伝道の書12章9節から14節までを朗読。
この13,14節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」とあります。
この伝道の書は、人の世のさまざまな事柄を取りあげて、生きていてもあまり意味がないのではないか、むなしいことだよと、「空の空、空の空、いっさいは空である」(1:2)また「風を捕えるようなもの」(1:17)と、言われています。私ども日本人にとっては、平家物語などの無常観に通じて非常に身近に感じます。ですから「伝道の書」は、日本人に比較的好まれます。文学者とか小説家などは、伝道の書の言葉を引用します。
確かに、1章から12章まで読みますと、そのとおりだと思うことが沢山あります。「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」(5:17)とあります。素晴らしい屋敷を持って泉水を設け、自分の農場まで作って御殿のような家に住んでみたけれども、これはまたむなしかった、とあります。そのようなことを聞くと、生きていても仕方がないのかな、と思います。われわれも自分の人生を振り返ってみて、本当に生きていて、何がいいのだろうか? 七十年、八十年近くの地上の生涯を生きて、いったい何が残っているのだろうか? 考えてみると、苦労ばかり、悲しみばかり、涙の谷ばかりを通って、いいことは一つとしてなかったと思う現実があります。ですから、私たちも「いったい、何のために人は生きているのだろうか」と思います。
ところが、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という言葉から始まる12章は伝道の書の結論です。確かに、人生はそのとおりですが、それは神様を知らない生き方、いうならば、造り主を認めようとしないで生きる限り、全てがむなしくて「風を捕えるようなもの」なのだというのです。神様によって私たちの人生が始められ、ここに神様によって置かれている。私たちの目には見えないが、全てのものを力ある御手で支配している神様がいて、この地上の命を与え、生きるすべを与え、今に至るまで神様が一つ一つ備えてくださったと、認めなければ、私たちの人生は、夢はつぶれ、自分の思いは実現できずに、失望落胆の生涯であったと言うほかはない。若いころの夢はどれほど今実現しているか。恐らく皆さんも若いころ大きな夢があったに違いない。自分の人生はこのように、こういう家庭を築いて、こういう人と結婚してと、思った。どうでしょうか? 今振り返ってみて、それがどれほどできたか。こんなはずではなかった。本来だったらもっとこうなっているはず、ああなっているはず。仕方がない、あの時、私が選びそこなった。あの時、私があんなことを言ったからこうなった。これは私の責任、と言って、自分を責めて、自分に失望落胆して終わるのでしたら、何のために私たちは生きているのか? そこで神様を認める、認めるという言い方は何かごう慢な言い方ですが、神様の前に自分を低くしていく。「神様が命を与えて、私の人生をここまで作り出してくださった。これは私でしかできなかった生涯だ」と、神様を前に置いて、自分に与えられた全てのことを受け止めるとき、自分の人生は本当に感謝、「よかった」と言えます。そうでない限り、いくら何をしても、たとえ世間の人が賞賛するような人生であっても、その本人にとりましては「こんなのでよかったのだろうか」という疑問は消えません。神様を前に置かなければ、どんなことをしてもそれはむなしいのです。
社会で貢献したり、あるいは名を上げて、素晴らしいことをして、ノーベル賞でももらったり、国民栄誉賞でももらうような人物は、人生に満足しているに違いない。私なんかよりはるかに、「生きていてよかった」と思っているに違いないと思いますが、案外その人自身にとっては、まだ不満足かもしれません。「何だ、まだおれは国民栄誉賞程度か」と思うかもしれません。満足はできません。それは、何といっても神様を抜きにして「自分の人生だ」と言い続けている間、そこに満足できないのです。だから「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と言われている。まず、私たちがだれによって造られ、今だれによって生かされているか。万物の創造者でいらっしゃる神様を知ること、これは何よりも大切なことです。そうしなければ、私たちのしていること、生きていることの意味が見出せないのです。自分が大切な自分であると言えるのは、絶対的な価値を持ち、力を持ち給う神様が、私を掛け替えのないもの、大切なものとしていることを信じたときです。世の中に人からどのように評価されようと、「私は神様の恵みにあずかっているのだ」と感謝ができるのは、神様の前に人が謙遜になるときです。
今の日本の社会は神様抜きで生きているから、日本の社会ばかりでなく世界がそうですが、学校でもあまり神様のことを言わないし、そのようなことは宗教がどうだとか言って、嫌われます。学校教育では、自分がどれだけ何ができるかを教えて自信を持たせる。教育を通してそれぞれに自尊心を持たせる。自分に何か特技を持たせる。それぞれの子供たちが持っているタラント、その子の能力に応じて教育をし、勉強が好きな者は勉強を、運動が好きな者は運動にと、最近は教育が多様化していることは確かです。
先だって、京都で一人の大学生が殺された事件がありました。何と「マンガ学部」と書いてありました。大学に「マンガ学部」があるなんて、これは素晴らしいことだと思いました。それが好きな人が行くのです。何も英語が得意だとか、数学ができるとか、そんなことは関係ない。マンガが好きな人が、マンガ家になりたいという人がそれをやったらいいのです。それはそれでいいのです。そのように自分の能力に応じて、自分はこれが人よりも優れていると自信を持つ。あの人より誰よりもという、優越感を感じられるものを持たせるのが、教育です。だから、そのように多様化していくのは、一つの方法です。今までは単一の基準で、数学ができるとか、いわゆる偏差値で成績がいい者だけが自信を持ちました。だから、知的能力の劣っている者は、くず人間というレッテルを貼られた時代があります。私どもの受けた教育はそのような戦後の時代の教育でした。ただ知育偏重でした。ところが、今はそのような意味で多様化しています。だから「氷川きよし」という演歌歌手がいますが、彼は高校の「演歌部」の出身です。その高校は、それぞれの特技に応じてコースが違う。進学したい人は進学、そのような芸能関係に行きたい人は芸能。彼は高校時代カラオケばかりをやっていた。そしたらあのようになったのです。自分に自信をつけさせて、その特技を伸ばしていく。それはそれで幸いなことだと思います。しかし、それで自分が人よりもあれができるこれができるから、私は値打ちのある人間だ、と思っても、そのようなものは、年を取れば消えます。どんなに氷川きよしは歌がうまくても、七十になったら歌えないでしょう。だから、そのようなもので自分の値打ちをいくら飾ってみても、あるいは支えてみても、それは消えていくのです。
根本的な人として、肩書きも、飾りもない裸のまま、生まれたばかりのままの状態で、人の値打ちがどこにあるか、ここが問われる。赤ちゃんが生まれて、可愛いと思いますが、その可愛さは将来に対する期待がそこにドーンと乗りかかっている。この子がこのまま成長しないで生まれたままの状態で何十年も続くと思ったら喜べない。なぜ喜べないか。その命の意味が見出せない。そのような才能がない、あるいは何か役に立たない、世の中に貢献できないことが、大きなデメリット(欠点)です。それによって人間の価値を決めようとするから。私たちの中にもそのような思いがある。それは、神様を抜きにして考えようとする限り、どうしても行き詰ってくる。今私たちが生きている日本の社会は、まさにそのような事態の中にある。全てのものが行き詰ってきました。
だから、13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。「事の帰する所」、言い換えますと、人生の結論、これがなければ11章までに言われた人生というものは「空なるものである」と。神様を認めて、造り主を覚えて、神様を恐れて生きるとき初めて、人が人として生きることができる。苦労であろうと、悲しみであろうと、人生が悩みの人生であっても、それが価値のあるものになるには、神様を認めて、神様を恐れるということがなければあり得ないのです。全ての値打ち、価値を付けてくれるものは、人の持っている才能だとか、世間で評価されるとか、人から認められることではなく、何にもできなくても、寝たきりであろうと、生まれたばかりで何もできない親掛かりの子供であろうと、神様によって造られたものだからこそ、尊いのです。そして神様が、その子を必要として地上に命を与えてくださったのだと認めたときに初めて、全ての人が生きていること自体が、大切な掛け替えのないものなのです。それがない限り、神様を抜きにして考える限り、役に立つか立たないか、あるいは何かできるかできないか、そのようなことで人の値打ちや価値を決めようとする。これは必ず行き詰る。13節に言われているように「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分」とあるでしょう。「本分」とは、これがなければ本来の値打ちがない、人間として意味を成さない。そのとおりだと思います。神様を恐れる、神様がいらっしゃることを、そして神様の力によって、支えられ導かれ生かされている。
そればかりでなく、14節に「ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれる」と。神様が全てのことを裁かれる方であるというのです。ローマ人への手紙に「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」(12:19)と言われます。神様が報いられる方、私たちの一つ一つの全てのことを見ていらっしゃる。そして、それに報いられる方がいることを認めること。これが神様を恐れることです。ここに恐れるという字は、「恐怖」の「恐」の字が書かれています。確かに神様はそのような方でもあります。神様は私たちの全ての事に報いてくださる、きちんと裁きをなさる方です。だから怖いです。怖いけれども、同時に神様は愛なる方です。もう一つ恐れるという意味は、尊び、敬い、畏(かしこ)むことです。神様を大切なものとしていくこと、これが私たち人間としての本分です。実際の生活の中で神を恐れるとはどうすることなのか? 神様を恐れ、神様を信じて、裁きをなさる神様を、絶えず自覚して生きる生き方をしなければ、人としての生き方はできません。また、それがなければ人間は誠に滅びです。
私は殊に最近このことを強く教えられます。新聞やテレビのニュースを通して得られる事柄を見ていますと、その根本に欠けているものは、神様を恐れる思いがない。先ごろ報道されている、若い奥さんがご主人を殺して、バラバラにして捨てた。そのニュースを聞きますと、その奥さんはまだ32歳です。もうこの方の生涯はこれで破滅です。どうして、そのようになるまでに止めることができなかったのだろう? そこまで行かなければどうして終わらなかったのだろうか。心の暴走を止めるものがない。それは神様を恐れないからです。恐らく、優秀な方だったと思います。ご主人も一流企業に勤めていて、学校の成績もよかったに違いない。その女性の方の経歴を聞きますと、東京の私立の大学を出ている。教育はあり、知識もある。しかし、人としての生き方を知らない。人の本分である神様を恐れない。今の日本で次から次へと人殺しだとか、殺人のない日はない。その方に言わせれば、それなりの理由はあると思います。こうだったから、やむなくこうした。でも、その理由たるや結局は自己本位です。自分の感情や自分の欲情の行き着いた先がそこでしょう。それを抑えていくのは、何といっても子供のときから、幼いときから神様を恐れる心を育てること。神様を知っているならば、誰が見ていなくても、神様は見ていらっしゃる。今、自分がこのような不当な扱いを受けていても、神様はそれをご存じだし、必ず罰を加えられるからです。自分がしようとしていること、これは神様の前に大変な大きな間違いだと、知る心を失っている。
これは全てのことにいえます。先ごろ「不二家」の事件がありました。あれはうそをつくことです。実に単純なことなのです。昔はよく“うそつきは泥棒の始まり”と言いました。ところが、今はそのようなことを言う人もいなくなりました。自分の利益になるためには、自分の都合のいいように事をする。それは心を見ている神様がいることを知らないからです。神様から裁きを受けることがその心にないから、自分がこうしたら利益が上がる、会社のためにはこうしておこうと。昨年も大きな話題になった「耐震強度偽装」という事件がありました。この「偽装」の「偽」はいつわることです。いうならば、うそをつくことです。この建物はこれだけの鉄筋が必要と決められている。そうしないと地震に弱いと知っていても、少しでも安く、そして自分の利益を大きくするために、見えないところで抜いてしまう。でも神様は見ていらっしゃる。神様が見ていて、裁かれるのだという謙遜さがない。だから、平気でうそをつく。日興コーディアルという証券会社でも粉飾決算でしょう。優秀なトップクラスの企業ですよ。「粉飾」とはうそをつくことです。それは堀江さんにもいえます。また村上ファンドという村上さんなんて、通産省のエリートでした。どちらも東大出です。しかし、彼らの心に神様を恐れる思いがない。
私たちはどうか、と問われると、気がつかないうちに、どこかで神様を恐れない。ましてや、子供や孫たちまでも「この位のうそはいいではないか」。神様がいらっしゃることを教えようとしない。いくら教育制度を変えようと、どんなことをしても今の日本は救いがたいと思います。いじめや、いじめられるという記事もありますが、いじめること自体、その心に神様を恐れる思いがない。
ローマ人への手紙3章10節から18節までを朗読。
この記事は今の日本の社会の姿そのものです。「義人はいない、ひとりもいない」。正しい人なんてどこにもいないでしょう。政治家も教育家も、あるいは経済人にしろ、ただ利益の追求、自分の欲得のためだけに汲々として生きている。そこには神様を恐れる思いがない。13節に「彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり」。そればかりでなく14節に「のろいと苦い言葉とで満ちている」と言います。16節には「破壊と悲惨とがある」。17節に「平和の道を知らない」。そのとおりです。具体的な例はいくらでも有り余るほどあります。その原因は、18節に「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。これは決定的な問題です。どうぞ、私たちはもう一度、神を恐れるということはどうすることなのか? そしてそのことを本当に幼いときから子供たち、孫たちを、きちっと神様を恐れるものに変えていかないと、とんでもない生涯に入っていきますよ。ご主人を殺してバラバラにした若い奥さん、あの人だけが特殊なのではないのです。事と問題によっては私たちだってひょっとしたらそのようなことをしないとも限らない。感情が激こうして、あるいは本当に自分の憎しみや憤りが爆発していくとき、誰がそれをしない、と言えますか。それを止めていく力は私たちにはないのです。ではどこにあるかといいますと、神様を恐れる思いを……。これは本当に“三つ子の魂百まで”と言うでしょう。本当に幼い小さな子供のときから、うそをつくこと、あるいは見えない神様が見ていらっしゃること。それを神様は必ず罰される御方であるということを徹底して学ばせるということです。これは私たちの大きな責任でもあり、私たち、先に救われた者の使命でもあります。ただ、子供が勉強をよくしてくれる。健康でスポーツが好きでと、今の世の中はそうでしょう。勉強ができるように塾通いをし、あるいはいろいろなおけいこ事をし、習い事をする。また、健康のためにスポーツジムにやったり、あるいは水泳教室にやったり、いろいろなクラブ、少年野球クラブだとか、サッカーだとかに入れるでしょう。それは、それでいいのですけれども、もう一つ大切な心を養う、神様を恐れることを教える場所がないのです。誰もそれをしない。今の教育家でもそうですね。道徳の時間なんて、そんなものは何の役にも立ちませんよ。どこで教えるのか。それは家庭ですよ。両親ですよ。そこで本当に神様を前に置いて、親が神様を恐れる姿で生活していなければ、またそれを子供たちにたたき込んで、しっかりと神様を恐れる者にしておかないと将来とんでもない事態や事件を引き起こさないとも限らない。
テモテへの第一の手紙4章6節から8節までを朗読。
7節に「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい」とありますが、殊に、「信心のために自分を訓練しなさい」と言われます。これは文語訳では「を敬うことを自ら修行すべし」と語られています。神様を敬うこと、神様を尊ぶこと、これを自ら修行するというのです。生まれたまま放っといて、神様を求める者にはならない。神様を認めて、自分を低くして神様を尊び、敬い、大切にする。見えないものに目を注ぐ心を養うように、「修行せよ」と言われる。訓練しなさいと。子供のときから、それを教えてやらないと分からない。放っておけば、そのうち神様を知るようにならないのです。その代わり、子供のとき徹底して神様を恐れる訓練をすれば、少々羽目を外して、道を逸れても、必ず戻ります。人としての本分に立ち返ってくる。これが今の世の中に欠けているのです。私たちはそのために祈らなければならないし、また事あるごとに、自分自身が神様を恐れる者でなければなりません。神様を恐れるとは、口では言うけれども、実際の生活の中でどのようにすることでしょうか。自分の生活の中で、神様を恐れるとはこのようなことだと、はっきりしていないために、言葉だけが空回りしています。
サムエル記上24章1節から6節までを朗読。
サウル王様はダビデの命を狙っていました。ダビデは「エンゲデの野」、ユダの荒野に逃げたのです。そして身を潜(ひそ)めておりました。ある岩穴の中に隠れていたとき、そこへサウル王様が部下の三千人を率いて、ダビデを捕えるためにやってきたのです。洞穴があって、サウル王様が「足をおおうために」とありますが、これはちょっと昼寝をするため、休憩をするためその洞穴に入って休んだのです。同じ洞穴の手前のところにサウル王様、奥にダビデたちがいる。ダビデたちはびっくりした。敵であるサウル王様が同じ洞穴の中に、しかも一人で寝ている。そのときに4節に「ダビデの従者たちは彼に言った、『主があなたに告げて、「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる」と言われた日がきたのです』」。分かりやすく申しますと、「神様が、敵であるサウル王様をお前が自由にしてよろしい」と言っているのですよ。さぁ、ダビデ、ここで一突きに殺してしまったらあなたはもう王様ですよ。部下はそう言って勧めるのです。ここまで言われたら誘惑されます。「ああ、そうか」と。目の前に敵がいて、刀はある、槍もある。ところがダビデはそれをしなかった。そして、4節の終わりに「ひそかに、サウルの上着のすそを切った」。ソーッと行ってサウル王様の上着のすそだけを切り取って出て行った。でもそのとき5節に「しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた」。ダビデは自分が王様のすそを切っただけで、「悪いことをしてしまった」。神様に対して自分は悪いことをしてしまったと。6節に「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる」。たとえ神様がサウル王様を捨てて、その代わりに自分に油を注いでくださったにしろ、取りあえず、今なお神様はサウルを王様として置いている。そのサウル王様は神様によって立てられた者だ。私は神様を恐れる者で、神様が立てているのに、私が勝手なことをすることは出来ない。彼はすそを切っただけでも、自分の心に王様を憎むなら、神様を憎むことになる。神様が「よし」と言わないのに、自分がそれをしてしまったと、悔い改めています。
神様を恐れるというのはこのようなことでしょう。自分の都合がよいから、状況的に考えてこれならいいに違いない、これが私の得になる、これが私の利益になるからするのではなくて、神様が何と言われるか。神様が今、このことについてどのようになさるのか。それを大切にする。神様はどこにもいないのだから、見えないのだからいいじゃないかと言うのは、神様を恐れないことです。神様はどこでも見ている。見えないけれども、いらっしゃる。「隠れた所においでになるあなたの父・・・。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」(マタイ6:18)と、イエス様は言われます。神様がいて、今このことが起こっている。私がしているのではない。ダビデは自分がそのような命を狙われる境遇に置かれたのは、神様が置かれたのであって、彼が好んでそうなったのではない。彼は平和な、名もない羊飼いだったのです。生涯そのまますごしてもよかった。野心家ではありません。ただ、神様がある日突然のごとく、彼の人生を作り変えてしまった。波乱万丈の生涯に、彼をたたき込まれました。ダビデは、神様が私をここに置いてくださったと、確信を持って立っていましたから、同時にまた、サウル王様も神様が立てられた方と信じる。それを取り除かれるのも、神様がなさるに違いない。私が手を出すわけにはいかない。これが神様を恐れることです。「私が神様に代わって、やっておきましょう」とするなら、神様を押しのけることになります。
私たちの生活の中でも、自分の都合がよいように、自分の利益に合うように、時にはうそもつくかもしれない。あるいは、時には適当なことでごまかしながら生きるかもしれない。そこには神様を恐れる思いが消えます。人の本分は何であるのか。神様を信頼する、信じるとは、神様を恐れ、敬う、尊ぶことです。日常生活の中で、絶えず「神様のなさる業です」と、すべてのことを感謝して、神様の前に自分を低くしていなければ、神様を恐れることはできません。「何で私がこんな目に遭わなければいけない」「何でこうなってしまった」「私はああしたかったのに、こうしたかったのに」「どうして!どうして!」と憤り、怒りをもち続ける間、神様を恐れることができません。都合が悪くなると「おれは離婚してやる!」なんてことになる。それが相手を殺すことになるかもしれない。
伝道の書12章13節に戻って、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。毎日の生活の中で、神様を恐れて、神様が見ている、神様が知っていることをはっきりと自覚し、それを言葉にはっきりと言い表していこうではありませんか。家族に対しても「神様が見ているよ」「神様は何と言われるだろうか」と、神様に思いを向けさせる。私は父からよく言われました。「主が何とおっしゃるか」と。私が「こうしたい。ああしたい」「まぁ、それもいいだろうけれども、よく祈りなさい。神様が何とおっしゃるか」。そのとき、私は「神様がおっしゃるのではなくて、あなたが言えばいいのに。あなたがO.K.すればいいのに、自分がしたくないために神様まで持ち出して…」と思いました。しかし、神様を恐れるとは、そういうことです。父ができないのではない。しようとすればできるけれども、神様がそれを許さないのだったらできない。神様が許してくださればどんなことでもする。そのようなことを、絶えず言われてきました。今思うと私にとって幸いだったことです。
まず「主が何とおっしゃるだろうか」。自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分の嫌なこと、自分の感情や、わがままな思いで事を選び取っていくのではなくて、「神様が何とおっしゃるか」と、それを第一にしていく。神様が求められるところに、どうしても従うのだという生き方を、私たち自身がまず生きていかなければ、若い人たちにも神を恐れる道を歩ませることはできない。またお子さんを育てる親にとって、本当に何が大切かをしっかり握っておく。勉強なんかできなくてもいい。体育ができなくてもいい。神様を恐れる思い、神様を恐れる心を養い、育てておきさえすれば、後はいいのです。息子や娘を親孝行にする、自分の老後を見てもらうために遺産分けをちらつかしても駄目です。それよりも神様を恐れる子供にしておきさえすれば、親を放っておくことは決してしない。だから、神様を恐れる者に子供を育てていくことが、全ての源です。だから「すべての人の本分」と言われるのです。どうぞ、私たちもこの本分をしっかりと全うしていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りしましょう。
この13,14節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」とあります。
この伝道の書は、人の世のさまざまな事柄を取りあげて、生きていてもあまり意味がないのではないか、むなしいことだよと、「空の空、空の空、いっさいは空である」(1:2)また「風を捕えるようなもの」(1:17)と、言われています。私ども日本人にとっては、平家物語などの無常観に通じて非常に身近に感じます。ですから「伝道の書」は、日本人に比較的好まれます。文学者とか小説家などは、伝道の書の言葉を引用します。
確かに、1章から12章まで読みますと、そのとおりだと思うことが沢山あります。「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある」(5:17)とあります。素晴らしい屋敷を持って泉水を設け、自分の農場まで作って御殿のような家に住んでみたけれども、これはまたむなしかった、とあります。そのようなことを聞くと、生きていても仕方がないのかな、と思います。われわれも自分の人生を振り返ってみて、本当に生きていて、何がいいのだろうか? 七十年、八十年近くの地上の生涯を生きて、いったい何が残っているのだろうか? 考えてみると、苦労ばかり、悲しみばかり、涙の谷ばかりを通って、いいことは一つとしてなかったと思う現実があります。ですから、私たちも「いったい、何のために人は生きているのだろうか」と思います。
ところが、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という言葉から始まる12章は伝道の書の結論です。確かに、人生はそのとおりですが、それは神様を知らない生き方、いうならば、造り主を認めようとしないで生きる限り、全てがむなしくて「風を捕えるようなもの」なのだというのです。神様によって私たちの人生が始められ、ここに神様によって置かれている。私たちの目には見えないが、全てのものを力ある御手で支配している神様がいて、この地上の命を与え、生きるすべを与え、今に至るまで神様が一つ一つ備えてくださったと、認めなければ、私たちの人生は、夢はつぶれ、自分の思いは実現できずに、失望落胆の生涯であったと言うほかはない。若いころの夢はどれほど今実現しているか。恐らく皆さんも若いころ大きな夢があったに違いない。自分の人生はこのように、こういう家庭を築いて、こういう人と結婚してと、思った。どうでしょうか? 今振り返ってみて、それがどれほどできたか。こんなはずではなかった。本来だったらもっとこうなっているはず、ああなっているはず。仕方がない、あの時、私が選びそこなった。あの時、私があんなことを言ったからこうなった。これは私の責任、と言って、自分を責めて、自分に失望落胆して終わるのでしたら、何のために私たちは生きているのか? そこで神様を認める、認めるという言い方は何かごう慢な言い方ですが、神様の前に自分を低くしていく。「神様が命を与えて、私の人生をここまで作り出してくださった。これは私でしかできなかった生涯だ」と、神様を前に置いて、自分に与えられた全てのことを受け止めるとき、自分の人生は本当に感謝、「よかった」と言えます。そうでない限り、いくら何をしても、たとえ世間の人が賞賛するような人生であっても、その本人にとりましては「こんなのでよかったのだろうか」という疑問は消えません。神様を前に置かなければ、どんなことをしてもそれはむなしいのです。
社会で貢献したり、あるいは名を上げて、素晴らしいことをして、ノーベル賞でももらったり、国民栄誉賞でももらうような人物は、人生に満足しているに違いない。私なんかよりはるかに、「生きていてよかった」と思っているに違いないと思いますが、案外その人自身にとっては、まだ不満足かもしれません。「何だ、まだおれは国民栄誉賞程度か」と思うかもしれません。満足はできません。それは、何といっても神様を抜きにして「自分の人生だ」と言い続けている間、そこに満足できないのです。だから「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と言われている。まず、私たちがだれによって造られ、今だれによって生かされているか。万物の創造者でいらっしゃる神様を知ること、これは何よりも大切なことです。そうしなければ、私たちのしていること、生きていることの意味が見出せないのです。自分が大切な自分であると言えるのは、絶対的な価値を持ち、力を持ち給う神様が、私を掛け替えのないもの、大切なものとしていることを信じたときです。世の中に人からどのように評価されようと、「私は神様の恵みにあずかっているのだ」と感謝ができるのは、神様の前に人が謙遜になるときです。
今の日本の社会は神様抜きで生きているから、日本の社会ばかりでなく世界がそうですが、学校でもあまり神様のことを言わないし、そのようなことは宗教がどうだとか言って、嫌われます。学校教育では、自分がどれだけ何ができるかを教えて自信を持たせる。教育を通してそれぞれに自尊心を持たせる。自分に何か特技を持たせる。それぞれの子供たちが持っているタラント、その子の能力に応じて教育をし、勉強が好きな者は勉強を、運動が好きな者は運動にと、最近は教育が多様化していることは確かです。
先だって、京都で一人の大学生が殺された事件がありました。何と「マンガ学部」と書いてありました。大学に「マンガ学部」があるなんて、これは素晴らしいことだと思いました。それが好きな人が行くのです。何も英語が得意だとか、数学ができるとか、そんなことは関係ない。マンガが好きな人が、マンガ家になりたいという人がそれをやったらいいのです。それはそれでいいのです。そのように自分の能力に応じて、自分はこれが人よりも優れていると自信を持つ。あの人より誰よりもという、優越感を感じられるものを持たせるのが、教育です。だから、そのように多様化していくのは、一つの方法です。今までは単一の基準で、数学ができるとか、いわゆる偏差値で成績がいい者だけが自信を持ちました。だから、知的能力の劣っている者は、くず人間というレッテルを貼られた時代があります。私どもの受けた教育はそのような戦後の時代の教育でした。ただ知育偏重でした。ところが、今はそのような意味で多様化しています。だから「氷川きよし」という演歌歌手がいますが、彼は高校の「演歌部」の出身です。その高校は、それぞれの特技に応じてコースが違う。進学したい人は進学、そのような芸能関係に行きたい人は芸能。彼は高校時代カラオケばかりをやっていた。そしたらあのようになったのです。自分に自信をつけさせて、その特技を伸ばしていく。それはそれで幸いなことだと思います。しかし、それで自分が人よりもあれができるこれができるから、私は値打ちのある人間だ、と思っても、そのようなものは、年を取れば消えます。どんなに氷川きよしは歌がうまくても、七十になったら歌えないでしょう。だから、そのようなもので自分の値打ちをいくら飾ってみても、あるいは支えてみても、それは消えていくのです。
根本的な人として、肩書きも、飾りもない裸のまま、生まれたばかりのままの状態で、人の値打ちがどこにあるか、ここが問われる。赤ちゃんが生まれて、可愛いと思いますが、その可愛さは将来に対する期待がそこにドーンと乗りかかっている。この子がこのまま成長しないで生まれたままの状態で何十年も続くと思ったら喜べない。なぜ喜べないか。その命の意味が見出せない。そのような才能がない、あるいは何か役に立たない、世の中に貢献できないことが、大きなデメリット(欠点)です。それによって人間の価値を決めようとするから。私たちの中にもそのような思いがある。それは、神様を抜きにして考えようとする限り、どうしても行き詰ってくる。今私たちが生きている日本の社会は、まさにそのような事態の中にある。全てのものが行き詰ってきました。
だから、13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。「事の帰する所」、言い換えますと、人生の結論、これがなければ11章までに言われた人生というものは「空なるものである」と。神様を認めて、造り主を覚えて、神様を恐れて生きるとき初めて、人が人として生きることができる。苦労であろうと、悲しみであろうと、人生が悩みの人生であっても、それが価値のあるものになるには、神様を認めて、神様を恐れるということがなければあり得ないのです。全ての値打ち、価値を付けてくれるものは、人の持っている才能だとか、世間で評価されるとか、人から認められることではなく、何にもできなくても、寝たきりであろうと、生まれたばかりで何もできない親掛かりの子供であろうと、神様によって造られたものだからこそ、尊いのです。そして神様が、その子を必要として地上に命を与えてくださったのだと認めたときに初めて、全ての人が生きていること自体が、大切な掛け替えのないものなのです。それがない限り、神様を抜きにして考える限り、役に立つか立たないか、あるいは何かできるかできないか、そのようなことで人の値打ちや価値を決めようとする。これは必ず行き詰る。13節に言われているように「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分」とあるでしょう。「本分」とは、これがなければ本来の値打ちがない、人間として意味を成さない。そのとおりだと思います。神様を恐れる、神様がいらっしゃることを、そして神様の力によって、支えられ導かれ生かされている。
そればかりでなく、14節に「ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれる」と。神様が全てのことを裁かれる方であるというのです。ローマ人への手紙に「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」(12:19)と言われます。神様が報いられる方、私たちの一つ一つの全てのことを見ていらっしゃる。そして、それに報いられる方がいることを認めること。これが神様を恐れることです。ここに恐れるという字は、「恐怖」の「恐」の字が書かれています。確かに神様はそのような方でもあります。神様は私たちの全ての事に報いてくださる、きちんと裁きをなさる方です。だから怖いです。怖いけれども、同時に神様は愛なる方です。もう一つ恐れるという意味は、尊び、敬い、畏(かしこ)むことです。神様を大切なものとしていくこと、これが私たち人間としての本分です。実際の生活の中で神を恐れるとはどうすることなのか? 神様を恐れ、神様を信じて、裁きをなさる神様を、絶えず自覚して生きる生き方をしなければ、人としての生き方はできません。また、それがなければ人間は誠に滅びです。
私は殊に最近このことを強く教えられます。新聞やテレビのニュースを通して得られる事柄を見ていますと、その根本に欠けているものは、神様を恐れる思いがない。先ごろ報道されている、若い奥さんがご主人を殺して、バラバラにして捨てた。そのニュースを聞きますと、その奥さんはまだ32歳です。もうこの方の生涯はこれで破滅です。どうして、そのようになるまでに止めることができなかったのだろう? そこまで行かなければどうして終わらなかったのだろうか。心の暴走を止めるものがない。それは神様を恐れないからです。恐らく、優秀な方だったと思います。ご主人も一流企業に勤めていて、学校の成績もよかったに違いない。その女性の方の経歴を聞きますと、東京の私立の大学を出ている。教育はあり、知識もある。しかし、人としての生き方を知らない。人の本分である神様を恐れない。今の日本で次から次へと人殺しだとか、殺人のない日はない。その方に言わせれば、それなりの理由はあると思います。こうだったから、やむなくこうした。でも、その理由たるや結局は自己本位です。自分の感情や自分の欲情の行き着いた先がそこでしょう。それを抑えていくのは、何といっても子供のときから、幼いときから神様を恐れる心を育てること。神様を知っているならば、誰が見ていなくても、神様は見ていらっしゃる。今、自分がこのような不当な扱いを受けていても、神様はそれをご存じだし、必ず罰を加えられるからです。自分がしようとしていること、これは神様の前に大変な大きな間違いだと、知る心を失っている。
これは全てのことにいえます。先ごろ「不二家」の事件がありました。あれはうそをつくことです。実に単純なことなのです。昔はよく“うそつきは泥棒の始まり”と言いました。ところが、今はそのようなことを言う人もいなくなりました。自分の利益になるためには、自分の都合のいいように事をする。それは心を見ている神様がいることを知らないからです。神様から裁きを受けることがその心にないから、自分がこうしたら利益が上がる、会社のためにはこうしておこうと。昨年も大きな話題になった「耐震強度偽装」という事件がありました。この「偽装」の「偽」はいつわることです。いうならば、うそをつくことです。この建物はこれだけの鉄筋が必要と決められている。そうしないと地震に弱いと知っていても、少しでも安く、そして自分の利益を大きくするために、見えないところで抜いてしまう。でも神様は見ていらっしゃる。神様が見ていて、裁かれるのだという謙遜さがない。だから、平気でうそをつく。日興コーディアルという証券会社でも粉飾決算でしょう。優秀なトップクラスの企業ですよ。「粉飾」とはうそをつくことです。それは堀江さんにもいえます。また村上ファンドという村上さんなんて、通産省のエリートでした。どちらも東大出です。しかし、彼らの心に神様を恐れる思いがない。
私たちはどうか、と問われると、気がつかないうちに、どこかで神様を恐れない。ましてや、子供や孫たちまでも「この位のうそはいいではないか」。神様がいらっしゃることを教えようとしない。いくら教育制度を変えようと、どんなことをしても今の日本は救いがたいと思います。いじめや、いじめられるという記事もありますが、いじめること自体、その心に神様を恐れる思いがない。
ローマ人への手紙3章10節から18節までを朗読。
この記事は今の日本の社会の姿そのものです。「義人はいない、ひとりもいない」。正しい人なんてどこにもいないでしょう。政治家も教育家も、あるいは経済人にしろ、ただ利益の追求、自分の欲得のためだけに汲々として生きている。そこには神様を恐れる思いがない。13節に「彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり」。そればかりでなく14節に「のろいと苦い言葉とで満ちている」と言います。16節には「破壊と悲惨とがある」。17節に「平和の道を知らない」。そのとおりです。具体的な例はいくらでも有り余るほどあります。その原因は、18節に「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。これは決定的な問題です。どうぞ、私たちはもう一度、神を恐れるということはどうすることなのか? そしてそのことを本当に幼いときから子供たち、孫たちを、きちっと神様を恐れるものに変えていかないと、とんでもない生涯に入っていきますよ。ご主人を殺してバラバラにした若い奥さん、あの人だけが特殊なのではないのです。事と問題によっては私たちだってひょっとしたらそのようなことをしないとも限らない。感情が激こうして、あるいは本当に自分の憎しみや憤りが爆発していくとき、誰がそれをしない、と言えますか。それを止めていく力は私たちにはないのです。ではどこにあるかといいますと、神様を恐れる思いを……。これは本当に“三つ子の魂百まで”と言うでしょう。本当に幼い小さな子供のときから、うそをつくこと、あるいは見えない神様が見ていらっしゃること。それを神様は必ず罰される御方であるということを徹底して学ばせるということです。これは私たちの大きな責任でもあり、私たち、先に救われた者の使命でもあります。ただ、子供が勉強をよくしてくれる。健康でスポーツが好きでと、今の世の中はそうでしょう。勉強ができるように塾通いをし、あるいはいろいろなおけいこ事をし、習い事をする。また、健康のためにスポーツジムにやったり、あるいは水泳教室にやったり、いろいろなクラブ、少年野球クラブだとか、サッカーだとかに入れるでしょう。それは、それでいいのですけれども、もう一つ大切な心を養う、神様を恐れることを教える場所がないのです。誰もそれをしない。今の教育家でもそうですね。道徳の時間なんて、そんなものは何の役にも立ちませんよ。どこで教えるのか。それは家庭ですよ。両親ですよ。そこで本当に神様を前に置いて、親が神様を恐れる姿で生活していなければ、またそれを子供たちにたたき込んで、しっかりと神様を恐れる者にしておかないと将来とんでもない事態や事件を引き起こさないとも限らない。
テモテへの第一の手紙4章6節から8節までを朗読。
7節に「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい」とありますが、殊に、「信心のために自分を訓練しなさい」と言われます。これは文語訳では「を敬うことを自ら修行すべし」と語られています。神様を敬うこと、神様を尊ぶこと、これを自ら修行するというのです。生まれたまま放っといて、神様を求める者にはならない。神様を認めて、自分を低くして神様を尊び、敬い、大切にする。見えないものに目を注ぐ心を養うように、「修行せよ」と言われる。訓練しなさいと。子供のときから、それを教えてやらないと分からない。放っておけば、そのうち神様を知るようにならないのです。その代わり、子供のとき徹底して神様を恐れる訓練をすれば、少々羽目を外して、道を逸れても、必ず戻ります。人としての本分に立ち返ってくる。これが今の世の中に欠けているのです。私たちはそのために祈らなければならないし、また事あるごとに、自分自身が神様を恐れる者でなければなりません。神様を恐れるとは、口では言うけれども、実際の生活の中でどのようにすることでしょうか。自分の生活の中で、神様を恐れるとはこのようなことだと、はっきりしていないために、言葉だけが空回りしています。
サムエル記上24章1節から6節までを朗読。
サウル王様はダビデの命を狙っていました。ダビデは「エンゲデの野」、ユダの荒野に逃げたのです。そして身を潜(ひそ)めておりました。ある岩穴の中に隠れていたとき、そこへサウル王様が部下の三千人を率いて、ダビデを捕えるためにやってきたのです。洞穴があって、サウル王様が「足をおおうために」とありますが、これはちょっと昼寝をするため、休憩をするためその洞穴に入って休んだのです。同じ洞穴の手前のところにサウル王様、奥にダビデたちがいる。ダビデたちはびっくりした。敵であるサウル王様が同じ洞穴の中に、しかも一人で寝ている。そのときに4節に「ダビデの従者たちは彼に言った、『主があなたに告げて、「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる」と言われた日がきたのです』」。分かりやすく申しますと、「神様が、敵であるサウル王様をお前が自由にしてよろしい」と言っているのですよ。さぁ、ダビデ、ここで一突きに殺してしまったらあなたはもう王様ですよ。部下はそう言って勧めるのです。ここまで言われたら誘惑されます。「ああ、そうか」と。目の前に敵がいて、刀はある、槍もある。ところがダビデはそれをしなかった。そして、4節の終わりに「ひそかに、サウルの上着のすそを切った」。ソーッと行ってサウル王様の上着のすそだけを切り取って出て行った。でもそのとき5節に「しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた」。ダビデは自分が王様のすそを切っただけで、「悪いことをしてしまった」。神様に対して自分は悪いことをしてしまったと。6節に「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる」。たとえ神様がサウル王様を捨てて、その代わりに自分に油を注いでくださったにしろ、取りあえず、今なお神様はサウルを王様として置いている。そのサウル王様は神様によって立てられた者だ。私は神様を恐れる者で、神様が立てているのに、私が勝手なことをすることは出来ない。彼はすそを切っただけでも、自分の心に王様を憎むなら、神様を憎むことになる。神様が「よし」と言わないのに、自分がそれをしてしまったと、悔い改めています。
神様を恐れるというのはこのようなことでしょう。自分の都合がよいから、状況的に考えてこれならいいに違いない、これが私の得になる、これが私の利益になるからするのではなくて、神様が何と言われるか。神様が今、このことについてどのようになさるのか。それを大切にする。神様はどこにもいないのだから、見えないのだからいいじゃないかと言うのは、神様を恐れないことです。神様はどこでも見ている。見えないけれども、いらっしゃる。「隠れた所においでになるあなたの父・・・。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は」(マタイ6:18)と、イエス様は言われます。神様がいて、今このことが起こっている。私がしているのではない。ダビデは自分がそのような命を狙われる境遇に置かれたのは、神様が置かれたのであって、彼が好んでそうなったのではない。彼は平和な、名もない羊飼いだったのです。生涯そのまますごしてもよかった。野心家ではありません。ただ、神様がある日突然のごとく、彼の人生を作り変えてしまった。波乱万丈の生涯に、彼をたたき込まれました。ダビデは、神様が私をここに置いてくださったと、確信を持って立っていましたから、同時にまた、サウル王様も神様が立てられた方と信じる。それを取り除かれるのも、神様がなさるに違いない。私が手を出すわけにはいかない。これが神様を恐れることです。「私が神様に代わって、やっておきましょう」とするなら、神様を押しのけることになります。
私たちの生活の中でも、自分の都合がよいように、自分の利益に合うように、時にはうそもつくかもしれない。あるいは、時には適当なことでごまかしながら生きるかもしれない。そこには神様を恐れる思いが消えます。人の本分は何であるのか。神様を信頼する、信じるとは、神様を恐れ、敬う、尊ぶことです。日常生活の中で、絶えず「神様のなさる業です」と、すべてのことを感謝して、神様の前に自分を低くしていなければ、神様を恐れることはできません。「何で私がこんな目に遭わなければいけない」「何でこうなってしまった」「私はああしたかったのに、こうしたかったのに」「どうして!どうして!」と憤り、怒りをもち続ける間、神様を恐れることができません。都合が悪くなると「おれは離婚してやる!」なんてことになる。それが相手を殺すことになるかもしれない。
伝道の書12章13節に戻って、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。毎日の生活の中で、神様を恐れて、神様が見ている、神様が知っていることをはっきりと自覚し、それを言葉にはっきりと言い表していこうではありませんか。家族に対しても「神様が見ているよ」「神様は何と言われるだろうか」と、神様に思いを向けさせる。私は父からよく言われました。「主が何とおっしゃるか」と。私が「こうしたい。ああしたい」「まぁ、それもいいだろうけれども、よく祈りなさい。神様が何とおっしゃるか」。そのとき、私は「神様がおっしゃるのではなくて、あなたが言えばいいのに。あなたがO.K.すればいいのに、自分がしたくないために神様まで持ち出して…」と思いました。しかし、神様を恐れるとは、そういうことです。父ができないのではない。しようとすればできるけれども、神様がそれを許さないのだったらできない。神様が許してくださればどんなことでもする。そのようなことを、絶えず言われてきました。今思うと私にとって幸いだったことです。
まず「主が何とおっしゃるだろうか」。自分の好きなこと、自分のしたいこと、自分の嫌なこと、自分の感情や、わがままな思いで事を選び取っていくのではなくて、「神様が何とおっしゃるか」と、それを第一にしていく。神様が求められるところに、どうしても従うのだという生き方を、私たち自身がまず生きていかなければ、若い人たちにも神を恐れる道を歩ませることはできない。またお子さんを育てる親にとって、本当に何が大切かをしっかり握っておく。勉強なんかできなくてもいい。体育ができなくてもいい。神様を恐れる思い、神様を恐れる心を養い、育てておきさえすれば、後はいいのです。息子や娘を親孝行にする、自分の老後を見てもらうために遺産分けをちらつかしても駄目です。それよりも神様を恐れる子供にしておきさえすれば、親を放っておくことは決してしない。だから、神様を恐れる者に子供を育てていくことが、全ての源です。だから「すべての人の本分」と言われるのです。どうぞ、私たちもこの本分をしっかりと全うしていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りしましょう。