ヨハネによる福音書15章1節から11節までを朗読。
9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。
今、お読みいたしました記事はよくご存じのぶどうの木の例えです。農夫でいらっしゃる父なる神様、ぶどうの木はイエス・キリストです。それに対して私たちは「その枝である」と言われています。その中で「わたしにつながっていなさい」という言葉が繰り返し語られています。2節に「わたしにつながっている枝」とあります。4節には「わたしにつながっていなさい」「つながっていよう」「つながっていなければ」また「つながっていなければ実を結ぶことができない」と繰り返されています。5節には「もし人がわたしにつながっており」と、頻繁に「つながる」ということを求めています。なぜでしょうか? それは枝がつながっていなければ実を結ぶことができないからです。
ぶどうの木は、ご存じのようにどこからが幹か枝か分かりませんが、つるのように生えて、棚を作って実を実らせるというのが一般的です。ぶどうの葉は比較的大きくて春先など茂りますと、緑で豊かになります。鮮やかな緑色をしています。ところが、ぶどうの木を観賞用に盆栽にしたという話は聞きません。「庭にぶどうの木を植えました。見に来てください。葉っぱがきれいですよ」という招き方はしません。紅葉(もみじ)であるとか、枝振りのいい松とか、そのようなものはそれだけで十分です。「この枝を見てご覧なさい。この葉っぱの素晴らしさ」。紅葉のようなものでも小さな盆栽に作ることができます。松だって仕立てます。ところが、ぶどうに関しては、観賞用ではないのです。明らかにぶどうの実を収穫するためです。なじみのあるのはぶどうの実を食べることですが、本来それはぶどう酒を造るのです。
イタリアに行きましたとき、Y姉の近くは、ぶどう畑がたくさんありました。あるときワイナリーに連れて行ってくれました。見ていると、大きなガラスのビンを幾つも抱えてぶどう酒を買いに来ます。店には大きなぶどう酒の入ったタンクが五つ六つ並んでいる。それぞれに銘柄が書いてある。タンクの下の蛇口に、自分でビンを持っていって買うのです。スーパーマーケットに水を売っていることがあるでしょう。大きなボトルがありますよね。あれの倍くらいのボトルを持って行く。それをレジへ持って行って払う。ビンのふちまで入れて幾らという値段ですから実に安い。「水代わり」にというのは、まさにそうだと思うのです。時には水のほうが高いぐらいです。
イエス様の時代もそうですが、中近東や、もちろんヨーロッパもそうでしょうけれども、味わい豊かなぶどう酒を造るためにぶどうを栽培するのです。ところが、ぶどうが実を結ばないならば、これほど役に立たないものはない。ぶどうの木は削って工作することに向いていません。エゼキエル書にはそのようなことが書いてあります。ぶどうの木で物を引っ掛けようとしてもそれは役に立たないし、柱にしようとしても役に立たないし、板も作れないし、細工もできない。できるのは薪として燃やす以外にないとあります。そのような意味で、ぶどうは実を実らせるべくしてあるわけです。
私たちは「その枝である」とイエス様がおっしゃるのは、私たちも実を結ぶために神様が造ってくださった。創世記を読むと、神様は森羅万象すべてのものをお造りになられた。第一日から第二、第三日と、光があり、また空と海が分かれ、そして陸があり草木が生え、また動植物が次々と、そして一番最後に「人をお造りになった」と記されています。人を造られたとき、神様は「われわれのかたちにかたどって造ろう」と、神様のかたちに似たものとして造ってくださった。私たちが造り主の意図、目的を果たすためです。これが実を結ぶということです。実を結ぶとは、そのものの本来の目的を果たすことでしょう。だから、ぶどうの木はぶどうの実を結び、その実を収穫して芳じゅんなぶどう酒をつくることを目的としている。ぶどうの木は先ず実を結ぶことが目的であり、それが使命です。それを果たさないのなら、意味がない。それと同じように、私たち人間も神様によって造られました。造られたからには目的、意図がある。創世記には「土のちりで人を造り、命の息をその鼻から吹きいれられて、人は生きた者となった」とあります。神様からの命の息を吹きいれられる。それによって生きることで実をむすぶのです。命の息を吹きいれられるとはどのようなことかと思われるに違いない。そうでなくても、1分間に10回ないし15回ちゃんと息を吸っているし、吐いている。意識するしないにかかわらず生きている。ところが、生きるとは、肉体が健康だから、呼吸が止まらずにきちんと続いているから生きているのではない。心と言いますか、魂、私たちの内側が命に満ちている。それは喜びがあり、感謝があり、輝いていることです。健康であったらだれでも幸せでおられるかというと、そうはいかないでしょう。私は本当に幸せだ、うれしい、感謝だと言えるのは、私たちの心が、魂が生きている証拠です。それを得たいために人は一生懸命に努力をします。物が有ったら、あるいは豊かになったら、あるいは生活の条件が整ったら喜べるに違いない、輝いて生きることができる、幸せを感じることができると思います。しかし、果たしてそうでしょうか。私たちの生活はどんどんと楽になりました。ありとあらゆるものが恵まれ、物質的には豊かな社会になりました。だからといって、町行く人々が太陽のように輝いて喜びに満ちて「私はハッピーよ」と言っているかといいますと、そうではない。むしろ生きる気力を失い、望みを失って、喜びを失っている。喜びがない、幸せ感がない、自分が幸いな人間だと感じられない。だから、何とかそれを得たいと思っていろいろなものを求める。しかし、それは幻想といいますか、単なるまやかしで、一時的なもので終わる。神様が私たちに与えてくださる命の息を吹きいれられた時、事情や境遇がどうあろうと、問題、事柄がどうであっても、何が起こってきても、私たちの心に絶えず平安があり、喜びがあり、感謝し、何よりも造り主でいらっしゃる神様を褒めたたえ、賛美することができる。これが私たちの命です、生きることです。それを与えてくれるものは、神様の力以外にない。自分で頑張って幸せになろうとやってみて、生活が豊かになり、あの問題この問題が解決して、「私には何の心配もない」となったとき、私たちは喜べるかというと、喜べない。その時は年を取って、私には何の楽しみもないと、生けるしかばねになる。たとえ年を取って「何もすることがない、私には楽しみがない」という状況の中にあっても、神様からの命の息を吹き入れられていくとき、神様との交わりの中に置かれるとき、私たちは輝いて生きることができる。どのような悩みの中、困難の中、苦しみの中にあっても、「大丈夫」と言えるのです。そのような内なる命といいますか、「内なる人」と聖書には言い換えています。私たちの「外なる人」、肉体的な健康状態が保たれて、そして元気であるということ、それが命ではなくて、大切なのは神様に結びついて、魂に造り主でいらっしゃる目に見えない神様から、霊の命、命の息を吹きいれられることです。
イエス様はぶどうの木とその枝との関係でそのことを語っているのです。と言いますのは、イエス様は神ご自身でいらっしゃる。神が人となってこの世に来てくださった御方、だからイエス様に連なることは、取りも直さず、神様の命の息が吹き込まれること。イエス様と共にあることが、私たちの生きる命なのです。私たちを生かすものはイエス様なのです。
ですから、その少し前を読んでみましよう。ヨハネによる福音書6章63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。ここに「人を生かすものは霊であって」とありますが、この「霊」とは、神様から吹き込まれた「命の息」のことです。そんなのはどうやったら分かるかしらと不思議に思われます。「霊」と言うと、あまり良いイメージを持たない。「背後霊」とか、「霊に取りつかれる」など、ネガティブな悪いイメージが強い。確かに聖書にも、いろいろな霊が世の中にあるから、きちんと正しい霊を見分けなさいと書かれています。イエス様の時代にも、悪霊に取りつかれた人がイエス様の所に来たことが記されています。その人に対してイエス様が「悪霊よ、お前の中から出て行け」と命じました。するとレギオンという悪霊が「イエス様、哀れんで私たちを豚の中に入れてください」と言いまして、「豚に入れ」とおっしゃったら、沢山の豚が雪崩を打って海の中に落ち込んだ、という記事があったりして、霊とはなかなか厄介な怖いもののように思います。しかし、神様からの真(まこと)の霊は決してそうではない。私たちに喜びを与え、望みを与え、慰め、励ましてくださる、力を与えてくださる。知恵を与えてくださる。だからここにありますように「人を生かすものは霊であって」というこの「霊」は、そのような悪い霊ではなくて神様からの霊、キリストの霊です。そして、それはどこから来るかと言いますと、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。イエス様のお言葉です。また、聖書の言葉と理解していただいたらいい。聖書の言葉を信じていくとき、その言葉を通して神様の霊が私たちの内に注がれてくる。これが私たちの大切な命です。だから、教会に来て、礼拝に出たり、各集会、木曜会であるとか祈祷会などに出て、聖書の言葉を聞き、「ああ、そういう話か」と納得するのも、幸いですが、それよりも何よりも、聖書の言葉をしっかりと信じて、神の霊に満たされることです。
「聖書の言葉を信じなさい」と言われると、これは大変なことだと思ってしまいます。私は今まで教科書しか読んだことはない。それだってこのような厚さはない。そんな聖書をどうやって読むかと思いますが、聖書は物語のように初めから終わりまでつながって……、もちろんつながったことなのですけれども、物語のような形ではつながっていません。神様が必要な言葉を与えてくださるのです。今日、お読みした記事は、聖書の中の極々一部分です。その短い言葉の中の、皆さんの心にとどまる言葉、聖書の言葉をしっかり信じて握って、確信を持って、「そうです」と信じていくとき、その言葉を通して、命が私たちに注がれてくる。神様の霊が私たちの内に働いてくださる。「神様の霊が働いていらっしゃると言いますが、私のような者にはちょっと無理、先生だったらいいかもしれんけれど」と、よく言われますが、そうではありません。一人一人に神様の霊が注がれているのです。ただ、そのことに気が付かないでいます。では、どうやったらそれが分かるかというと、いちばん分かりやすいのは、皆さんが今日こうして礼拝に出て来られたでしょう。実は、朝起きて「今日は礼拝だ、今年最初の聖日礼拝、日曜日だから礼拝に行こう」と思ったでしょう。あるいは前の晩から「明日は礼拝に行こう。だから、あのスケジュールは断って、あの人には断りを言って、こっちは……」といろいろな準備をして出てくる。その思いを与え、その心を動かしたものは何だったか。それこそが神の霊の働いてくださった証拠です。神様の霊は私たちを神様へと向ける力がある。イザヤ書には「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(11:2)とあります。神様を求めること、神様の御言葉を聞きたい、神様のお話を聞きたいと思わせるのは、誰でもない、実は御霊、神の聖霊の働きなのです。それはもう皆さんの内に既に働いていらっしゃる。また、集会に出た時、御言葉を聞いて非常に心を打たれることがある。時にはそのようなことを言われます。「今日は本当に恵まれました。御言葉によって私のなえていた心が力付けられました。本当に励まされました」と言われる。それは何の力によるのかというと、その人に神様の御霊が、霊が働いてくださっている。だから、神様の御霊は、私のような者ではない、誰かほかの人のためだろうということはなく、「こんな私にも今日も神様は御霊を注いでくださっている、霊を与えてくださっているのだ」と信じていただきたい。これがなければ、私たちは神様を知ることができない、神様を喜ぶこともできないのです。神様の霊に満たされると、神様が私たちの心に働いて、願いを起こさせ、それを導いて実現に至らせてくださる。何もかも万事万端、神様のほうが私たちの思いを整え清め、新しくしようと、私たちの内に働いているのです。だから、神様の霊は、単なる気分や、そのときの情緒、感情ではない。私たちのうちに働く力です。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」(1:8)と、使徒行伝にありますが、力に満たされてくる。自分ではできなかったことができるようになり、今までどうしてもやめられなかったことをやめることができ、したくなかったことが喜んでできるように造り変える神様の力なのです。そのような「いのち」が私たちの内に注がれてくる。そのために何をするか? イエス様が「つながっていなさい」と言われるように、つながることです。御言葉にしっかりと結びつくことです。
もう一度始めの15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。そのとおりです。私たちがイエス様につながるとは、御言葉によってイエス様と一体となることです。イエス様が命となって私たちの内に住んでくださる。そのような言い方もします。いろいろな比喩(ひゆ)的な、例えをもって語りますから、イエス様が住んでくださると言うが、どこに住むのだろうか? 私の汚い部屋だろうか、あるいは私の心のどこに住んでいるのだろうか? レントゲンをかけても見えません。「住む」というのは一つの例えです。御言葉、聖書の言葉が心にとどまって、いつもその言葉によって私たちの思いや、心や、感情をコントロールされる、支配されること、それによって励まされることです。
私は病気をして、手術を受けたとき、そのことをしみじみと教えられました。いろいろな思い煩うことがたくさんありますから、夜眠れないでいました。そのようなときに、いつも心に浮かんでくる御言葉がある。聖書の言葉「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネによる福音書 14:1)。眠られないとき、その言葉を心に味わう。「神を信じ、またわたしを信じなさい」。神様を信じるとは、どうすることだろうか、「わたしを信じなさい」とイエス様はおっしゃるけれども、イエス様を信じるってどうすることかな? と、その言葉を自分の心のなかでかみこなすと言いますか、まるで、あめ玉を口の中に入れて、飲み込まないでそれをなめるように味わう。ただ通り一遍に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、スラッと言ってしまえば何秒も掛かりません。ところが、御言葉を自分で繰り返し、繰り返し「あなたがたは、心を騒がせないがよい」、「心を騒がすな」、心が騒いでいる自分はいったい何だろうか。自分を振り返り、そして考える。そのようにしていると、眠られなかった心が、不安でさえ渡っていた心が、静かになってくる。神様の御霊が露のごとく心にしみ渡ってくる。うそだと思ったらぜひやってみてください。
大体70代を過ぎますとおおむねそのような夜中に眠られない時期に来ます。3時半から4時ごろが危ない。あの辺で必ず目が覚める。そして目がさえて「起きようか、起きまいか。ああ、まだちょっと早いし、もうちょっと休んでおこうか。明日があれだからこれだし、今起きたら昼間偏頭痛がするかもしれないから、もうちょっと寝ておこう。でも枕が何とかやなー」とか、そのうち新聞配達がガチャッと「ああ、うるさいな。何でやろう、こんなに早く来て!」とか思う。そのような時に、御言葉を思い浮かべる。先ほどお読みいたしました詩篇23篇「1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。その言葉を思い浮かべて「主はわたしの牧者、羊飼い。羊がたくさんいるのだな。その群れの中に……、私はその一匹の羊なのだ、私を今日も導いてくださる……」。御言葉を心の中で「にれはむ」という言葉を使いますが、繰り返し、繰り返しかみしめる。あめ玉をなめるでしょう。そのように御言葉をなめてご覧なさい。皆さんは実にサラッとツルッとやってしまうから、せっかくの命がとどまらない。「先生、いくら聖書を読んでもちっとも先生が言うような感動も力もありません」と言う。「どのように読んでいるの」と、「一日に10ページは読みます」と。早すぎる。そんなにしたら下痢をして抜けてしまうから、ちゃんと心にとどまるように読まなければいけません。
皆さん、「わたしにとどまっていなさい」と言われる。「わたしに連なっていなさい」。連なるとは、聖書の言葉を握って、時間がなければ日曜日の礼拝で教えられたその中心のお言葉を、先ず一週間しっかり何度でも、何度でも思い起こして、忘れていたら書いたものでも前に置いて、その言葉に込められているいのちを汲み取る。かめばかむほど得るものがある。そこからにじみ出てくる神様の霊が、私たちの心を変える力を与え、神様の創造の目的にかなう者、実を結ぶ者としてくださる。実を結ぶとは、何か人の目に付く大事業をしたり、偉大な業績を残すことではなくて、私たちがただそこにあることによって、神様の恵みが輝いてくることです。喜んで、感謝して、主を褒めたたえ、望みにあふれた存在になるように、神様が造り変えてくださる。
6節以下に「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と。「わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と、まさにそこです。「言葉がとどまる」とは「神の御霊が私たちの内に命となって生き生きと、私たちの魂を生き返らせてくださるとき」のことです。そうしますと信仰を持って、確信を持って祈ることができる。そして「祈ったことは必ずなる」と信じる力を神様が与えてくださる。そればかりでなく、祈ったことについて、神様が答えてくださる。8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。肉体が弱ってきて足腰が立たなくなったから駄目というのではない。「わたしたちの外なる人は滅びても」(2コリント 4:1)とあります。しかし「内なる人」、私たちの内なるものが、魂が、心が、いつも喜びにあふれ、感謝し、望みに輝いていることができる。これが実を結んだ結果です。それこそが、私たちの結ぶべき実です。そのように豊かに実を結ぶならば、神様が喜んでくださる。「栄光をお受けになる」と書いてありますが、神様が大変喜ばれるのです。と言うのは、実を実らせることによって農夫が褒められるからです。
農業品評会などで、その年いちばんいいお米を作った人とか、あるいはいい牛を育てた人とか、あるいは農業で素晴らしい成果をおさめた農家の人が表彰されます。「松阪牛」などと言われる高級な食肉牛がいます。一生懸命に丹精を込めてなでたりさすったり、ミルクを飲ませたり、ビールまで飲ませて育てる。そして品評会で受賞すると、何百万円で売れる。だから、農家の人は精魂込めて育てる。いい成果が上がると、その作り主である農家の主人が褒められる、表彰されます。牛ではありません。牛は表彰されるけれども、牛に向かって「お前、副賞として金一封だ」とは言いません。牛を育てた飼い主にやるのです。わたしたちを育てているのは誰か? 父なる神様、神様が素晴らしい農夫でいらっしゃること、素晴らしい力を持った御方だということを、実を結ぶことによって表彰されるのです。だから、神様は私たちが喜び、感謝し、恵みにあって、望み豊かに輝いている姿を、「見てご覧なさい。私の作品だよ」と。「神様、あなたはすごい御方ですね」と、神様を褒めたたえる。その作品として、その実として、私たちを選んでくださって、イエス様につなげてくださった。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」とあります。しかも、「まことのぶどうの木」でいらっしゃるイエス様に連なる枝を、農夫である父なる神様は、大切にしてくださる。愛してくださるというのです。なぜか?枝がなければ実が実らないのです。だから、私たちを神様は大切な者として扱ってくださる。
イザヤ書43章1節から7節までを朗読。
「あなたをあがなった」「あなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださる神様。私たちを選んでくださって、神様の契約の民として、私たちを信仰によるイスラエルの民、アブラハムの祝福を受ける民に接木してくださった。だから、私たちは神様から祝福を受ける民なのです。3節に「わたしはあなたの神、主である」と、「イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えて、あなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする」と。「あがないしろ」と言いますのは、物を買ったときの代償として払うお金のことを「あがないしろ」というのです。神様は私たちをあがなうために、エジプトを捨てても惜しくない。「エチオピヤとセバとをあなたの代りとし」、誰にでもあげましょう。大変なことですね。こんな私のために神様はどんな犠牲をもいとわない。4節「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」、あなたは神であるわたしの目に尊くて、目に入れても痛くない大切な、大切な掛替えのない存在、その後に何とありますか。「わたしはあなたを愛するがゆえに」、愛してくださっているのです。神様は私たちを掛替えのない者として愛しているがゆえに「あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える」。どんな民であろうと惜しまない。そんな者を捨ててでもあなたを愛しているよ、とおっしゃっているのです。
そして「恐れるな、わたしはあなたと共におる」と、どんなときにも主が共にいてくださる。まことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様につながったことです。これは主がいつもどんなときにも共に、一緒にいてくださる証詞であります。イエス様が私たちを愛するがゆえに、選んで大切な者としてくださっている。このことをしっかりと心に置いてください。神様は「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3)とおっしゃる。そんなにまでなぜ私を愛してくださるのだろうか? それは神様がご自分のかたちにかたどった大切なものとして造ってくださったからです。私たちを愛してやまない理由はただ一つ、神様は人の心に置いたご自分の霊をねたむほどに愛しておられる、と新約聖書に語られています。神様が私たちを愛する理由は、何かできるから、見栄えがいいから、能力がある、才能があるから愛するというのではない。神様が大切なご自分のかたちにまでかたどって造った者が、台無しになり、失われてしまうのは嫌だ、ご自分のかたちに似た者だからこそ愛するのです。
最近の若いお母さんはそのようなことを言うのです。最初に生まれた子供に「可愛いね」と言ったら「いや、この子、なじみがない」と言う。「どうして? 」と訊くと「主人の顔に似ているし、どうも主人の親せきのようで」と。「でも、自分のおなかを痛めた子供は可愛いでしょう」と言ったら、「先生、そんなでもないですよ」と言う。私はびっくりして、自分の子だから可愛いだろうに、と思ったのですが、それから2,3年したら下の子ができました。すると「先生、生まれました。可愛いでしょう」と電話してきました。「可愛い!」と言うので、「どんな風に? 」と問うと、「私によく似ているから」ですと。自分に似ている子は可愛い。私は親になった経験はありませんが、皆さんいかがでしょうか。自分に似た子供は格別可愛いと言いますが、どうなんでしょうか。大抵は本音を言わないから「みんな可愛いです」と言われるけれども、やはり相性というものはあるようです。しかし、似ている者同士はいいですね。神様が私たちを愛しているのは、私たちを神様の尊い、掛替えのないご自分のかたちにかたどっておられるからです。私たちはみなそうなのです。私だけは神様とちょっと違う、悪魔に似ているのかしらと。そうではない。初めからみな神のかたちにかたどって造られたのですが、どういうわけか、悪魔の子になってしまった。サタンから取られてしまって、神様の名前を汚している。神様の造られた「かたち」を失ったのです。だからもう一度、神様は私たちを創世の初めのエデンの園の生活へ立ち返らせてくださるために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。そして今私たちをして、内側にキリストのかたち、神のかたちを形作ろうとしておられる。
年末の最後の礼拝で教えられたように、「私たちはキリストに捕らえられている」「キリストのうちに自分を見出すようになるため」、私の姿かたちがキリストに変わること、そこまで私たちを造り変えようとしてくださる。それは何ゆえか? あなたを愛しているからです。7節に「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。
ヨハネによる福音書15章8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」と。そして9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。神のひとり子でいらっしゃるイエス様が、神の位を捨て、人となり、言葉で表せない大きな犠牲を払って私たちのあがないとなってくださって、私たちの命となられた。あの十字架に命を捨てて、「わたしはお前を愛しているよ」と。ここでイエス様は「父がわたしを愛されたように」と語っています。イエス様は、父なる神様から自分は愛されたのだという自覚があり、また誇りがありました。でもイエス様が現実にお受けになられた父なる神様からの仕打ちといいますか、神様から求められたことは十字架に死ぬことでしょう。愛されているのに神様はこのようにむごいことを、と思います。もし私たちだったら、父なる神様は私を憎んで、私が嫌いだから十字架にまで追いやったに違いないと言って、ひねくれるでしょう。イエス様はそうはおっしゃらない。自分は十字架の苦しみすらも父なる神様は与えられるけれども、これも神様が私を愛してくださるからだと信じていたのです。
私たちもこの地上にあっていろいろな問題や苦しい事があります。そうすると、神様は愛だと、神様は私を愛してくださると、エチオピヤもセバもどんなものも惜しくない、エジプトだって捨てるとおっしゃる、そんなに愛してくださる神様、何で私のこの病気一つ癒してくださらないのだ、どうしてこんな悩みの中に置かれると言ってつぶやく。それは私たちが神様の愛から離れてしまうからです。イエス様は、どんなことであろうと、父なる神様のみ心であると、神様をしっかり信じている、信頼している。その愛の中にとどまっている。愛にとどまる秘けつは、10節「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。イエス様が「父がわたしを愛されたように」と告白なさった、その「愛される」ことの意味は、イエス様が父なる神様の御言葉を、言いつけを、しっかりと握って、どんな中にも神様に信頼し続けたから、私は愛の中にとどまることができたとおっしゃっているのです。
私たちもいろいろな事柄の中に置かれます。しかし、目の前の問題が何であれ、どうであれ、常にキリストに連なって、御言葉をしっかりと信じて、愛のうちにとどまっていく。神様が掛替えのない者として愛してくださっている。私たちを神のかたちにかたどって造られた方が、その栄光の姿を取り返すために、私たちを愛して、地上の旅路を備えておられる。
主のご愛を疑うことのないように、絶えず主の御言葉に自分をしっかりと結びつけて、心をそこに置いて、神様がこんな者を愛してくださっていると言われるから、そのように信じて疑わない。確信を持って主の愛の中にとどまって、キリストに結びついて、キリストの姿かたちに似るものとされたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。
今、お読みいたしました記事はよくご存じのぶどうの木の例えです。農夫でいらっしゃる父なる神様、ぶどうの木はイエス・キリストです。それに対して私たちは「その枝である」と言われています。その中で「わたしにつながっていなさい」という言葉が繰り返し語られています。2節に「わたしにつながっている枝」とあります。4節には「わたしにつながっていなさい」「つながっていよう」「つながっていなければ」また「つながっていなければ実を結ぶことができない」と繰り返されています。5節には「もし人がわたしにつながっており」と、頻繁に「つながる」ということを求めています。なぜでしょうか? それは枝がつながっていなければ実を結ぶことができないからです。
ぶどうの木は、ご存じのようにどこからが幹か枝か分かりませんが、つるのように生えて、棚を作って実を実らせるというのが一般的です。ぶどうの葉は比較的大きくて春先など茂りますと、緑で豊かになります。鮮やかな緑色をしています。ところが、ぶどうの木を観賞用に盆栽にしたという話は聞きません。「庭にぶどうの木を植えました。見に来てください。葉っぱがきれいですよ」という招き方はしません。紅葉(もみじ)であるとか、枝振りのいい松とか、そのようなものはそれだけで十分です。「この枝を見てご覧なさい。この葉っぱの素晴らしさ」。紅葉のようなものでも小さな盆栽に作ることができます。松だって仕立てます。ところが、ぶどうに関しては、観賞用ではないのです。明らかにぶどうの実を収穫するためです。なじみのあるのはぶどうの実を食べることですが、本来それはぶどう酒を造るのです。
イタリアに行きましたとき、Y姉の近くは、ぶどう畑がたくさんありました。あるときワイナリーに連れて行ってくれました。見ていると、大きなガラスのビンを幾つも抱えてぶどう酒を買いに来ます。店には大きなぶどう酒の入ったタンクが五つ六つ並んでいる。それぞれに銘柄が書いてある。タンクの下の蛇口に、自分でビンを持っていって買うのです。スーパーマーケットに水を売っていることがあるでしょう。大きなボトルがありますよね。あれの倍くらいのボトルを持って行く。それをレジへ持って行って払う。ビンのふちまで入れて幾らという値段ですから実に安い。「水代わり」にというのは、まさにそうだと思うのです。時には水のほうが高いぐらいです。
イエス様の時代もそうですが、中近東や、もちろんヨーロッパもそうでしょうけれども、味わい豊かなぶどう酒を造るためにぶどうを栽培するのです。ところが、ぶどうが実を結ばないならば、これほど役に立たないものはない。ぶどうの木は削って工作することに向いていません。エゼキエル書にはそのようなことが書いてあります。ぶどうの木で物を引っ掛けようとしてもそれは役に立たないし、柱にしようとしても役に立たないし、板も作れないし、細工もできない。できるのは薪として燃やす以外にないとあります。そのような意味で、ぶどうは実を実らせるべくしてあるわけです。
私たちは「その枝である」とイエス様がおっしゃるのは、私たちも実を結ぶために神様が造ってくださった。創世記を読むと、神様は森羅万象すべてのものをお造りになられた。第一日から第二、第三日と、光があり、また空と海が分かれ、そして陸があり草木が生え、また動植物が次々と、そして一番最後に「人をお造りになった」と記されています。人を造られたとき、神様は「われわれのかたちにかたどって造ろう」と、神様のかたちに似たものとして造ってくださった。私たちが造り主の意図、目的を果たすためです。これが実を結ぶということです。実を結ぶとは、そのものの本来の目的を果たすことでしょう。だから、ぶどうの木はぶどうの実を結び、その実を収穫して芳じゅんなぶどう酒をつくることを目的としている。ぶどうの木は先ず実を結ぶことが目的であり、それが使命です。それを果たさないのなら、意味がない。それと同じように、私たち人間も神様によって造られました。造られたからには目的、意図がある。創世記には「土のちりで人を造り、命の息をその鼻から吹きいれられて、人は生きた者となった」とあります。神様からの命の息を吹きいれられる。それによって生きることで実をむすぶのです。命の息を吹きいれられるとはどのようなことかと思われるに違いない。そうでなくても、1分間に10回ないし15回ちゃんと息を吸っているし、吐いている。意識するしないにかかわらず生きている。ところが、生きるとは、肉体が健康だから、呼吸が止まらずにきちんと続いているから生きているのではない。心と言いますか、魂、私たちの内側が命に満ちている。それは喜びがあり、感謝があり、輝いていることです。健康であったらだれでも幸せでおられるかというと、そうはいかないでしょう。私は本当に幸せだ、うれしい、感謝だと言えるのは、私たちの心が、魂が生きている証拠です。それを得たいために人は一生懸命に努力をします。物が有ったら、あるいは豊かになったら、あるいは生活の条件が整ったら喜べるに違いない、輝いて生きることができる、幸せを感じることができると思います。しかし、果たしてそうでしょうか。私たちの生活はどんどんと楽になりました。ありとあらゆるものが恵まれ、物質的には豊かな社会になりました。だからといって、町行く人々が太陽のように輝いて喜びに満ちて「私はハッピーよ」と言っているかといいますと、そうではない。むしろ生きる気力を失い、望みを失って、喜びを失っている。喜びがない、幸せ感がない、自分が幸いな人間だと感じられない。だから、何とかそれを得たいと思っていろいろなものを求める。しかし、それは幻想といいますか、単なるまやかしで、一時的なもので終わる。神様が私たちに与えてくださる命の息を吹きいれられた時、事情や境遇がどうあろうと、問題、事柄がどうであっても、何が起こってきても、私たちの心に絶えず平安があり、喜びがあり、感謝し、何よりも造り主でいらっしゃる神様を褒めたたえ、賛美することができる。これが私たちの命です、生きることです。それを与えてくれるものは、神様の力以外にない。自分で頑張って幸せになろうとやってみて、生活が豊かになり、あの問題この問題が解決して、「私には何の心配もない」となったとき、私たちは喜べるかというと、喜べない。その時は年を取って、私には何の楽しみもないと、生けるしかばねになる。たとえ年を取って「何もすることがない、私には楽しみがない」という状況の中にあっても、神様からの命の息を吹き入れられていくとき、神様との交わりの中に置かれるとき、私たちは輝いて生きることができる。どのような悩みの中、困難の中、苦しみの中にあっても、「大丈夫」と言えるのです。そのような内なる命といいますか、「内なる人」と聖書には言い換えています。私たちの「外なる人」、肉体的な健康状態が保たれて、そして元気であるということ、それが命ではなくて、大切なのは神様に結びついて、魂に造り主でいらっしゃる目に見えない神様から、霊の命、命の息を吹きいれられることです。
イエス様はぶどうの木とその枝との関係でそのことを語っているのです。と言いますのは、イエス様は神ご自身でいらっしゃる。神が人となってこの世に来てくださった御方、だからイエス様に連なることは、取りも直さず、神様の命の息が吹き込まれること。イエス様と共にあることが、私たちの生きる命なのです。私たちを生かすものはイエス様なのです。
ですから、その少し前を読んでみましよう。ヨハネによる福音書6章63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。ここに「人を生かすものは霊であって」とありますが、この「霊」とは、神様から吹き込まれた「命の息」のことです。そんなのはどうやったら分かるかしらと不思議に思われます。「霊」と言うと、あまり良いイメージを持たない。「背後霊」とか、「霊に取りつかれる」など、ネガティブな悪いイメージが強い。確かに聖書にも、いろいろな霊が世の中にあるから、きちんと正しい霊を見分けなさいと書かれています。イエス様の時代にも、悪霊に取りつかれた人がイエス様の所に来たことが記されています。その人に対してイエス様が「悪霊よ、お前の中から出て行け」と命じました。するとレギオンという悪霊が「イエス様、哀れんで私たちを豚の中に入れてください」と言いまして、「豚に入れ」とおっしゃったら、沢山の豚が雪崩を打って海の中に落ち込んだ、という記事があったりして、霊とはなかなか厄介な怖いもののように思います。しかし、神様からの真(まこと)の霊は決してそうではない。私たちに喜びを与え、望みを与え、慰め、励ましてくださる、力を与えてくださる。知恵を与えてくださる。だからここにありますように「人を生かすものは霊であって」というこの「霊」は、そのような悪い霊ではなくて神様からの霊、キリストの霊です。そして、それはどこから来るかと言いますと、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。イエス様のお言葉です。また、聖書の言葉と理解していただいたらいい。聖書の言葉を信じていくとき、その言葉を通して神様の霊が私たちの内に注がれてくる。これが私たちの大切な命です。だから、教会に来て、礼拝に出たり、各集会、木曜会であるとか祈祷会などに出て、聖書の言葉を聞き、「ああ、そういう話か」と納得するのも、幸いですが、それよりも何よりも、聖書の言葉をしっかりと信じて、神の霊に満たされることです。
「聖書の言葉を信じなさい」と言われると、これは大変なことだと思ってしまいます。私は今まで教科書しか読んだことはない。それだってこのような厚さはない。そんな聖書をどうやって読むかと思いますが、聖書は物語のように初めから終わりまでつながって……、もちろんつながったことなのですけれども、物語のような形ではつながっていません。神様が必要な言葉を与えてくださるのです。今日、お読みした記事は、聖書の中の極々一部分です。その短い言葉の中の、皆さんの心にとどまる言葉、聖書の言葉をしっかり信じて握って、確信を持って、「そうです」と信じていくとき、その言葉を通して、命が私たちに注がれてくる。神様の霊が私たちの内に働いてくださる。「神様の霊が働いていらっしゃると言いますが、私のような者にはちょっと無理、先生だったらいいかもしれんけれど」と、よく言われますが、そうではありません。一人一人に神様の霊が注がれているのです。ただ、そのことに気が付かないでいます。では、どうやったらそれが分かるかというと、いちばん分かりやすいのは、皆さんが今日こうして礼拝に出て来られたでしょう。実は、朝起きて「今日は礼拝だ、今年最初の聖日礼拝、日曜日だから礼拝に行こう」と思ったでしょう。あるいは前の晩から「明日は礼拝に行こう。だから、あのスケジュールは断って、あの人には断りを言って、こっちは……」といろいろな準備をして出てくる。その思いを与え、その心を動かしたものは何だったか。それこそが神の霊の働いてくださった証拠です。神様の霊は私たちを神様へと向ける力がある。イザヤ書には「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(11:2)とあります。神様を求めること、神様の御言葉を聞きたい、神様のお話を聞きたいと思わせるのは、誰でもない、実は御霊、神の聖霊の働きなのです。それはもう皆さんの内に既に働いていらっしゃる。また、集会に出た時、御言葉を聞いて非常に心を打たれることがある。時にはそのようなことを言われます。「今日は本当に恵まれました。御言葉によって私のなえていた心が力付けられました。本当に励まされました」と言われる。それは何の力によるのかというと、その人に神様の御霊が、霊が働いてくださっている。だから、神様の御霊は、私のような者ではない、誰かほかの人のためだろうということはなく、「こんな私にも今日も神様は御霊を注いでくださっている、霊を与えてくださっているのだ」と信じていただきたい。これがなければ、私たちは神様を知ることができない、神様を喜ぶこともできないのです。神様の霊に満たされると、神様が私たちの心に働いて、願いを起こさせ、それを導いて実現に至らせてくださる。何もかも万事万端、神様のほうが私たちの思いを整え清め、新しくしようと、私たちの内に働いているのです。だから、神様の霊は、単なる気分や、そのときの情緒、感情ではない。私たちのうちに働く力です。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」(1:8)と、使徒行伝にありますが、力に満たされてくる。自分ではできなかったことができるようになり、今までどうしてもやめられなかったことをやめることができ、したくなかったことが喜んでできるように造り変える神様の力なのです。そのような「いのち」が私たちの内に注がれてくる。そのために何をするか? イエス様が「つながっていなさい」と言われるように、つながることです。御言葉にしっかりと結びつくことです。
もう一度始めの15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。そのとおりです。私たちがイエス様につながるとは、御言葉によってイエス様と一体となることです。イエス様が命となって私たちの内に住んでくださる。そのような言い方もします。いろいろな比喩(ひゆ)的な、例えをもって語りますから、イエス様が住んでくださると言うが、どこに住むのだろうか? 私の汚い部屋だろうか、あるいは私の心のどこに住んでいるのだろうか? レントゲンをかけても見えません。「住む」というのは一つの例えです。御言葉、聖書の言葉が心にとどまって、いつもその言葉によって私たちの思いや、心や、感情をコントロールされる、支配されること、それによって励まされることです。
私は病気をして、手術を受けたとき、そのことをしみじみと教えられました。いろいろな思い煩うことがたくさんありますから、夜眠れないでいました。そのようなときに、いつも心に浮かんでくる御言葉がある。聖書の言葉「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネによる福音書 14:1)。眠られないとき、その言葉を心に味わう。「神を信じ、またわたしを信じなさい」。神様を信じるとは、どうすることだろうか、「わたしを信じなさい」とイエス様はおっしゃるけれども、イエス様を信じるってどうすることかな? と、その言葉を自分の心のなかでかみこなすと言いますか、まるで、あめ玉を口の中に入れて、飲み込まないでそれをなめるように味わう。ただ通り一遍に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、スラッと言ってしまえば何秒も掛かりません。ところが、御言葉を自分で繰り返し、繰り返し「あなたがたは、心を騒がせないがよい」、「心を騒がすな」、心が騒いでいる自分はいったい何だろうか。自分を振り返り、そして考える。そのようにしていると、眠られなかった心が、不安でさえ渡っていた心が、静かになってくる。神様の御霊が露のごとく心にしみ渡ってくる。うそだと思ったらぜひやってみてください。
大体70代を過ぎますとおおむねそのような夜中に眠られない時期に来ます。3時半から4時ごろが危ない。あの辺で必ず目が覚める。そして目がさえて「起きようか、起きまいか。ああ、まだちょっと早いし、もうちょっと休んでおこうか。明日があれだからこれだし、今起きたら昼間偏頭痛がするかもしれないから、もうちょっと寝ておこう。でも枕が何とかやなー」とか、そのうち新聞配達がガチャッと「ああ、うるさいな。何でやろう、こんなに早く来て!」とか思う。そのような時に、御言葉を思い浮かべる。先ほどお読みいたしました詩篇23篇「1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。その言葉を思い浮かべて「主はわたしの牧者、羊飼い。羊がたくさんいるのだな。その群れの中に……、私はその一匹の羊なのだ、私を今日も導いてくださる……」。御言葉を心の中で「にれはむ」という言葉を使いますが、繰り返し、繰り返しかみしめる。あめ玉をなめるでしょう。そのように御言葉をなめてご覧なさい。皆さんは実にサラッとツルッとやってしまうから、せっかくの命がとどまらない。「先生、いくら聖書を読んでもちっとも先生が言うような感動も力もありません」と言う。「どのように読んでいるの」と、「一日に10ページは読みます」と。早すぎる。そんなにしたら下痢をして抜けてしまうから、ちゃんと心にとどまるように読まなければいけません。
皆さん、「わたしにとどまっていなさい」と言われる。「わたしに連なっていなさい」。連なるとは、聖書の言葉を握って、時間がなければ日曜日の礼拝で教えられたその中心のお言葉を、先ず一週間しっかり何度でも、何度でも思い起こして、忘れていたら書いたものでも前に置いて、その言葉に込められているいのちを汲み取る。かめばかむほど得るものがある。そこからにじみ出てくる神様の霊が、私たちの心を変える力を与え、神様の創造の目的にかなう者、実を結ぶ者としてくださる。実を結ぶとは、何か人の目に付く大事業をしたり、偉大な業績を残すことではなくて、私たちがただそこにあることによって、神様の恵みが輝いてくることです。喜んで、感謝して、主を褒めたたえ、望みにあふれた存在になるように、神様が造り変えてくださる。
6節以下に「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と。「わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と、まさにそこです。「言葉がとどまる」とは「神の御霊が私たちの内に命となって生き生きと、私たちの魂を生き返らせてくださるとき」のことです。そうしますと信仰を持って、確信を持って祈ることができる。そして「祈ったことは必ずなる」と信じる力を神様が与えてくださる。そればかりでなく、祈ったことについて、神様が答えてくださる。8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」。肉体が弱ってきて足腰が立たなくなったから駄目というのではない。「わたしたちの外なる人は滅びても」(2コリント 4:1)とあります。しかし「内なる人」、私たちの内なるものが、魂が、心が、いつも喜びにあふれ、感謝し、望みに輝いていることができる。これが実を結んだ結果です。それこそが、私たちの結ぶべき実です。そのように豊かに実を結ぶならば、神様が喜んでくださる。「栄光をお受けになる」と書いてありますが、神様が大変喜ばれるのです。と言うのは、実を実らせることによって農夫が褒められるからです。
農業品評会などで、その年いちばんいいお米を作った人とか、あるいはいい牛を育てた人とか、あるいは農業で素晴らしい成果をおさめた農家の人が表彰されます。「松阪牛」などと言われる高級な食肉牛がいます。一生懸命に丹精を込めてなでたりさすったり、ミルクを飲ませたり、ビールまで飲ませて育てる。そして品評会で受賞すると、何百万円で売れる。だから、農家の人は精魂込めて育てる。いい成果が上がると、その作り主である農家の主人が褒められる、表彰されます。牛ではありません。牛は表彰されるけれども、牛に向かって「お前、副賞として金一封だ」とは言いません。牛を育てた飼い主にやるのです。わたしたちを育てているのは誰か? 父なる神様、神様が素晴らしい農夫でいらっしゃること、素晴らしい力を持った御方だということを、実を結ぶことによって表彰されるのです。だから、神様は私たちが喜び、感謝し、恵みにあって、望み豊かに輝いている姿を、「見てご覧なさい。私の作品だよ」と。「神様、あなたはすごい御方ですね」と、神様を褒めたたえる。その作品として、その実として、私たちを選んでくださって、イエス様につなげてくださった。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」とあります。しかも、「まことのぶどうの木」でいらっしゃるイエス様に連なる枝を、農夫である父なる神様は、大切にしてくださる。愛してくださるというのです。なぜか?枝がなければ実が実らないのです。だから、私たちを神様は大切な者として扱ってくださる。
イザヤ書43章1節から7節までを朗読。
「あなたをあがなった」「あなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださる神様。私たちを選んでくださって、神様の契約の民として、私たちを信仰によるイスラエルの民、アブラハムの祝福を受ける民に接木してくださった。だから、私たちは神様から祝福を受ける民なのです。3節に「わたしはあなたの神、主である」と、「イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えて、あなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする」と。「あがないしろ」と言いますのは、物を買ったときの代償として払うお金のことを「あがないしろ」というのです。神様は私たちをあがなうために、エジプトを捨てても惜しくない。「エチオピヤとセバとをあなたの代りとし」、誰にでもあげましょう。大変なことですね。こんな私のために神様はどんな犠牲をもいとわない。4節「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」、あなたは神であるわたしの目に尊くて、目に入れても痛くない大切な、大切な掛替えのない存在、その後に何とありますか。「わたしはあなたを愛するがゆえに」、愛してくださっているのです。神様は私たちを掛替えのない者として愛しているがゆえに「あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える」。どんな民であろうと惜しまない。そんな者を捨ててでもあなたを愛しているよ、とおっしゃっているのです。
そして「恐れるな、わたしはあなたと共におる」と、どんなときにも主が共にいてくださる。まことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様につながったことです。これは主がいつもどんなときにも共に、一緒にいてくださる証詞であります。イエス様が私たちを愛するがゆえに、選んで大切な者としてくださっている。このことをしっかりと心に置いてください。神様は「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3)とおっしゃる。そんなにまでなぜ私を愛してくださるのだろうか? それは神様がご自分のかたちにかたどった大切なものとして造ってくださったからです。私たちを愛してやまない理由はただ一つ、神様は人の心に置いたご自分の霊をねたむほどに愛しておられる、と新約聖書に語られています。神様が私たちを愛する理由は、何かできるから、見栄えがいいから、能力がある、才能があるから愛するというのではない。神様が大切なご自分のかたちにまでかたどって造った者が、台無しになり、失われてしまうのは嫌だ、ご自分のかたちに似た者だからこそ愛するのです。
最近の若いお母さんはそのようなことを言うのです。最初に生まれた子供に「可愛いね」と言ったら「いや、この子、なじみがない」と言う。「どうして? 」と訊くと「主人の顔に似ているし、どうも主人の親せきのようで」と。「でも、自分のおなかを痛めた子供は可愛いでしょう」と言ったら、「先生、そんなでもないですよ」と言う。私はびっくりして、自分の子だから可愛いだろうに、と思ったのですが、それから2,3年したら下の子ができました。すると「先生、生まれました。可愛いでしょう」と電話してきました。「可愛い!」と言うので、「どんな風に? 」と問うと、「私によく似ているから」ですと。自分に似ている子は可愛い。私は親になった経験はありませんが、皆さんいかがでしょうか。自分に似た子供は格別可愛いと言いますが、どうなんでしょうか。大抵は本音を言わないから「みんな可愛いです」と言われるけれども、やはり相性というものはあるようです。しかし、似ている者同士はいいですね。神様が私たちを愛しているのは、私たちを神様の尊い、掛替えのないご自分のかたちにかたどっておられるからです。私たちはみなそうなのです。私だけは神様とちょっと違う、悪魔に似ているのかしらと。そうではない。初めからみな神のかたちにかたどって造られたのですが、どういうわけか、悪魔の子になってしまった。サタンから取られてしまって、神様の名前を汚している。神様の造られた「かたち」を失ったのです。だからもう一度、神様は私たちを創世の初めのエデンの園の生活へ立ち返らせてくださるために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。そして今私たちをして、内側にキリストのかたち、神のかたちを形作ろうとしておられる。
年末の最後の礼拝で教えられたように、「私たちはキリストに捕らえられている」「キリストのうちに自分を見出すようになるため」、私の姿かたちがキリストに変わること、そこまで私たちを造り変えようとしてくださる。それは何ゆえか? あなたを愛しているからです。7節に「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。
ヨハネによる福音書15章8節に「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」と。そして9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。神のひとり子でいらっしゃるイエス様が、神の位を捨て、人となり、言葉で表せない大きな犠牲を払って私たちのあがないとなってくださって、私たちの命となられた。あの十字架に命を捨てて、「わたしはお前を愛しているよ」と。ここでイエス様は「父がわたしを愛されたように」と語っています。イエス様は、父なる神様から自分は愛されたのだという自覚があり、また誇りがありました。でもイエス様が現実にお受けになられた父なる神様からの仕打ちといいますか、神様から求められたことは十字架に死ぬことでしょう。愛されているのに神様はこのようにむごいことを、と思います。もし私たちだったら、父なる神様は私を憎んで、私が嫌いだから十字架にまで追いやったに違いないと言って、ひねくれるでしょう。イエス様はそうはおっしゃらない。自分は十字架の苦しみすらも父なる神様は与えられるけれども、これも神様が私を愛してくださるからだと信じていたのです。
私たちもこの地上にあっていろいろな問題や苦しい事があります。そうすると、神様は愛だと、神様は私を愛してくださると、エチオピヤもセバもどんなものも惜しくない、エジプトだって捨てるとおっしゃる、そんなに愛してくださる神様、何で私のこの病気一つ癒してくださらないのだ、どうしてこんな悩みの中に置かれると言ってつぶやく。それは私たちが神様の愛から離れてしまうからです。イエス様は、どんなことであろうと、父なる神様のみ心であると、神様をしっかり信じている、信頼している。その愛の中にとどまっている。愛にとどまる秘けつは、10節「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。イエス様が「父がわたしを愛されたように」と告白なさった、その「愛される」ことの意味は、イエス様が父なる神様の御言葉を、言いつけを、しっかりと握って、どんな中にも神様に信頼し続けたから、私は愛の中にとどまることができたとおっしゃっているのです。
私たちもいろいろな事柄の中に置かれます。しかし、目の前の問題が何であれ、どうであれ、常にキリストに連なって、御言葉をしっかりと信じて、愛のうちにとどまっていく。神様が掛替えのない者として愛してくださっている。私たちを神のかたちにかたどって造られた方が、その栄光の姿を取り返すために、私たちを愛して、地上の旅路を備えておられる。
主のご愛を疑うことのないように、絶えず主の御言葉に自分をしっかりと結びつけて、心をそこに置いて、神様がこんな者を愛してくださっていると言われるから、そのように信じて疑わない。確信を持って主の愛の中にとどまって、キリストに結びついて、キリストの姿かたちに似るものとされたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。