いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(130)「神様の主権」

2014年02月07日 | 聖書からのメッセージ
 ヨブ記42章1節から6節までを朗読。

 2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。
 ヨブという名前は世間でも有名です。モーセは恐らくいちばん人気のある名前かもしれません。『十戒』という映画を通して、あるいはアダムはもちろんそうですが、アブラハムはそれよりちょっと知名度が落ちるかな、と思います。もちろんイエス様はトップクラスですが。ヨブも結構健闘していて、比較的多くの小説家や知識人もヨブのことを知っています。

何が多くの人々の心をひきつけるのか。それは正しいまじめな人物がとてつもない悩みに遇いますが、「どうしてだろうか? 」という疑問が、私たちの生活の悩みと共通するからです。いろいろな悩みや思いがけない事に出会うとき、「私が悪かった。私があの時あのようなことをしたからだ」と、原因がはっきりしているなら、納得し、諦めます。ところが身に覚えもない、自分は真っすぐに生きている。どう考えても、私は正しい。それなのに、このような不当な扱いを受け、ひどい目に遭う。「許せない」と思う。そのようなとき、誰が悪いか、またなんとかその原因を突き止めようとします。その原因になる事は何か、もんもんと悩む。私たちの思い煩い、悩み、苦しみは、痛いとか、熱があって動けないとか、食べたいけれども食べられないという苦しみばかりではなく、どちらかと言うと、そんなことはたいした問題ではない。「いったいこれはどこからきたのだろうか? 」「どうしてこのようになったのだろうか? 」と、原因が分からないゆえの苦しみのほうが大きい。「苦しい」とき、これから先どうなるのだろうかと悩みます。今はこの状態だが、これは仕方ない。熱もある、おなかも痛い、ここが出血している。これは仕方がない。しかし、このままいったら、来年は、あるいはそれよりも早く、自分の葬式をしなければいけないかな? と思う。さまざまな思いがわいてくる。そうなると苦しい。その苦しさが心にグーッと重りのように胸を締め付けてくる。今にも死にそうな思いになります。

私もそのような経験がありますから、「どうして? 何でこうなったのだろう」、「何が悪かったのだろう。どこがいけなかったのだろう」といろいろ考え、でも考えても分からない。もんもんとした悩みはみんなが等しく感じる事です。例外はありません。天皇家に生まれようと、どこに生まれようと同じです。だから安心していただきたい。例外なく、みなそのような中に置かれる。だから、ヨブの悩みが、非常に身近に共感される。義人でありながら、正しい人でありながら、なぜこのような目に遇うのだろうか? それはヨブの問題としてではなく、自分のこととして考える。その通りだと思います。

私は、お医者さんから「ガンですよ」と言われた時、「どうして? 」「なんでだろう」と思いました。「先生、何か悪いことがあるのでしょうか? 私の食生活か、生活上の問題、習慣的な問題がこのようなことになるのでしょうかね」と。先生が「いや、それは何も関係がありませんよ」と言われ、また不安になる。ではいったい何なのだろうかと。それで手術をして、「全部悪いところは取りました。でも再発の可能性も無いわけではありません」と言われたとき、「先生、どうやったら防ぐことができましょうか? 」と聞いた。食べてはいけないものとか、してはいけないこととか、それで防げるなら喜んでそれをしようと思いました。先生は「何もありません。普通にしておいてください」と。「普通にしていたら防げるのですか」と、「いや、分かりません」。この分からないのが、私たちを苦しめる一番の原因です。だから、自分が苦しい、どうしてだろうと不安でならない、そのときの自分を、冷静に振り返ると、「私は分からないということで苦しんでいる」。そのような人はいくらお医者さんに行っても、その苦しみは治りません。むしろ行けば行くほど、聞く言葉によって疑心暗鬼、ますます悩みが深くなる。

ヨブ記1章1節から5節までを朗読。

ヨブは、神様の祝福によって財産も豊かに、子供たちも「男の子七人と女の子三人」と、実に理想的な家族です。そして、それぞれ息子たちは、結婚して家庭を持ち、家族仲もいい。息子たちは、それぞれの家庭で月ごとに割り振って、一族郎党みなそこに集まって、感謝して、神様の前に楽しい食事をする。次男、三男と回って7人の息子たちが終わると、今度はお父さんのところにくる。お父さんの番になったら、お父さんは神様の前にその家族一人ずつの数に合わせて、燔祭の羊なり牛を神様にささげて、感謝の祈りをする。子供たちが祝福を受けますように、災いに遭わないようにと。ひょっとしたら、彼らは気がつかないうちに神様を呪っていたかもしれない。だから、その隠れた罪、あるいはこれからするかもしれないことまでひっくるめて熱心に祈る。素晴らしいヨブです。

ヨブ記1章6節から12節までを朗読。

これは神の国の姿です。神の子たちが神様の前に集う。サタンがいたというのですから、ちょっと不思議です。サタンがどうして神の国にいるのだろうかと。実はサタンも神様の手に握られている存在です。サタンは神様と対等ではない。神様の許しがなければサタンも働くことはできない。神様は無力で、サタンをのさばらしているのだろうか、サタンは好き勝手にして、神様は何にも手を出さないのか。そうではない。神様はちゃんとサタンを手の中に握っている。だからこのときもサタンに「お前はあちらこちら見てきただろうけれども、ヨブを見たか。これほど義なる正しい人はほかにおるまい」と、神様がヨブを自慢する。ところが、サタンはやはり知恵がありますよ。サタンは上手に、「ヨブが『神様、神様』と言って、あなたのことを褒めたたえているけれども、それには理由がある。なぜなら、あなたが彼を祝福して、持ち物を豊かにし、そして災いがこないように守っているから、彼は一生懸命にあなたを拝んで大切にしている。ところが、あなたがその持っているものを取ってご覧なさい。彼はあなたを呪いますよ」と言った。

これは神様を信じる信じ方の一つの態度です。これをご利益信仰というのです。神様が私を恵んでくださる、私に良いことをしてくださる間は、神様を信じる。ところが、思いもかけない、願いもしない、とんでもない悪いことをする神様、そんなもの神様ではないと言う。世の中の信仰は、そのようなところがあります。神様をどのような方として信じているか。このときヨブは、確かに一生懸命に神様に忠実に従い、神様を礼拝して、神様を尊んでいました。それは、自分の子供たちの一人一人の家庭が恵まれ、また、自分自身も恵まれ、何不自由のない生活、世間的に幸せな家庭だからこそ神様を大切にしていた、というように見えます。事実、そのようなところが幾分あったに違いない。それを聞いて神様は、サタンに「それじゃ、ヨブの持ち物を全部取ってよろしい」と言われた。ただし、ここで神様は「ヨブの命には決して手をつけてはいけない」と。サタンも神様の定められた範囲でしか動けない。それでサタンは出て行きました。そして次々と災いを起こします。

ヨブ記1章13節から15節までを朗読。

ここで第一の災難、長男の家で家族みなが集まって飲み食いしていました。そうしたら使者が来た。「シバ人が襲ってきて、牛やロバ、僕まで全部撃ち殺しました」と。そういい終わらないうちに、16節にまた次の僕がやってきたのです。今度は「火が天から下ってきて」、いわゆる山火事と言いますか、そのような野火に遭って「羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました」。三番目に、17節に「ルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。それを言い終わらないうちに、19節に「荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました」。立て続けに四つの災いが起こった。私達がこのような目に遭ったら、到底生きてはおれません。一つでもたまらない。でも、ヨブは四つの災いを一気に受けて、そのときヨブは何と言ったか。

ヨブ記1章21、22節を朗読。

サタンは「ヨブは持っているものが豊かだから、金持ちだから、資産家だから神様、あなたを呪うことをしないのですよ」と言って、それを全部取りましたが、このときヨブは実に素晴らしい。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。神様に感謝したのです。私達もそのようにありたいと思います。ところが、ちょっとどこか悪いだけで、「どうしてやろうか? 」「なんでやろうか? 」「どうしてこんなになった」と、うろたえますね。ヨブはここで感謝したのです。

ヨブ記2章3節を朗読。

神様はうれしかった。それだけの試みの中で、ヨブが神様を呪うことをせずに、「主のみ名はほむべきかな」と感謝賛美している姿を自慢して、サタンに「どうだ、お前はあんなことを言ったが、見てみろ、ヨブは立派ではないか」と神様が言った。そしたら、サタンも負けてはいません。「いや、そうではないですよ、神様。まだ彼には健康があります。奥さんもいます。今度は彼の健康を取ってご覧なさい。すぐにあなたを呪いますよ」と。そのとき神様は「そうか、それではお前は行って彼の健康を取ってよろしい。ただ、命を取ってはならない」と言われた。それでサタンは出て行ってヨブを撃ったのです。これが7節に「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」。サタンがとうとう彼の健康を奪ったのです。頭の先から足の裏まで、いやらしい腫れ物ができて、膿(うみ)をもってかゆい。彼はたまらなくて、灰の中を転げ回って、体中をかきむしってウンウンうめいている。そのとき奥さんが「あなたはこれほどひどいことを神様からされたのに、まだ神様を大切にするのですか」と言った。9節に「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と。なかなか立派な奥さんです。ご主人が、苦しくて呻いているときに、眺めながら「あなた、これまでも大変な目に遭ったじゃない。あれを失い、これも失い、何もかも失って、なおかつ今度は病気までして、それでもあなたは神様、神様と言うのですか!呪って死になさい」と言う。そのときにヨブは何と言ったか。10節に「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ」と。分かりやすく言いますと、「お前は馬鹿者だ」と言った。

このときヨブは10節に「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。実に立派です。神様は幸いを与えられる神様だから、もちろん災いも与えてくださる。大丈夫、と言ったのはいいのですが、実はこれは建前なのです。10節の終わりに「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ここに「ヨブは罪を犯さなかった」とは書いてない。「そのくちびるをもって」、罪のない立派なことを言ったのです。皆さんも昔聞いたと思いますけれども、天国に行ってみましたら、来ているはずの人がいない。見ますと唇と耳ばかりがある。唇は伝道者の唇。伝道者は口でいいことばかりを言うから、天国に行った。でも体は地獄に行ったというのです。耳は信徒の耳だというのです。いいことを聞いて、耳だけは天国に行くが、心は地獄に行った。「ヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。言う事は立派、ところが心は違っていた。彼はもんもんと悩むのです。それが11節以下に語られていることです。細かいことは、別の機会にしますが、ヨブは口では神様を呪ってはいないが、心の中では「なんでだろうか? 」「どうしてだろうか? 」「私の何が悪くてこうなったのだろう? 」「私のどこがいけなかったのだろうか? 」と。その不満がどんどんたまっていく。私達もそうでしょう。悩みにあったときに、心の中で「なんでだろうか? 」「どうしてだろうか? 」「どこか私が悪いのだろうか? 」と、いくら考えても分からない。

そこへ慰めるために、三人の友人がやってくる。彼らは「お前は『自分は正しい、自分には間違いがない』と言うけれども、どこかで神様に罪を犯して、神様がとがめているのではないか。悔い改めなさい」と言われる。しかし、どう考えても思い当たらない。あるいは「お前がこういう苦しみにあうのは、神様が、そこから何か教えようとしているのだから、喜んだらいいではないか」。でも、自分は神様のことをよく知っているのに、今更神様を求めるとは何だろうかと、分からない。だから、友だちが来て、言えば言うほど、彼の悩みは深まる。私どもも、悩みの中にあるとき、友だちが慰めてくれる、その慰めの言葉が引っかかる。「あなた、もう大丈夫よ。どっちみち、そう長くないのだから」なんて言われましたら、「えー!」と思うでしょう。慰めたつもりで言った言葉が、とんでもない言葉になりますから、あまり言わないほうがいい。また慰めないほうがいい。なかなか難しいです。「ねぇ、私、死にそうだけれども大丈夫かしら? 」「大丈夫よ。死ねば分かるよ」とつい言う。そうすると、またそれが悩みになる。「そうね」「そうね」というだけでも、「『そうね』と言う以外、何も言わないけれど、何か隠しているのではないか」と勘繰る。だから、いくら言っても駄目です。

ヨブ記38章1節から3節までを朗読。

ヨブは「どうしてだろうか? そんなことお前たちがいくら言っても、それは納得できん」と言って反発している。その中で、神様は全部ご存じだったのです。ヨブを見ていて、我慢出来なくなった。いらいらした。「どうしてこいつは分からないのだろう」。それで、つむじ風の中からヨブに直接神様が語られた。「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」。神様の御思い、ご計画の中に人は生きている。神様のご計画を人は全部知り尽くすことはできない。そうでありながら、お前は「無知の言葉」、まるで自分が何でも知っているかのような偉そうな言葉をもって、神様の思いが分からないなどと、大きなことを言うではないか。「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くする」とはそのことです。神様のご計画をいよいよ分からなくしてしまうのは、お前のへんてこりんな知恵があるからだよ、と。ところが、ヨブは自分が考え抜いて「どうしてだろうか? 」「そうに違いない」「こうに違いない」と自分の浅知恵でいろいろ自分の状況を考える。神様は「ヨブよ、お前のための計画は私が知っている」。私たちもどこかで「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗く」している。神様のことが分からない。「暗くする」と言うのは、そのご計画がどうなっているか分からない、闇の中だ、と思ってしまう。生きるも死ぬのも神様の手の中に一人一人握られている。事の良い悪いは人が考えることです。自分にとって、何が良いか悪いかを決めている。神様が良いと思うことだけをしているのですが、それに気づかない。これが「神の計りごとを暗くする」ことです。

自分の心を暗くしているのは、自分の無知の言葉です。言葉とは、心に思う事。愚かな思いのゆえに、神様のご計画、御愛のみ手が分からない。だから、エレミヤ書に「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(29:11)と。神様のご計画の中に私たちはあるということを認めようとしない。自分の知恵と、計画と、自分の思いで、自分の人生を生きている。それは大間違いです。

3節に「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」。「お前は『どうしてだ』『なんでだろうか』と言う。では、お前は何でも知っているのか」。これは何だか分からない。分からないから苦しい。そうでしょう。先ほどに申し上げたように、何だか分からない、原因不明だから悩む。それが苦しいのです。言い換えると、自分が何でも知っておくべきだ、という前提があるからです。私のことについて、私の知らないことがある訳はない。これはごう慢です。私たちは知らないことばかりです。それなのに自分で知っておかなければ収まらない心がある。これが罪です。その故に神様を押しのけてしまう。だから、神様は「お前は何でも知っているような偉そうなことを言うではないか。『私の知らないこと、なんでだろう、なんでだろう。許せん、許せん』。だったら答えなさい」と、4節以下で次々と質問をします。

ヨブ記38章22から27節までを朗読。

この一つの質問にも、私どもは答えられない。「光の広がる道はどこか」。「え!どこにあるだろう」。それなのにちゃんと朝になれば太陽が昇って、私たちに光を照らし、降らないでいいと思うような所にも、神様は豊かに雨を降らせて、木々を生えさせ、緑を豊かにし、私たちの生活環境を守ってくださいます。それをしているのは誰か、と問われます。

ヨブ記38章29節から33節までを朗読。

神様は、空を仰いで「あの星を結びつけたり、あちらこちらと自由に散らすことがお前にできるか? 」と。私達は何にもできない。いくらちっぽけなロケットを飛ばしたって、せいぜいちょろっとですよ。何もできやしない。人がいくらロケットを飛ばそうとしたって、月に送ろうと思ったって、神様が何億年と一定の周期できちっと回しているから出来ることです。私達はそのように長く一つのことを続けられますか?神様は何億年と同じ周期でズーッと地球も宇宙も月も星も、ぶつからないように神様の法則の中に置いているでしょう。「それができるか? 」と言われます。私達が「どうしてだろうか? 」「なんでだろうか? 」と思ったとき、この言葉を思い出して「私は何もできない、何も知らない。無知蒙昧(もうまい)、無能無力な人間だ」と認めましょう。

次々とヨブに対して、神様は質問を浴びせましたが、その最後が先ほどお読みいたしましたヨブ記の42章です。1節以下に「そこでヨブは主に答えて言った、2 『わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを』」。ヨブは物を失ったとき、僕たちが殺されたり、あるいはらくだや羊の家畜が殺されたりしたときも、神様を呪うことをしませんでした。それはまだ、本人に健康があったからです。健康があればそのうちまた働いてそのくらい取り戻す、という希望があった。ところが、今度は健康を失いました。失ったとき、建前として一応罪を犯すようなことは口には出さなかったけれども、心の中でもんもんと、「どうして? なんでだろう」と、神様に対する不信感、そのようなものがズーッと彼を苦しめていたのです。そのときに神様の絶大な力を教えられ、初めてここで彼は、「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」と告白しました。神様がなさることは、パーフェクト、どれ一つ欠けることがない。また、神様は全能の神でいらっしゃる。そのことを「わたしは知りました」と告白しています。それまでも、ヨブは神様を知らないわけではなかった。知ってはいたのですが、どうしても自分の都合の良いように、自分に利益のある間は、自分を恵んでくださる神様と信じてきた。ところが、そうではなくて、「神様がすべてのことをなさる」。自分に関係のない世界のことも、宇宙のことも、ありとあらゆる事柄、全てが神様の力と業なのであり、私たちはその方に生かされている。初めてこのとき、ヨブは神様を知るのです。

今年年頭に、「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」との御言葉を与えられたように、神様は、私たちをいろいろな中を通して、神が神でいらっしゃること、私たちが無知な者であり、そのような者が今日も災いに遭うことなく、こうやって生かされていることを認めていくようにと、そしてその中を通して、私たちが神様を知る者となるのです。ヨブは3節に「『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました」。私は愚かで無知な者です、と告白したのです。私は何にも知らない者です。それが偉そうなことを言いましたと。ただ手を口に当てるのみです。彼はただ神様の前にひれ伏す以外になかったのです。これは本当に幸いな恵みです。ヨブにとって、神様を知ること、そして神様が私の全てになってくださっているのだと知るとき、私たちも喜びと命に輝いていくことができるのです。自分でやっていこう、自分の知恵で、自分の計画で、自分の思ったとおりにしようと、一生懸命になってしまうから、行き詰まるのです。できない。「なんでだろう」「どうしてだろう」、そのような思いばかりが絶えず、もんもんとして私たちを支配する。楽しかるべき人生を、暗い憤りと怒りとつぶやきの中で過ごすことになる。

誰が私の主でいらっしゃるか。私の造り主は誰であるか。また、私を握っている方は誰であるかを知りたいと思います。そしてその方を深く、深く知るものとなりたい、だから、いろいろな事を神様が起こされます。生活の中に、日々の歩みの中に思いがけないこと、考えもしないこと、自分では計り知れないことを神様がなさいます。その度ごとに、神様の前に立ち返って、自分を低くして、神様のご計画、神様のみ思い、神様が何をそこで教えてくださるかを、深く知りたいと思います。神様の愛に触れる者となりたい。いろいろな問題を通して神様を求めるときに、「ああ、この悩みが!」と思った事が、実は神様が私を愛してくださるゆえだったことを味わい知るのです。

5節に「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」。今までは、神様のことを耳で聞いて知ってはいた。知識としては持っていた。しかし、実際の悩みの中から、彼の病の中から神様を目で見る。言い換えると、じかに神様に触れることができた。これはヨブの最高の収穫、恵みです。いろいろな問題に遭います。事のない日々はありません。いろいろなことが起こります。しかし、その中で、主を求めていきたいと思います。神様に向かって、「神様、いったいこのことはどういうことなのでしょうか。神様、あなたは何を私に教えようとして下さるのでしょうか。このことを通して私は何をいただくことができるのでしょうか」と真剣に神様を求めていこうではありませんか。そのとき神様はご自分を現して、「大丈夫だよ。わたしはお前をこんなに愛しているではないか」と力づけてくれます。愛されているのを知っていながらも、それを手で触れない、実感できない。それゆえ、神様が深く私たちに体験させて下さる。

2節にありますように「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」と、心から神様に告白することができる者でありたい。「神様、あなたのなさること、あなたがご計画してくださるみ心は、私にとって最善にして最高のものです」と、喜べること、これがヨブの答えだったのです。神様の命と力に豊かにあふれて、喜びに輝いて主を褒めたたえて地上の生涯を生きるものとなしてくださる。どうぞ、日々主を求めて、主に触れる毎日でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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