いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(44)「渇きを癒すもの」

2013年11月04日 | 聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書7章37節から44節までを朗読。

37,38節に「『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』」。

37節の初めには、「祭の終りの大事な日」と記されています。この祭は、7章2節に「ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた」と記されている祭でした。これは収穫祭であったわけですけれど、お祭というと大抵、宵祭、それから本祭とその後の日と最低3日くらい…。博多の祇園山笠なんかは、2週間くらい続きます。仮庵の祭は一週間続いたようです。中でも、お神輿が巡行する日など、祭には一番大切な日というのがあります。これはイエス様のユダヤの時代も同じでした。祭には多くの人々が各地からやって来ますが、一番の賑わいは勿論この大切な日でした。

イエス様は、多くの人が集まっている所にまいりまして、「立って、叫んで言われた」とあります。大声で多くの人々に呼びかけたのです。道に立って、行き交う人に語りかけたのです。イエス様の語られた事を要約したのが、この言葉、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」です。祭に沢山の人がやって来ますが、祭の意味と言いますか、そういうものを深く考えて、それに賛同して、心をそれに合わせて集まる人は少なかったのだと思います。社会の習慣として、祭を祭るということで、自分たちの生活の豊かさを受けたいと思っていました。

祭の始まりには、大きな意味があったと思います。「仮庵の祭」もそうです。これはイスラエルの民が、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入って初めて収穫をした時に、神様に喜び感謝することから始まったのではないかと思います。エジプトでの奴隷の生涯から救い出されて、荒野の旅を経て、約束の地カナンにて平安を得ました。荒野の苦難を偲び、木々の枝で組んだ仮設の小屋に住んで、神様の恵みに感謝して喜ぶという深い深い思いがあったのです。それはただ単に収穫を喜ぶだけでなく、罪から贖われて、神様の民とされたことを喜ぶことでもありました。ところが、年月が経って、何十年、何百年とその習慣が続いてくると、いわゆる社会のしきたり、それをしないと何か心が寂しい、そういう行事に変わってしまう。私たちの生活の中でも、そういうものがあります。毎年、これはすることに決まっている。それをなぜするのかという、その動機をみていくと、そうしないと何かが欠けたように思える、何か不足したように思える。

博多の町ですと、どんたくや、山笠とか、放生会とか、年間を通してそういう行事が入っている。それを守っていると自分が生きていると言いますか、それなりに意味のある生活をしている様に感じるのです。皆さんもご存知のように、博多山笠は伝統的な行事ですから、2週間から3週間、実質的には半年くらい掛けて準備をするのでしょうが、愈々本番に近づいた頃になると、町内のみんなが炊き出しをしたり、毎日集まって飲み食いをしたり、また山を担いで走るのです。わざわざ重たいものを、そこに人まで乗せて走るわけですから、考えてみたら、おかしなことです。アメリカから友人の子供が来まして、日本の文化を見せようと思って、山笠を見せに行きました。丁度、その時期でした。男の人はみんなお尻を丸出しでしょう、その子たちは女の子ですから「恥ずかしい」、見ておれないと言いながら、笑っていいましたが、考えてみたら、あんな事を普段はできないですよ。だから、そういう装束をすることで、自分の普段の何か欠けたものを満たしている。封建時代は、祭をする事で、定期的に人間の欲求不満を発散させる社会的な役割もあったと言われています。その時だけは無礼講で、何をしても許される。普段しないようなことをする。確かにそうだと思いますね。祭という仕組みの中に自分を置くことで、社会にある一種の欲求不満のはけ口になりました。イエス様の時代の祭もそうなのです。それをしないと、自分の生活がどこか中途半端で、欠けた思いがする。だから一生懸命に大切にしようとするのです。その動機は、自分の心にある虚しさ、不満と言いますか、現実の生活に対するどうにも言い様のない、やり場のない思いを、そういう祭りの中で消化させる。取り敢えず忘れさせてしまう。ですから、多くの人は集まってくるけれども、その心は満たされていないのです。ただ、一時的に祭りの中で自分を発散して、或いはしきたりを熱心に守って行うことで自己満足をしている。或いはそこで初めて自分の生きている意味を確認する。或いは生き甲斐を見出すという作用があったと思います。

そういう姿をイエス様がご覧になって、37節に「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と言われた。祭に集まって、いろいろな行事が行われたに違いない。しかし、イエス様はその集まってくる人たちの心に、実は何かかわいたものがある、欠けていることを見ていたのです。その欠けたものは、「かわく者」という言葉で示されています。暑い時には喉が渇き、水を飲みたいと思います。けれども、私たちの人生で「かわく」とは、どういう現象なのでしょうか。それは、自分の生きていることに喜びを見出せない。或いは何か虚しさを感じている。どうも自分が生きている事に確かな手応え、そういうものを感じられないで日々を過ごしている。毎日、朝から晩まで家事をしたり、家族の世話をしたりしているけれども、どうも自分のしていることはこれでいいのだろうか、もっと他にするべきことがあるのではないかという不満、そういうものを心に抱いている状態。それが高じて、かわきが愈々干からびてくると、もっと酷くなって、生きる意欲を失う事になります。

梅雨の終わりになって雨が一気に降り、洪水が心配されましたが、長いこと雨が降らない時期がありました。日照りの時期が続きました。近くの大濠公園を散歩しますが、乾いて地面がひび割れたようになって、花壇がカラカラになり、植えているものが萎れていく。春先に移植された立派な木がありました。台風で倒れた木のあとに、2mか2m50㎝くらいの枝の張った木を植栽したのです。誰も水をかける人がいないので、その木が弱ってくるのを、毎日散歩しながら見ていてハラハラ…。誰も水をかけてくれる者が居ない。大きな水瓶の傍にありながら、木が枯れていく。どうにも仕様がないから、ただ見ているだけだったのです。とうとうその木は枯れてしまいました。あとで雨が降りまして、一斉に木々が命を吹き返しましたが、数本の木は完全に赤茶けて葉っぱが緑を回復できなかった。乾き切ってしまうと、枯れて、萎れて死んでしまいますね。

私たちの内なる魂も、そうなのです。自分の生活に喜びが無い。生きている手応えを感じられない、喜びを見出せない。また、常にこんなことをしていていいのだろうか、こんな自分じゃない、私はこんなはずじゃなかったという不満が、いつも心にある状態、これはかわいている状態です。何かが欠けている、空虚な思いを持つ、これがかわいた状態です。愈々干からびてくると、生きる屍同然になってくる。最近、若い人々の中には、既にそういう状態に陥ってしまう人が多いのです。無気力症、不登校であるとか、いろいろな家庭の問題のために引きこもりになったり、意欲を失い、生きる力がない。私の知人が私塾を開いていますが、その塾は、そういう生きる力を失った子供たちに、もう一度新しく生まれ変る、もう一度再誕生させるという塾をしています。毎月、機関紙を送ってくれますが、私も教えられること、参考になることが沢山あります。彼の所に親御さんが子供を連れてきます。親は元気一杯だけれども、その傍について来る子供は顔一つ上げきらない。話しかけもできない状態。その状態を彼は「命の火が消えかかっている」と言っています。確かに、命の火がトロトロッとして今にも消えようとしている。生きていないわけじゃない、ちゃんと五体満足で健康なのだけれども、意欲がない。そういう子供たちを預かって、寮に入れて、指導しながら、大学入学の資格検定を受けさせるところまで学力もつけさせる。そして生きる目的を見出す作業をさせるのです。いろいろな現代の状況を見ていますと、ますます若い人たちは、生きる力を失っている。それをどうやって取り戻そうかといろいろ試行錯誤しているのです。人間的な方法で、ある程度可能な事も沢山あると思います。

しかし、最終的には心の問題ですね。今読みました37節に「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。先ずかわいている人は、そのかわきを止めるのにはどうするか、潤されて、そして命に与る道は何処にあるか。それは「わたしの所に来て飲め」と仰います。イエス様の所に来なさいと言うのです。で、イエス様の所に来て飲むというのは、38節に「わたしを信じる者」とあります。イエス様を信じるとは、また漠然として分かり難いのですが、はっきり言うと、聖書を信じることです。聖書の御言葉を信じていくこと、これがイエス様を信じることです。聖書の御言葉の一つでも二つでも信じて、神様に自分を委ねることです。明け渡してしまう時に、魂の中に命が満ちてくるのです。

いろんなことで意気消沈して、生きる望みを失い、もう死んだ方がましと思うような、そういうかわいた思いの中で、命を与えてくれるものは、祭りをしたり、いろいろな社会の行事に参加したりすることで、元気づくわけではありません。それによって一時的に心は上向くかもしれせんが、またシュンとなるのです。言うならば、行事追っかけ症候群と言うのです。常に何か、イベントをやらないともてない、生きていられない。そういう性質になってしまう。けれども、最終的に一番の問題点は、心に命が注がれることです。かわいてしまうのは、真の活ける水から切り離されているからです。

エレミヤ書17章5節から8節までを朗読。

5節から8節までに二つのことが記されています。一つは「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人」、言い換えますと、神様を信じようとしない、神様により頼もうとしない、そして自分の力と人間の業で生きようとする人、そういう人は「のろわれる」とあります。厳しいことですね。「のろわれる」という言葉は非常にきつい感じがします。しかし、事実その通りです。と言うのは、そういう人は命が消えるからです。6節に「彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる」。そこからは何一つ、潤いを見出すことができない。命に繋がるものがない。命がなくなってしまう、命の火が消えかかっている。と言って肉体がどこか悪いわけじゃない。ただ生きる力がなくなっているのです。

それに対して、7節に「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」。神様を頼みとする人は、さいわいである。何故かと言うと、8節に「彼は水のほとりに植えた木のようで」、確かに水のほとりに植えられた木というのは、「暑さにあっても恐れることはない」、「ひでりの年にも憂えることなく」とあります。どんなに雨が降らなくても、乾き切った所であっても、水の流れのほとり、水辺に植えられた木は、決してかれることはありません。先ほどもお話した大濠公園の木もそうです。池の周囲に植わっている柳の木は決して枯れないのです。水の傍に植わっていますから、深く根を伸ばして恐らく池の水を絶えず受けている。そこから10mくらい横に離れた木は、残念ながら水から切れちゃうのです。この8節に「彼は水のほとりに植えた木のようで」、主を頼みとすること、主に頼ること、神様に自分を委ね切っていく時、そこに初めて命の水が湧いてくる。命に繋がることができる。

それは人間というものが、そもそもそういう風に造られたからです。創世記の一番最初に、人が造られた時のことが記されていますが、皆さんもご存知の通りであります。神様が土のちりをもって、人の形を造って下さった。しかも、尊い神様の形に似た者として、人を造って下さったと記されています。しかし、それだけでなくて、もう一つ、その鼻から命の息を吹きいれられて、人は生きる者となったというのです。神様から命の息を吹き入れられる、言い換えますと、神様から命の水を注がれ、それによって人は初めて生きる命、力に溢れてくるのです。これが私たち人間の生きる力です。ところが今読みました5節に「心が主を離れる」、言い換えると、命の供給、命の源であるこの水の流れから、遠くへ切り離されてしまう。その状態になると、のろわれてしまう。神様があえてのろうのではない。水の源があるのに、川のほとりから離れて、川のないところへ移って行ったら、おのずから、それだけで命が絶たれてしまう。

ここの5節「その心が主を離れている人は、のろわれる」と言うと、神様が私たちに酷いことをしそうに感じますが、決して神様がのろおうとしているのではない。私たちに選択の権利を与えているのです。命を受ける場所があるのに、それをあえて自分から離れて行く結果、のろわれた様な状態になるのは、神様があえてのろっているのではなく、私たちがそれを選び取っているだけのことなのです。神様は、「そこに行ったら命がないよ」と警告しているのに、人がそちらへ行ったのです。命の源である流れのほとりに留まっていればいいのです。そして神様からの命を絶えず受ける者となりさえすれば、別に神様がのろった状態なんて有り得ない。ただ、神様は「私から離れては駄目だよ」と仰る。

エデンの園で、神様は「この中央にある知恵の木の実を食べてはならない」と言われた。ところが、人はそれを食べることによって、神様から離れて行ったのです。だから、のろわれると言われると、「神様がそんな悪いことを、私は何もしていないのに、私だけのろわれるのですか」と言われる。そうじゃなくて、私たちの方が、勝手に命から遠ざかってしまったから、死んだ者となってしまうのです。7節以下にある様に「主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。8 彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない」。どんな悩みが来ようと、困難が来ようと、苦しいことがあっても、「ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」と言うのです。こういう生涯に、こういう恵みと祝福に満ちた生涯に、生きる者として下さるのが神様です。いつでもその命に帰ってきなさいと、神様は絶えず手を広げて待っている、呼び掛けているのです。

心が寂しくなって、朝起きても気分が晴れない。何かやる気がない。それでいて、自分独りが悲劇の主人公、ヒロインになって「私だけが可哀想な…」と、自己憐憫に陥って、周囲を見ると楽しそうな人たちがいる。あんな人にちょっと意地悪でも言ってやろうかと、言わんでもよいことを言って、また争いの種を撒き散らす。そしたらまた、「あの人がいけない、この人が…」と、どんどんと落ち込んでいく。そういう時、私たちは、命の泉のほとりから遠ざかっているのです。私たちをもう一度立ち返らせるために、詩篇23篇にあるように、「主はわたしの牧者であって」と仰る。「いこいのみぎわに伴われる」と、イエス様が私たちを命の水に導いて下さるのです。

だからもう一度初めのヨハネの福音書7章37節に「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。わたしのところにきて飲みなさいと、「わたしのところ」と言うのは、神様の臨在、聖書の御言葉に立ち返ってという意味です。私たちが神様の臨在に近づいてくること、神様の霊に満たされること、これがキリストを飲む、イエス様を飲むことです。飲むというのですから、それを眺めるのではありません。ちゃんと飲み込んで体の中に入れてしまうのです。私たちが御言葉に、イエス様の手に自分の一切を委ねることです、飲むというのは、御言葉を信じて、その御言葉に自分を賭けることです。これが恵みに与り、命に繋がるための秘訣です。ですから「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。38 わたしを信じる者」と、もう一度言い換えられています。私に来て飲むことは、イエス様を信じ、御言葉を心に置いて、神様との交わりを回復していくことです。ですから、心に力を失って、干からびて生きる喜びがない。何をしても虚しい、何かやる気が起こらない。一つ踏ん張って、「こんなことをしているわけにはいかん、頑張ろう」と、幾ら頑張っても仕方がない。そういうときは静まって神様の前に出ることです。主の臨在を求めること、神様の御言葉を深く味わって、自分の思いを主に打ち明けるのです。

詩篇63篇1節から8節までを朗読。

この1節に「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」とあります。これは表題に「ユダの野にあった時のダビデの歌」とあります。ダビデが、エルサレムを追われて、ユダの荒野に彷徨っておった時代。彼は神殿に出かけて、神様を礼拝する時がなかったのです。勿論、信仰を失ったわけではありません。神様を信頼していたのですが、神様の臨在に近づくことが乏しかったので、心が萎えていったのです。自分の置かれた境遇を思う時に、一体どうしてこんなになったのだろうか、いつまでこんなことをしなければならないのだろうかと、恐らくダビデは自分の身の不幸を嘆いていたと思います。神様を前に置いて、神様と親しい交わりの中にいる時は、どんな境遇に置かれても、生きる喜びに満ちていた彼です。しかし、臨在を遠く離れて、神様の御許から離れて、何の潤いもない、楽しみもない、荒野の放浪の生活を送っていた時に、彼は心がかわいてきた。その叫びがこの1節にあります。「水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」。心は神様を求めている。どうしても臨在に近づかなければ魂に力が与えられない。

これは私たちも日々に感じることです。元気で礼拝に出て来ることができ、こうやって木曜会や他の集会に出て、神様の臨在に触れることは、大きな恵みであり力です。しかし、肉体的な病気のために、或いはいろいろな事情のためにどうしても集会に出られなくなる。1ヶ月2ヶ月3ヶ月、集会を離れていると、別に神様を忘れたわけではないけれど、心に命が消え始める。その時、私たちはもう一度、主の臨在に近づくと神様の力に満たされるです。5節6節に「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって、もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって、あなたをほめたたえる」。ダビデは夜眠れないままに、御言葉を通して神様を思う。そして深く主の恵みと御愛を味わっているうちに、喜びが満ち溢れてくる。これは聖霊による喜びです。神様の霊が、彼の心を潤してくる。そして「こんな者を顧みて下さる主がいらっしゃる」と、主の恵み深きことを味わって、心が喜びに変わります。これは私たちも今、体験することができる神様の大きな恵みです。

もう一度最後にヨハネによる福音書7章37節以下に「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり」、ちゃんと約束されたとおりにと、言うのです。「その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。命の欠けていた、乏しくなって枯れ果てた、干からびた私たちに、神様は命を注いで下さって、生き返らせて下さるばかりではなく、私たちの内から、今度はその命が流れ出ていくような者と変えて下さる。これは私たちに約束された事です。ただ自分だけが神様の恵みに満たされて、命に溢れて、楽しみ喜び、主をほめたたえ、感謝賛美するだけではなくて、私たちに触れる者たちも、命に輝く者となるのです。エゼキエル書を読みますと、干からびた骨に神様の霊が宿った時に、骨ばかりの骸骨が、見る見るうちに肉が付き、血が通い、そして生ける人となっていく幻が描かれています。これは神様が私たちに、命を与えて下さる、主の霊が私たちに臨んだ時に、乾き切った、干からびた骨が命に生きる者と変わっていくからです。

ここにありますように、「その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と、39節に「これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」とあります。イエス様を信じると、神様から約束の聖霊が、神の霊が私たちの内に宿って下さる。自分に元気がない、意気消沈して生きる喜びがない、生き甲斐がない、そういうときは、もう一度静まって、神様を求めて、主の臨在に近づき、主と交わりを持つことが大切です。そこで心を潤されて、神様の恵みと御愛を素直に喜び感謝することができるようになると、死んでいた体と魂が生き返って、命に溢れて、その命は他のものをも生き返らせることができるのです。

イスラエルの民がエジプトを出て、荒野の旅路をしていた時に、水がなかった。渇ききっておりました。それで、荒野の旅ですから、近くに川があるわけでもなく、泉があるわけでもない。確かに何十万という人々を賄うだけの水を得ることができなかった。その時、神様はモーセに命じて民を集めて、「岩を叩きなさい」と言われた。叩いたら、岩から水が出たのです。岩から水が出るというのは私たちの姿です。岩は、ご存知の様に、幾ら絞ってみても、どれほどの水も出ません。カチカチですよ。岩の様に硬く硬くなっている私たちの心から、神様は水を流れ出させて下さる。その秘訣はただ一つです。37節に「わたしのところにきて飲むがよい。38 わたしを信じる者は」とありますね。イエス様の所に来て飲む。聖書の御言葉を素直に信じて、御言葉に自分の感情や、思いを委ねてしまうのです。ところが、それがなかなか難しい。聖書の御言葉を聞きながらも、どうしても従えない自分に苦しみます。そこを主の十字架を見上げて、十字架に己を捨てて、死んだ者となりきって、神様に自分を明け渡していく時に、主の霊が注がれる。あの岩から水が出るように、私たちから活ける水が川となって流れ出るのです。

ここに、「かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と。他へ行っては駄目ですよ。ちょっと映画でも見てこようかと、温泉にでも行って来たら気分が変わるかもしれないと、そんなことをしても、かわきは癒されません。かわいた心で悲劇の映画を見て御覧なさい。ますます落ち込みますから、あまり役に立ちません。喜劇を見ていても、心がかわいていたら面白いこともなんともない。みんな周囲が笑っていたら腹が立つ。温泉に行って、楽しめるのは、心が潤っている時ですよ。だから、そんな所に行く前に、先ず神様の前に近づいて、命に心が満ち溢れて、温泉に行って御覧なさい。楽しい時が過ごせます。私どもは、順序を間違えるのです。先ず私たちは、「わたしのところにきて飲みなさい」と仰るイエス様の所に来て、命の水を戴くことです。これが私たちの全てですから。そうすれば、後のことも、何をしても楽しくなるし、どんなことでも喜びに変わります。もしかわいているなら、先ず主を求めて、御言葉に含まれている命を、汲み取る者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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