ヨハネの第一の手紙3章13節から18節までを朗読。
16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。
これはよく耳にし、覚えている御言葉の一つであろうと思います。御子イエス・キリストが神の位を捨て人の世に下って、私たちの罪のあがないとなって命を捨ててくださいました。これは神様の御愛を明らかにしてくださったことです。私たちもまた主の御犠牲により、今このように憐(あわ)れみを受ける者とされ、神様の救いにあずかっています。考えてみると、私どもにはどれほどその値打ちがあるのか、神様から愛される資格があるのかを考えると、全くありません。神様のことを知らず、また神様に造られ生かされていながら、まことに身勝手な、自分勝手な生き方をしてきた者です。自分を神として、神様を認めようとしない、そのような者であったのです。しかし、そのような者であることを重々ご承知の上で、私たちの罪のあがないとして、御子をお遣わしになったのです。これはどんなに感謝しても感謝しきれないほどの大きな恵みです。何故にそうなのか? 神様は創世記にあるように、尊い神のかたちにかたどって、私たちを造ってくださったのです。神様はご自分の愛する者として人を造ったのです。その愛される存在、愛されている者が、そこを離れて自分勝手な歩みを始めて神様の許(もと)から去ってしまった。これが私たちの姿です。その結果はまことに悲惨な嘆くべき状態です。イエス様を知らないとき、悩みと苦しみと悲しみと憤り、苛立ち、失望、落胆、絶望の中に生きていました。今、周囲の社会を見ますと、これこそ神なき社会、世であることをしみじみと思います。
先だっても、息子が母親を殺して首を切ってそれを持ち回ると言う事件がありましたが、つい昨日は生まれたばかりの赤ちゃんが焼却炉に捨てられていました。毎日毎日そのような絶望的な事件が起って、どうしてこうなったのだろうかと思います。昔ローマ帝国が繁栄をした結果、世の中が今のようになった時代があります。子供を捨てる。捨て子の時代があります。そして、やがて帝国は滅びていきました。日本も、日本だけではないと思いますが、まさに世も終わり、そのような時代であることは明らかです。なぜそうなるのか? それは神に造られた者であるという自覚がなく、創造者である神様を畏(おそ)れないからです。自分の心のおもむくまま、自分の願望、自分の情欲のまま生きることを求め、神様を忘れてしまった。これは私たちの生活の中でもよくあることです。神様を知らない世の人々がそうだというばかりでなく、神様を知っているはずの私たちも、時にそのような事態や事柄の中に置かれます。毎日の生活で、いつも神様を前に置いて神様を尊び敬い、主に従っている間はいいのです。ところが、何かとんでもないことや、思いがけないことが起こると、一瞬にしてそのことを忘れ、自分の感情に任せて、人とぶつかる、あるいは自分の義を立てる。「私が正しい」、「私の言っていることは間違いがない」と思う。あるいは「私がこう決めたことが、どうしてならないのだ」と憤る。まさに、そこに神を畏れない姿が私たちのうちにあります。だからこそ、このように毎週、恵みの時を神様が与えてくださっている。私たちはこのように集会に出て、御言葉を通し、その解き明かしを通して、自分自身を探っていただく、これは本当に大きな恵みです。もしこれがなかったら、どんな状態になってしまうか分かりません。とことん滅びてしまうに違いない。しかし、絶えず神様は憐れんでくださって、このような恵みの御座に引き出し、御霊によって、私たちの心を清め、思いを新しくしてくださるのです。だから、集会をやめるわけにはいかない。「今は恵みの時、救いの日」(2コリント6:2)ですから、今こそ絶えず主のみ前に立ち返って、新しくされることが必要です。
先だっても、ある方と話をしていたら「先生、信仰というのは一気にズーッと、一本調子に上るわけにはいかないのでしょうかね」と言われます。「どうしてですか」と尋ねると、「上がってみたら下がる。下がったら上がる。一体進んでいるのやら退歩しているのやら、よう分からんのですけどね」と言われます。私は「大丈夫。そうやって行ったり来たり、行ったり来たりするのが信仰です。それがなくて一本調子だったら、あなたはこの世におりませんよ」と言ったのです。天国に行くのが一番安心ですが、それまでは登ったり下りたり、下りたり登ったりする。神様の恵みは「朝ごとに」であって、一回飲んだら三年間有効とか、そのようなものではない。出エジプト記を読みますと、マナを毎朝頂きました。ずるい人がいて、次の朝、寝坊をしたいと思って翌日の分を取っていたら腐っていたという。毎朝、勤勉に起きてマナを集めて、生活の糧にした。私たちの魂もやはりそうなのです。毎日神様からの糧をいただかなければ、すぐに落ちていってしまう。そのように弱い私たちです。だから、毎朝、主の御前に近づいて心を静めて御言葉を読んで、祈って神様と交わり、新しい力を与えられて一日を過ごすのです。これを「二、三日いいか」と飛ばしてしまったら、気がつかないうちに、私たちの心はむしばまれる、サタンにやられてしまいます。だから絶えず「目を覚ましていなさい」(マタイ 25:13)と神様は言われます。だから、いつも自分を神様の前に置いて、絶えず点検しなければならないのです。そうやって、神様は恵んでくださるが故に、先ほど申し上げましたように、末の世、終わりの世と思われるようなさまざまな悪しきことがはびこった中にあって、 私どもはこのように平安に、平和に過ごさせていただいているではありませんか。もしこれがなかったら、私たちはとんでもない老後を送っているかもしれない。まだ老後でない方もいるでしょうが、そのような意味で本当に感謝だと思うのです。新聞紙上を見ていると、こんな事件がひょっとしたらわが身に起こるかもしれない。お孫さんから首をはねられているかもしれない。そうでないのは、誰が守っているのでしょうか。神様が私たちをこのような平安の中に置いてくださっているのです。それを絶えず感謝する、心に覚えていかなければ、申し訳ない。
といって、ほかの人は神様が見捨てているわけではない。「すべての人を」、神様を知らないで「神なんかいるものか」、「私は神様なんか信じない」、「おれはおれだ。おれが神だ」と言っている人たちのためにも、神様は既にイエス様の十字架を立ててくださっている。問題はその人が「そうでした。神様ごめんなさい」と、神様に立ち返ることだけが最後に残されているのです。神様の救いの業は完成している。「事畢(をは)りぬ」(文語訳:ヨハネ19:30)、イエス様は十字架の上に完成をしてくださいました。神様の側に不足しているものはない。今から、あれが足らなかったから、もう一つ付け加えておこうということは必要がない。既にゴルゴダの十字架によって、救いに必要なすべてのものはもう終わっているのです。では今度はどうするか? 問題は私たちのほうが、それをどのように受け止めるか。そのことを感謝して、神様の前にへりくだって、自分の罪を認めて、悔い改め、神様の手に握っていただく、自分をささげてしまう。これが全てです。
そうやって私たちを愛してくださった神様は、この16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。ここに「愛ということを知った」と言われています。教会に来るとよく「愛」ということを言います。「愛」、「愛し合おうではないか」「兄弟を愛するものは……」と。その先にもそのことが書いてあります。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と。「私たちを愛してくださった」、その「愛」とは何だろうか?
先日もある方が「教会に行くと『私たちは神様に愛されたのだから、兄弟をまず愛そうではないか』とそのように勧められた。振り返ってみると、自分は兄弟を愛していると言いながら、教会で自分の態度、生活ぶり、これはどうも間違っていたように思う。これから悔い改めてできるだけ人と仲良く、交わりを持ち、人のためにも尽くすようになりたいと思います」と言われた。私はその時「それが愛ですか? 」と尋ねたのです。その方は「それは愛ではないですか? 」と問われたので、そこでちょっと止まりました。それから私は問われたのです。「愛とは何か? 」 16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。「愛ということを知る」。それは神のひとり子であるイエス・キリスト、罪なき方が罪人となって、十字架に私たちのために命を捨ててくださった。これが愛です。
ですからヨハネの第一の手紙4章9節から11節までを朗読。
ここにはっきりと「愛はどこにあるか」が語られています。10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。神様の愛は「御子をおつかわしになった」ことにあるのです。神様の愛は人の愛とは全く違うのです。男女の愛であるとか、親子の愛であるとか、友情であるとか、いろいろな形で愛を世間でも言います。確かにそれも愛には違いありませんが、それと神様の言うところの、私たちを愛してくださった愛とは似て非なるもの、全く違うものです。私はその方の話を通して神様の愛とは何なのか? をじっくり考えさせられました。翻(ひるがえ)ってみると、私たちのうちに神様の愛は無いということです。私たちに有るのは自己愛です。あるいは、親が子供を愛するゆえに、子供が死ぬくらいなら私が代わって死んでやりたいと思うでしょう。そのような親の愛を崇高な愛のように言います。確かに、それも愛には違いないけれども、私たちに神様のような愛があるだろうか? と言うのは、神様の愛は、創造者、造り主が被造物である造られた者、人のために命を捨てる。これは人が人のために犠牲になるのとは大違いです。そこを混同すると言うか、一緒にしてしまっている。大切なひとり子を私たちの罪を贖うために世に遣わしてくださったことと、親がわが子のために命を捨てたのとは違うものです。親と子はどちらも造られたものです。自分の血を分けた、肉親的な情愛の対象ではありますが、他人ではありません。そもそも被造物が被造物のために死んだって、何の意味もない。神様の子供であり、本来そのようなことがあり得るはずのない方が、人となってこの世に来てくださった。そして罪人であり造られたものである私たちの罪を赦すために、ご自分が罪を負ってくださった。この事態は、どんなものにも比べることができない。ただ、人に親切にしたり、困っている人を助けてやったり、慈善をしたり、何か良い事をして人のため世のためになることが、神様の愛かと言うと、そうではない。これは神様の愛ではない。私たちの心を探って見ると、それは名誉のためであり自分の何か欲望のためであるかもしれない。心の思いを探っていくならば、人のためにするかもしれないが、自分の命まで捨てるかと言うと、それはしません。ちょっと、僅かな金を寄付して、私はこんな慈善をしています、というだけのこと。それと神様がひとり子を私たちのために遣わしてくださった御愛とを同列にするならば、あまりにもおこがましい、いやそれどころか神様の御愛を踏みにじるようなことだと思います。
だから、その方に答えきれなかったのはそこだったのです。「みんなと仲良くしてはいけないのですか? 私はそのために犠牲を払います」と言われる。なるほど、友達あるいは教会の兄弟姉妹のために「あの人のために、ああしてやりましょうか。こうしてやりましょうか」と言います。それは良いことです。誰だって反対しません。百人が百人、もろ手を挙げて大賛成、いいでしょうとなります。では、それをとことん自分を捨ててやれるか? と問われると、できない。先ほどの、ヨハネの第一の手紙3章16節に「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」とありますが、私たちはその命を捨てられるでしょうか。それはできません。もう一度、自分自身を振り返ってみて、私たちに愛がないことを認めなければ始まらないのです。私たちのうちには愛がない。ではどこに愛があるのか? それはこの10節に「御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。神様が御子をおつかわしくださった。その御子が愛なのです。
ヨハネの第一の手紙4章7,8節を朗読。
「神は愛である」とあります。だから神様の愛とは、イエス・キリストご自身なのです。また、神様ご自身が愛なのです。だから、愛のない者に愛を与えていただきたいと祈りますが、それは言い換えると主イエス・キリストが私たちのうちに宿ってくださいと願うことです。あるいは、神様をうちに持つとき、人は初めて愛を持つことができる。愛に生きることができる。だから、世の中で言うところの、人が言うところの愛と、聖書で言うこの愛とは大違いです。
コリント人への第一の手紙13章4節から8節までを朗読。
この4節以下に愛の性質について語られています。このような愛が私たちにあるでしょうか。ありません。どんなに親の愛が深い人であっても、これが全部当てはまるかと言うと、当てはまらない。この「愛」という言葉に代えて、「自分の名前」を入れてご覧なさい。いかに愛がないかがよく分かります。「榎本和義は寛容であり、榎本和義は情け深い」と読みますと、それだけでも恥ずかしくて続けられません。ここの「愛」に代えて「主イエス・キリスト」という言葉を入れてご覧なさい。「イエス・キリストは寛容であり、イエス・キリストは情深い。また、ねたむことをしない。イエス・キリストは高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない」となります。また、何一つ違和感がありません。まさにその通りだと思います。愛とは、キリストそのものなのです。イエス様が愛なのです。それはまた同時に神様が愛でもあるのです。神様は「怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)と旧約にも語られているように、神様はそもそもが、根本がここに語られているような愛なのです。だから、「神様、あなたの愛をください」と言いますが、神様ご自身を私たちのうちに宿すとき、私たちは初めて愛を知ることになるのです。イエス・キリストが私たちのうちに宿ってくださって、私たちがイエス様と一体になる、一つになったとき初めて、愛の人になるのです。それ以外にはありません。
ヨハネによる福音書15章9節から11節までを朗読。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。イエス様は父なる神様から、「わたしは愛されている」と告白しています。しかし、現実のイエス様の具体的なご生涯を振り返りますと、そんな神様から愛されたものの生涯であろうか、と思います。十字架の死を甘んじて受けるようにと求められた。愛する者にそんな過酷なことを言いますか。ところが、イエス様はそれでもなお、わたしは父なる神に愛されている、と言い切れるのはなぜか。それはイエス様と父なる神様とが一体だったからです。一つなのです。だからわたしは愛されている。そのようにわたしもあなたを愛したのだから、わたしの愛のうちにいなさい。キリストの愛のうちにいるとは、キリストご自身を自分のうちに絶えず感謝して受けていくことです。これが愛なのです。そしてイエス様が私たちのうちに宿って愛となってくださる、愛の源となってくださる。主の御愛に従って、主のいましめを守る。10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。言い換えると、イエス様の言葉を心に抱いて、その御言葉に従っていくとき、私たちはキリストの愛にとどまっていることができる。共にいることができる。これが私たちの愛なのです。私たちが受ける愛です。だから、私たちが愛の人になるには、主イエス・キリストを私たちのうちに、神様を私たちのうちに宿す者となり、聖霊に、神様の霊に満たされて、神様が私どもを愛してくださっていることを信じて、主のお言葉に従っていく。神様の御心に従っていくところに愛があるのです。これが私たちのいただく愛です。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と13節に記されています。12,13節を読みますと「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。本当にそのとおりです。こう聞くと「これから我慢して、嫌いな人とも仲良くしなければいけないのか。あの人ともこうして……、やはりけんかしてはいけないのだ」というようなことを思いますが、そのようなことを言っているのではないのです。よく読んでいただきたいと思いますが、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。主がわたしたちを愛してくださった。そして主は私たちのうちに宿ってくださっている。今日も私のような者と共にいてくださる。その主の御心を信じて、こんなにまで愛してくださる主の御愛に応えて生きるものとなる。主の御心はどこにあるでしょうか? 神様、あなたが求めていることは何でしょうか? と祈り求め、主に応えて御言葉に従う。そこで初めて「その友のために命を捨てる」ことができる。神様の御言葉に従って、主の御霊の導かれるところに従って、命を捨てることができるなら、これが愛です。ただ、可哀想だからとか、ただ、あの人にはこれまでいろいろ世話になった義理があるから、ひとつこの際やってやろうかと言うのは、愛からではありません。
神の御愛、神様が私たちを愛してくださったことがどのようなことなのか、神様の御愛はどこにあるのかを知りたい。愛は人の好意であるとか、何かする事であるとか、あるいはその感情、言葉であるとか、そのようなものに現れてくるのではなくて、神様の愛はまさに神ご自身を私たちのうちに宿すこと、キリストを主と信じて、その方に自分をささげきっていく。そのとき、神様の御愛と一つになることができる。そのとき、神様は何をどうしたらいいかを教えてくださいます。教えられたところに従ったとき、気がつかないうちに、友のために命を捨てるかもしれない。ただ主を見上げて、主の御愛に感謝して、主の御愛にとどまって、ただ御言葉を信じて、神様の御思いを一生懸命に求めて生きる。そうしたら、人とけんかなんかしている暇がない。言わず語らず、巧まず、私たちは神様の御愛を持ち運んで行くことができる。キリストを現すことが神の御愛を証しすることにほかならない。
イエス様が私を愛してくださった。私のために命を捨ててくださった。これから私も何か犠牲にしなければ、ああ、あれはもったいないと思ったけれども、仕方がない、あれを出すか!なんてそのようなことが愛ではないのですよ。そうではなくて、主が私を愛して、私のために命を捨てて、そして私を潔(きよ)め、あがなって、そして私のうちに宿ってくださった、その主こそが、愛の塊、愛そのものだからそのキリストを私のうちに持っていくことが愛の人ですよ。キリストなくしてただ優しいばかりが愛の人ではない。あるいは財布の口が緩みっ放しの人が愛ではないのですよ。私たちにとって愛は何か? キリストご自身であり、神様ご自身が愛なのです。その御愛を私たちのうちにいただいていくこと。そしてその御愛の中にとどまっていく。これが私たちの愛に生きる生涯です。
もう一度初めのヨハネの第一の手紙3章16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。「いのちを捨てて下さった」と、いのちを何のために捨てたのでしょうか? イエス様が命を捨てられたのは何のためであったのか? 私たちの罪のあがないであり、そしてイエス様は死んで葬られて、三日目によみがえって、今度は私たちのうちに宿ってくださいました。今、神の御霊が、聖霊が私たちのうちにとどまってくださって、神の御愛が私たちのうちに絶えず注がれている。それを私たちは知ったのです。「愛ということを知った」と言いますのは、そこなのです。キリストを私たちのうちにいただいた。よみがえってくださった主が私のうちに宿ってくださった。これが「わたしたちは愛ということを知った」ということです。「愛を知る」と言いますことはそのことです。
「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。だからこそ、その御愛のゆえに、その御愛に根差し、その御愛を基(もとい)とし、その御愛によって生かされていくとき、私たちは「その友のために自分の命を捨てること」だっていとわない。いやもっともっと大きなことを神様は私たちを通して現してくださるに違いない。私たちがなすべきことは何か、と言いますと、それはひたすらに主の御愛にとどまること。神様の御心に、御言葉に根差して、そしてその御言葉を守り行うところに、神の御愛に絶えずとどまることができ、また愛を持つ者となる、キリストをわがうちに宿していく者となるのです。
ですから、私どもは絶えず、絶えずイエス様が私のうちに宿ってくださる、神様が私と共にいてくださる、それは愛が私のうちにあるということなのです。だから、その御愛に応えて、御愛に感謝して、主よ、私は何をすべきでしょうか。主よ、私はこのときどうしたらいいでしょうか?主の御愛に応えて、主が求め給う御心に従うことが愛の業を全うすることです。私たちが神様の御心に従っていくことが、愛を実践していく具体的な歩みです。神様が私たちのうちに宿って、愛を現してくださる。だからこそ、絶えず主の御愛に立ち返ること、そこにとどまることが不可欠です。私たちはどんなことをしてもかまいません。ただ神様の御愛に応えているかどうか。私のうちに宿ってくださる神様の御言葉に信頼し、御心に従っていく。そのとき、愛の人となるのです。自分に愛がないことは百も承知、重々承知しています。だからこそ、主が私のうちに宿って愛の源となってくださるように絶えず求めてください。主が私のうちにいます、神様、あなたは私と共にいらっしゃいますと言うところに、愛があるのです。
どうぞ、日々に主の御愛にとどまって、御愛を確信し、その御愛にうながされるところ、導かれるところに従って、愛の人としての人生、生涯を歩みたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。
これはよく耳にし、覚えている御言葉の一つであろうと思います。御子イエス・キリストが神の位を捨て人の世に下って、私たちの罪のあがないとなって命を捨ててくださいました。これは神様の御愛を明らかにしてくださったことです。私たちもまた主の御犠牲により、今このように憐(あわ)れみを受ける者とされ、神様の救いにあずかっています。考えてみると、私どもにはどれほどその値打ちがあるのか、神様から愛される資格があるのかを考えると、全くありません。神様のことを知らず、また神様に造られ生かされていながら、まことに身勝手な、自分勝手な生き方をしてきた者です。自分を神として、神様を認めようとしない、そのような者であったのです。しかし、そのような者であることを重々ご承知の上で、私たちの罪のあがないとして、御子をお遣わしになったのです。これはどんなに感謝しても感謝しきれないほどの大きな恵みです。何故にそうなのか? 神様は創世記にあるように、尊い神のかたちにかたどって、私たちを造ってくださったのです。神様はご自分の愛する者として人を造ったのです。その愛される存在、愛されている者が、そこを離れて自分勝手な歩みを始めて神様の許(もと)から去ってしまった。これが私たちの姿です。その結果はまことに悲惨な嘆くべき状態です。イエス様を知らないとき、悩みと苦しみと悲しみと憤り、苛立ち、失望、落胆、絶望の中に生きていました。今、周囲の社会を見ますと、これこそ神なき社会、世であることをしみじみと思います。
先だっても、息子が母親を殺して首を切ってそれを持ち回ると言う事件がありましたが、つい昨日は生まれたばかりの赤ちゃんが焼却炉に捨てられていました。毎日毎日そのような絶望的な事件が起って、どうしてこうなったのだろうかと思います。昔ローマ帝国が繁栄をした結果、世の中が今のようになった時代があります。子供を捨てる。捨て子の時代があります。そして、やがて帝国は滅びていきました。日本も、日本だけではないと思いますが、まさに世も終わり、そのような時代であることは明らかです。なぜそうなるのか? それは神に造られた者であるという自覚がなく、創造者である神様を畏(おそ)れないからです。自分の心のおもむくまま、自分の願望、自分の情欲のまま生きることを求め、神様を忘れてしまった。これは私たちの生活の中でもよくあることです。神様を知らない世の人々がそうだというばかりでなく、神様を知っているはずの私たちも、時にそのような事態や事柄の中に置かれます。毎日の生活で、いつも神様を前に置いて神様を尊び敬い、主に従っている間はいいのです。ところが、何かとんでもないことや、思いがけないことが起こると、一瞬にしてそのことを忘れ、自分の感情に任せて、人とぶつかる、あるいは自分の義を立てる。「私が正しい」、「私の言っていることは間違いがない」と思う。あるいは「私がこう決めたことが、どうしてならないのだ」と憤る。まさに、そこに神を畏れない姿が私たちのうちにあります。だからこそ、このように毎週、恵みの時を神様が与えてくださっている。私たちはこのように集会に出て、御言葉を通し、その解き明かしを通して、自分自身を探っていただく、これは本当に大きな恵みです。もしこれがなかったら、どんな状態になってしまうか分かりません。とことん滅びてしまうに違いない。しかし、絶えず神様は憐れんでくださって、このような恵みの御座に引き出し、御霊によって、私たちの心を清め、思いを新しくしてくださるのです。だから、集会をやめるわけにはいかない。「今は恵みの時、救いの日」(2コリント6:2)ですから、今こそ絶えず主のみ前に立ち返って、新しくされることが必要です。
先だっても、ある方と話をしていたら「先生、信仰というのは一気にズーッと、一本調子に上るわけにはいかないのでしょうかね」と言われます。「どうしてですか」と尋ねると、「上がってみたら下がる。下がったら上がる。一体進んでいるのやら退歩しているのやら、よう分からんのですけどね」と言われます。私は「大丈夫。そうやって行ったり来たり、行ったり来たりするのが信仰です。それがなくて一本調子だったら、あなたはこの世におりませんよ」と言ったのです。天国に行くのが一番安心ですが、それまでは登ったり下りたり、下りたり登ったりする。神様の恵みは「朝ごとに」であって、一回飲んだら三年間有効とか、そのようなものではない。出エジプト記を読みますと、マナを毎朝頂きました。ずるい人がいて、次の朝、寝坊をしたいと思って翌日の分を取っていたら腐っていたという。毎朝、勤勉に起きてマナを集めて、生活の糧にした。私たちの魂もやはりそうなのです。毎日神様からの糧をいただかなければ、すぐに落ちていってしまう。そのように弱い私たちです。だから、毎朝、主の御前に近づいて心を静めて御言葉を読んで、祈って神様と交わり、新しい力を与えられて一日を過ごすのです。これを「二、三日いいか」と飛ばしてしまったら、気がつかないうちに、私たちの心はむしばまれる、サタンにやられてしまいます。だから絶えず「目を覚ましていなさい」(マタイ 25:13)と神様は言われます。だから、いつも自分を神様の前に置いて、絶えず点検しなければならないのです。そうやって、神様は恵んでくださるが故に、先ほど申し上げましたように、末の世、終わりの世と思われるようなさまざまな悪しきことがはびこった中にあって、 私どもはこのように平安に、平和に過ごさせていただいているではありませんか。もしこれがなかったら、私たちはとんでもない老後を送っているかもしれない。まだ老後でない方もいるでしょうが、そのような意味で本当に感謝だと思うのです。新聞紙上を見ていると、こんな事件がひょっとしたらわが身に起こるかもしれない。お孫さんから首をはねられているかもしれない。そうでないのは、誰が守っているのでしょうか。神様が私たちをこのような平安の中に置いてくださっているのです。それを絶えず感謝する、心に覚えていかなければ、申し訳ない。
といって、ほかの人は神様が見捨てているわけではない。「すべての人を」、神様を知らないで「神なんかいるものか」、「私は神様なんか信じない」、「おれはおれだ。おれが神だ」と言っている人たちのためにも、神様は既にイエス様の十字架を立ててくださっている。問題はその人が「そうでした。神様ごめんなさい」と、神様に立ち返ることだけが最後に残されているのです。神様の救いの業は完成している。「事畢(をは)りぬ」(文語訳:ヨハネ19:30)、イエス様は十字架の上に完成をしてくださいました。神様の側に不足しているものはない。今から、あれが足らなかったから、もう一つ付け加えておこうということは必要がない。既にゴルゴダの十字架によって、救いに必要なすべてのものはもう終わっているのです。では今度はどうするか? 問題は私たちのほうが、それをどのように受け止めるか。そのことを感謝して、神様の前にへりくだって、自分の罪を認めて、悔い改め、神様の手に握っていただく、自分をささげてしまう。これが全てです。
そうやって私たちを愛してくださった神様は、この16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。ここに「愛ということを知った」と言われています。教会に来るとよく「愛」ということを言います。「愛」、「愛し合おうではないか」「兄弟を愛するものは……」と。その先にもそのことが書いてあります。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と。「私たちを愛してくださった」、その「愛」とは何だろうか?
先日もある方が「教会に行くと『私たちは神様に愛されたのだから、兄弟をまず愛そうではないか』とそのように勧められた。振り返ってみると、自分は兄弟を愛していると言いながら、教会で自分の態度、生活ぶり、これはどうも間違っていたように思う。これから悔い改めてできるだけ人と仲良く、交わりを持ち、人のためにも尽くすようになりたいと思います」と言われた。私はその時「それが愛ですか? 」と尋ねたのです。その方は「それは愛ではないですか? 」と問われたので、そこでちょっと止まりました。それから私は問われたのです。「愛とは何か? 」 16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。「愛ということを知る」。それは神のひとり子であるイエス・キリスト、罪なき方が罪人となって、十字架に私たちのために命を捨ててくださった。これが愛です。
ですからヨハネの第一の手紙4章9節から11節までを朗読。
ここにはっきりと「愛はどこにあるか」が語られています。10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。神様の愛は「御子をおつかわしになった」ことにあるのです。神様の愛は人の愛とは全く違うのです。男女の愛であるとか、親子の愛であるとか、友情であるとか、いろいろな形で愛を世間でも言います。確かにそれも愛には違いありませんが、それと神様の言うところの、私たちを愛してくださった愛とは似て非なるもの、全く違うものです。私はその方の話を通して神様の愛とは何なのか? をじっくり考えさせられました。翻(ひるがえ)ってみると、私たちのうちに神様の愛は無いということです。私たちに有るのは自己愛です。あるいは、親が子供を愛するゆえに、子供が死ぬくらいなら私が代わって死んでやりたいと思うでしょう。そのような親の愛を崇高な愛のように言います。確かに、それも愛には違いないけれども、私たちに神様のような愛があるだろうか? と言うのは、神様の愛は、創造者、造り主が被造物である造られた者、人のために命を捨てる。これは人が人のために犠牲になるのとは大違いです。そこを混同すると言うか、一緒にしてしまっている。大切なひとり子を私たちの罪を贖うために世に遣わしてくださったことと、親がわが子のために命を捨てたのとは違うものです。親と子はどちらも造られたものです。自分の血を分けた、肉親的な情愛の対象ではありますが、他人ではありません。そもそも被造物が被造物のために死んだって、何の意味もない。神様の子供であり、本来そのようなことがあり得るはずのない方が、人となってこの世に来てくださった。そして罪人であり造られたものである私たちの罪を赦すために、ご自分が罪を負ってくださった。この事態は、どんなものにも比べることができない。ただ、人に親切にしたり、困っている人を助けてやったり、慈善をしたり、何か良い事をして人のため世のためになることが、神様の愛かと言うと、そうではない。これは神様の愛ではない。私たちの心を探って見ると、それは名誉のためであり自分の何か欲望のためであるかもしれない。心の思いを探っていくならば、人のためにするかもしれないが、自分の命まで捨てるかと言うと、それはしません。ちょっと、僅かな金を寄付して、私はこんな慈善をしています、というだけのこと。それと神様がひとり子を私たちのために遣わしてくださった御愛とを同列にするならば、あまりにもおこがましい、いやそれどころか神様の御愛を踏みにじるようなことだと思います。
だから、その方に答えきれなかったのはそこだったのです。「みんなと仲良くしてはいけないのですか? 私はそのために犠牲を払います」と言われる。なるほど、友達あるいは教会の兄弟姉妹のために「あの人のために、ああしてやりましょうか。こうしてやりましょうか」と言います。それは良いことです。誰だって反対しません。百人が百人、もろ手を挙げて大賛成、いいでしょうとなります。では、それをとことん自分を捨ててやれるか? と問われると、できない。先ほどの、ヨハネの第一の手紙3章16節に「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」とありますが、私たちはその命を捨てられるでしょうか。それはできません。もう一度、自分自身を振り返ってみて、私たちに愛がないことを認めなければ始まらないのです。私たちのうちには愛がない。ではどこに愛があるのか? それはこの10節に「御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。神様が御子をおつかわしくださった。その御子が愛なのです。
ヨハネの第一の手紙4章7,8節を朗読。
「神は愛である」とあります。だから神様の愛とは、イエス・キリストご自身なのです。また、神様ご自身が愛なのです。だから、愛のない者に愛を与えていただきたいと祈りますが、それは言い換えると主イエス・キリストが私たちのうちに宿ってくださいと願うことです。あるいは、神様をうちに持つとき、人は初めて愛を持つことができる。愛に生きることができる。だから、世の中で言うところの、人が言うところの愛と、聖書で言うこの愛とは大違いです。
コリント人への第一の手紙13章4節から8節までを朗読。
この4節以下に愛の性質について語られています。このような愛が私たちにあるでしょうか。ありません。どんなに親の愛が深い人であっても、これが全部当てはまるかと言うと、当てはまらない。この「愛」という言葉に代えて、「自分の名前」を入れてご覧なさい。いかに愛がないかがよく分かります。「榎本和義は寛容であり、榎本和義は情け深い」と読みますと、それだけでも恥ずかしくて続けられません。ここの「愛」に代えて「主イエス・キリスト」という言葉を入れてご覧なさい。「イエス・キリストは寛容であり、イエス・キリストは情深い。また、ねたむことをしない。イエス・キリストは高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない」となります。また、何一つ違和感がありません。まさにその通りだと思います。愛とは、キリストそのものなのです。イエス様が愛なのです。それはまた同時に神様が愛でもあるのです。神様は「怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)と旧約にも語られているように、神様はそもそもが、根本がここに語られているような愛なのです。だから、「神様、あなたの愛をください」と言いますが、神様ご自身を私たちのうちに宿すとき、私たちは初めて愛を知ることになるのです。イエス・キリストが私たちのうちに宿ってくださって、私たちがイエス様と一体になる、一つになったとき初めて、愛の人になるのです。それ以外にはありません。
ヨハネによる福音書15章9節から11節までを朗読。
9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。イエス様は父なる神様から、「わたしは愛されている」と告白しています。しかし、現実のイエス様の具体的なご生涯を振り返りますと、そんな神様から愛されたものの生涯であろうか、と思います。十字架の死を甘んじて受けるようにと求められた。愛する者にそんな過酷なことを言いますか。ところが、イエス様はそれでもなお、わたしは父なる神に愛されている、と言い切れるのはなぜか。それはイエス様と父なる神様とが一体だったからです。一つなのです。だからわたしは愛されている。そのようにわたしもあなたを愛したのだから、わたしの愛のうちにいなさい。キリストの愛のうちにいるとは、キリストご自身を自分のうちに絶えず感謝して受けていくことです。これが愛なのです。そしてイエス様が私たちのうちに宿って愛となってくださる、愛の源となってくださる。主の御愛に従って、主のいましめを守る。10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。言い換えると、イエス様の言葉を心に抱いて、その御言葉に従っていくとき、私たちはキリストの愛にとどまっていることができる。共にいることができる。これが私たちの愛なのです。私たちが受ける愛です。だから、私たちが愛の人になるには、主イエス・キリストを私たちのうちに、神様を私たちのうちに宿す者となり、聖霊に、神様の霊に満たされて、神様が私どもを愛してくださっていることを信じて、主のお言葉に従っていく。神様の御心に従っていくところに愛があるのです。これが私たちのいただく愛です。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と13節に記されています。12,13節を読みますと「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。本当にそのとおりです。こう聞くと「これから我慢して、嫌いな人とも仲良くしなければいけないのか。あの人ともこうして……、やはりけんかしてはいけないのだ」というようなことを思いますが、そのようなことを言っているのではないのです。よく読んでいただきたいと思いますが、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。主がわたしたちを愛してくださった。そして主は私たちのうちに宿ってくださっている。今日も私のような者と共にいてくださる。その主の御心を信じて、こんなにまで愛してくださる主の御愛に応えて生きるものとなる。主の御心はどこにあるでしょうか? 神様、あなたが求めていることは何でしょうか? と祈り求め、主に応えて御言葉に従う。そこで初めて「その友のために命を捨てる」ことができる。神様の御言葉に従って、主の御霊の導かれるところに従って、命を捨てることができるなら、これが愛です。ただ、可哀想だからとか、ただ、あの人にはこれまでいろいろ世話になった義理があるから、ひとつこの際やってやろうかと言うのは、愛からではありません。
神の御愛、神様が私たちを愛してくださったことがどのようなことなのか、神様の御愛はどこにあるのかを知りたい。愛は人の好意であるとか、何かする事であるとか、あるいはその感情、言葉であるとか、そのようなものに現れてくるのではなくて、神様の愛はまさに神ご自身を私たちのうちに宿すこと、キリストを主と信じて、その方に自分をささげきっていく。そのとき、神様の御愛と一つになることができる。そのとき、神様は何をどうしたらいいかを教えてくださいます。教えられたところに従ったとき、気がつかないうちに、友のために命を捨てるかもしれない。ただ主を見上げて、主の御愛に感謝して、主の御愛にとどまって、ただ御言葉を信じて、神様の御思いを一生懸命に求めて生きる。そうしたら、人とけんかなんかしている暇がない。言わず語らず、巧まず、私たちは神様の御愛を持ち運んで行くことができる。キリストを現すことが神の御愛を証しすることにほかならない。
イエス様が私を愛してくださった。私のために命を捨ててくださった。これから私も何か犠牲にしなければ、ああ、あれはもったいないと思ったけれども、仕方がない、あれを出すか!なんてそのようなことが愛ではないのですよ。そうではなくて、主が私を愛して、私のために命を捨てて、そして私を潔(きよ)め、あがなって、そして私のうちに宿ってくださった、その主こそが、愛の塊、愛そのものだからそのキリストを私のうちに持っていくことが愛の人ですよ。キリストなくしてただ優しいばかりが愛の人ではない。あるいは財布の口が緩みっ放しの人が愛ではないのですよ。私たちにとって愛は何か? キリストご自身であり、神様ご自身が愛なのです。その御愛を私たちのうちにいただいていくこと。そしてその御愛の中にとどまっていく。これが私たちの愛に生きる生涯です。
もう一度初めのヨハネの第一の手紙3章16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。「いのちを捨てて下さった」と、いのちを何のために捨てたのでしょうか? イエス様が命を捨てられたのは何のためであったのか? 私たちの罪のあがないであり、そしてイエス様は死んで葬られて、三日目によみがえって、今度は私たちのうちに宿ってくださいました。今、神の御霊が、聖霊が私たちのうちにとどまってくださって、神の御愛が私たちのうちに絶えず注がれている。それを私たちは知ったのです。「愛ということを知った」と言いますのは、そこなのです。キリストを私たちのうちにいただいた。よみがえってくださった主が私のうちに宿ってくださった。これが「わたしたちは愛ということを知った」ということです。「愛を知る」と言いますことはそのことです。
「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。だからこそ、その御愛のゆえに、その御愛に根差し、その御愛を基(もとい)とし、その御愛によって生かされていくとき、私たちは「その友のために自分の命を捨てること」だっていとわない。いやもっともっと大きなことを神様は私たちを通して現してくださるに違いない。私たちがなすべきことは何か、と言いますと、それはひたすらに主の御愛にとどまること。神様の御心に、御言葉に根差して、そしてその御言葉を守り行うところに、神の御愛に絶えずとどまることができ、また愛を持つ者となる、キリストをわがうちに宿していく者となるのです。
ですから、私どもは絶えず、絶えずイエス様が私のうちに宿ってくださる、神様が私と共にいてくださる、それは愛が私のうちにあるということなのです。だから、その御愛に応えて、御愛に感謝して、主よ、私は何をすべきでしょうか。主よ、私はこのときどうしたらいいでしょうか?主の御愛に応えて、主が求め給う御心に従うことが愛の業を全うすることです。私たちが神様の御心に従っていくことが、愛を実践していく具体的な歩みです。神様が私たちのうちに宿って、愛を現してくださる。だからこそ、絶えず主の御愛に立ち返ること、そこにとどまることが不可欠です。私たちはどんなことをしてもかまいません。ただ神様の御愛に応えているかどうか。私のうちに宿ってくださる神様の御言葉に信頼し、御心に従っていく。そのとき、愛の人となるのです。自分に愛がないことは百も承知、重々承知しています。だからこそ、主が私のうちに宿って愛の源となってくださるように絶えず求めてください。主が私のうちにいます、神様、あなたは私と共にいらっしゃいますと言うところに、愛があるのです。
どうぞ、日々に主の御愛にとどまって、御愛を確信し、その御愛にうながされるところ、導かれるところに従って、愛の人としての人生、生涯を歩みたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。