いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(43)「世に勝つ者」

2013年11月03日 | 聖書からのメッセージ
エペソ人への手紙3章14節から21節までを朗読。

今朝は、この16節に「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」。

この地上で生きるとき、必ず出会う問題があります。それは、肉体が段々と衰えていくことです。年を取るにつれて、肉体が弱ってくる。頭も記憶力が衰え、目も見え難くなり、耳も遠くなり、膝は痛みがくる。あそこが痛い、ここが痛いと、頼りにしている肉体が衰えてきます。これはどうにも仕方がない、避けようとしても避けることができません。どんなに努力してみても、その力を取り戻す、若返ることはできない。そればかりではなく、生活自体も縮小していきます。今までは、社会でいろいろと活躍していた人も、退職と共に家で生活する様になり、それでも、退職した頃は意気盛んで、これからは第二の人生だとか、夢を描いています。そして社会奉仕に、或いは老人大学に行ってと…、そうやって忙しく、時をすごします。「私は退職したけれども、忙しくてですねぇ」と言って喜んでいるのは、大体、三年から五年ですね。その位すると飽きてきます。会社にいるときはそれなりに報酬がありますから、頑張ってやれる。何も無くてやっていますと、興味を失ってしまいます。それと共に、身体的な条件も衰えて、変化します。意欲をなくしてしまう。シュンと沈み込んでしまう。そこへもってきて、年を取れば思いがけないことが頻発するのです。これは止むを得ません。今日は元気だけれど、このまま死ぬまで元気だという保証は何も無い。これから一日ごとにいろんなことが起こります。しかも、想像しなかったことが起こってくる事を知っておかなければならない。元気な時は、自分の健康があるから大丈夫、或いは、子供たちを育てなければいけないという責任がありますから、それなりに元気が出る。「こんな風邪一つで寝ておれない」と思う。ところが、年をとり、一人暮らしになると、風邪を引いていようと、元気だろうと、たいして変化は無い。「まぁ、寝とこうか」と無気力になってくる。若い頃は、頼りとするものが幾らでもあった。それで自分を励まし、自分を力づけてきたのです。経済力もなくなり、仕事の上の繋がり、友達もなくなってくる。あれもこれも全部が段々消えて行って、心細くなってしまう。そこへドンと、今まで体験しない事柄や事態が起こってくる。すると、心が勢いを失い、力を失くす。これが一番厄介な事です。いつも申し上げる様に、いろんな問題や悩みに遭う時、そのことを解決するには、いろいろな方法があります。一番解決できないのは、自分の心です。

今読みましたこの16節に「内なる人を強くして下さるように」と記されているように、外なる人と内なる人とが人間にはあります。二重人格みたいな話になりますが、どちらかと言うと、そういうところがあります。人に対しての自分、外側の見えるところでの自分と、見えない隠れた孤独な、一人だけ密かな自分の心の内側、人に見えない、人に知られない、誰にも分からない内側に、もう一つ違う自分がいる。

家でくつろいで、「はぁ、今日は暑いから…」と、ダラッとしている。そうすると、「ピンポーン」と玄関チャイムが鳴って、今日は誰も来ない筈だが、もう面倒くさいなと思って、「はい、どなた!」と普段と違う声を出す。「何の何某です」、「あら、あなたですか」と、ケロッと口調が変わる。これは、外なる人と、内なる人です。一瞬にしてにこやかな顔になる。だから家族はびっくりします。ブスーッとブスくれた顔をしている人が、電話が掛かる。自分の親しい人から掛かると、途端に「あら、懐かしいわね!」ケラケラと笑い始める。あの人はどうなっているのかしらと…。外側と内側とが私たちにはあるのです。

外側の人っていうのは、人が外に向かっての自分の社会的な地位であるとか、自分の人生での役割であるとか、そういうものです。一方、何処にも痛い所も痒い所もなくて、体が健康な時、にこやかにしているが、どこか弱ってくると、シュンとなって、眉間に皺を寄せてしまう自分は内なる人です。外なる人というのは、生活を支えていく、日常生活の基盤と考えたらいいと思います。経済的な力を、或いは家族という人の繋がりの力、或いは自分の健康という力、そういういろんな力で、外なる人は立っている。ところが、コリント人への第二の手紙に「外なる人は滅ぶれども」とあります。私たちの外側は、どんどんと衰えていき、失われていきます。

肝心なのは、内なる人です。自分の心が弱ってくる。これはいつも体験する事でもあります。外側がどんなに頑丈で、条件が整っていても、内なる人が弱っている時には、どうにもしようがない。あの人は家族円満だし、経済的にも不自由はないし、社会的にも地位や名誉もあるし、家柄もいいし、あの人はこの世にあって勝利者だ、強い人だと見られても、果たしてそうなのか。その人の心を探ってみると、いつも不安があり、恐れがあり、力がない、生きる喜びが無い。そういう状態になっていたら、これはどうにもしようがない。内なる人を強くするというのは難しい。

今も相撲があっていますが、体格がよくて力の強い、どんな人でも投げ飛ばしそうな風貌をしている。外見的には申し分のない人がが、自分よりも小柄な力士にコロッと負ける。きっと勝つに違いないと思う力士が負ける。あそこまで優勢に押して行ったのに、どんでん返しで負けてしまう。そういう時に、解説者がよく「惜しいですね。彼はちょっと精神力がですねぇ…。せっかくいい身体をして体力もあるし、技もあるのだけれど、最後のところでどうしても押しが効かない、何か弱いですね」と嘆きます。「弱い」というその時の「弱い」は何を言っているかというと、内なる人が弱いのです。

では、内なる人を強くするにはどうすればいいのか。練習を人より多くして、肉体を鍛えることで、ある程度強くなる。最近、介護保険の改正が行われて、嘗て要支援というレベルにあった人たちが、これからは自立支援に変わったそうです。聞いてみると内容は全く同じで、ただ呼び方が変わったという。ただし、新しいことが起こった。何かというと、筋力トレーニングとか、外なる人を強くして、自分で生活できる様に支援していこうという。よく聞いて見ると、今までは、一から十まで何もかもヘルパーさんが引き受けてやっていた。ところがこれからは、もう少し訓練してあげるために行く。足腰が弱っている人を、できるだけ強くしてやる。体操教室に連れて行ったり、これから市が作るそういうプログラムに参加させたりする。大変ですよ、これからは。ヘルパーさんに頼んで、私は左団扇とはならない。あなたも動きなさい、元気を出しなさいと言って、励まそうというプログラムができる。それによって、身体的能力が増進するかも知れません。しかし、幾ら外側を鍛えても、もう間に合わない年になっているのですから、そんなことをしたって、私たちの必要なものが満たされるとは限りません。問題は、肝心なのは、内なる人がどういう状態にあるかという事です。外側のいろいろな条件は、どんなにでもすることができます。体が動かなくなったら、介護者が助けてくれるでしょう、或いは病気になったら、入院して治療を受ければいいでしょう。或いは遺産相続の問題があったら、法律的に処置をすれば、きちっと整理がつくことです。ところが、大切なのは、そういう問題に当たった時の自分の心なのです。「これは大変な事になったなぁ」とシュンとなって、頭の中が真っ白になり、「私はどうしたらいいのだろうか」と、心が萎えて行く。

大きな問題や思いがけない事態に当たった時、問題や悩みは、外側の条件が整ったら解決するとは言えません。どんな条件であっても、どんな事柄の中に置かれても、いつも力強く、この命を生きる者となることです。私たちは、いろんな事に当たると直ぐに心が萎える。魂が衰える。それを世間の人は精神力とか言いますが、神様の力があって、初めて心を、内なる人を強くすることができるのです。内なる人を強くしていくには、筋肉トレーニングをしたり、何か運動をしたりして身体を鍛えるという事とは違います。よくスポーツ選手なんか、精神力を鍛えるために、厳しい訓練をして、困難にジーッと我慢して耐える。そうすれば強くなれると言いますが、必ずしもそんなことで人の精神力は育ちません。そうやって厳しい訓練を、何時間もハードトレーニングを積んで、ヘトヘトになっても、尚頑張れとやっても、内なる人が強くなるわけではありません。一生懸命に鍛えてオリンピックに出る程の実力者であっても、自分の得意なマラソンであるとか、何かに競技については、粘り強く忍耐強く、しかも動じないで、困難を克服して行く力がありますが、生活の問題や事件が起こると、生きる力を失います。有名なスポーツ選手、世界的なレベルの選手でも、引退した後にがたがたっと生活が崩れていく場合があります。嘗て、オリンピックで優勝した人が、その後自殺したことがありました。どんなに人間が精神力を鍛えようとしてもできません。と言うのは、人の内なる人を強くしていく秘訣は、ただ神様による以外にないのです。創世記にあるように、人が創られた時に、神様の命の息を吹き入れられて、人は生きる者となったのです。神様の力に満たされることが何よりも大切です。

14節以下に「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15 天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」。これは祈りです。全てのものの根源である神様に祈るというのです。何を祈ったかというと、この16節から19節の終わりまでです。その祈りの中心は、16節に「内なる人を強くして下さるように」とあります。これは、エペソの教会に人々に、パウロがあなた方のために祈っている。その祈りは、あなた方が経済的に恵まれる様に、或いはこの地上で悩みがなくなる様に、家内安全無事息災、全てのものが順調に行くようにと祈ったのではないのです。「御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と祈っている。これはまた、私たちの祈りでもあります。内なる人が弱る時、外側からどうにも手が出ないのです。最近一番よく耳にする病気があります。うつ病です。鬱(うつ)に掛かってしまった場合は、なかなか厄介です。うつ病は「心が風邪を引いたようなもので、それは直ぐに治るものですよ」とよく言われます。確かにそういうケースもあります。しかし、年を取って「鬱」に掛かると、治りが悪い。私の知人がこの病気になって、かれこれ一年以上になる。家族はヘトヘトになっています。病院に掛かってもいます。薬を飲んで調子がいいかなと思ったら、また悪くなったり、もう上がったり下がったりして定まりません。何かきっかけになる出来事があったのかと思いましたが、それらしいこともなく、積年の心の疲労がでたのでしょう。人の心というのは、脆(もろ)いものです。

痛い所は痛み止めをしたり、また湿布を貼り付けたり、外側はいろいろと修復して頑張るのですが、内側について、あまり自覚していない。自分の内なる人は今これで大丈夫なのかと、いつも点検して、内なる人が強くなるにはどうしたらいいか。それはただ祈って神様に求める以外にないのです。今読みました16節に「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」、神様、どうぞ、栄光の富に従い、神様の内にある、神様が持っていらっしゃる全ての豊かな力によって、御霊が内なる人に力を与えて、強くして下さること、これが力を得る秘訣です。内なる人は、自分ではどうにもならない、力のない者であることを認め、弱い者であることを知る。だから、強がらないことが大切です。「そんなこと、私は大丈夫!」と、つい偉そうに強がろうとする。強がるのは、強いからではない。弱い人が強そうに自分を見せるから、強がるという言葉を使う。実は強くないのです。自分は弱い事を認めなければならない。私たちはなかなか自分が弱い者である、内なる人が弱い者であるのを、どうしても認めたくない。そこに、別の意味の人の強さ、強情があると思います。頑固という強さがある。それでいて、弱いのだけれども、強がって自分は弱い者であることを認めないから、神様の力を受けることができない。

イザヤ書57章14,15節を朗読。

この15節に「とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる」、これは誰のことかと言うと、取りも直さず神様のことです。神様が、御自分が「いと高く、いと上なる者。とこしえに永遠から永遠に生き給う御方」その方が「わたしは高く、聖なる所に住み」と。これは当然ですね。神様は人よりも遥か高い所、清い所、聖なる所に住み給う方。しかし、また同時に、その後に「心砕けて、へりくだる者と共に住み」、心砕けて、へりくだる者とは、神様の前に「私はどうにもならない弱い者で、あなたの力がなければ、立つことができません」とへりくだって、素直に自分を認める心、それが砕かれた心、砕けた心です。なにも人様の前に自己を卑下する、自分を悪く見せたり、自分を極端に卑しいものであるかのように言い募ることではありません。「心砕ける」というのは、ありのままの自分を素直に認める。神様の前に、素直に、「心へりくだって」、主の前に出て行く。そうすると「その者とともに住む」と言われる。神様が私たちの内に宿って、「霊をいかし、心をいかす」。言い換えると、私たちを強くして下さる。神様が私たちの内に宿って下さって、内側から強くして下さる。だから、先ず神様に近づいて、呼び求めることが、内なる人を強くする第一条件です。またこれが全てでもあります。

へりくだって主を呼び求める時に、神様が私たちの内に宿ってくださいます。私たちの霊を生かして、強くして下さる。神様の力によって、支えられている自分であることを認める。今、目の前にいろんな問題があり、悩みがあり、困難があって、「どうしようか、私はそんなこと、できないわ」と怖気づいて、心が萎えてしまう時、どうぞもう一度、神様に近づくのです。心へりくだった者となり、主を呼び求めて、「主よ、どうぞ憐れんでください。こんな私です」と、弱い自分を認めて、主を求めていくならば、ここにあるように「へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす」と。その時、神様が、私たちに、力を与えてくださるのです。

ですからもう一つイザヤ書の40章27節から31節までを朗読。

この29節に「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」。神様が、私たちに力を与え、強さを与えて下さる。私たちの内なる人が強くなっていく。神様が砕けた心に、へりくだった心に宿って下さって、力を与え、魂を生き返らせて下さる。どんな境遇、どんな事柄に置かれても、そこで泰然自若と言いますか、動じないで、その事柄の中に喜んで自分の身を置いていることができる。「どうしようか、こうなったらどうしようか」と、そんなことを思い煩う必要がなくなる。内なる人が強くあれば、どんな境遇に置かれても、そこで生きる命と力が与えられるのです。その秘訣は、神様の所へ行って、甦ったイエス様の力を内にいただくことです。

もう一つ、最後に開いておきたいと思います。ヨハネの第一の手紙5章1節から5節までを朗読。

この5節に「世に勝つ者はだれか」とあります。世に打ち勝つというのは、この世にあって何か大事業をしたり、歴史に名を残す様な偉業を成し遂げたりすることではありません。世に勝つというのは、内なる人が強く、どんな境遇事柄に逢っても、それで動じない、揺るがされないで、大胆に力強く生きていく、喜びと命と輝きに満ちた生涯を全うすることに他なりません。私達は有るか無いか分からない小さな存在です。しかし、私たちが、その生涯を通してキリストの命を受けるのです。今そこで読みました様に、4節に「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである」。そして神から生まれた者は誰かと言うと「イエスをキリストと信じる者」、これが神から生まれた者なのです。イエス様を救い主と信じて、罪の贖いとなって下さったイエス様を信じて、神様に近づいていく。神様の前に隔てを取り除いて下さったイエス様の恵みによって、心を低くして、砕けた心になって神様を呼び求めて行く時に、私たちの内に世に勝つ力を与えて下さいます。

私たちの外側がどんどん滅びる、崩れていく、思いもかけない状況や事柄の中におかれる。「世に勝つ」とは、それでも揺るがない命と力に溢れて、生きる生涯のことです。5節に「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」。イエス様を神様から遣わされた救い主と信じて、心を低くし、自分の弱さを素直に認めて、イエス様にすがっていく。これが私たちの力です。私たちの強さは、外側が強くなり、自分が強くなることではない。弱いなら弱いままで、神様が強い力となって、私たちに宿って下されば、弱い器である私たちは強くなることができる。強く生きることができる。神様が霊を注いで強くしてくださるなら、神様はいらなくなるのではありません。私たちはあくまでも弱い者です。その弱い土の器の中にキリストの命を握っていく時、私たちの内に力となって支え、持ち運び、どんな境遇事柄の中にあっても揺るがない者へと変えて下さるのです。

以前、津屋崎で夏にはキャンプをしたことがあります。あそこに「聖愛ホーム」という老人の施設がありました。今はもう無くなりましたが、そこに柴田シカさんと言う一人の姉妹がいました。柴田姉は福岡の伝道館時代に、結婚して暫くしてイエス様に救われました。それからズーッとイエス様を信じて、真に素晴しい力に満ちた生涯を歩んできました。晩年は娘さんたちがいましたが、同居するのを断わって、独りで最後までホームにいました。体が弱って、とうとう津屋崎病院に入院しておられました。何度か私もお見舞いに行きました。6人部屋か8人部屋でしたが、そこにいる方々はみな寝たきりの状態でした。喋ることもなく静かで、真ん中のベッドに柴田姉が寝ていました。小柄な方ですし、90歳を越えていたので、小さくなって、目は白内障で見えなくなって、耳は遠くなって殆んど聞えない状態でした。入れ歯は外されていますから、唇はしぼんでいる。オムツを当てられての生活。自分で動けない状態です。ところが、姉の顔は輝いている。私どもがまいりまして、声をかけると、ほとんど見えないのですが、顔を向けて喜ぶ。あまりお話はできませんから、「聖書を読みますね」と、耳元で詩篇23編「主は私の牧者であって…」と読みますと、唇が動くのです。声は出ませんが、唇だけは動きます。全篇暗記している。読んでいる内に顔が段々とピンク色に変わる。読み終わって、お祈りをして、姉の愛唱歌513番を大声で歌う。「天に宝積める者は、げにも幸なるかな」と。そうするとやっぱり姉も歌うのです。声は出ませんが、喜んで喜んで歌っていました。歌い終ってふと唇を見るとまだ歌っている。「柴田さん、讃美歌が聞こえますか」。まだ聞えている、讃美歌が聞こえている。そして手をスーッと上に上げて、寝たままで、顔の辺りで十字架の形に手をうごかす。私は今でも思い出すのですが、本当に大きな力ですね。寝たきりで、悔やまなければならない状況です。しかし、そんな事はどうでもいい、ただイエス様の力に握られている。その喜びを得ている。私はこれが人生の勝利者だと思いました。5節「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」と。これが私たちの力です。私は、神様の力に生かされるとはこの事かと目の当たりに見せられました。その部屋には、他に同じように寝た切りの人がいますが、みんな暗い顔してシーンと静まり、命が消えそうになっている。柴田姉のベッドを見ると、その辺りが何か明るい。内なる人を強くする力に満たされるのだとはっきりと教えられました。

初めに戻りますけれど、エペソ人への手紙3章16節に「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」。私どもも、この祈りを絶えず祈って行こうではありませんか。また、主の力を求めて、へりくだって心砕けた者となり、キリストの命に支えられて生きようではありませんか。パウロもそうです。途方に遭っても窮しない、行き詰まっても倒れない、どんなことがあっても、私は勝つことができる。どんな境遇にあっても、わたしは足ることを知っていると語っています。今、神様は私たちにその力を注ごうとして下さっている。主が、私たちの内に宿って、力を与えて内なる人を強くし、外なる人が滅びて、どんな境遇に置かれても、平安でいることができる。神様の力を体験して喜ぶ者となりたいと思います。私たちはそのために召されたのです。神様の素晴しい力をいただいて、どんなことにも動じない、負けない、揺るがされないで、ただイエス様の十字架を仰いで、主の命に日々満たされていきましょう。自分の弱さを認めて、謙遜にへりくだって、砕けた心となり、先ずみことばに立って、主を呼び求めて、主の力をいただいて、生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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