奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

映画「悲恋」と「トリスタン・イズー物語」

2017-08-30 13:01:40 | 読書
 

ちょっと前の三島由紀夫の記事にジャン・コクトーの名前を出したら、彼が脚本を書い

た映画「悲恋」はアレンジが加えられているが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」

だと教えてくださった方がいました。
 その時、私はハッとしてしまったんです。
 うちの書架に岩波文庫の「トリスタン・イズー物語」があるのですが、おそらく、映画

もワーグナーも原作はこの「トリスタン・イズー物語」ではないかと思ったのです。


 私が、この本を持っていたのは表紙の紹介文の「ヨーロッパ中世最大のこの恋物語は、

世の掟も理非分別も超越して愛し合う情熱恋愛の神話として人々の心に深く焼きつき、西

欧人の恋愛観の形成に大きく影響を与えた。」という文章に惹かれたからでした。
 「トリスタン・イズー物語」は遠くケルト説話に起源を持つらしく、中世の吟遊詩人が

好んで、この作品を題材に詩を作っていたそうです。
 吟遊詩人といえば、詩曲を作り、各地を訪れて歌った人のことですが、私はかつて、フ

ランソワ・ヴィヨンという吟遊詩人が作った詩が好きでした。
 その訳は、文芸評論家の小林秀雄から、アルチュール・ランボーに興味を覚え、様々な

翻訳家の訳詩を読み、ある時、その中から「母音」という作品を見つけたことに始まりま

す。

 Aは黑、E白、I緑、Oは藍色、
 
 母音よ、汝が潜在の誕生をいつか 我は語らむ。

 A,無慙なる悪臭の周圍に唸りを立てて飛ぶ

 燦めく蝿の 毛斑らの 黑き胸當、

 
 日陰の入江。E, 靄を天幕の 眞白さ、

 傲然たる氷塊の槍、白き光芒、繖形花の顫動。

 I,眞紅、吐かれし血、悔悛の陶酔か

 はた 憤怒の中の 美しき唇の哄笑。


 U,天體の週期なり、蒼海原の神さびし揺蕩、

 點々と家畜の散りぼふ 牧の平和、学究の

 廣き額に 煉金の祕法の刻む 小皺の平和。


 O、奇怪の鋭き叫びの満ち盈てる 至上の喇叭、

 大千世界と天使とを 貫ける沈默よ。

 ーOオメガ、かの人の眼の 紫の光線。



 この詩を訳したのはフランス文学者の鈴木信太郎で、そこから彼の訳したボードレール

も読むようになり、やがてフランソワ・ヴィヨンという吟遊詩人を知ったのです。

「疇昔(ちゅうせき)の美姫(びき)の賦(ふ)」
 
語れ いま何処(いづこ) いかなる国に在りや、
羅馬(ローマ)の遊女 美しきフロラ、
アルキピアダ、また タイス
同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、
 
河の面(おも) 池の辺(ほとり)に
呼ばへば応ふる 木魂(こだま)エコオ、
その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。
 
いま何処、才(ざえ)抜群のエロイース、
この人ゆゑに宮せられて エバイヤアルは
聖(サン)ドニの僧房 深く籠りたり、
かかる苦悩も 維(これ) 恋愛の因果也。
 
同じく、いま何処に在りや、ビュリダンを
嚢(ふくろ)に封じ セエヌ河に
投ぜよと 命じたまひし 女王。
さはれさはれ 去年の雪 いまは何処。
 
人魚(シレエヌ)の声 玲瓏(れいろう)と歌ひたる
百合のごとく眞白(ましろ)き太后ブランシュ、
大いなる御足のベルト姫、また ビエトリス、アリス、
メエヌの州を領じたるアランビュルジス、
 
ルウアンに英吉利人(イギリスびと)が火焙(ひあぶり)の刑に処したる
ロオレエヌの健き乙女のジャンヌ。
この君たちは いま何処、聖母マリアよ。
さはれさはれ 去年の雪 いまは何処。
 
わが君よ、この美しき姫たちの
いまは何処に在(いま)すやと 言問ふなかれ、
曲なしや ただ徒らに畳句(ルフラン)を繰返すのみ、
さはれさはれ 去年の雪 いまは何処。
 

この「疇昔の美姫の賦」は、遠き異国のロマンと哀切が胸を打つ優れた訳詩だと思いま

す。
 吟遊詩人とはこのように中世の歴史的事件やその地の史実についての物語を広め伝える

ために歌を歌っていたそうです。(Wikipediaより引用)

 
 ところで、映画の「悲恋」は先程も述べたように、ジャン・コクトーが脚本を書き、詩

的で素晴らしい映画だとは思ったのですが、ちょっと腑に落ちない点や理解しづらいとこ

ろがあったのです。
 その理由として考えられるのはこの物語が中世にフランスで作られ、フランス人で知ら

ぬ者はないほど有名だったので、同じくフランス人のジャン・コクトーは詳しく説明する必

要を感じなかったからではないでしょうか。

 
 そこで、原作を読めば、少しは理解できるかも知れないと思い、岩波文庫の「トリスタ

ン・イズー物語」を読んでみたのですが、そうしたら、映画の理解しづらい点の意味が掴

めたと同時に、吟遊詩人に好まれた訳が何となくわかった気がしてきました。 

トリスタンは、映画ではパトリスの名で、ジャン・マレーが演じ、広大な荘園の持ち主

である叔父のマアクの城に住み、興赴くまま馬を駆って狩りをしたり、キャンプをして、

青春を楽しんでいるのですが、小人のアシールに犬をけしかけるなど、ちょっと悪そうな

イメージなんです。
 ところが、原作では叔父のマアクは、母ブランシュフルールの兄で、コーンウォールを

治めるマルク王になっていて、トリスタンは楽手として、猟人として、家臣として、マル

クに忠実に仕え、パトリスのような悪そうなイメージはまったくないのです。
 
 まず、パトリスのイメージが、トリスタンと違うのは大きいと思います。
 
 次に驚いたのが、ナタリーの婚約者が酔いどれ漁師のモロールトなのに対し、原作では

アイルランド国王に仕えるモルオルトという騎士ということになっていて、戦場では何人

にも劣らぬ剛の者で、イズーは「黄金の髪のイズー」と呼ばれ、モルオルトの姪になって

いたことです。
 また、媚薬は、映画では根性曲がりの小人のアシールが毒と勘違いして、媚薬をナタリ

ーのカクテルに入れたために、パトリスを好きになるのですが、原作ではイズーの母が侍

女のブランジャンに預けた媚薬を、本来、マルク王と、イズーが飲むはずだったのに、喉

の渇きから誤って、トリスタンが飲んでしまい、運命のいたずらが引き金になったという

ことになっています。


 これらが、映画「悲恋」と「トリスタン・イズー物語」の主な相違点ですが、私は吟遊

詩人が好んだ訳は、トリスタンの一途にイズーを求め続ける愛情と、イズーの不安に揺れ

動く恋心、そしてトリスタンの成功を妬む四人の悪漢ゲヌロン、ゴンドアヌ、デノアラン

、アンドレに現されるように、人生の理不尽さを突いたところにあるように思えてなりま

せんでした。

そして、それはいつの世も、人々の心を引きつけて離さないのかも知れないですね。


また、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」もYouTubeで聴いてみましたが、荘厳で

悲愴感に満ちていて、暫し、運命のいたずらと、人生の理不尽さを思ってやみませんでし

た。

最新の画像もっと見る