ち続けたモネ
その中で生まれた睡蓮の絵がある(展示)
79歳で描いた作品 はっきりとした形はないが 迫力のある1枚であります
モネの画家としての意気込みを感じますね

高知県北川村に フランスにあるモネ財団から
世界で唯一「モネの庭」を名乗ることを許された庭園があります

いつか 出来ることなら その「場所」に立ってみたいな と思っています。



いつものことながら  長々とメモ的更新になってしまいました。

ギリギリセーフ

2015-07-01 | 美術館
6月末 最終日 ぎりぎりで大英博物館に行って来た。

前売り券は完売・・・数軒目でやっと買えた。どれだけ混んでいることやら。
開館30分前に行くと すごい列なのだ。 トホホ

自分が忘れないためのメモ的な更新であります。
ご容赦ください 

入館して すぐに目に入ったものは、古代エジプトの棺 
紀元前3000年頃から2700年続いた古代エジプト文明
棺には 古代エジプト文字で シェ ペン メヒュト 女性の名前があった
彼女が棺の主であることを示しているが 近年のCTで男性ミイラがおさめられてること判明
古代エジプトでは お墓の盗掘が頻繁に起きていたため
豪華な装飾品を身につけていた女性ミイラは そのまま持ち去られ
その後、貴重な棺は 再利用された。。。と言う説が残ってるようです。
いつの世も世知辛いですな~~・・・


200万年前の  オルドヴァイ渓谷の礫石器 
700万点の中でもっとも最古の品
人類が誕生したとされる アフガニスタン・タンザニアで発見された 
石の両側から違う石をぶつけ尖らせた石器
この石器のそばには 叩き潰された動物の骨が残されていた
このことから 人類は石器の尖った部分で骨を削り骨髄の中の
高カロリーの脂肪を摂取していたことがわかるそうです
200万年前 人間は弱い存在で、動物の食べ残した死骸を食べて
脳を発達させていたと考えられているそうです


1万4000年前のトナカイの角に彫られたマンモスの彫刻
顔の先が折れていますが その部分を持ち
尻尾の部分に槍をひっかけ 投げる道具として使用していたそうです
機能性とデザイン性を兼ね備えた初期のアート
人類が芸術活動を始めていたことを物語っていますね
こういう形にしたら マンモスが捕れるかも・・と言う願いがこもっているのでしょうか

そして文明の誕生
紀元前3000年頃から 2700年間 繁栄を続けた古代エジプト文明。


エジプトと並ぶ最古の文明として中東地域で繁栄していた 古代メソポタミア文明
人類で初めての文字を生み出すなど高度な文明。
くさび形文字の原型となった文字。

当時の社会生活の姿を伝える「ウルのスタンダード」
現在のイラクを中心に紀元前2500年頃に栄えたメソポタミア文明の都市国家
ウルの遺跡から発掘
軍旗の役割? 楽器? 何に使われたから不明
青はラピスラズリ 白は貝 赤は石灰岩 贅沢な素材がふんだんに使われています
材料はものすごく遠い場所から集められ 王の権威を示しています
このような貴重な品なので もしかしたら王宮に飾られていたのかもしれませんね
当時のウルの社会の姿が見られます

片面・・・大きく描かれているウルの王様
下には 王に貢物を差し出す人々の行列
当時 すでに階級社会が設立されていたことがわかります
片面・・・馬車?に乗ったウルが敵の兵隊をなぎ倒している
ロバが引いてるそのものは ウルの時代に発明された戦車なのです
王の前に連行される行列の姿
ウルは古代文明のはじまりと共に 戦争が始まった歴史も伝えています。

紀元前3000年頃 人類は世界各地で古代文明を築いていきます

インド パキスタン 1000年以上栄えた古代インダス文明
遺跡からは武器が発見されていない
階級がなく 平和な社会だったのではと推測されているようですね

パキスタンで発見されたインダス文明の印章
インダス文字は今も解読が研究されているそうです
印章は メソポヤミア文明でも発見
インダス文明が広く交易されていたことがわかりますね


地中海 
紀元前3000年頃から 2000年近くギリシャのクレタ島で繁栄した ミノス文明
広大な交易をし豊かな富を蓄えていた
その文明をいきいきと伝えるものが 雄牛の跳び像
ミノス文明では 雄牛は神聖視されていた
雄牛を飛び越える勇壮な行為は宗教儀式の場などで披露されていたと考えられているそうです


海を越え 中央アメリカの密林  紀元前1400年頃
最初の都市が築かれます
現在のメキシコ グァテマラを中心に1000年にわたり繁栄した 古代オルメカ文明
オルメカ文明の仮面 儀式に使われていた石の仮面です
顔の両頬に刻まれた模様は 合わせて4つ
東西南北の方位を表しているそうです
王が方位の中心であり この世界の秩序を保っているとの暗示?


アフリカ タンザニア
1948年 海岸でゴミとして捨てられた陶磁器 10世紀~15世紀の品
緑の青磁は中国 白地に青の染め?は中東
中国の明の時代には 磁器が一大産業となり 多くが中東などにもたらされた
中東→アフリカ→・・・・

15世紀 朝鮮王朝の時代に生産され日本にも。
お茶の世界の人々は この美しさを認めるだけの「目」があったのですね
茶道の世界で 中国や朝鮮半島の陶器が大切にされていたのです。
割れてしまった品は
漆でつなぎ 貴重な金をはる 金継が行われ 新たな形の「美」を見出しました
金継された碗  粉青沙器
継ぎあとの 亀甲模様は 長寿吉兆  ウロコ模様は 魔除けの意味が。。


今から500年前 ヨーロッパの侵略により滅亡した文明
インカ帝国 マチュピチュ  インカ文明
残された記録には ヨーロッパのものが多く 実像をさぐるには容易ではない
ニール・ナクレガー館長の言葉 
文献を通して戦争について語るのは常に勝者 「物」は敗者の歴史を語る
なるほどな~と実感。
インカ文明の黄金のリャマ小像
収穫と種まきに行う儀式で神々にささげられたそうです
インカ文明の独特の世界がうかがわれますね


カリブ海に浮かぶ イスパニョーラ島
15世紀 ヨーロッパの人々の入植後 先住人民 タイノ族の伝統も失われた

タイノ族の儀式の椅子
人間のような姿をし 目は金で塗られ 大きな耳
邪悪なものと戦うために 人間も凶悪なもので立ち向かう?
そにために怖いものをつくる その典型のような品・・・・?
後ろの片足が 短くなっています
霊力の強いものは それに打ち勝つ職人さんでない限り修理は困難と言われますね


オーストラリア アボリジニの編み籠
2万年もの間 変わることなく受け継がれている
アボリジニは ヨーロッパの人々が入植する前から暮らしていました
アボリジニの岩絵 豊かな芸術性を示しています
水が少ないため農耕もできず 移動しながらの生活
家を持たないから 都市もできない 文明も。。。
しかし オーストラリア全体を聖地にし 音楽もすばらしい 大変 豊かな精神
この籠1つで生活に必要な品 すべてが入ったのですね
今の時代 見習うべきものを感じますね



見終えて。。。外を見ると 行列もなく スムーズに皆さん 入館されている
あらら  早めに並んで損した感じ?

付き合ってくれた方と 美術館内のレストランでランチをし
帰宅しました とさ。

気分次第で。

2015-06-17 | 美術館
趣味・・・までとは言えない美術館巡り 

全くと言ってよいほど知識もないため 

巡った美術館の更新も、なかなか手が出ないww

たまには書く? そんな気分になった誰も読んでいないであろうブログ~ フフフ


楽しんできたのは ボッティチェリとルネッサンス(フィレンツェの富と美)

と その前に今回は付き合ってくれる奇特な方が名乗り出てくれたので
2人でランチ  某ホテル52階 気がつくと2時間半もお食事を楽しんでいた。

いざ 出陣  どれだけ楽しませてくれるのであろうか ワクワク


ボッティチェリ 15世紀後半イタリアで活躍。聖母・女神を描き続けた。

ヴィーナス誕生はあまりにも有名ですよね(今回は展示されていませんけど)

まず目にとまった作品は 初期のころの「聖母子と二人の天使」
マリアの顔は丸顔で愛らしいが 内面の深さに至ってはいない姿に感じる
しかし 初期の時点で目力が他の画家とは違うような気がします

壁画幅5mを超える大作 「受胎告知」 30代半ばの作品ですね
この辺りから少女っぽいマリアから 少し大人っぽくなった気がします

今回 展示されていない絵が沢山ありますが
私が観たい絵の殆どが日本には来てもらえなかったようです 涙

余談ですが・・・・
マリアの夫を決める際にイスラエル中の寡夫の杖が集められたところ、
ヨセフの杖にだけ花が咲いたので、ヨセフがマリアの夫に決まったといわれています。
この伝承に従い、ヨセフは花を咲かせた杖あるいは枝とともに描かれることがあります。
イエスの実の父親ではないことを強調するためにも、
特にカトリックの伝統的図像学においてヨセフは
結婚当時14歳であった妻マリアよりもはるかに年上の老人として
表されることが多くあります。

ルネッサンス以前の中世時代
宗教画は人間性を持たせずに描くことが常識でした
「サンタ・トリンタの聖母子」を観るとなるほど~と思いますよね
人間は穢れた存在とされ 聖母の姿には神々しくなければならない
絵の中の人物は祈りの対象であり 個性や感情はむしろ排除すべきもの
ボッティチェリは 女性のイメージが聖母や聖女などの宗教的なものに
限られていた時代に 人間的な肉体を描くことで
新たな女性の美を表現しようとしたらしいです

ボッティチェリ 師匠の元を去り20代半ばで フィレンツェに自分の工房を構える。
そこで メディチ家との出会うのですね(パトロンです)
メディチ家の郊外の別荘では知識人の集まりを主催し
そこでボッティチェリは 人間の洞察を深めていくのであった
絵にも変化がおき 豊かな温かみのある表情を描くようになる。

そしてあのヴィーナスの誕生が生まれるのである(今回はないけど)
現代では 1人の画家が全て1人で描く。。。ことが普通ですが
当時は パトロン・まわりのインテリ達が 
配置など(他)を話し合い作り上げていったので
ボッティチェリが1人で作り上げたのではないらしい
その様々な注文がありながら それ以上の作品を作り上げたボッティチェリ
なので次々に作品を依頼されたのでしょうね スバラシイ

フィレンツィのウフィツィ美術館に もう1つ代表作がありますね
春(プリマベーラ)
メディチ家の注文で 結婚祝いの品として描かれたヴィーナスです
薄い衣をまとい その表情は秘めたものを感じますね
まわりの神々も薄絹をまとってますが キリスト教徒の女性は
人前では裸にならないので この薄絹はぎりぎりだったと言われていますね
ボッティチェリの挑戦でしょうか。

このような美しい女性を描きながら ボッティチェリ 実は女性嫌いで一生独身
現実ではいないような描いた女性が「理想」だったのでしょうかね~

「パラスとケンタウロス」(展示されていません)
学問の女神パラスが 暴力と欲望の象徴とされるケンタウロスを押さえつける場面
知性が暴力を支配する。。。しかし女神の顔は勝利の顔ではなく
深い悲しみに満ちているように感じられるのはなぜでしょうか

この絵を依頼される前に 大事件がおこりましたよね
反メディチ家勢力が 大聖堂でロレンツォと その弟を暗殺する計画を実行
ロレンツォは難を逃れたが 弟は惨殺
助かったロレンツォは報復に出て 暗殺に関わった者達を捕らえ処刑したのだ
その様子をボッティチェリに壁画として描くように依頼したのです
(壁画は後に壊されたので 実際には観ることはできない 残念)

この過酷な体験をした後に描いた作品が パラスとケンタウロス
パラスの衣装に描かれている模様は メディチ家の紋章
メディチ家の勝利が含まれている作品なのに
パラスの瞳は 勝利にふさわしくない深い悲しみをたたえ遠くをみつめてる
ヴィーナスと同じように いろいろな「想い」がある作品なのかもしれません

その後 ロレンツォが亡くなり メディチ家は衰退し 町から追放されてしまう
絶対王政ではない時代なので「家」のつぶしあい
勃興しようとする「家」は とにかくつぶし自分が政権を握る 順番なのでしょうね

ボッティチェリは大きな支えがなくなり画風をかえて 絵を描き続けた
その後の政治の実権を握ったのは 修道士サヴォナローラ
メディチ家時代の芸術を非難し焼きはらった

ちなみに サヴォナローラ
彼の厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高り
サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、
ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。
教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処され殉教した


その時代に描いた「誹謗」
サヴォナローラの思想の元 描いた作品だ
ヴィーナス時代のような 優美さも官能もなく
刺々しいほどの緊張感が張り詰めている。。。

あの香るようなヴィーナスを描いたボッティチェリ
本人も「これでいい」と思っていたのでしょうかね~。。。

ボッティチェリとルネッサンスに行ってきました
と書いたはずなのに 

今回展示されてない絵画 と余談話になってしまいました マル

最後に 美術館にありがちな「お土産コーナー」
「パラスとケンタウロス」の版画を薦められたのですが
あまりに「はてな?」的な説明を受け。。。
すごく残念な気持ちで 美術館を後にした私達でした

まぁ 買う気はないけどね 買えないし フフフ



続・・・・?

2015-03-16 | 美術館
前回の国立博物館 檜図屏風の他に観たかった作品

雪舟等楊 の「四季山水図」


中国の南宋の時代 
水墨画がこれほどまでに高みに至った時代は他にはなかったとか
1279年 南宋は滅び 数々の作品が日本にも渡り
日本の画家達が盛んに模写しました
雪舟も南宋の絵に学びながら 最高峰の技を身につけていきました。
南宋の絵は「余白」「空間」を大事にしていたとか。 

雪舟 1420年 現在の岡山県に産まれ 若くして都にのぼり相国寺で修行をする
将軍足利義満によって壮健された相国寺
幕府の御用絵師 著名な画僧を多数排出している
 
雪舟の師匠は 相国寺のトップ 周文
南宋の絵画にならいながら 
「四季山水図」みやびな画風を作り上げ絶大な人気を誇りました
その細やかな筆が 都の人の心を捉えたのです。

一方 雪舟の若き日の作品「溌墨山水図」
周文とは対照的で 細やかさには程遠い筆・・・
雪舟の画風は都の好みに合わず 成功を望むように手に出来なかった

35歳で 周防の国(山口県)の大内氏から誘いを受け 
都落ちを決意し そこで絵を描いて過ごした。
48歳で大内氏がおくる遣明使の一員に選ばれ
日本人の画家として初めて水墨画発祥の地 南宋へ渡航
南宋で実際に観た本場の水墨画は日本の画風とは違っていた

本場の水墨画に触れ 自分の画風は 本場に近いと感じた雪舟。
強い自信を感じた瞬間。

雪舟が中国で描いた「四季山水図」同窓とした力強さ 人々の暮らしと自然の息遣い。 

宮廷の人達が その腕に驚き、役所に飾る大作を依頼したという。。。



今回は その四季山水図が観たかったのですが
「秋冬山水図」は展示されていず

今回は 「春」系 「夏」系しかなかったみたいでね・・・

雪舟が旅の行き帰りに滞在した天童寺
そこには 今でも 雪舟の自画像と「天童第1座」と言う称号が貼られている

北京で宮廷を訪れた雪舟は 側近たちから手厚いもてなしを受け
その返礼に 大きな山水画を贈り それを観た皇帝が感激され
そして 皇帝から「天童第1座」の称号を頂いたのです。

帰国後 十数年にわたり 各地を点々とする日々を送った後
山口に庵を構え80代で亡くなるまで絵を描き続けた


雪舟の作品中 6点も国宝に指定されていますが
それは他にはないこと。


機会があれば 山口県にある毛利博物館にある「国宝 四季山水図」(山水長巻)
16Mにわたり 四季の移り変わりが描かれてる壮大な絵巻
こちらも拝見したいものです。

急いで駆け込み

2015-03-15 | 美術館
国立博物館に行って来た。

3月15日まで公開の「檜図屏風」を観るために。

狩野永徳  戦国時代の天才絵師 (安土桃山時代)

よく観ると 引き手が付けられた跡が見られます
元々4面からなる襖だったものが 何かの理由で8面の屏風に仕立てなおされたらしい
そのため 残った跡のようです。
そして 今回の形に。。 国宝としては珍しいこととか!

いつ誰のために作られたのか? 長年の謎だったらしいのですが
修復の間 裏打ちの紙から 雲母(きら)と言う白く光る絵の具の跡がみつかり
写し取ると紋様が浮き出てきた
それが五七の桐の紋様。。。

秀吉の養子だった八条宮智仁親王
後に秀吉は 智仁親王のために御殿を作り その壁画を狩野一門に依頼した
その中の1つが 檜図屏風ではないかとされていましたが 何1つ証拠はなかった
御殿はなくなりましたが 智仁親王が作った別邸 京都の桂離宮
そこの襖に八条宮家ゆかりの紋様 五七の桐が残っている
その紋様と配置された間隔が 檜図屏風に発見された紋様と一致
絵柄からは何の物的証拠も存在しませんが
この紋様が 美術家の研究者達には八条宮家のものと認識されたみたいですね
(ちなみに 
  宮庁三の丸尚蔵館にある「四季草花図屏風」にも五七の桐がみつかりました)

永徳の作品は くすんだ感じ・重厚感を意識されていましたが
今回の修理で 修理前に比べると 全体的なくすみが取れ
色鮮やかさが出てきたそうです
檜の幹もくすんだ茶色だったものが 赤色が鮮やかになり
ぐんじょうの水も鮮やかに・・・
幹の黒い線が鮮明に浮き上がってきて 
枝が生きてるかのような力強さを持っていることが判明

檜図屏風は永徳作ではないのでは? もしくは単に関わっただけ?と言う説があり
永徳の1番弟子の狩野山楽の作品では?という説も。。。

しかし、弟子の山楽の墨の線は 曲線がつらなり優雅で自然な印象
永徳の筆は 自由奔放でスピード感に溢れている

そして 修理の過程で発見された下書き
小さな枝は太い枝にかかっているにも関わらず 完成品では枝先が消されている

師匠の下書きを弟子が直すということは有り得ないので
永徳自身が手を下した可能性が高まった結果に。

戦国の絵師の悲しさゆえ 建物もろとも 殆どの作品が失われて
シンピツと認められる作品は10点に及ばないそうです。

仕事の依頼が多すぎて 納期を延ばしてほしいと頼む手紙も発見されたほどの永徳
突然の急死 いまで言うなら過労死だったのかしら

とにかく 素晴らしい檜図屏風を観ることが出来て目の保養をさせていただきました。


昨年のオルセー

2015-02-08 | 美術館
昨年の話ですが オルセー美術館展へ行った。 


私が 特に特に観たい と思っていた絵は、

ミレー「晩鐘」  モネ「かささぎ」  モネ「草上の昼食」  セザンヌ「草上の昼食」  

カバネル「ヴィーナス誕生」

カバネルの400年前に ボッティチェリが描いたヴィーナス誕生があるけど
本当に「誕生」した瞬間は カバネルのヴィーナスだよな~。と感じるのは私だけ?

絵画には 色々なお話が絡んでる 

「ヴィーナス誕生」には
ゴヤやルーベンスの描いた「我が子を喰らうサトゥルヌス」との関係が 実に面白いと感じる私です

サトゥルヌスは 自分の父親を大鎌で虚勢したあげく殺してしまった
(まぁ どうしてそうなったかのお話もあるのですが)
その時に父親から「お前も自分の子供に殺されるであろう」と言葉を残された
なので自分の子供に殺される前に食べ殺した。。。

サトゥルヌスは切断した父親の男根を海に投げ捨て
血まみれの物体は海水と太陽の光で白い泡となり
その泡からヴィーナスは誕生・・・なんだか凄い話ですよね

ヴィーナスは醜い神と結婚し 沢山の子供を生んだとか
でも その子供達は 全てヴィーナスの愛人の子
常に許す夫って・・・ある意味すごい。

この絵の中に咲いているアネモネ
ヴィーナスが愛した美少年を 愛人の中の1人が嫉妬して殺してしまい
ヴィーナスの「愛の証に戻ってきて欲しい」と言う言葉に応えるかのように
美少年の血が流れた地面から アネモネが咲いたという。

1枚の絵から こんなにお話が展開する

絵画って本当に面白いですね


出きれば オルセー美術館にある ゴッホ「自画像」や

ルーブル美術館の作品も日本に来てくれたら嬉しいなと思う私でした マル


ホイッスラー展

2015-02-04 | 美術館
横浜美術館 ホイッスラー展

私が観たかったのは「シンフォニーシリーズ」と「ノクターンシリーズ」

ホイッスラーの言葉
音楽家が音を集めて和音を作り 壮麗なハーモニーを生み出すように
芸術家は色や形が持つ要素を調和させて美しいものを生み出すように運命づけられている

タイトルに初めて音楽の用語を使った絵  白のシンフォニーNO3

日本の歌川広重と浮世絵に影響を受けたホイッスラー
浮世絵の版画は色が限られている
油絵とは違う制限された美
白のシンフォニーは 制限された美を感じますよね



白のシンフォニー(左)と小さなホワイトガール
紫とバラ色:6つのマークのランゲ・ライゼン 

モデルは同一人物で ホイッスラーの彼女(愛人)だったジョー
小さなホワイトガールのモデルを終えた頃 2人には別れが訪れたとか
そう思って観ると ジョーの表情は どことなくさびしそうに見えるのだわ

紫とバラ色の絵に登場する美術品は 
すべてホイッスラーのコレクションとか すばらしいの一言ですね


灰色のアレンジメント:自画像
前髪のあたりに一筆 白く塗られている部分がある
ホイッスラーは前髪の1部を白くしていたとか? お洒落と言うべきなのかしらw


ホイッスラーと言えば 青と金色のハーモニー:ピーコックルーム(フリーア美術館)

19世紀の実業家フレデリック・レイランドと大喧嘩になった あの有名なピーコックルーム

ほとんど完成した内装を 彼の不在中に全く違うものにかえてしまったというホイッスラー

アンティークの赤い皮の壁を ピーコックブルーに替え 金で東洋的な柄を書き
その空間に置かれた美術品は東洋の品

新聞では絶賛されたが レイモンドは激怒

そにまま喧嘩別れになり 会うこともなかったとか
でもレイモンドは その後も戻すことをしなかったのは
怒りながらも 何か感じていたのかな?

ホイッスラーの絵は静かなものが多いので
他の画家の作品がひしめき合う中で
こういう場所がなければ 自分の作品をユックリ鑑賞できない
そう思ったのでは?という説もありますね

さて 夜景を描いた「ノクターンシリーズ」

ノクターン:青と金色
 
夜空にあがった花火の色が 私にはとても可愛く見えました

ホイッスラーは絵の具に沢山の油などを調合し描いたそうです
それで この絵のような繊細なニュアンスが出せたとか。。。。


黒と金色のノクターン: 落下する花火(1875)

この絵は 美術評論家が酷評し ホイッスラーが名誉毀損で訴え裁判になりましたね
裁判中の 相手側弁護士とホイッスラーのやりとりした言葉が残っています
勝利したのはホイッスラー

実は 私はこの絵が1番すきで 凄く楽しみにしていたのですが
残念ながら ホイッスラー展にはありませんでした

この絵についてホイッスラーは
「この絵が何を表現しているのか それについては観る人次第です
ある人にとって それは私の意図した通りのものを表しているのかもしれません
しかし別の人には 何も表していないのかもしれません」

ただ 何となく「好き」で観てる私では
ホイッスラーの「意図」を感じとれることはないのでしょうね

横浜1人美術館   とても有意義なひと時でした。