奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

「三島由紀夫が死んだ日」中条省平 編・監修

2016-11-20 23:25:51 | 読書
 今月十一月二十五日は、三島由紀夫の命日です。
 そこで、今回はそれに因み、今月の初め頃から、中条省平 編・監修の「三島由紀夫が

死んだ日」「続・三島由紀夫が死んだ日」の二冊を読んでいました。
 この本には、三島事件の概要や、生前の三島由紀夫に関わった人、三島由紀夫の愛読者

である各界の著名人らの、三島由紀夫の死にまつわるお話や、それぞれの三島由紀夫観な

どが収録されています。 
 
 三島由紀夫が、昭和四十五年十一月二十五日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、クーデターを

促す決起を呼びかけた後、割腹自決を遂げたのは、多くの人の知るところです。
 私も、その日、テレビで何度も大きく取り上げていたのを、おぼろげながら覚えていま

す。
 そして、この事件が私にとって、三島由紀夫を知った初めてでした。
 おそらく、この事件の影響が大きかったのでしょう。 

 三島由紀夫は何度も、ノーベル文学賞候補になりながら、私は学校で三島由紀夫につい

て学んだことは一度もありませんでした。
 当然、教科書にも、三島由紀夫作品は載っていませんでした。
 ただ、高校生の頃、社会科の先生が、三島由紀夫の死体に、首に何度も刀で斬りつけら

れたあとがあり、かなり苦しんで死んだに違いないと教えてくれたことと、国語の先生が

、三島由紀夫は生きていれば、ノーベル文学賞を受賞していたはずだったと口惜しそうに

喋ったことがあっただけでした。
 プライベートでは、中学の頃から、小説を読むようになりましたが、三島由紀夫の場合

、異常な血なまぐさい事件を起こして自決したのが引っかかり、どうしても読む気が起こ

りませんでした。
 やがて、大人になった私は読書からも遠ざかり、三島由紀夫に対する関心は次第に薄れ

ていきました。

 ところが、数年前、ある三島由紀夫ファンの人と知り合ったのを契機に、三島作品を読

みたくなってしまったのです。
 でも、やはり、気になるのは、なぜ、あのような事件を起こし、世間を騒がせて死んだ

のかということでした。
 以前、私は保阪正康の「三島由紀夫と楯の会事件」という文庫本で、この事件のあらま

しを、ある程度知ることが出来ましたが、今回読んだ「三島由紀夫が死んだ日」では、そ

れ以外の捉え方や、生前の三島由紀夫の人となりなどが書いてあり、とても興味深く読む

ことが出来ました。

 あの事件の表面的な理由は、三島由紀夫が自衛隊にクーデターを促したものの誰も応じ

ず、失敗したために、割腹自決を遂げた事になっていますが、三島事件の検事の冒頭陳述

によると、決起に参加した楯の会の古賀浩靖は、三島由紀夫が決起前、「自衛隊員中に行

動をともにするものが出ることは不可能だろう。いずれにしても、自分は死ななければな

らない」と語ったと証言しているそうです。
 したがって、三島由紀夫はこの決起に何ら政治的効力を認めておらず、また、決起の失

敗の責任を取って死んだわけでもないのです。
 三島由紀夫は初めから失敗を見越し、自死することに意義があったとみずから認めてい

るのです。

 実際、三島由紀夫は自死するその年の初めくらいから、親しかった人と酒を酌み交わし

たり、それとなく別れの場をもうけていたらしいです。

 また、長年、交流を続けてきたドナルド・キーン氏のもとに、三島の死後、彼から手紙

が届き、それには「君なら、僕のやろうとしていることを十分に理解してくれると思う。

だから、何も言わない。僕はずっと前から、文人としてではなく、武人として死にたいと

思っていた。」と書かれていたそうです。

 それに対し、キーン氏は、「私には、彼の行為を十分理解できるかどうか確信はない。
しかし、三島の行為を気違い沙汰だと言った日本の首相が彼を誤解しているのは確かだ。

彼の行為は論理的に考え抜いた上でのことであり、おそらく、やむにやまれぬことだった

と思う。」と述懐したとか。   

 それに、新潮文庫の「あの人に会いたい」によると、三島由紀夫は死の四年前にNHKの

「宗教の時間」という番組で、「人間が自分のためだけに生きるのは卑しい・・・」とか

「昔言われた大義のために死ぬということが、人間のもっとも華々しい、あるいは英雄的

な、あるいは立派な死に方と考えられてきた。しかし、今は大義がない。これは民主主義

の政治形態というものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、そ

れでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きることすら無意味であるとい

うような心理状態がないわけではない」と語ったと記してあるのです。

 でも、三島事件が起きた当時、この事件の本当の意味を知る者は誰もいなかったのです



 事件から、数十年が経過し、歴史的に見て、昭和四十五年が、どんな年であったのか冷

静に判断出来るようになった今日、ようやく、三島由紀夫の言わんとしていたことが見え

てきたそうです。
 
 まず、この年の三月、大阪で万国博覧会が開催されています。高度経済成長の到達点と

も言えるこの狂乱こそは、三島が呪詛し続けた「経済大国日本」誕生の象徴であり、誰も

が豊かさを享受出来るようになった反面、今日まで続く「カネ万能」の歪みを伴う社会の

確立を象徴するイベントがあった。
 
 六月には日米安保条約の自動延長。それに反対するデモ行動に七十七万人が参加したが

、六十年安保闘争時のような大きな混乱はなかった。これ以降、集団で力を行使する学生

運動は姿を消した。
 八月には、銀座、新宿などで歩行者天国がスタート。当時、流行語になっていた昭和元

禄を体現するような社会風俗が次々と生まれ、マイホーム主義を謳歌する一般市民はもと

より、若者も急速に政治離れを起こし、これが今日まで続く「平和ボケ日本」の始まりと

なり、倫理・道徳の退廃と伝統文化の消滅によるアイデンティティの喪失の始まりとなっ

た。
 ほぼ、同時期に発生した光化学スモッグによる学校閉鎖事件は、既に深刻化していた公

害問題を象徴する事件であり、環境問題の最初のステージで、かつて世界に誇った「美し

い日本列島」は姿を消しつつあった。

 
 三島由紀夫は檄文の中で、「生命尊重のみで魂は死んでもいいのか」と訴えていますが

、三島由紀夫が事件を起こした昭和45年は、上述した現在の日本が抱える矛盾のほとん

ど全てが出揃った日本の大きな転換点の年だったのです。

 そして、これらをいち早く察知した三島由紀夫は、まず、その年の七月七日、日本全体

に対する遺書とも言える「私の中の二十五年」という文章を書いて、経済を優先させた一

方で、日本の美と伝統が失われつつあるのを嘆き、十一月二十五日に、体を張って死に至

るまで快楽を追求して、裏側から絶対者に到達するのを、エロティシズムの理想だと唱え

るジョルジュ・バタイユに倣い、「天皇陛下万歳」と叫んで、割腹自決を遂げ、危機的状

況にある日本に警告を発したのではないでしょうか?
 (三島由紀夫は死の一週間前に古林尚との対談で、「ぼくの内面には美、エロティシズ

ム、死というものが一本の線をなしている」と喋っていて、これらの意味も含んだ事件だ

ったと見るのが妥当だそうです。)
  
 
 また、一見、狂気じみた事件を起こしたのは、文章にしただけではすぐに忘れ去られる

のではないかという懸念と、ショック療法の意味があったような気がするのです。



 三島由紀夫の死は幾通りもの解釈が出来るようですが、私自身はエロティシズムの完成

とともに、古来から、我々日本人に、営々受け継がれてきた日本の美と、伝統を誇りを持

って大切に守ってほしいという三島由紀夫の命を懸けた捨て身のメッセージではなかった

かと、そう思いたいのです。


 もうすぐ来る三島由紀夫の命日に因んで、「三島由紀夫が死んだ日」を読み、こんなこ

とを考えてみました。

 

最新の画像もっと見る