ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。
16節「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。
私たちはイエス様の救いにあずかって「アバ、父よ」「天のお父様」と天地万物の創造者でいらっしゃる神様を親しく呼び求めることができます。幸いな恵みですが、しかし考えてみますと、これは誠に不思議と言うほかありません。神様はすべてのものの創造者、力ある御方であり、私たちとは到底比べものにならない存在です。造り主、創造者に対して私たちは、造られたもの、被造物です。これは相交わる所、接点はどこにもありません。神様をまるで身内であるかのような、身近な家族のごとく呼ぶことができるのは、驚くべき恵みです。私どもはそのような事を考えませんから、当たり前のように思いますが、実はそうではないとしみじみ思います。マタイによる福音書に「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(7:11)と言われています。「あなたがたは悪い者であっても」とあり、「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」と、「天にいますあなたがたの父はなおさら」と、これを読むたびに「天にいます私の父、私のお父さんなのだ」と身近に感じ、何かもったいない、有難い思いがします。同時に「この天のお父様が私のお父さんであるならば、何をくよくよすることがあろうか」と励まされます。私たちはそれを忘れるのです。「天のお父様」に慣れてしまって、それをお題目のように繰り返しながら、その実態を感じない。リアリティーと言いますか、まるでそこにいるように感じる現実感が薄らいでしまうのが、いちばん情けないことです。ですから、絶えず心と思いを新しくして、「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩篇24:1)とおっしゃってくださる神様が、私のお父さん、皆さん一人一人の父となってくださるとは誠に破天荒と言いますか、驚くべき事態です。
そもそも、神様は人と交わることができなかったのです。旧約聖書の中ではそのように記されています。神様を人が直接見ることが許されていなかった。また、近づくこともできない。なぜなら、人は神様に罪を犯して、神様ののろいを受け、滅ぼされるべき者であるからです。神様に直接触れる、あるいは面と向かって相対することは、恐れ多いどころか、瞬時にして焼き滅ぼされる。シナイ山のふもとでイスラエルの民が宿営をしておりました。モーセが神様に呼ばれてシナイ山に登ります。その時に「この山にわたしが臨在をするから、そこにわたしがとどまるから、この山の周囲に誰も入ってはいけない」と、ふもとに境界線を設けられた。そこには人も、家畜も入ってはいけない。そこは神様の聖なる所だからです。もしそこに入るなら、あるいは触れるならば直ちに死ぬであろうと、一瞬にして滅ぼされると……。怖いですよ。下手に神様に手を出すと大やけどを食らう。命まで取られる関係です。これは確かに、そのとおりだと思います。だから「神様って、怖い方ですね」と、時々そのように言われる方がいますが、そのとおりです。神様が怖い、厳しいのは当たり前です。神様は聖なる方、清い方で、義なる方ですから、私たちの罪を一分一厘、僅かでも赦すことができない厳しい御方であるのは事実です。
いわゆる名工と言われる陶器師などもそうですが、自分の造った作品に少しでも傷があったら、世に出さない。よく言われますね。事実だろうと思いますが、有田焼の窯元でもその人の名前が付いたもの、柿右衛門であるとか、今右衛門であるとか、そういう人たちは完璧な物を造ろうと思って、デザインをし、上薬を付けたり、いろいろなことをして窯に入れます。火で焼きます。こればかりは人ではどうにもならない。窯に薪を入れて焼く。結果は自然に任せざるを得ない。どのような結果になるかは、窯を開けてみないと分からない。できれば、せっかく造ったものは全部立派に焼きあがってほしいと願っていると思いますが、二日三日と長く焼きます。そしてやがて窯出しの日になります。窯から出すとき当主が一つ一つ丁寧に見る。決して「お前に任せたから勝手にやっておけ」とは言わない。自分の作品ですから、一つ一つ傷がないか、ゆがんでいないか、どこかに不都合はないか、ありとあらゆるところから見て良い物だけを残して、少しでも傷があったらそれを割ってしまうという。最近は、B級品といってその辺の品物が出回ってきますが、名工と言われる国宝級の人はそのようなことはしない。「これは柿右衛門のB級品だけど……」なんていうのは出ない。「写し」と言いますのは、ほかの人が勝手に模造品を造りますが、それはまた別です。名工の名が付いた、直にその人が造った物は、少し傷があっても「良いか、このくらい。割るのが惜しいから」とは決してならない。少しでもゆがんだ物があったら、はねてしまう。厳しいですよ。
ましてや、神様はもっと基準の高い御方ですから、神様の作品である私たちは明らかに捨てるしかない、出来損ないです。私たちが神様の作品だと言うなら、神様のほうが「おれの名前を汚すような存在、もう消してしまおう」と思うのが当たり前ですよ。そのような私たちを神様は「わたしはあなたをあがなった」と言われる。しかも捨てて当然、壊してしまいたい、そうでないと神様の名がすたる。「これが神様の作品です」とは恥ずかしくて言えない。ところが神様は私たちを惜しんで、愛してくださったのです。そして、そのような捨てるべき者をもう一度拾い出して、造り直してくださる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント 5:17)。新しく造り変えるために、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。今、「アバ、父よ」「天のお父様」「父なる神様」と言えるのは、そのいさおし、イエス様のゆえなのです。これがなければ、私たちはとっくの昔に滅びていたのです。今はイエス様のゆえに神様が赦して、神様のものとして、聖書に「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ」(イザヤ 43:7)とあるように、言うならば「『これは神様の作品です』と言われる者をわたしの所に集めよ」とおっしゃるのです。「これはわたしの素晴らしい作品だよ」と、私たちを神様の作品として受け止めてくださっている。それはただ主イエス・キリスト、ひとり子イエス様のいさおし、功績、代価によるのです。これは決して忘れてはならないことです。私たちが何か役に立つからではなくて、ただ一方的な神様の憐(あわ)れみにあずかっているのです。
今読みました14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」とあります。旧約の時代イスラエルの民は神様の前に出ることができません。直接、私たちのようにお祈りすることも、御言葉を通して神様を呼び求めることも、神様のみ心を知ることもできなかったのです。そのころ、神様はやがて来るべきイエス様の予形と言いますか、あらかじめ一つのモデルとして祭司制というものを作ってくださったのです。それは神様に選ばれた、祭司として立てられた人たちを中継ぎとして、その祭司を通して神様に近づくのです。だからごく限られた役割しかできない、不完全な者ではあります。立てられる祭司自体が、私たちと同じ人間ですから、罪を犯した者であり、年を取れば死んでいってしまう。記憶力も薄らぐでしょうから、そのような不完全な者が祭司として立てられながらも、そこに神様と近づくチャンネルと言いますか、道筋、細い道を置いてくださったのです。それはやがて神様の時が来たとき、その細い道がもっと広くすべての人に開かれる道に変わるためです。また、このような形になりますよ、という一つの予形、あらかじめ例示された姿です。ですから、旧約聖書はやがて来るべきイエス様の救いについて備えられた一つのモデルなのです。実は、祭司制というのもその一つです。人による祭司がいかに不完全なものであるかが明らかにされ、それに代わって、今度は真(まこと)の大祭司として主イエス・キリストがこの世に来てくださった。イエス様は私たちの罪のあがないの供え物、いわゆる神の羔羊(こひつじ)として、罪を担ういけにえとして来てくださったばかりではなくて、同時に私たちと神様を結び付けてくださる御方となってくださった。だから、そこにありますように「わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」。「わたしたちの告白する信仰」、イエス・キリストの十字架のいさおしによって罪を赦され、そしてイエス様が今度は執り成し手・祭司となって、私たちのすべての思いを神様に伝えてくださる。イエス様はよみがえって、絶えず共にいてくださって、何をしてくださるのか? 祭司となってくださっている。私と神様との間を絶えず執り成していてくださる。
15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。大祭司となってくださったイエス様は、私たちの願い、思い、心を全部知って、父なる神様に取り次いでくださる。 “同病相哀れむ”とよく言うように、同じ病気をすると相手のことが分かる。ところが、常日ごろ健康そのものの人は、弱い病気がちの人をいたわることができにくい。その思いが通じません。やはりそのような年になり、そのような問題に当たって、いろいろな悩みの中を通って来ると、同じ苦しみにある人を身近に感じる。イエス様は神の御子でしたから、「私たちとは次元が違う。あの方は雲の上の人だ。私たちのことは何も分からない」と言うのだったら、これは話しても通じません。ところが、そうではなくてイエス様は15節「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。これは大きな慰めです。イエス様はベツレヘムの馬小屋の中に生まれてくださった。世のいちばんどん底にまで下ってくださった方です。王侯貴族の家に生まれて、下々のことは何も分からん、というのではない。それどころか、私たちと同じように、「試錬に会われたのである」。試みを受けてくださった。だから、私たちを知ってくださるのです。
ヘブル人の手紙2章17,18節を朗読。
誠に素晴らしい神様の恵みです。17節に「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって」、イエス様は大祭司となって、神様の前に立っていてくださる。しかもその大祭司は「あわれみ深い忠実な」方でいらっしゃる。あわれみに富んだ御方、もし大祭司があわれみのない方で厳しい方だったら、「おい、そのくらいのことで泣き言をいうな!」としかり飛ばされますよ。「神様、このことが大変ですから助けてください」と言おうものなら、「少しは自分でやれ!」なんて、そんなことを言われたら、私どもは立つ瀬がありません。しかし、主はあわれんでくださいます。「ああ、そうか」「本当にきついのか、苦しいのか」と。だから、イエス様は私たちの思いをすべて知ることができる御方。私たちはこのイエス様がどのような御方でいらっしゃるか、私たちの苦しみも悲しみもうれしいことも楽しいことも、ありとあらゆること、どんなことも私たちと同じように味わい知る方であることを信じましょう。
17節に「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。「あらゆる点において」ですね。だから、私たちの思いを主はすべて知り尽くしてくださる。「私のことは誰も知ってくれない」「私のことは誰も覚えてくれない、同情してくれない」なんて嘆きますが、それどころか、イエス様は私たちのことをすべて知ってくださる。だから、私たちは遠慮なく近づくことができ、また求めることができます。18節に「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。だから同じ苦しみの中、悩みの中にあるものを助けることができるのです。
私は子供のころ、父から「イエス様は何でも知ってくださるのだから、お祈りをしなさい」とよく言われました。ある時、受験期で受験勉強に励んでいました。それで父に「でも、イエス様の時代には大学はなかっただろうし、こういう受験競争もなかったのに、何で私の気持ちが分かるかしら」と言ったのです。すると父が「お前は馬鹿なことを言う。たとえその問題が何であれ、その中においてお前が感じている不安や恐れは時代が変わっても変わらない。イエス様はそれを全部知っているのだから……」と。その時はよく分かりませんでしたが、今はよく分かります。確かに、受験戦争とかそのようなものはたとえなくても、その中にある人の不安、恐れ、あるいは心配、思い煩いは変わらない。ただ目先の問題が変わっただけのことで、人間そのものの不安や恐れ、そしてそこで感じる弱さや、あるいは苛立ちや憤りといったものも変わらないのです。イエス様はそれらをすべて知っていらっしゃる。そのとおりだと思います。ですから、たとえ世の中が科学の時代だとか、文明が進歩して世の中が変わったとは言いますが、実は何も変わらないのです。ただ、表面は変わったかもしれませんが、その内側である人の心は全く変わらない。そこに主は届いてくださる。ただ、表側のことだけではなく、心の内側にまで届いてくださる御方は、イエス様以外にない。そして18節に「試錬の中にある者たちを助けることができる」。私たちを助けてくださるのです。
4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて」、「すべてのことについて」とあります。「わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私たちと同じような悩み、悲しみ、苦しみ、憤り、あるいは不安や恐れや失望、絶望、そのようなものを味わっておられる。「だから」と、16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。だから、そのような御方だからこそ、私たちは神様の憐(あわ)れみにあずかって、また恵みを受けて「時機を得た助け」、いちばん時にかなった助けを受けるために、まず御前に近づく、「恵みの御座に近づこうではないか」。なぜなら、そこに私たちのために執り成し給う御方がいらっしゃるからです。
ローマ人への手紙8章31節から35節までを朗読。
34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。イエス様は私たちの罪のために、私たちが死ぬべきところを代わって死んでくださった。そればかりでなく、大祭司となるために、主はよみがえって、私たちのそばにあって、父なる神様のまえに執り成す御方となってくださった。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20b)と約束してくださったでしょう。どうしてイエス様は私たちと共にいてくださるのか。ただ、私たちを慰めるために、寂しいだろうから、わたしもあなたと一緒にいてあげるよ、という意味でしょうか。もちろんそれもあるでしょうが、もっと大切な使命がある。神様がイエス様を死からよみがえらせたご目的は、罪を清められた私たちが、神様のみ前に近づくことができるように、私たちの祭司となって、私たちを神様に結びつける御方とならせるためです。だから、今もよみがえった主は、私たちと共にいてくださる。御霊、聖霊なる神として、キリストの霊が私たちの内に宿って、私たちを父なる神様につないでくださっている。さらに、イエス様は私たちの心に神様を求める思い、神様を恐れる思い、神様を信じる力を与えてくださる。よみがえった主がいるからそれができる。もし、イエス様が私たちの罪のために死んだだけでおしまいで、もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちは罪が赦されたでしょうか? また同じ罪の泥沼に入って行くに違いない。失われてしまうのは必然です。当然そのようにならざるを得ないのが人の姿です。私たちが、二度と滅びることのないように、私たちを常に父なる神様に結びつける役割として、イエス様が絶えず共にいてくださる。だから、私たちは心強いのです。私たちは独りで神様の前に立っているのではなくて、いつもどんな時にも主は決して離れることなく共にいてくださって、私たちの思いを、願いを父なる神様に執り成してくださる。34節後半に「神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さる」。だから、私たちは何一つ恐れることはいらない。「私はこんな罪を犯してしまった。こんな失敗をしたから、もう、神様は私の言う事を聞いてくださらない、私の祈りは聞いてくださらないのではないか」と、そんな心配も何にもいらない。私たちがどのような状態であっても、共にいてくださる主が私たちの執り成し手となって、祭司となって、父なる神様との間をつないでくださるからです。だから、私たちは「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント 6:2)。「はばかることなく恵みの御座に」と、許されているわけです。
ローマ人への手紙8章26,27節を朗読。
ここには御霊の働きについて語られています。「御霊」とは、聖霊とも言いますし、これはよみがえり給うた主ご自身、キリストの霊でもあります。キリストご自身といってもいいと思います。また神様ご自身といってもいいのですが、御霊はどのようなことをしてくださるか? 26節に「弱いわたしを助けて下さる」のです。「どう祈ったらよいかわからない」、しかし「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」、御霊なる神が「わたしたちのためにとりなして下さる」とあります。「とりなす」、仲立ちとなってくださる。だから、私たちは、言葉に出していろいろとお祈りをしても、自分の心の全部を言い表せない。たとえ言葉の巧みな人であっても、自分の心の隅から隅まで全部を言い尽くすことはできません。ただ「主よ、悲しいです」と一言言うしかないです。どんな悲しみがあるか、どのくらいの悲しみか、その悲しみの色はどんな色をしているか、そんな自分の気持ちを全部事細かく言おうとするならば、頭にねじり鉢巻して考えなければなりません。そうなるとお祈りをしていても、一日掛りですね。自分の心にあることを全部言い尽くそうと思うと時間が掛かる。ところが「どう祈ったらよいかわからない」「言葉にあらわせない」、そのような私たちの心の隅々、くまぐままでも大祭司なる御方は、執り成し手となってくださる御方は、全部知っておられる。だから、心を主に向けて一言「天のお父様」と祈り出す。短い、本当にぽつぽつの祈りであっても、途切れ途切れであっても、その途切れた間にある深い思いを御霊なる神様は知ってくださる。そして、イエス様が父なる神様に執り成してくださる。「今は恵みの時です」。まさに「あなたの願いを聞きいれる」とおっしゃるのです。どうぞ、私たちは今どんな大きな恵みの中にあるかをしっかりと自覚していきたいと思います。
また、27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる」。私たちの心の隅々までも知り給う神様は、御霊が私たちのために執り成してくださるすべての事を知ってくださる御方でもあります。「なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。私はこのお言葉に大変慰められ、励まされます。というのは、聖書には「み心にかなうお祈りをしなさい」とあるのですが、み心にかなうお祈りはどのようにすればいいのか、しばらく悩んだ時代があるのです。お祈りをすると、このお祈りは勝手なお祈りだから、やめておこう。これもまたわがままなお祈りだからやめておこう。何が神様のみ心にかなうお祈りかなと、考えるけれども、分からない。皆さんもそのような経験があると思います。欲深いお祈りほどそれを感じますね。自分の勝手だなと思いながら、お祈りするときほど、そのような後ろめたさを引きずる。ところが、ここにちゃんと約束されている。「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」。神様は私たちの祈りの言葉が立派だから、あるいは内容がいいから聞いてくださるわけではない。私たちが欲深い者であり、身勝手な者であることは知っていらっしゃる。だから、私たちは思うかぎり自分の願いをぶちまけて、「心を注ぎだせ」とあるように、私たちの思いを全部申し上げる。そうすると、御霊が、聖霊が私たちの祈りをちゃんとみ心にかなうものとして執り成してくださる。これは大きな力です。だから失望することはないのです。どんなことでも遠慮なく「恵みの御座に近づきなさい」とは、まさにそこなのです。もし、作文のように「これはちょっと落第、60点」とか、そんなことを言われたらお祈りができなくなります。「今日のお祈りは40点、マイナスだったな」とか、「今日は80点、これは効けたな」とか、そのような話になったら大変です。私たちは到底お祈りなんかできません。そうではない。私たちは初めから神様の前にみ心にかなうことなんかできっこないのです。しかし、それを執り成してくださる御方がいるから、「恵みの御座に近づきなさい、遠慮するな」とおっしゃるのです。27節「御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」、私たちが御旨にかなわなくても、私たちの祈りがひっちゃかめっちゃか、支離滅裂であろうと、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」執り成してくださるばかりでなく、身勝手な自己中心な祈りであろうと、それを御霊なる神、キリスト、イエス様は大祭司となって、私たちと共にいてくださって執り成してくださる。ですから、遠慮なく勇気を持ってどんなことでも主の前に祈る、求めていく。
へブル人への手紙4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって」、「あわれみを受け」「恵みにあずかる」といいますのは、まさにローマ人への手紙8章にあったように、私たちのために「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」御方がいらっしゃることです。また、「あわれみを受ける」、「恵みにあずかる」とは、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」とおっしゃる主の「とりなし」という恵みの中に、私たちは今生きていることです。この主がいらっしゃらなければ、主がよみがえり給わなかったら、私たちのお祈りは何も届きません。主はご自分の肉を裂き、血を流し、ご自身がいけにえとなり、その血をもって私たちを清め、私たちのうちに住んでくださって、絶えず祭司としての勤めを神様の前に果たしてくださる。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」(Ⅰコリント 6:19)と、主が内にあって私たちを神に仕える者としてくださっています。こんな素晴らしい恵みですから、16節「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく」、遠慮なく、ためらわないで、私たちはこのような素晴らしい特権といいますか、恵みをいただいているのですから、いつもどんな時にも主を前に置いて、主の臨在と共に生きる者でありたいと思うのです。何か思うことがあり、考えることがあるなら、思い悩まないで御座に近づく。私どもはすぐ思い煩って、悩んだり、心の中でつぶやいてみたり、葛藤(かっとう)して、その挙句の果て「やっぱり、ああそうだ、お祈りをしなければ……」と後になって気づく。思い煩う時間、お祈りをするのです。主の「恵みの御座に近づいて」、人に言わなくても誰に言わなくても、主と交わっていきたい。
「恵みの御座」はどこにあるかと言われますが、「あなたが立っているその場所は聖なる地である」「足からくつを脱いで」と言われる主が立ってくださっている、台所でしょうか、職場でしょうか、そこは聖なる地、神様が備えてくださった「恵みの御座」であることを知っておきたい。「私の台所は『恵みの御座』ではあるまい。もうちょっとその辺を片付けてから」と、そんなことではありません。私たちは、その時そこにあって、その所で足からくつを脱いで、「主よ、今こんな悩みがあります。こんな心配があります。このような思い煩いが……、このことはどうなのでしょうか、ああなのでしょうか」と。いつまでも悶々としない。思い煩いがないのはいいことでしょうが、あることも幸いです。なぜなら、いつも主を求めざるを得ないからです。主に対して意識をはっきりさせ、目を覚ましていかなければならないからです。問題があるとき、悩みがあるとき、何か心配があるとき、憤ることがあるならば、それをすぐに主に持っていく。そうすると、神様は私たちの祈りを聞いてくださる。いちばん良い時に、いちばん良い業を私たちにしてくださる。「時機」は大切です。「時機」を外したら、これほどばつの悪い、間の悪いものはありません。しかし、神様はいちばん良い時を備えてくださる。だから、神様に祈って、待ち望んでいきますならば、神様は「今この時はこの事をしなさい」とパシッと決めてくださいますから、自分で思い煩って「もうそろそろいいかな、もうちょっとかな」「明日かな、明後日かな、いつがいいかな」と、そんな事を考える必要はない。「主よ、いつがいいでしょうか。お任せします」と。そうすると、神様は瞬時にパッと道を開かれます。神様のなさる業はじわじわではない。その時に「はい」と、私たちが従う。「そうだ。今がこの時」、神様はきちっと教えなさいますから、いつも神様に心を向け、思いを向けていくことです。「今は、恵みの時、今は、救の日」だからです。
私たちはどんな時にでも、どんな場所にあっても、常に主の臨在と共に生活しましょう。よみがえり給うた主が共にいて、執り成してくださるから、遠慮なく主を求めてみ前に心を注ぎだしていきたいと思います。そして「主がここに共にいてくださって、この祈りに神様はこのような道を備えてくださった」と、味わい体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。
私たちはイエス様の救いにあずかって「アバ、父よ」「天のお父様」と天地万物の創造者でいらっしゃる神様を親しく呼び求めることができます。幸いな恵みですが、しかし考えてみますと、これは誠に不思議と言うほかありません。神様はすべてのものの創造者、力ある御方であり、私たちとは到底比べものにならない存在です。造り主、創造者に対して私たちは、造られたもの、被造物です。これは相交わる所、接点はどこにもありません。神様をまるで身内であるかのような、身近な家族のごとく呼ぶことができるのは、驚くべき恵みです。私どもはそのような事を考えませんから、当たり前のように思いますが、実はそうではないとしみじみ思います。マタイによる福音書に「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(7:11)と言われています。「あなたがたは悪い者であっても」とあり、「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」と、「天にいますあなたがたの父はなおさら」と、これを読むたびに「天にいます私の父、私のお父さんなのだ」と身近に感じ、何かもったいない、有難い思いがします。同時に「この天のお父様が私のお父さんであるならば、何をくよくよすることがあろうか」と励まされます。私たちはそれを忘れるのです。「天のお父様」に慣れてしまって、それをお題目のように繰り返しながら、その実態を感じない。リアリティーと言いますか、まるでそこにいるように感じる現実感が薄らいでしまうのが、いちばん情けないことです。ですから、絶えず心と思いを新しくして、「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩篇24:1)とおっしゃってくださる神様が、私のお父さん、皆さん一人一人の父となってくださるとは誠に破天荒と言いますか、驚くべき事態です。
そもそも、神様は人と交わることができなかったのです。旧約聖書の中ではそのように記されています。神様を人が直接見ることが許されていなかった。また、近づくこともできない。なぜなら、人は神様に罪を犯して、神様ののろいを受け、滅ぼされるべき者であるからです。神様に直接触れる、あるいは面と向かって相対することは、恐れ多いどころか、瞬時にして焼き滅ぼされる。シナイ山のふもとでイスラエルの民が宿営をしておりました。モーセが神様に呼ばれてシナイ山に登ります。その時に「この山にわたしが臨在をするから、そこにわたしがとどまるから、この山の周囲に誰も入ってはいけない」と、ふもとに境界線を設けられた。そこには人も、家畜も入ってはいけない。そこは神様の聖なる所だからです。もしそこに入るなら、あるいは触れるならば直ちに死ぬであろうと、一瞬にして滅ぼされると……。怖いですよ。下手に神様に手を出すと大やけどを食らう。命まで取られる関係です。これは確かに、そのとおりだと思います。だから「神様って、怖い方ですね」と、時々そのように言われる方がいますが、そのとおりです。神様が怖い、厳しいのは当たり前です。神様は聖なる方、清い方で、義なる方ですから、私たちの罪を一分一厘、僅かでも赦すことができない厳しい御方であるのは事実です。
いわゆる名工と言われる陶器師などもそうですが、自分の造った作品に少しでも傷があったら、世に出さない。よく言われますね。事実だろうと思いますが、有田焼の窯元でもその人の名前が付いたもの、柿右衛門であるとか、今右衛門であるとか、そういう人たちは完璧な物を造ろうと思って、デザインをし、上薬を付けたり、いろいろなことをして窯に入れます。火で焼きます。こればかりは人ではどうにもならない。窯に薪を入れて焼く。結果は自然に任せざるを得ない。どのような結果になるかは、窯を開けてみないと分からない。できれば、せっかく造ったものは全部立派に焼きあがってほしいと願っていると思いますが、二日三日と長く焼きます。そしてやがて窯出しの日になります。窯から出すとき当主が一つ一つ丁寧に見る。決して「お前に任せたから勝手にやっておけ」とは言わない。自分の作品ですから、一つ一つ傷がないか、ゆがんでいないか、どこかに不都合はないか、ありとあらゆるところから見て良い物だけを残して、少しでも傷があったらそれを割ってしまうという。最近は、B級品といってその辺の品物が出回ってきますが、名工と言われる国宝級の人はそのようなことはしない。「これは柿右衛門のB級品だけど……」なんていうのは出ない。「写し」と言いますのは、ほかの人が勝手に模造品を造りますが、それはまた別です。名工の名が付いた、直にその人が造った物は、少し傷があっても「良いか、このくらい。割るのが惜しいから」とは決してならない。少しでもゆがんだ物があったら、はねてしまう。厳しいですよ。
ましてや、神様はもっと基準の高い御方ですから、神様の作品である私たちは明らかに捨てるしかない、出来損ないです。私たちが神様の作品だと言うなら、神様のほうが「おれの名前を汚すような存在、もう消してしまおう」と思うのが当たり前ですよ。そのような私たちを神様は「わたしはあなたをあがなった」と言われる。しかも捨てて当然、壊してしまいたい、そうでないと神様の名がすたる。「これが神様の作品です」とは恥ずかしくて言えない。ところが神様は私たちを惜しんで、愛してくださったのです。そして、そのような捨てるべき者をもう一度拾い出して、造り直してくださる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント 5:17)。新しく造り変えるために、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。今、「アバ、父よ」「天のお父様」「父なる神様」と言えるのは、そのいさおし、イエス様のゆえなのです。これがなければ、私たちはとっくの昔に滅びていたのです。今はイエス様のゆえに神様が赦して、神様のものとして、聖書に「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ」(イザヤ 43:7)とあるように、言うならば「『これは神様の作品です』と言われる者をわたしの所に集めよ」とおっしゃるのです。「これはわたしの素晴らしい作品だよ」と、私たちを神様の作品として受け止めてくださっている。それはただ主イエス・キリスト、ひとり子イエス様のいさおし、功績、代価によるのです。これは決して忘れてはならないことです。私たちが何か役に立つからではなくて、ただ一方的な神様の憐(あわ)れみにあずかっているのです。
今読みました14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」とあります。旧約の時代イスラエルの民は神様の前に出ることができません。直接、私たちのようにお祈りすることも、御言葉を通して神様を呼び求めることも、神様のみ心を知ることもできなかったのです。そのころ、神様はやがて来るべきイエス様の予形と言いますか、あらかじめ一つのモデルとして祭司制というものを作ってくださったのです。それは神様に選ばれた、祭司として立てられた人たちを中継ぎとして、その祭司を通して神様に近づくのです。だからごく限られた役割しかできない、不完全な者ではあります。立てられる祭司自体が、私たちと同じ人間ですから、罪を犯した者であり、年を取れば死んでいってしまう。記憶力も薄らぐでしょうから、そのような不完全な者が祭司として立てられながらも、そこに神様と近づくチャンネルと言いますか、道筋、細い道を置いてくださったのです。それはやがて神様の時が来たとき、その細い道がもっと広くすべての人に開かれる道に変わるためです。また、このような形になりますよ、という一つの予形、あらかじめ例示された姿です。ですから、旧約聖書はやがて来るべきイエス様の救いについて備えられた一つのモデルなのです。実は、祭司制というのもその一つです。人による祭司がいかに不完全なものであるかが明らかにされ、それに代わって、今度は真(まこと)の大祭司として主イエス・キリストがこの世に来てくださった。イエス様は私たちの罪のあがないの供え物、いわゆる神の羔羊(こひつじ)として、罪を担ういけにえとして来てくださったばかりではなくて、同時に私たちと神様を結び付けてくださる御方となってくださった。だから、そこにありますように「わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」。「わたしたちの告白する信仰」、イエス・キリストの十字架のいさおしによって罪を赦され、そしてイエス様が今度は執り成し手・祭司となって、私たちのすべての思いを神様に伝えてくださる。イエス様はよみがえって、絶えず共にいてくださって、何をしてくださるのか? 祭司となってくださっている。私と神様との間を絶えず執り成していてくださる。
15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。大祭司となってくださったイエス様は、私たちの願い、思い、心を全部知って、父なる神様に取り次いでくださる。 “同病相哀れむ”とよく言うように、同じ病気をすると相手のことが分かる。ところが、常日ごろ健康そのものの人は、弱い病気がちの人をいたわることができにくい。その思いが通じません。やはりそのような年になり、そのような問題に当たって、いろいろな悩みの中を通って来ると、同じ苦しみにある人を身近に感じる。イエス様は神の御子でしたから、「私たちとは次元が違う。あの方は雲の上の人だ。私たちのことは何も分からない」と言うのだったら、これは話しても通じません。ところが、そうではなくてイエス様は15節「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。これは大きな慰めです。イエス様はベツレヘムの馬小屋の中に生まれてくださった。世のいちばんどん底にまで下ってくださった方です。王侯貴族の家に生まれて、下々のことは何も分からん、というのではない。それどころか、私たちと同じように、「試錬に会われたのである」。試みを受けてくださった。だから、私たちを知ってくださるのです。
ヘブル人の手紙2章17,18節を朗読。
誠に素晴らしい神様の恵みです。17節に「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって」、イエス様は大祭司となって、神様の前に立っていてくださる。しかもその大祭司は「あわれみ深い忠実な」方でいらっしゃる。あわれみに富んだ御方、もし大祭司があわれみのない方で厳しい方だったら、「おい、そのくらいのことで泣き言をいうな!」としかり飛ばされますよ。「神様、このことが大変ですから助けてください」と言おうものなら、「少しは自分でやれ!」なんて、そんなことを言われたら、私どもは立つ瀬がありません。しかし、主はあわれんでくださいます。「ああ、そうか」「本当にきついのか、苦しいのか」と。だから、イエス様は私たちの思いをすべて知ることができる御方。私たちはこのイエス様がどのような御方でいらっしゃるか、私たちの苦しみも悲しみもうれしいことも楽しいことも、ありとあらゆること、どんなことも私たちと同じように味わい知る方であることを信じましょう。
17節に「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。「あらゆる点において」ですね。だから、私たちの思いを主はすべて知り尽くしてくださる。「私のことは誰も知ってくれない」「私のことは誰も覚えてくれない、同情してくれない」なんて嘆きますが、それどころか、イエス様は私たちのことをすべて知ってくださる。だから、私たちは遠慮なく近づくことができ、また求めることができます。18節に「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。だから同じ苦しみの中、悩みの中にあるものを助けることができるのです。
私は子供のころ、父から「イエス様は何でも知ってくださるのだから、お祈りをしなさい」とよく言われました。ある時、受験期で受験勉強に励んでいました。それで父に「でも、イエス様の時代には大学はなかっただろうし、こういう受験競争もなかったのに、何で私の気持ちが分かるかしら」と言ったのです。すると父が「お前は馬鹿なことを言う。たとえその問題が何であれ、その中においてお前が感じている不安や恐れは時代が変わっても変わらない。イエス様はそれを全部知っているのだから……」と。その時はよく分かりませんでしたが、今はよく分かります。確かに、受験戦争とかそのようなものはたとえなくても、その中にある人の不安、恐れ、あるいは心配、思い煩いは変わらない。ただ目先の問題が変わっただけのことで、人間そのものの不安や恐れ、そしてそこで感じる弱さや、あるいは苛立ちや憤りといったものも変わらないのです。イエス様はそれらをすべて知っていらっしゃる。そのとおりだと思います。ですから、たとえ世の中が科学の時代だとか、文明が進歩して世の中が変わったとは言いますが、実は何も変わらないのです。ただ、表面は変わったかもしれませんが、その内側である人の心は全く変わらない。そこに主は届いてくださる。ただ、表側のことだけではなく、心の内側にまで届いてくださる御方は、イエス様以外にない。そして18節に「試錬の中にある者たちを助けることができる」。私たちを助けてくださるのです。
4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて」、「すべてのことについて」とあります。「わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私たちと同じような悩み、悲しみ、苦しみ、憤り、あるいは不安や恐れや失望、絶望、そのようなものを味わっておられる。「だから」と、16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。だから、そのような御方だからこそ、私たちは神様の憐(あわ)れみにあずかって、また恵みを受けて「時機を得た助け」、いちばん時にかなった助けを受けるために、まず御前に近づく、「恵みの御座に近づこうではないか」。なぜなら、そこに私たちのために執り成し給う御方がいらっしゃるからです。
ローマ人への手紙8章31節から35節までを朗読。
34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。イエス様は私たちの罪のために、私たちが死ぬべきところを代わって死んでくださった。そればかりでなく、大祭司となるために、主はよみがえって、私たちのそばにあって、父なる神様のまえに執り成す御方となってくださった。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20b)と約束してくださったでしょう。どうしてイエス様は私たちと共にいてくださるのか。ただ、私たちを慰めるために、寂しいだろうから、わたしもあなたと一緒にいてあげるよ、という意味でしょうか。もちろんそれもあるでしょうが、もっと大切な使命がある。神様がイエス様を死からよみがえらせたご目的は、罪を清められた私たちが、神様のみ前に近づくことができるように、私たちの祭司となって、私たちを神様に結びつける御方とならせるためです。だから、今もよみがえった主は、私たちと共にいてくださる。御霊、聖霊なる神として、キリストの霊が私たちの内に宿って、私たちを父なる神様につないでくださっている。さらに、イエス様は私たちの心に神様を求める思い、神様を恐れる思い、神様を信じる力を与えてくださる。よみがえった主がいるからそれができる。もし、イエス様が私たちの罪のために死んだだけでおしまいで、もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちは罪が赦されたでしょうか? また同じ罪の泥沼に入って行くに違いない。失われてしまうのは必然です。当然そのようにならざるを得ないのが人の姿です。私たちが、二度と滅びることのないように、私たちを常に父なる神様に結びつける役割として、イエス様が絶えず共にいてくださる。だから、私たちは心強いのです。私たちは独りで神様の前に立っているのではなくて、いつもどんな時にも主は決して離れることなく共にいてくださって、私たちの思いを、願いを父なる神様に執り成してくださる。34節後半に「神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さる」。だから、私たちは何一つ恐れることはいらない。「私はこんな罪を犯してしまった。こんな失敗をしたから、もう、神様は私の言う事を聞いてくださらない、私の祈りは聞いてくださらないのではないか」と、そんな心配も何にもいらない。私たちがどのような状態であっても、共にいてくださる主が私たちの執り成し手となって、祭司となって、父なる神様との間をつないでくださるからです。だから、私たちは「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント 6:2)。「はばかることなく恵みの御座に」と、許されているわけです。
ローマ人への手紙8章26,27節を朗読。
ここには御霊の働きについて語られています。「御霊」とは、聖霊とも言いますし、これはよみがえり給うた主ご自身、キリストの霊でもあります。キリストご自身といってもいいと思います。また神様ご自身といってもいいのですが、御霊はどのようなことをしてくださるか? 26節に「弱いわたしを助けて下さる」のです。「どう祈ったらよいかわからない」、しかし「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」、御霊なる神が「わたしたちのためにとりなして下さる」とあります。「とりなす」、仲立ちとなってくださる。だから、私たちは、言葉に出していろいろとお祈りをしても、自分の心の全部を言い表せない。たとえ言葉の巧みな人であっても、自分の心の隅から隅まで全部を言い尽くすことはできません。ただ「主よ、悲しいです」と一言言うしかないです。どんな悲しみがあるか、どのくらいの悲しみか、その悲しみの色はどんな色をしているか、そんな自分の気持ちを全部事細かく言おうとするならば、頭にねじり鉢巻して考えなければなりません。そうなるとお祈りをしていても、一日掛りですね。自分の心にあることを全部言い尽くそうと思うと時間が掛かる。ところが「どう祈ったらよいかわからない」「言葉にあらわせない」、そのような私たちの心の隅々、くまぐままでも大祭司なる御方は、執り成し手となってくださる御方は、全部知っておられる。だから、心を主に向けて一言「天のお父様」と祈り出す。短い、本当にぽつぽつの祈りであっても、途切れ途切れであっても、その途切れた間にある深い思いを御霊なる神様は知ってくださる。そして、イエス様が父なる神様に執り成してくださる。「今は恵みの時です」。まさに「あなたの願いを聞きいれる」とおっしゃるのです。どうぞ、私たちは今どんな大きな恵みの中にあるかをしっかりと自覚していきたいと思います。
また、27節に「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる」。私たちの心の隅々までも知り給う神様は、御霊が私たちのために執り成してくださるすべての事を知ってくださる御方でもあります。「なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。私はこのお言葉に大変慰められ、励まされます。というのは、聖書には「み心にかなうお祈りをしなさい」とあるのですが、み心にかなうお祈りはどのようにすればいいのか、しばらく悩んだ時代があるのです。お祈りをすると、このお祈りは勝手なお祈りだから、やめておこう。これもまたわがままなお祈りだからやめておこう。何が神様のみ心にかなうお祈りかなと、考えるけれども、分からない。皆さんもそのような経験があると思います。欲深いお祈りほどそれを感じますね。自分の勝手だなと思いながら、お祈りするときほど、そのような後ろめたさを引きずる。ところが、ここにちゃんと約束されている。「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」。神様は私たちの祈りの言葉が立派だから、あるいは内容がいいから聞いてくださるわけではない。私たちが欲深い者であり、身勝手な者であることは知っていらっしゃる。だから、私たちは思うかぎり自分の願いをぶちまけて、「心を注ぎだせ」とあるように、私たちの思いを全部申し上げる。そうすると、御霊が、聖霊が私たちの祈りをちゃんとみ心にかなうものとして執り成してくださる。これは大きな力です。だから失望することはないのです。どんなことでも遠慮なく「恵みの御座に近づきなさい」とは、まさにそこなのです。もし、作文のように「これはちょっと落第、60点」とか、そんなことを言われたらお祈りができなくなります。「今日のお祈りは40点、マイナスだったな」とか、「今日は80点、これは効けたな」とか、そのような話になったら大変です。私たちは到底お祈りなんかできません。そうではない。私たちは初めから神様の前にみ心にかなうことなんかできっこないのです。しかし、それを執り成してくださる御方がいるから、「恵みの御座に近づきなさい、遠慮するな」とおっしゃるのです。27節「御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」、私たちが御旨にかなわなくても、私たちの祈りがひっちゃかめっちゃか、支離滅裂であろうと、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって」執り成してくださるばかりでなく、身勝手な自己中心な祈りであろうと、それを御霊なる神、キリスト、イエス様は大祭司となって、私たちと共にいてくださって執り成してくださる。ですから、遠慮なく勇気を持ってどんなことでも主の前に祈る、求めていく。
へブル人への手紙4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって」、「あわれみを受け」「恵みにあずかる」といいますのは、まさにローマ人への手紙8章にあったように、私たちのために「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」御方がいらっしゃることです。また、「あわれみを受ける」、「恵みにあずかる」とは、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」とおっしゃる主の「とりなし」という恵みの中に、私たちは今生きていることです。この主がいらっしゃらなければ、主がよみがえり給わなかったら、私たちのお祈りは何も届きません。主はご自分の肉を裂き、血を流し、ご自身がいけにえとなり、その血をもって私たちを清め、私たちのうちに住んでくださって、絶えず祭司としての勤めを神様の前に果たしてくださる。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」(Ⅰコリント 6:19)と、主が内にあって私たちを神に仕える者としてくださっています。こんな素晴らしい恵みですから、16節「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく」、遠慮なく、ためらわないで、私たちはこのような素晴らしい特権といいますか、恵みをいただいているのですから、いつもどんな時にも主を前に置いて、主の臨在と共に生きる者でありたいと思うのです。何か思うことがあり、考えることがあるなら、思い悩まないで御座に近づく。私どもはすぐ思い煩って、悩んだり、心の中でつぶやいてみたり、葛藤(かっとう)して、その挙句の果て「やっぱり、ああそうだ、お祈りをしなければ……」と後になって気づく。思い煩う時間、お祈りをするのです。主の「恵みの御座に近づいて」、人に言わなくても誰に言わなくても、主と交わっていきたい。
「恵みの御座」はどこにあるかと言われますが、「あなたが立っているその場所は聖なる地である」「足からくつを脱いで」と言われる主が立ってくださっている、台所でしょうか、職場でしょうか、そこは聖なる地、神様が備えてくださった「恵みの御座」であることを知っておきたい。「私の台所は『恵みの御座』ではあるまい。もうちょっとその辺を片付けてから」と、そんなことではありません。私たちは、その時そこにあって、その所で足からくつを脱いで、「主よ、今こんな悩みがあります。こんな心配があります。このような思い煩いが……、このことはどうなのでしょうか、ああなのでしょうか」と。いつまでも悶々としない。思い煩いがないのはいいことでしょうが、あることも幸いです。なぜなら、いつも主を求めざるを得ないからです。主に対して意識をはっきりさせ、目を覚ましていかなければならないからです。問題があるとき、悩みがあるとき、何か心配があるとき、憤ることがあるならば、それをすぐに主に持っていく。そうすると、神様は私たちの祈りを聞いてくださる。いちばん良い時に、いちばん良い業を私たちにしてくださる。「時機」は大切です。「時機」を外したら、これほどばつの悪い、間の悪いものはありません。しかし、神様はいちばん良い時を備えてくださる。だから、神様に祈って、待ち望んでいきますならば、神様は「今この時はこの事をしなさい」とパシッと決めてくださいますから、自分で思い煩って「もうそろそろいいかな、もうちょっとかな」「明日かな、明後日かな、いつがいいかな」と、そんな事を考える必要はない。「主よ、いつがいいでしょうか。お任せします」と。そうすると、神様は瞬時にパッと道を開かれます。神様のなさる業はじわじわではない。その時に「はい」と、私たちが従う。「そうだ。今がこの時」、神様はきちっと教えなさいますから、いつも神様に心を向け、思いを向けていくことです。「今は、恵みの時、今は、救の日」だからです。
私たちはどんな時にでも、どんな場所にあっても、常に主の臨在と共に生活しましょう。よみがえり給うた主が共にいて、執り成してくださるから、遠慮なく主を求めてみ前に心を注ぎだしていきたいと思います。そして「主がここに共にいてくださって、この祈りに神様はこのような道を備えてくださった」と、味わい体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。