いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(131)「神様のしもべ」

2014年02月08日 | 聖書からのメッセージ
 コリント人への第二の手紙6章1節から10節までを朗読。

 4節に「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも」と続いていますが、殊に4節の前半「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」とのみことばに心を留めて下さい。

 イエス様の救いを表すにはいろいろな言い方で表すことができます。身分が変わる、あるいは新しい者と造り変えられる、神の子とされるなどと言います。それぞれ同じことを言っているわけではない。若干(じゃっかん)微妙に意味するところに違いがある。救いの恵みをいろいろな角度から語っている言葉であります。ですから、同じことを別の言葉で言っているのではありません。内容が同じようであっても言葉が違うことは、そこに必ず違ったメッセージ、違った事柄を表そうとしているのです。

4節に「神の僕として」という言葉もイエス様の救いを表す一つの言葉です。「神の子」というのも救いの恵みですから、イエス様の救いによって「神の子とされた」と言われると、「神様の子供にまでしてもらったら、これは有難いことだ。私のような者が神の子供になるなんて、こんな素晴らしいことはない」と、喜びます。ところが「あなたを神の僕としたよ」と言われたら、「しもべ?僕か」とちょっとがっかりする。「神様は人手が足りないのだろうか、お手伝いさんが要るのだろうか。私のような者まで僕にされて、ちょっと迷惑」と、そのように思うかもしれない。ところが、この「神の僕」という言葉は、私たちに対する神様の求めていることであり、また、神様の救いにあずかる恵みが何であるか? ということでもあります。

4節に「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」。これは聖徒パウロがイエス様の救いにあずかって生きる生き方を語った一言といってもいいでしょう。彼は「私は神の僕だ」と自覚していたのです。「神の僕」、言い換えますと、「僕」とは、「主人に仕える」ことです。ですから、聖書の言葉は、表面づらだけをとらえて理解すると、惜しいです。もっと深いものがあります。「僕」と聞いて、思い浮かべるのは「召使」あるいは「仕える人」という思いがあります。ところが、「僕」という言葉は、主人に仕えるという第一義な意味と同時に、その主人がすべての責任者ということでもある。だから僕になりきることは、失敗したことも、うまくいったことも、すべてが主人のためです。だから、僕は決して不利な身分ではないのです。また、僕は主人に仕えますから、主人が生活の隅から隅まで全部面倒を見るわけです。

今の社会では、家庭に「しもべ」を雇っている人なんてほとんどなくなりました。昔は、田舎のほうから出て来て、お手伝いさんとか、家事見習い、花嫁修業、行儀作法の見習いといって、ちょっとしたお宅にはそのような方をおいていました。しかし、今はそのようなことはなくなりましたから、お手伝いさんなどをおいている家庭はほとんどありません。だから、「しもべ」というものがどのようなことなのか、生活感から消えています。今の若い人に「しもべになりなさい」と言っても、「しもべとは何ですか」と言って、理解できにくくなっています。しもべが何のことか分からない。子供に「しもべになってね」と言いましたら、「うれしい」と言う。何のことはない、ただ単に訳がわからないから喜んでいるだけです。

現在、私たちが身近に感じることのできる「しもべ」の姿は、会社勤めをしている人達です。ある意味で、しもべです。一つの企業に経営者がいて、そこで働く。働いて仕事をする。言われたことをちゃんと果たします。そうすると、生活の面倒は会社が見てくれます。最近はそのようなしもべの扱い方も変わってきました。かつては、終身雇用だと、一つの企業に身を置いたならば、その企業に尽くす。企業に対して忠実に仕える。会社は、その人の健康管理から、休養から、生活の必要まで、また生活する場所、社宅だ、何だというもの、あるいは福利厚生など、いろいろなことを準備して人を雇った。

ここで「神の僕」という言葉一つ、よくよく、深く深く掘り下げて考えてみると、「神様の僕」になることは、どのようなことなのか?イエス様はご自分の命を捨てて、それを代価として、私たちをサタンの支配から買い取ってくださった。かつてはサタンの奴隷であった。悪魔の支配の中にいた私どもを、そこから解放してくださって、今度は、神様のものとしてくださった。その神様のものとしてくださった身分は、どういうものかと言うと、「神の子供」としてくださったとも言えますし、またしもべとしてくださったとも言えます。パウロは「わたしはキリストの奴隷となった」と語っています。奴隷とまで言っている。奴隷は、しもべよりももっと厳しいといいますか、主人に買い取られたのですから、自分の自由なんて一切ない。そしてひたすらに主人に仕えていく。生殺与奪、命を主人にあずけた者が奴隷です。パウロは自分にとって救いがどんなものであったかを、そのような言葉で表しているのです。

ところが、私たちはそこまでの覚悟がない。イエス様が救ってくださったのはいいけれども、私の気に入ったこと、私の好きなこと、私の願っていることをしてくださる神様となって欲しい。「あまり無茶なことを言わないでください。私は私でしたいこともあるし、神様あなたのことも分かりますが…」、というような中途半端は良くない。だから、黙示録にありますように「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」(3:15)「なまぬるいのであなたを口から吐き出そう」とまで言われます。「なまぬるい」とはどのような意味かといいますと、自分が救いにあずかった恵み、救われたことをどれほど真剣に自分のものとして生きているか、を問われるのです。だから、パウロは、ダマスコにいく途中でよみがえってくださったイエス様に出会ったときから、その生涯はガラッと180度変わる。徹底してキリストのものとなりきっていく。自分はイエス様によって代価をもって買い取られた。ガラテヤの手紙で語っているように「最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(2:20)「生きているのは、もはや、わたしではない」。よみがえってくださったイエス様が、私のうちに生きてくださるから生きている。そのことに徹底して、自分というものが死んだ者となって、今度はイエス様に握られて、イエス様が私のうちにあって生きておられる。私はキリストの奴隷、という言い方がそこに当てはまってくる。自分の好き嫌いや、損得利害、あるいは自分の願っていること、欲望や何もかも、これらのもの一切を捨てて、ただ、キリストのものとなる、主のものとなりきっていく。それがキリストの奴隷であり、またここで言うところの「神の僕」です。

4節に「あらゆる場合に、神の僕として」。「僕」というのは仕えるということでもあります。神様に仕えていく。イエス様の救いを知らないころは、自分が主人で、自分に仕えていたのです。私が何をしたいか、私が主人であり、私が王様であり、私が……、という自分に仕えてきた。ところが、イエス様の救いにあずかって、イエス様を「あなたこそ、生ける神の子キリストです」「私の救い主」「主です」と言い表すことは、取りもなおさず「わたしはあなたの僕です」と告白することです。だから、マリヤさんが「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)、まさにマリヤさんも神のしもべとして自分をはっきりと言い表したのです。これが救いにあずかった証詞、また救いにあずかるということが、どのようなことであるかを語っていることです。

私たちもまた同じです。私たちもこのようにイエス様の救いにあずかって、神様の恵みの中に生かされています。だから、この地上の生活すべてが、自分のためではない。そればかりではなくて、今度は、そこで神様に仕える者となることです。今生活している生活の場、家庭、そこに私たちは神様に仕えている者として置かれているのです。その生活にはいろいろなことが起こってきます。決して平坦ではない。思いどおり、願いどおり、自分の好きなようなことは必ずしも続きません。

4節の後半以下に「すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも」。このような厳しい現実がある。「飢餓と言っても、私はひもじい思いをしているわけではない」と思います。あるいは「入獄にも、騒乱にも」とありますが、「私は牢屋に入れられたつもりはない」と思います。確かに、現実として私たちが牢屋に入れられたり、あるいは信仰のゆえに迫害を受けて、騒乱に巻き込まれたりというようなことは、具体的にあるわけではありません。しかし、形は違っても、私たちのうちには、まさにそれに似たような苦しみ、あるいはそうと言うしかないような事柄があります。「入獄にも」と、牢屋に入れられることはないかもしれないが、私たちの自由が奪われ、思いどおりに事がいかない、という中に置かれます。また「飢餓」という食料不足で食べられないことはありませんが、いったん健康を害してご覧なさい、食べたくても食べられない。そのような困難の中にも置かれます。まさにここに書かれていますことは、昔のパウロの時代にクリスチャンが迫害を受けていたから、このような苦労をしたに違いない、と思いますが、必ずしもそうではない。21世紀の現代に生きていても、同じ苦しみです。悩みです。そのような困難の連続の中にあって、では、私たちはどのように生きるか? 「神の僕」として、神様に仕えている者として生きていくことです。

 6節以下に「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、7 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」。ここでもう一度、パウロは「神の僕として」と繰り返していますね。6節以下は、神様からの絶大な力を私たちが受けて、神様に仕える者としてくださったのです。神様は、かつてはサタンに仕え、自分に仕えていた者を、そこから解放して、今度は神様に仕える、エデンの園に置かれた始まりのときの人の身分へと変えてくださる。神様に仕えていくといっても、私たちには神様に仕える能力、力というものはありません。神様は、私たちに仕えてもらわなければ何もできないような方ではない。私たちがしもべとなって、神様を担がなければ動かない神様ではない。しもべとして、私たちの助けもいらないのです。しかし、あえて神様は私たちを仕える者としてくださいました。それは、私たちのように何の力もない、しょうもない、値打ちも価値もない、何の取得もない者たちが、神様に仕える者という、驚くべき身分へ造り変えられる。そして、仕える者にふさわしい者となるために、神様のほうが、何もかも用意してくださる。

一つの企業に就職すれば、赴任費用というものが支払われる。そして、住む場所も用意してくれる。作業着から、事務服から着るものも用意してくれる。何もかも用意して迎える。神様は、私たちをそのような者として選んでくださった。そして、神様のしもべにふさわしく、すべてのものを備えてくださった。それが6節以下「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊」「偽りのない愛」「真理の言葉」「神の力」とあるような素晴らしい賜物を、私たちに注いでくださいました。これは素晴らしいですよ。「そんなことがあったの? 」と「神様はそんなことまでしてくれたの? 私に? 」と思うかもしれない。でも、ここにちゃんとそのような約束が与えられている。実は、私たちの心の中に、こうやって神様は真実を求める心、真実な思いを与えてくださる。「私はそんなに真実な人間なんだろうか? 」と疑うでしょう。しかし、私たちはかつて不真実であった者であります。イエス様の救いにあずかって、神様が真実を体験させてくださって、それによって私たちも変わってきたのです。

また、6節に「知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛」。知識は神様が与えてくださる。確かにそうです。かつてイエス様を知らないとき、自分に仕えていたとき、サタンの支配の許(もと)にあったとき、この世の知識にはたけていました。そしていろいろなことで争い、ねたみ、憤りが生まれてくる。ところが、イエス様の救いにあずかって、御霊、聖霊が私たちのうちに宿ってくださるとき、新しい知識を与えてくださる。今まで見えなかったものが見えるようになる。イエス様の救いにあずかって、イエス様がいらっしゃること、神様がいらっしゃることを前提にして物事を見ますと、今まで見えなかったものが見えてくる。「世間ではあんなことを言っているけれども、必ずしもそうではない。いや、むしろそれは間違っている。こちらのほうが正しい生き方だ」という知識が与えられる。知恵が満ちてくる。私たちに神様が知識をお与えになる。神の霊は「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊」(イザヤ11:2)とあるでしょう。御霊がいろいろなことを教えてくださいます。だから、私たちは「自分に知恵がある」とか「知識がない」とか、「私は覚えが悪くて、馬鹿で何とか」と言いますが、そのような愚かな者に神様が知識を与え、また、見えない者の目を開いて見えるようにしてくださった。ことごとく万事万端、私たちが神様に仕えるのに必要なものを備えてくださいました。それが6節以下に「慈愛と聖霊と偽りのない愛と、7 真理の言葉と神の力とにより」と言われていることです。「真理の言葉」は聖書の言葉です。そして「神の力」、その聖書の言葉を通して注がれる、神様からの力を私たちは受けている。御言葉を信じていくときに、失望落胆していた心が、希望に輝いてくるではありませんか。力を与えられます。

6節に「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛」ともあります。神様の「聖霊と偽りのない」真実な愛に満たされてくる。そうやって、神様の御愛に感謝し、応えて、主に仕えるものとなっていく。主に仕える、神様に仕えるといって、何をするか?別に何か特別なことをするわけではない。生きていること自体が、神様に仕える業なのです。私たちの心が常に神様を主として、主人でいらっしゃる神様に心をささげていく、思いをささげていく。そして、一日の生活のすべてが、これは神様が備えてくださったもの。そこで神様が生活するように求めているところに従っていく。これが「神の僕」です。だから、しもべは、神様の前にしもべであることを絶えず自覚して、認めていくことです。

コロサイ人への手紙3章16節から18節までを朗読。

17節に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず」。「あなたのすることはすべて」、言い換えますと、朝食事すること、自分のために朝準備をして食事をすることも、また買い物に出かけることも、家で生活していること自体、それらを「主イエスの名によってなし」とあります。イエス様の名前によってこれをする。主人のため、主のためにこれをさせていただく。私たちの生きることが主人に仕えることですから、これは神様に仕える業です、これは私のための業ですと、区分けができない。それどころか、全部が「神の僕として」仕えている生活です。だから、「いっさい主イエスの名によってなし」と言われる。すべてのことをイエス様の名によってさせていただく。私の主でいらっしゃるイエス様のためにしていることです。だから、健康管理するにしても、自分が長生きしようと思ってするのではない。健康も神様のものですから、神様に仕えるしもべとして神様のもの(健康)をちゃんと管理しなければいけない。自分が食べたいから、あるいはしたいから、行きたいから、といって夜更かしをしてみたり、食べ過ぎてみたり、とんでもないことをして、健康を害するとするならば、それは神様に仕えていない。神様のものを粗末にしている。だから、忠実な管理者にならなければなりません。神様のために与えられた体ですから、あるいは家庭ですから、それを自分のものとしてではなく、神様のものとして管理し、それを維持していくこと、これが神に仕えることです。具体的にもっと求められることがあるならば、それを喜んで主のために、キリストのためにとする。生きているということ自体全てが神様のもの。だから、病気になったら主人である神様が寝ておけと言われるのですから、ベッドに寝たきりになればいい。主人である神様が、もうお前はそんなに考える必要がない、といって認知症にしてくだされば、喜んで認知症になる。これが主に仕える者です。

17節の後半に「いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」とあります。私たちの主人である神様に感謝する。24節に「あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」。ここにも「主キリストに仕えているのである」とあります。私たちの報い、報酬を与えてくださる方は、主人である神様でしょう。神様が私たちに報いてくださる。家族の誰かがあなたに報いてくれるのではありません。あるいは人が報いてくれるわけでもありません。神様が報いてくださる。なぜなら、私たちは神様に仕えているからです。神様に仕えていながら、時々変なアルバイトをこっそりやっている人がいる。神様に仕えているといいながら、一生懸命に自分のためにやっている人がいます。それで自分の報いをどこかで探そうとしますから、神様がそれは駄目だよ、とおっしゃる。時々私たちに警告を与えられる。だから、どのようなときにも「神の僕として」、「言葉によるとわざによるとを問わず」、真実に主である神様に仕える。「神様、あなたに仕える者として、主よ、あなたのしもべとなってお従いしてまいります」と、朝ごとに救いにあずかった身分、恵みを確認し、告白する。そのように神様に徹底して自分をささげてしもべとなりきっていくならば、神様のほうが私たちを放っておかない。私たちに必要なもの、知恵も力もどのようなものでも与えてくださる。

私どもでも、誰かに何か用事を頼んで「これこれをこうしてください」と、そこへ行く電車賃から滞在費から何から、必要なものをすべて用意する。会社でも、出張だから「東京へ行って来い」と命じるとき、お前のお金で行けとは言わない。日当から、往復の飛行機などの旅費から、宿泊費から全部、指示をしたほうが用意する。神様が私たちにすべての必要を満たしてくださる。しもべになりきるのは、どんなに幸いか分からない。主人の言うことを「はい」、「はい」と聞いてさえおればいい。うまくいっても主人のもの、失敗しても主人のものですから、いちいちうまくいったかどうかと、そのようなことは考えない。精いっぱいするべきことを果たす。ルカによる福音書17章でしたか、「『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(10節)とあるでしょう。私達は「ふつつかな僕」ですから、神様はそんなに優秀な僕だと期待しているわけではありません。その代わり、神様のほうが足らないところはどんなことをしてでも補って、素晴らしいしもべとして恵んでくださいます。だから、しもべになることは大きな祝福です。ただ、とんでもない主人のしもべになったら悲劇ですから、サタンのしもべにならないように警戒し、身を慎んで、いつも「神の僕として」と自ら確信していましょう。神様の僕になりきるとき、祝福と恵みが伴います。ところが、とんでもないほかの主人に仕えますと痛い思いをします。

もう一度初めに戻り、コリント人への第二の手紙6章8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」。「ほめられても、そしられても」、だから何かしたことで、家族のみんなが「何で、またあんなことをされて、迷惑!」と言われても、「いや、これは私があなたたちのためにしたのではない。主のためにした」と、そこをはっきりとして、自分自身のうちに信仰を持って立っていきたい。また「好評」、褒められても「ああ、やっぱり私がいないと、私がしたのだから……」と、そのようなことを言うから、神様からコツンとやられる。「栄光は主のもの」、これも神様のものです。褒められたらそれも神様のもの。また「そしられても、悪評を受けても」、それは神様をそしることになるのです。

だから、モーセが、神の僕となって仕えていったときに、あるときモーセに対して文句を言った人がいる。そのとき神様は、わたしのしもべに対して何を文句言うか、とおっしゃって、モーセの代わりにその人の口をふさいでしまったのです。言わせなかった。ちゃんと罰を与えられました。そのようにしもべを守るのです。だから、神様はしもべとなりきっているときに、私たちに対して攻撃する人がいたら、それはしもべの主人を攻撃しているのと同じですから怖いですよ。私たちは神様のしもべですから、私たちに対して何かひどいことをしたり、言う人がいたら、それは私たちがどうこう復讐しなくても、神様のほうがちゃんとそれを封じてくださいます。主人はしもべのためにきちんとその責任を果たされる方です。そのためには、まず私たちがどのような場合にも、4節に「かえって、あらゆる場合に、神の僕として」、どんなことがあっても、「神の僕である」ことを徹底していくこと。これが神様の祝福と恵みにあずかる、大きな力であり道筋です。

イエス様に救われた私は、どのような者としてこの日々の生活を送るべきか? それは「神の僕として」、神様に仕える者であることです。絶えずこのことを自覚して、片時も忘れない。どのようなことをするにも「言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によって」とあります。「イエス様の名によって」、イエス様の代理人として、私たちはここに遣(つか)わされている。主人のために働かなければなりません。主人のための命、与えられた健康、家庭でありますから、そこで真剣に主の、主人のみ心はどこにあるか、主人が何を願っているか。「主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」。「宜しく靈(みたま)に満さるべし」(エペソ5:17,18)とあります。私どもは神の霊に満たされて、主に仕える日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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