若冲

2016-05-21 | 美術館
生誕300年記念若冲展  (18日に行ってまいりました) 
東京で初めて釈迦尊像  動植綵絵が勢ぞろいしました。


1716年 京都
青物問屋の長男として産まれたが 商いが嫌い 跡取りにもかかわらず嫁も取らず
40歳で家督を弟に譲り隠居
そこから ほとんど独学で始めた絵の道
3年後に 前代未聞の制作に挑む

1757~66年  

釈迦尊像  

飾られている順
中央  釈迦如来像  鮮やかな色彩を重ね 強烈なコントラストで描かれている
右   文殊菩薩   青い獅子に乗っています
左   普賢菩薩   真っ白い像に乗っています

動植綵絵  縦148cm 横80cm の 極上の絹地に描かれています

綵絵の綵という字には 美しい彩り という意味があるそうですね
描かれているのは身近な動物達   30幅のうちの半数は「鳥」
なかでも多いのは鶏   8幅も描かれています

若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めました。
すぐには写生をせず、鶏の生態を朝から晩まで徹底的に見つめる。
そして一年が経ち見尽くしたと思った時、おのずと絵筆が動き出した。
鶏の写生は2年以上も続き、若冲は鶏だけでなく、
草木や岩や あらゆる生き物を自在に描けるようになった。

群鶏図  13羽の色とりどりの鶏  どれ1つとして同じ姿 表情が見当たりません
この鶏達 3Dかと思うほど 羽がフワッと浮き上がっているように見え
どうして このように見えるのか 不思議で不思議で。。。最高です♪


以外には 植物の世界  匂い立つような満開の花々  水族館のような魚達

これらは全て 京都の相国寺に寄進するために 若冲が描いたものです
相国寺の大典顕常(1719-1801)は 若冲という名を授けた人
青物問屋の主だったころ出会い 影響を受け禅の道へ。
家業を捨て 絵の道へすすんだ若冲を支えた大典  だた1人でした
その恩にこたえようと描いた作品 
釈迦尊像(13~14世紀ころ)は 同じ京都の東福寺が持っていた仏画を
鮮やかな色彩で模写したもの(1765年頃)
釈迦尊像のまわりを飾り立てるように描かれたものが動植綵絵であります。

作品は驚くほどリアルで過剰なほどの緻密さ 
1cmにも満たない南天の実など 1粒1粒が恐ろしいまでに描かれている
降りしきる雪は まるで生き物のようです
紫陽花の花は 輪郭線のように見える部分には 絵具が塗られていません
没骨法と言われる技法で 余白で輪郭を表していて
花びらの隙間は なんと1mmほど。
膨大な下図を繰り返し描き 途方もない手間と時間をかけ 30幅を
たった1人で書き上げた天才。

動植綵絵は 宮内庁三の丸尚蔵館にあります
動植綵絵の修復と調査(1999~2004年)が行われ
スズメの目からは多くの鉄分が検出され 黒漆が使われていた可能性を裏付けました。

そして 鳳凰の白さに光を感じるような表現はどのように工夫したのか
白い絵絹に薄墨を塗り それを下図の上に。
膠で顔料の胡粉をとき 羽の質感を出すために濃淡をつけて描いていきます
次に黄土。  羽の金色に見えた部分は 金ではなかったのです
その黄土を絵絹の表ではなく裏からも彩色
これを表から見ると羽が金色に!
裏彩色した黄土が光沢のある絵絹と表面に塗られた胡粉を通すことによって
金色に輝いて見えるのです。
その輝きが羽の光沢と柔らかな質感を見事に映し出す
更に 美しい羽を より際立たせるために絵絹を裏打ちする紙にも
薄墨で染めていたことがわかった


芍薬群蝶図
飛び交う白い蝶  下の2匹は「している」 上の2匹は「していない」
裏色彩をしていない白い蝶はぼんやり見え 遠近感が表現されてます。


若冲は絵具にも費用を惜しまず上質な品を求めた
群魚図の中に入る「ルリハタ」
もっとも苦労して この魚に塗った藍色は美術史の定説を覆したのである

深い藍色 1704年ドイツで発見された プルシャンブルー 西洋の顔料である。

日本に入ってきたばかり お値段も相当な額であった。
発色も良く しかも色あせない この絵具を若冲はいち早く使ったのだ
日本で広まったのは19世紀   葛飾北斎も この藍色の虜になった
日本で使われたのは 1770年前半と言われていましたが
その10年前に 若冲は使っていたのである
若冲の真の狙いは 永久不変な美を描くこと
だからこそ 変色しない この絵具に拘ったのである

ルリハタ 本当に色あせていず美しい藍色でした。

「世間に画名を広めたいという軽薄な志で描いたのではありません
   全てを相国寺に喜捨し荘厳の具となり 永久に伝えられることが望みです
             若冲の寄進状より」


五百羅漢像(1776-1800)若冲が下絵を描き彫らせた石仏
五百羅漢信仰は仏教の中でも 特に広まったもので 若冲も熱心に禅を学んでいた
禅の大切な教えの中に「犬」が登場する。

30代で描いた犬の絵 厖児戯帚図 1764年以前
画面を横切るには しゅろで出来た箒 その後ろに黒い子犬
この絵には 禅問答の問と答えがある
「犬に仏性があるか 無いか」 この教えは若冲にとって生涯の問いかけとなった。
答えは 「無」 有無ではなく色々な欲望を超越してから 忽然と悟るもの

そして若冲が亡くなる1年前のこと 集大成と言える1枚を残した

百犬図 1799年 (これは個人蔵のため 残念なことに8日までの展示でありました)

この作品は画家としてのリベンジでもあった。
若冲は10年かけて描き上げた「釈迦尊像」「動植綵絵」を相国寺び50代で寄与した
この時 自分のお墓を相国寺に建てたのだ
動植綵絵を描き切ったら余生と考えていた若冲
そして 大典に自分の墓に銘を刻んでほしいと頼んだ
一大傑作を寄与してくれた稀有な人と書くのが普通だが
大典は 
動植綵絵を超えるものを描くのは この先無理かもしれない
ならば わずかな米代と引き換えに水墨画でも描こうかと若冲は言うが
それはあまりにも後ろ向きというもの。 御仏がこの世のすべてを作られたように
筆であらゆるものを描きつくしてこそ 安らかな気持ちで
この墓に眠れるのではないか

この大典の言葉が 若冲に前を向かせた!

乗興舟 1767年 木版画に挑戦
今日と伏見から 大阪まで ゆったりとした舟旅

伏見人形図 1800年  
ぽっちゃりとした布袋さん

鳥獣花木図屏風 18世紀
美術ファンの間では とても有名なモザイク模様の屏風

そして80代  画業の集大成として描いたのが子犬

百犬図
毛並みは1本1本まで執拗に描きこまれている
絵が描かれている絹地も 動植綵絵と同じ大きさ
人生最後に描かれたこの作品は おそらく動植綵絵に匹敵する特別なもの。
白い子犬がくわえている緑の切れ端
30代で描いたしゅろの箒の色と似ている
実は この箒の持ち主こそ 犬に仏性があるか?と問いかけた禅僧なのである
子犬と箒の絵 若冲は数枚描いている  若冲には重要な課題
子犬たちが奪い合う紐も おそらくこの箒の1部
箒がバラバラになってしまうまで 若冲は禅問答を考え抜いたということか
その思いを ここに描き上げた若冲。

何故ここまで大事にしていた作品を動植綵絵に盛り込まなかったのか
犬という画題が禅にとって重要であるからこそ描きにくい
動植綵絵を描いてる時まだ未熟な若冲では描ききれないと思い回避した
しかし 80代半ばになり 今描かなくて いつ描くという思いで書き上げたようです
禅と犬という生涯のテーマに 80代の絵師は百犬図で見事にこたえたのであります。


動植綵絵を描いていた時に知り合った人物がいる
若冲は その人物の生き方を人生の手本とした。

天明8年 天明の大火  
最大の火災があり焼け出された若冲は 伏見の石峰寺の門前に住むことになった。
ここにも若冲のお墓が・・・

ちなみに
相国寺のお墓は若冲が生前に建てられた生前墓で、
石峰寺のお墓は若冲が亡くなった時に遺体を葬ったお墓だそうです

このころ 70代にして初めて絵を生きる糧にすることに。。。
斗米翁 と名乗り わずかなお米と引き換えに絵を描く
それは 若冲が人生の師と仰いだ人物の生き方そのもの

売茶翁図 1757年
相国寺の禅僧大典についで 若冲の人生を大きく変えたにが売茶翁
いずれは 由緒ある寺の住職になる人物であったが その道を捨て
自ら 茶道具を担ぎ 生きる糧として一服のお茶を売り歩く
その生き方に感銘を受けた若冲。

動植綵絵を描いていた40代に出会った売茶翁
若冲の描く その見事な出来栄えに
「丹責活手の妙  神に通ず」 売茶翁が若冲に与えた書
貴方の芸術は 神に通ずるものがある

震えるほど感動した若冲は 

妙  丹
通  責     ← その言葉を印章に刻んだ
神  活
   手 

   
この印章が押されている作品は 全作品の中で わずか4点

百犬図   (そして動植綵絵の中から3点)

池辺群虫図  牡丹小禽図  蓮池遊魚図 である。

しかし 30年以上も経ち 百犬図になぜ?
動植綵絵の中で 押されている作品は 若冲が自分でも最高傑作と自負しているもの
それが 百犬図にも押してあるということは
若冲にとって 本当に時別な作品だったことの表れである。

禅と犬という画題に再び向き合う
80代の今なら 動植綵絵を超えて より自由に大胆に描ける
師が授けてくれた この大切な印章に
今こそ ふさわしい力があるんだと若冲は 百犬図で宣言したのであります。


とにかく 全てが素晴らしい この言葉以外が思い浮かばないほどの作品でありました

動植綵絵 みているうちに飛び出してくるのでは?
そんな気持ちにさせてくれた あまりにもリアルな作品

百犬図 本当に残念であります
できれば もう1度。。。。。後ろ髪ひかれながらの帰宅でありました

自分でも予想外に長文になってしまいました

カラヴァッジョ展

2016-05-11 | 美術館
2016年4月   カラヴァッジョ展

私が今回 「観たい」と思った絵は
法悦のマグダラのマリア 
エマオの晩餐
バッカス
メドゥーサ



彼の人生は 画家として 金銭面では困ったことはなかったという恵まれた画家。
しかし 自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回もあったり、
二週間を絵画制作に費やすと、その後の1~2ケ月は
召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩き
喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていた。
作品以外にカラバッジョが残した品は(ローマ国立古文書館)
警察調書と裁判記録のみで 20件以上にも及んだという
投石による傷害  刀剣の不法所持(この時代 刀剣を持ち歩いてはいけなかった)
絵筆を持っているより 刀剣を手にしている方が長いと言われるほど
彼の日常は殺気立っていた
1606年5月28日 ローマで対立していたグループと かけテニスの果てに
決闘し 相手を殺してしまった。
死刑宣告をされ ローマから逃亡

この時 逃亡先で描いた作品 

「法悦のマグダラのマリア」1606年 (キリストの死と復活を見届けたと言われる聖女)
カトリックでは娼婦であったという伝承から
罪深い女性とされながらも魅力的な身体を持つ怪しげな美女としてあらわされている。
この絵は カラヴァッジョが最後まで持っていたと言われていますよね
発見されたのが 2014年 本当にごく最近という事実に驚くばかりです
長い年月を経て 手の部分が黒ずんでしまっていました
赤外線で撮った写真から 元々の手の柔らかな描写がわかりました
巧みな陰影で出したこの柔らかな描写こそ カラバッジョの証。
いやいや 本当に美しい・・・この表現でいいのだろうか
とにかく引き込まれてしまいます。

同じ時期に描かれたのは 「エマオの晩餐」
光と闇のコントラスト
その闇は殺人だけの精神的な影響を受けたのではなく
彼の故郷に伝わっていた闇のルーツの影響もある と言われているようです。

まだ初期のころに描かれた 「バッカス」1597~98年頃
フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿が 彼の才能をいち早く見抜き
自分の屋敷に住まわせ 絵に没頭されたと言われていますね
その中で生まれたのが バッカス 
ローマの神話に登場する酒の神
カラヴァッジョ自身が「モデル」と言われています
絵の中の右下のワインの中に 
この絵を描いているカラバッジョ自身の姿も写っています
実物では わかりませんでしたが 出口近くのショップのレプリカで
しつこいくらい見つめ・・・発見 うれしかったです はい!

バッカスは初期1597~98年  法悦の・・・1606年 後期
8年程しか間がないのだが描写の変化を遂げている
共通するものは 徹底した現実の描写。

ローマ→ナポリ→マルタ→シチリア 逃亡

恩赦を求めようと騎士団になることを望み たどり着いたマルタ島
ここでは生涯最大の作品に取り組んでいますね
洗礼者ヨハネの斬首(1608年)聖ウルスの殉教(1609)展示されてませんw
これは闇が主役。 初期のころのバッカスと比べると、どんどん闇が深まる。 
祈りの空間と深いかかわりがあるのではという説があるそうです
彼の時代 昼間でも暗い教会の中 闇を見つめることに救いがあるのではないか。。。

トカゲに噛まれる少年という絵があるのですが
絵の中にはちゃんとした「教え」があるのに 
なぜか クスッと笑ってしまいました。

彼の最期
ナポリを発ったカラヴァッジョはローマに向かいます。
目的は「死刑」に対する恩赦を法王に求めるため。
このときカラヴァッジョは自身の作品3点を持参していました。
法王の恩赦を得るために、その甥のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に
作品を贈り助力を求めるためです。
手違いがあり カラヴァッジョを残したまま船は出航。
船を追いかけたカラヴァッジョは熱病にかかり、
トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去した。


しかし こういう説もあるそうです↓
2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、
この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている
この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた
発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、
この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い
当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。
さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、
このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。


カラヴァッジョ展・・・・思ったより楽しめました (失礼 汗)

ボッティチェリ展

2016-05-11 | 美術館
2016年2月  「ボッティチェリ展」にて 目の保養をしてまいりました。


今回は日伊修好通商条約150周年の記念として イタリヤ外務省や大使館の支援を受け
この先 何十年も日本では観られない数の作品が展示されましたね
これは 絶対に行かねばならぬ という意気込みで楽しんでまいりました。


「ラーマ家の東方三博士の礼拝」  「聖母子」 「温和なミネルウェ」
鑑賞した絵を書いたら キリがありませんが 本当に素晴らしいの一言でした
残念ながら ヴィーナス誕生はありませんでしたが 苦笑

「パリスの審判」  神話としては人気のあるお話ですよね
(私この絵に関しては ボッティチェリよりルーベンスの方が好きw)
この絵(シーン)になるまでの経緯も、好きな話ですが
この絵で パリスがためらうことなく(というより後先考えず欲情に走った決断)
金のリンゴをヴィーナスへ渡してしまったことからの女達(女神)の浅はかな見栄?
それが 1つの国を亡ぼすことにつながるとは。。。トロイア戦争だ。
1つの絵画からの神話が本当に面白い
その神話を思い出しながら鑑賞する絵  自然に時間も長くなるんですよね
だから混む? 爆


「美しきシモネッタの肖像」
シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ
美しい髪 整った顔・姿態はフィレンツェの人々からLa Bella(美しき)と呼ばれました。
1475年に開催された馬上槍試合で優勝した「美男と言われた貴公子ジュリアーノ・デ・メディチ」に
スミレの花冠を贈り「永遠の恋人」と噂され
しかし翌年の1476年肺結核のために23歳の若さで急逝。
彼女の死顔の美しさは、生前の美を超えていたと言われている
ボッティチェリはシモネッタの肖像を何枚も残しています。
「フィレンツェ1番の美女」に対する多くの依頼があったのかもしれませんね

シモネッタの肖像画はピエロ・ディ・コジモも描いてますね
ボッティチェリのシモネッタとは ちょっと雰囲気が違って見えます
わたし個人的には ピエロのシモネッタのほうが好みかな♪

フェルメールとレブラント展

2016-05-11 | 美術館
IDを忘れたため なかなか入ることができずにいました。


2016年2月 フェルメールとレブラント展に行ってまいりました。

17世紀オランダを彩った様々な48作家の作品60点

わたし的には フェルメールの作品だけを観に行った感じなのですがねw
フェルメールの作品 今の世に残っているものは30数点
世界に散らばっているので まとめて観ることは難しい



レブラント・ファン・レイン 「ベローナ」1633年
物語に登場する人物を誇張することなく等身大で描き
新しい人物像を作り上げ 
光と影の効果を使い 人物の性格を浮かび上がらせる。

ヨハネス・フェルメール 「水差しを持つ女」
部屋に広がる美しい光の世界と 青
絵の下地に 当時の金と同じくらい高価なラピスラズリを使ったと言われております
作品全体が「青」の美しさに魅了されてる気がしました とにかく美しい「青」

このモデルになった女性は他の作品にも登場してますね
手紙を読む青衣の女  窓辺で手紙を読む女 手紙を書く婦人と召使
このモデルは「妻」との説もあります

そして 手紙を書く女性 額が広く他作品にも登場します
少女 ギターを弾く女  「娘」との説があるようですね。 はたして真実は?

全ての作品を見終え 出口の外へ(お土産が売ってますw)
そこには フェルメールの全作品が飾ってありました (当然 本物ではないですよw)

ここからは フェルメールの話に・・・w

謎多き画家 画家自身による手紙も著書も 生存中の作品売却記録もありません
わかっているのは 出生と亡くなった日


デルフトの眺望 1660-61年頃
画家の故郷 43年の生涯のうち ほとんどを過ごした場所

フェルメールの絵には 窓から差し込む光の中で描いた作品が圧倒的に多い
しかし それに匹敵するほど多かったのは 画中画
その画中画の中に寓意が隠されていると言われています

ヴァージナルの前に立つ女(1673-75年頃)
画中画に描かれている天使  たった1人に捧げる愛を意味しているそうです

天秤を持つ女性(1665年頃)
画中画は最後の審判  物事の善悪を見極めよ という教訓

画中画ではないですが 
真珠の首飾りの女 は、鏡の中の首飾りを観察することと
天文学学者がどのように星を観察するかを対比にさせていると言う説もあります

とても有名な 真珠の耳飾りの少女(1655-1666年頃)
この作品は「ベアトリーチェ・チェンチェ」(1599?頃?)の一種のオマージュとして
描かれたのではという説がありますね
何故なら 当時のオランダでは被る習慣のないターバンをモデルが巻いている 
  ということからだそうです
「ベアトリーチェ・チェンチェ」に関しては肖像画をめぐる謎・説がたくさんありますよね
私 この色々な「説」がとっても好きなんですが フェルメールとは関係ないので止めておきます
知りたい方 いないだろうしww

オランダの繁栄とフェルメールの世界観を
うかがい知ることができる貴重な2作があると言われています。

天文学者(1668年)
今では当たり前ですが 昔は有り得ない描き方をしていると言われているようですね

この作品 日本で展示されたのに 見逃した私。。。ゆえに執着がww

フェルメールの特徴は 
室内の一角で正確な遠近法と写実的な光の効果で描かれているということ。
ところが 人物はボンヤリした輪郭
カメラオブスクラ(復元) 当時 多くの画家はそのガラスに薄い紙を置き
そしてなぞることで正確な遠近法をつかみ絵を描いていた
カメラオブスクラの特徴は輪郭が柔らか。 今のソフトフォーカスになります
では フェルメールのボンヤリした絵もガラスに映った画像をなぞったのでしょうか

現代ではソフトフォーカスと自然に思うけれど この時代のフェルメールは
ガラスを使うことなく絵画によって空気感を描けている。

フェルメールのアトリエは屋根裏にあった
カメラオブスクラを使うには 被写体との距離が6,6m 必要
しかし彼の部屋の長さは 3,8m ここでは不可能
光あふれ そこに漂う空気感は」ガラスをなぞるのではなく 
自らの筆で描いていたという証拠になる。
だからこそ 唯一 無二の輝きを放ち 今なお世界中で愛されているのですね

天文学者 そこに描かれている球体は 地球儀ではなく天球儀である
その横には アストロノーム(天体観測器)
壁の右端には絵が掛けられています 画中画。。。

天球儀には 左上に おおくま座 中央には うしかい座
このような星座は神話の中の世界を案じています
手元にある本は オランダの化学者が書いた天文学地理学案内書(アドリアーン・マティウス著)
マニアックな本である。
しかも左に挿絵があることから刊行した第2版ということが分かるそうです
この作品をフェルメール最高の1枚にしているのは
室内に拡散する窓からの光をとらえた描写
学者の上着は光を照り返し柔らかなひだを作っている
詩集がされている布の上に煌く白い粒のような反射光もまた 
光の魔術師と言われたフェルメールならではの描き方

この絵には「対」とも言われている作品があります
地理学者(1669年)
どちらの人物も たっぷりとしたガウンを着ています
これは日本との貿易で輸入した着物をヒントにしたガウンで
知識層 や 富裕層の間で流行っていました。

この2枚 同じ人物に見えますが モデルは謎
候補として挙げられているのは 微生物学者 アントニー・ファン・レーウィンフック
顕微鏡を発明して 世界で初めて微生物を観察した人物。
でも 顔が似てない!

次は 哲学者のバールーフ・デ・スピノザ(父親と親交があったとか)
この人がモデルという論拠はないが そういう所を考え 想像するのも面白いところ

自然科学に精通している人物が注文しないと こういう絵の良さはわからないので
注文者がモデル という説もありました。


フェルメールが活躍した17世紀
オランダは東アジアとの貿易で莫大な利益を享受していた
この時代 海洋を航海する海には必ず天文学者と地理学者が乗っていました。
彼らがいなければ船の位置を判断できなかったからです
この天文学者(1668年)は オランダ繁栄の絶頂期に描かれた作品なのです.

さて天文学者の画中画ですが 旧約聖書の1節 モーセの発見

幼いモーセはエジプト王の虐殺から逃れるために ナイル川に流されました
その岸辺で水遊びをしていた王の娘に発見され 大事に育てられました
そして成長したモーセは 奴隷状態だったユダヤの民を引き連れて
エジプトを脱出し イスラエルに向かうことにした。

この旧約聖書のエピソードと天文学者との関係は何なのでしょう
モーセは天文学発祥の地エジプトで学問を修めたと言われ
エジプトからユダヤ人をイスラエルまで導いたことで
天文学にも詳しかったと言われております

この画中画は 
天文学者は聖書に出てくるモーセに通じる重要な学者だということを意味しています。
フェルメールは旧約聖書と天文学者の密接な関係を「この絵」で示していたのです。

そして絵の中の 机の上に置かれた天文学・地理学案内書
実際の本には 星を最初に観察し研究したのは 聖書に登場する人々であり
神からの助けを借りて我々のために計測し記録した。
この本も 天文学が聖書の時代から連綿と繋がる学問であり
神の導きによって探求されたということを示しているのでした。

この絵でフェルメールが背景にあらわしたかったのは
オランダ黄金時代到来に寄与した天文学者への畏敬の念
連綿と築かれてきた天文学の知識があればこそ 
今の繁栄がもたらされたということを描いているのでしょう

ちなみに ニュートンが「万有引力の法則」を発見したのは(1687)
こののちの20年後のこと
まさにオランダの絶頂期 繁栄がもたらした豊かな生活は芸術も豊かにした
その時代を支えた男たちに敬意をはらい この絵を描いた・・・という説。

フェルメールに限らず 1枚の作品に込められた「想い」って奥が深いですね。