創世記3章8節から13節までを朗読。
9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。
この記事は、アダムとエバ、神様に造られた初めての人とその妻について語られています。この二人は神様によって造られてエデンの園に置かれました。エデンの園は、神様が彼らを養い楽しませ、恵みにあずかる場所として設けてくださったところです。エデンの園と言うと、すぐ楽園、パラダイスと考えます。パラダイスと言われると、ついどのような所かな? 「常夏の国・ハワイ」という旅行会社のパンフレットのような連想が続きますが、決してそのような安楽で、レジャーを楽しむところではありません。
神様が共にいてくださって、恵みにあずかる。自分の力や知恵や計画、業によるのではなくて、神様から一方的に恵まれる喜び、その中に生きる。これがパラダイスであり、エデンの園の生涯なのです。エデンの園にいたら、生活の苦しみがないに違いない。確かにそうだと思います。だからといって、年がら年中遊んで暮らしたのではありません。神様は彼らに労働を与えられたのです。土を耕すことを命じられた、とあります。エデンの園を管理することです。神様の恵みの中にいるときは、何をしても大きな喜びです。たとえそれが労働であっても。自分のしたいこと、自分の好きなことをしているとき、どうでしょうか。疲れを覚えません。時間がたつのを忘れます。うれしいからです。ところが、それがないといつも不満、疲れを覚える。「どうしてだろうか?なかなか時間がたたない」。そのような苦しい思いをします。ところが、エデンの生活は、神様と共にある生活、まさに喜びの生活です。何をしても感謝がわいてくる。何をしてもうれしい。これが神様と共にあるエデンの生活です。だから、たとえ土を耕す労働にしても、喜びになるのです。
昔、私が子供のころ一人の兄弟が教会に来ていました。彼は八幡製鉄所に勤めていました。製鉄所に勤めていますからその当時としては高給取りだったのです。しかし、飲み代や遊ぶお金やいろいろなものに費やして、月々の給与が借金取りに取られてしまう。今は銀行振り込みですが、当時は現金でもらうから、会社の門で飲み屋の主人が待ち受けて借金を取る。だから、部屋の中は空っぽで、薄い敷き布団が一つぐらいで、外になかったといいます。妹さんが心配になって、まだ高校を卒業してすぐのとき、18,19歳で、お兄さんのところに来て下宿に行ってみたらがらんどう。しかも、引き出しを開けたら「質札」、質屋に預けた預け証が束になっていたそうです。働きに行っても、給料は全部飲み代や何やらに消えてしまいますから、意欲がなくなる。生活する喜び、生きる望みを失っていました。それで妹さんは、何とかしてお兄さんを助けたいと思ったのですが、まだ19歳の娘さんですから、どうにもならない。悩んでいたとき、電車に乗っていてこの教会を見つけました。たまらなくなって朝6時からの早天祈祷会に飛び込んで来た。やがてお兄さんが救いにあずかる。初めは妹さんが熱心になって、それからお兄さんが……。イエス様の救いにあずかってからの兄妹の人生はすっかり変わった。とうとう神様に仕える生涯に入られました。
それで、献身して教会で一緒に生活をしました。私はそのころ小学校の5,6年生だったと思いますが、うれしかったですね。お兄ちゃんができたわけですから、どこへ行くにもくっついて回って、何をするにしても面白くてたまらない。また、彼は器用で、手品もするし、ラジオを作るのが上手です。鹿児島大学の工学部の出身ですから、当時まだ珍しかったラジオが我が家に登場しました。人生のいろいろなことを教えてくれました。献身する前だったと思いますが、伝道集会でお証詞をしてくださいました。そのときに、彼が、お証詞した一つのことを忘れられませんが、神様の救いにあずかって喜びに満たされてくると、仕事が楽しくて仕方がない。それはなぜか? それが自分の仕事ではなくて、神様がここに遣(つか)わしてくださっているという喜びがある。神様が共にいてくださる喜びがあるから、「私にとって神様に仕えていく、これが本業。製鉄所の仕事はレクリエーションだ」と言ったのです。私は、子供ながらに「働くことって、レクリエーションなのか」と思いました。そして「レクリエーションをしながら、お金までいただけるなんて、こんな素晴らしいことはない」と言って、喜んでお証詞をしていたのを思い出します。
神様と共に生きる、エデンの園の生涯とは、そういうことなのです。すること、なすことが全部喜びにつながってくる。主婦として台所に立って、煮炊きをするが、私は家族のために尊い命をすり減らして台所で一生をおわると不満ばかりでは、エデンの園ではない。神様と共にいないからです。「どうして私がこんなことばかりさせられなければいけない。もっと家族が理解してくれてもよさそうなもの。もう少し助けてくれても……」と不満がある。そこには、「神様が」、という思いがない。神と共に生きる所、それがパラダイスです。仕事をせず、遊び暮らすのがパラダイスではない。「食っちゃ寝、食っちゃ寝で、私は何もしないでこんな幸せはありません」と言いますが、そんなのは幸せではない、苦しみです。神様は適度に仕事をしながら、その仕事を喜ぶことができるようにと与えられたのです。
イエス様が十字架に架けられた時、その両脇に犯罪者が同じように十字架に架けられました。ひとりはイエス様をののしりました。もうひとりは「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言ったのです。そして、イエス様に「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったとき、イエス様は「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われました。十字架の上でありながらも、イエス様とその人との心が一つになった。そのときそこがパラダイスです。私たちが遣わされている、置かれている家庭があり、職場があり、いろいろな地域であり、それぞれの所に神様は置いてくださいます。そこで神と共に生きるのです。神様と共にあることは、取りも直さず、神様が私の主となってくださる。そして神様が一つ一つのことを恵んでくださっている。仕事をさせられる、と思うのではなく、神様が賜物として、祝福として、なすべきことを与えてくださっていると信じる。そのように、神様を前に置いて、神様と共に生きるところこそ、パラダイスです。それがエデンの生活なのです。この創世の最初の人の生活は、まさにそのような生活でした。だから、神様との間に妨げるものが何もない。神様を信頼して揺るがない。不安がない、恐れがない、苛立ちつぶやくことがいらない。これがエデンでの彼らの生活です。喜び、感謝し、楽しんで生きることができた。仕事が与えられていることも喜びだったのです。
ところが、3章1節以下にありますように、蛇によって誘惑されます。神様が「してはいけない」と言われた命令を守らない、神様に従わなかったのです。決定的な罪を犯したことによって、神様と人との間が断絶してしまう。切れてしまう。その根本の理由は何であったか、といいますと、人が神になろうとしたことです。先ほどの少し前の所、3章5節に「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。「神のようになる」と。自分を神にする。私たちは「そんな大それたこと、自分が神だなんて思ったことは一度もありません」と言います。しかし、自分が神とは言わないかもしれないが、態度、心の思いの中に、考えることの中に、自分が神になっている。だから「どうしてこのようなことになったのだ」「どうしてこんなことがあるのか」「こんなことは絶対許せない」と思ってしまうでしょう。そのとき、実は自分が神様なのです。自分の体についても、健康のことについても、家庭、家族のことについても、あるいは、自分自身の人生についても「私ではない、神様が備えてくださった」と、徹底して神様の前にへりくだって感謝するなら、これが神と共に生きる生活です。ところが、私たちの心がそこから離れてしまう。これは、私たちの普段の生活にも良くあることです。思いがけない事態や事柄、あるいは願わないさまざまな不幸な事態や事柄に遭いますと、私たちはすぐに「どうして? 」「何で? こんなんじゃやっておれない」「死んだほうがましだ!」と思うのは、自分が神様になっているのです。「そうだ、これは神様が今、このことを起こしている。愛なる方がここにいて、私を導いてくださっています」と謙遜な思いがない。これが、アダムとエバの犯した大きな罪です。そして、その罪は私たちのうちにもあります。どこかでそのような思いがポロッと出てくる。だから、常に神様の前に悔い改めて、主の十字架のあがない、赦しを絶えず受け止めて謙遜になることが求められる。
このとき、アダムとエバは自分たちが罪を犯して神様の前に立てなくなる。人と人でもそうですが、何か不義理をした人、あるいはあの人にはちょっとまずいことをしてしまったな、言ってしまったなと、関係が悪くなると、まともに顔を見られなくなる。ちょっと避ける。お互いにです。家庭の中でもそうです、夫婦でもそうです。何か気まずい思いがする。そうしますと、顔も見たくない。「見ると吐き気がする」ということになる。廊下ででもすれ違おうものなら、プッと顔を横に向けてしまう。その時、私たちは、神様にプッと顔を横にむけ、「そんなの許せん!」と、神様に対して怒っているのです。そのようなとき、私たちの心は大嵐です。決して平安がありません。ぶつぶつ、つぶやく。そのようなとき、神様から遠く隔たっているのです。神様の顔を見られなくなる。
3章8節に「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」。あるとき、神様の近づいてくる音が聞こえた。以前だったら、神様がいらっしゃると聞いたら、喜んで出て行ったに違いない。ところが、このときは出て行けない。身を隠してしまった。神様に対して何か不満があるのです。そして、神様の顔を避けて行く。神様は9節に「あなたはどこにいるのか」と。神様は、決して彼らがどこにいるのか分からないのではありません。かくれんぼのように隠れて、どこにいるのだろうか、という意味で言っているのではない。神様は彼らがいる場所はちゃんと知っています。ただ、彼らの心のあり場所、本来人としてのあり方、それが失われてしまっている。だから「どこにいるのか」と、問うているのです。この「あなたはどこにいるのか」という言葉は、なかなか深い意味です。ただ単に物理的に、場所として「どこにいるのか」というのでなく、私たちの心がいったいどこにあるのか。あなたはどこを向いているのか?そしてこれは、私たちにも絶えず、折に触れ、事に当たって、神様が問うていることです。神様と共にいるために、私たちに必要なことは何でしょうか?
イザヤ書57章14,15節を朗読。
神様はどのような方か、それが15節に「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者」と言われる。聖なる方でいらっしゃる。これは神様のご性質です。私達とは違う。雲泥の差どころではない。月とすっぽんどころでもない。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住み給う御方」「聖なる御方」。そのような神様と私たちが住むといいますか、結び合う接点がどこにあるのか? ないのです。私たちは自分を考えてご覧なさい。そのような「聖なる、潔(きよ)い方、光なる方」と、自分が一緒におれるでしょうか。私たちは、そのように潔(きよ)い者ではありません。いや、それどころか、泥亀のような本当に穢(けが)れ果てた者でしかないことは自分が良く知っています。心に思い計ることは、人をあしざまにののしってみたり、つぶやいてみたり、あるいは自分の人生を嘆いてみたり、悲しんでみたり、不平不満、憤りばかりがある。聖人君子ではありません。そんな私たちがどうして、神様と共にあることができるでしょうか。そうなると私たちは誠に絶望的です。ところが、その後に「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」。ここに「心砕けて、へりくだる者と共に住み」、共にいてくださる。これは素晴らしいことです。何と大きな望みであるか分かりません。砕けた、謙そんな思いになること、自分の力ではない、自分を捨てて、へりくだって神様を求めていくとき、神様は私たちと共に住んでくださる。私たちと共に生きてくださる。これなのです。
アダムとエバが、エデンの園から追放されました。ところが、彼らが追放されたのは、罪を犯したことは確かでありますが、その罪は高慢になったこと、自分を神とした。だから、先ほどの記事に、神様が「お前たちに裸であることを教えたのは誰か? 」と聞かれました。「食べてはならない木の実を採って食べたのか? 」と、そのときに人であるアダムは「あなたが置いてくれたこの女が、私に……」でしょう。確かにエバがアダムに勧めはしましたが、採って食べた行為は、本人の責任です。自分がしたことを他人に、しかも「神様!あなたが連れてきた人ですよ」と言った。「私がこの罪を犯した原因は、神様、あなたではないですか!」という言い方です。まさに神様を恐れない、自分を神様と対等だという意識、思いがそこにある。それでは神様と一緒に住むわけにはいかない。神様はそのような者と共におることができないから、やむなくエデンの東、ノドの地に追いやられてしまうのです。決して、神様は彼らを捨てたかったのではない。彼らを追放したいと思ったのではない。もう一度、楽園といいますか、エデンの園の生活を彼らに回復しようと願っておられたのです。ところが、彼らがそれを受け入れなかった。そのとき、へりくだって謙そんになって、「申し訳ありませんでした。神様、あなたの前に罪を犯しました」と、心砕けて神様の憐(あわ)れみを求めたならば、神様は決してそれを許さない方ではなかったと思います。しかし、言われたとき、心をかたくなにしたのです。ガチンと。「何を神様、私を責められても、大体あなたがこの女を『助け手』なんて、偉そうに造ってきたからですよ」と。だから、今度は、神様は女の人に「あなたはどうして……」と。そのときその女の人は「蛇が……」と言うのです。私が正しい、私はどこも悪くない。これが、私たちの神様と共におれない最大の原因です。だから、心に喜びがなくなる、感謝できなくなる。何かいろいろなことで苛立つ。家族のすることなすことが、目の端にチカチカ痛い。「こん畜生」と思う。そのような時は、私たちの心が神様から離れている。高慢になっている。神と共に住めなくなっている。そのとき、神様が「あなたはどこにいるのか」と呼びかけているときです。どうぞ、もう一度、神様の前にへりくだって謙そんになりたい。
そこ15節の後半に「心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」と。神と共にいること、これが実はパラダイスの生涯。エデンの園の生活です。たとえこの地上にあっても、既にその恵みの中に生きることができます。そのただ一つの秘けつは、へりくだった砕けた者となること。イエス様の十字架は私たちの証詞です。私が砕かれた者、心へりくだった者になれるのは十字架を通してです。私の罪の故にイエス様が十字架の激しい苦しみを耐えてくださる。その故にこそ私たちもへりくだって、死んだ者となって、神様を第一として、神様に心をささげていく。そこで初めて神様と私たちが結び合うところが生まれてくる。そうでない限り、それはあり得ないのです。
サムエル記上15章20節から23節までを朗読。
これはサウル王様が、神様から退けられた事態、事柄です。「アマレク人をすべて皆殺しにせよ」と、「家畜も子供も女もすべてのものを殺せ」と命じられたのです。そして、サウルは戦いに出かけました。その戦いに神様は勝利を与えてくださったのですが、あろうことか、王様のアガクを生け捕りにし、羊や牛などの家畜の肥えた良いもの、傷のないものを選んで連れて来た。神様の言葉に背いたのです。そのために神様は「サウルを王としたことを悔いる」とおっしゃいました。そのときサムエルは神様の前に一晩泣いて執り成しをしました。そしてサウルのところに来たのです。「あなたは何ということをしたのですか」と言ったとき、サウルは「何がいけないのですか? 」と居直っている。「わたしたちは神様にささげるためにこれを取ってきたのです。神様の言われるとおり、わたしたちは全部殺しました。心外だ!」と。そのとき、神様は22節にあるように「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか」。このときのサウル王様の心は、自分が王様だから、自分のすることを義としたのです。「自分は正しいのだ。何がいけないのだ!」という思い。それは、アダムとエバもそうだった。「どうして私が非難されるのか。この女の人が……」「いや、蛇が……」ひいては「あなたが造った者がいけなかった」と言う。そこまで心が高慢になる、かたくなになる。これは私たちが最も警戒しなければならないことであり、また、気がつかないうちに、恵みに慣れてしまって、喜び感謝している間はいいのですが、だんだんとそのような高慢な思いに変わっていく。どこから変わっていくか、私どもは分からない。だから、いつもみ言葉の光に自分を照らして、謙そんになることです。
このときもサムエルは、何とかしてサウル王様の失敗を償おうといていたのでしょうが、それを聞き入れなかったのです。そのために23節に「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。神様のさばきは決定的でした。そこでサウル王様に「あなたは神様から捨てられた」と。その後、彼は悔い改めましたが、許してもらえないのです。
24、25節をお読みいたしますと「24サウルはサムエルに言った、『わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。25 どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください』」。彼ははじめて自分のしたことの大きさ、重大な事態であることを知ったときに、大慌てをしました。ところが、このことをきっかけに、神様はサウルから離れてしまいました。それまでサウル王様と共に神様はいてくださいました。知恵を与え、すべての必要なものを備えてくださって……。ところが、それから後、サウル王様は神様から捨てられて、悪霊に取り付かれるのです。心に疑心暗鬼、不安と恐れと苛立ちと怒りと憤りが、日々の生活を支配し始めた。これは苦しい人生だろうと思うのです。皆さん、私たちもこのサウル王様のように、神様のいない、エデンの東、ノドの地の生活を強いられているなら、誠に気の毒としか言い様がない。そのためにこそ主イエス・キリストは来てくださった。謙そんの限りを尽くして、父なる神様の前に従順な道を歩んで、このように歩みなさいと、模範を示してくださいました。心を低くして、感謝と喜びをもって主に仕えていくこと、神様と共におらせていただく場所に絶えずとどまる。このことを心がけたいと思います。もし高ぶって、神様に背くことがあるならば、そこで悔い改めて、主に立ち返ろうではありませんか。
サムエル記下12章7節から9節までを朗読。
これはダビデが高慢になったときに犯した罪なのです。彼は王の位につきました。だんだんと自分の思いどおりに国を動かすようになって、アマレク人との戦いが起こったときも、彼は王宮に残って部下たちだけを戦場にやっている。暇をもて余して、とうとう罪を犯すのです。忠実なウリヤという部下の奥さんを奪って、主人を戦場で殺してしまう。悪逆非道、大変なことをしたと、私どもも思います。そのとき、ナタンという預言者を神様は送って、ダビデの罪を指摘しました。7節に「あなたがその人です」と。このとき神様が、ダビデを責められましたが、ダビデの何を責めたのでしょうか? 神様はダビデのしたこと、その仕方が悪らつであった、あるいは極悪非道なやり方だったから「駄目だ」と言っているのではない。あるいは「そのような不倫をしてはいけない」と言うのでもない。もちろん、「不倫」はとがめられることでありますが、もっと根本のところで、8節に「あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」とおっしゃっている。「あなたが、今王の位に立ち、そして多くの妻たちを持ち、家倉財産を持ち、そして国を治める。いったいそれを誰が与えたのか? もしお前が足らないのだったらなぜわたしに言わないのだ!」と。自分の手で、自分の力で、王としての権威をかさに着て、神様をないがしろにした。そこにダビデの罪があるのです。それは神様の前に高慢な、「神様に頼らなくても、おれはできる」と思ったのです。これが、このときナタンをして神様が責められた事です。
することの悪質であるとか、あるいはやり方がひどすぎるといって怒られるのではない。そのすること自体、それがどんなに小さなことでも大きなことでも、重大なことであろうと軽いことであろうと、問題はそのことをしたとき、私たちの心のうちに自分を王とし、神とし、自分の義を立てたのか、それとも神様の前に謙そんに歩んでいるのか、ここが絶えず問われているのです。私たちはすぐ見えるところで人を裁きます。「あんなことをしたから」と、「こんなやり方でしたから」と、「同じ人を殺すなら、もっと楽に、苦痛を与えないで殺すべきだ」と。ところが、神様が言われるのはそのような問題ではない。私どもが今何を神としているのか。心低く、謙そんにへりくだって、神と共に歩むことを願っているのかどうか。
もう一度初めに戻りますが、創世記3章9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。私たちのおるべき場所はどこでしょうか。心へりくだり、砕けたる魂となること、それは取りも直さず、滅ぶべき者が、今日も主の十字架のいさおしによって罪を赦され、神様がすべての必要を豊かに満たして命を与えてくださっているという感謝と喜びのところにいることです。パウロは、「わたしは罪人のかしらである」(1テモテ1:15)と告白しました。それは絶えず神様の前に謙そんであろうとすることの証詞です。私たちは何者でもありません。死んで当然、滅びて当然、あって邪魔な者が、今日も主の憐れみ、イエス様の十字架の愛の故に生かされていること、そして生活のすべてを神様が豊かに恵んでくださっている。そして「足らなければ、わたしに求めればいいではないか」と、そのとおりです。私どもは神様をそっちのけにして、自分の浅知恵を働かせ、人を頼みとして神様から離れていく。そのとき、神と共にあることができなくなる。いつも十字架の御許に自分を置いて、主にあがなわれた者であり、神様の命によって買われた者であること、その主のいさおしなくしては、生きることもできない自分であることを絶えず認めて、神様の前に謙そんになって、神と共に生きるパラダイスの生涯、エデンの園の生涯を味わおうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。
この記事は、アダムとエバ、神様に造られた初めての人とその妻について語られています。この二人は神様によって造られてエデンの園に置かれました。エデンの園は、神様が彼らを養い楽しませ、恵みにあずかる場所として設けてくださったところです。エデンの園と言うと、すぐ楽園、パラダイスと考えます。パラダイスと言われると、ついどのような所かな? 「常夏の国・ハワイ」という旅行会社のパンフレットのような連想が続きますが、決してそのような安楽で、レジャーを楽しむところではありません。
神様が共にいてくださって、恵みにあずかる。自分の力や知恵や計画、業によるのではなくて、神様から一方的に恵まれる喜び、その中に生きる。これがパラダイスであり、エデンの園の生涯なのです。エデンの園にいたら、生活の苦しみがないに違いない。確かにそうだと思います。だからといって、年がら年中遊んで暮らしたのではありません。神様は彼らに労働を与えられたのです。土を耕すことを命じられた、とあります。エデンの園を管理することです。神様の恵みの中にいるときは、何をしても大きな喜びです。たとえそれが労働であっても。自分のしたいこと、自分の好きなことをしているとき、どうでしょうか。疲れを覚えません。時間がたつのを忘れます。うれしいからです。ところが、それがないといつも不満、疲れを覚える。「どうしてだろうか?なかなか時間がたたない」。そのような苦しい思いをします。ところが、エデンの生活は、神様と共にある生活、まさに喜びの生活です。何をしても感謝がわいてくる。何をしてもうれしい。これが神様と共にあるエデンの生活です。だから、たとえ土を耕す労働にしても、喜びになるのです。
昔、私が子供のころ一人の兄弟が教会に来ていました。彼は八幡製鉄所に勤めていました。製鉄所に勤めていますからその当時としては高給取りだったのです。しかし、飲み代や遊ぶお金やいろいろなものに費やして、月々の給与が借金取りに取られてしまう。今は銀行振り込みですが、当時は現金でもらうから、会社の門で飲み屋の主人が待ち受けて借金を取る。だから、部屋の中は空っぽで、薄い敷き布団が一つぐらいで、外になかったといいます。妹さんが心配になって、まだ高校を卒業してすぐのとき、18,19歳で、お兄さんのところに来て下宿に行ってみたらがらんどう。しかも、引き出しを開けたら「質札」、質屋に預けた預け証が束になっていたそうです。働きに行っても、給料は全部飲み代や何やらに消えてしまいますから、意欲がなくなる。生活する喜び、生きる望みを失っていました。それで妹さんは、何とかしてお兄さんを助けたいと思ったのですが、まだ19歳の娘さんですから、どうにもならない。悩んでいたとき、電車に乗っていてこの教会を見つけました。たまらなくなって朝6時からの早天祈祷会に飛び込んで来た。やがてお兄さんが救いにあずかる。初めは妹さんが熱心になって、それからお兄さんが……。イエス様の救いにあずかってからの兄妹の人生はすっかり変わった。とうとう神様に仕える生涯に入られました。
それで、献身して教会で一緒に生活をしました。私はそのころ小学校の5,6年生だったと思いますが、うれしかったですね。お兄ちゃんができたわけですから、どこへ行くにもくっついて回って、何をするにしても面白くてたまらない。また、彼は器用で、手品もするし、ラジオを作るのが上手です。鹿児島大学の工学部の出身ですから、当時まだ珍しかったラジオが我が家に登場しました。人生のいろいろなことを教えてくれました。献身する前だったと思いますが、伝道集会でお証詞をしてくださいました。そのときに、彼が、お証詞した一つのことを忘れられませんが、神様の救いにあずかって喜びに満たされてくると、仕事が楽しくて仕方がない。それはなぜか? それが自分の仕事ではなくて、神様がここに遣(つか)わしてくださっているという喜びがある。神様が共にいてくださる喜びがあるから、「私にとって神様に仕えていく、これが本業。製鉄所の仕事はレクリエーションだ」と言ったのです。私は、子供ながらに「働くことって、レクリエーションなのか」と思いました。そして「レクリエーションをしながら、お金までいただけるなんて、こんな素晴らしいことはない」と言って、喜んでお証詞をしていたのを思い出します。
神様と共に生きる、エデンの園の生涯とは、そういうことなのです。すること、なすことが全部喜びにつながってくる。主婦として台所に立って、煮炊きをするが、私は家族のために尊い命をすり減らして台所で一生をおわると不満ばかりでは、エデンの園ではない。神様と共にいないからです。「どうして私がこんなことばかりさせられなければいけない。もっと家族が理解してくれてもよさそうなもの。もう少し助けてくれても……」と不満がある。そこには、「神様が」、という思いがない。神と共に生きる所、それがパラダイスです。仕事をせず、遊び暮らすのがパラダイスではない。「食っちゃ寝、食っちゃ寝で、私は何もしないでこんな幸せはありません」と言いますが、そんなのは幸せではない、苦しみです。神様は適度に仕事をしながら、その仕事を喜ぶことができるようにと与えられたのです。
イエス様が十字架に架けられた時、その両脇に犯罪者が同じように十字架に架けられました。ひとりはイエス様をののしりました。もうひとりは「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言ったのです。そして、イエス様に「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言ったとき、イエス様は「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われました。十字架の上でありながらも、イエス様とその人との心が一つになった。そのときそこがパラダイスです。私たちが遣わされている、置かれている家庭があり、職場があり、いろいろな地域であり、それぞれの所に神様は置いてくださいます。そこで神と共に生きるのです。神様と共にあることは、取りも直さず、神様が私の主となってくださる。そして神様が一つ一つのことを恵んでくださっている。仕事をさせられる、と思うのではなく、神様が賜物として、祝福として、なすべきことを与えてくださっていると信じる。そのように、神様を前に置いて、神様と共に生きるところこそ、パラダイスです。それがエデンの生活なのです。この創世の最初の人の生活は、まさにそのような生活でした。だから、神様との間に妨げるものが何もない。神様を信頼して揺るがない。不安がない、恐れがない、苛立ちつぶやくことがいらない。これがエデンでの彼らの生活です。喜び、感謝し、楽しんで生きることができた。仕事が与えられていることも喜びだったのです。
ところが、3章1節以下にありますように、蛇によって誘惑されます。神様が「してはいけない」と言われた命令を守らない、神様に従わなかったのです。決定的な罪を犯したことによって、神様と人との間が断絶してしまう。切れてしまう。その根本の理由は何であったか、といいますと、人が神になろうとしたことです。先ほどの少し前の所、3章5節に「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。「神のようになる」と。自分を神にする。私たちは「そんな大それたこと、自分が神だなんて思ったことは一度もありません」と言います。しかし、自分が神とは言わないかもしれないが、態度、心の思いの中に、考えることの中に、自分が神になっている。だから「どうしてこのようなことになったのだ」「どうしてこんなことがあるのか」「こんなことは絶対許せない」と思ってしまうでしょう。そのとき、実は自分が神様なのです。自分の体についても、健康のことについても、家庭、家族のことについても、あるいは、自分自身の人生についても「私ではない、神様が備えてくださった」と、徹底して神様の前にへりくだって感謝するなら、これが神と共に生きる生活です。ところが、私たちの心がそこから離れてしまう。これは、私たちの普段の生活にも良くあることです。思いがけない事態や事柄、あるいは願わないさまざまな不幸な事態や事柄に遭いますと、私たちはすぐに「どうして? 」「何で? こんなんじゃやっておれない」「死んだほうがましだ!」と思うのは、自分が神様になっているのです。「そうだ、これは神様が今、このことを起こしている。愛なる方がここにいて、私を導いてくださっています」と謙遜な思いがない。これが、アダムとエバの犯した大きな罪です。そして、その罪は私たちのうちにもあります。どこかでそのような思いがポロッと出てくる。だから、常に神様の前に悔い改めて、主の十字架のあがない、赦しを絶えず受け止めて謙遜になることが求められる。
このとき、アダムとエバは自分たちが罪を犯して神様の前に立てなくなる。人と人でもそうですが、何か不義理をした人、あるいはあの人にはちょっとまずいことをしてしまったな、言ってしまったなと、関係が悪くなると、まともに顔を見られなくなる。ちょっと避ける。お互いにです。家庭の中でもそうです、夫婦でもそうです。何か気まずい思いがする。そうしますと、顔も見たくない。「見ると吐き気がする」ということになる。廊下ででもすれ違おうものなら、プッと顔を横に向けてしまう。その時、私たちは、神様にプッと顔を横にむけ、「そんなの許せん!」と、神様に対して怒っているのです。そのようなとき、私たちの心は大嵐です。決して平安がありません。ぶつぶつ、つぶやく。そのようなとき、神様から遠く隔たっているのです。神様の顔を見られなくなる。
3章8節に「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」。あるとき、神様の近づいてくる音が聞こえた。以前だったら、神様がいらっしゃると聞いたら、喜んで出て行ったに違いない。ところが、このときは出て行けない。身を隠してしまった。神様に対して何か不満があるのです。そして、神様の顔を避けて行く。神様は9節に「あなたはどこにいるのか」と。神様は、決して彼らがどこにいるのか分からないのではありません。かくれんぼのように隠れて、どこにいるのだろうか、という意味で言っているのではない。神様は彼らがいる場所はちゃんと知っています。ただ、彼らの心のあり場所、本来人としてのあり方、それが失われてしまっている。だから「どこにいるのか」と、問うているのです。この「あなたはどこにいるのか」という言葉は、なかなか深い意味です。ただ単に物理的に、場所として「どこにいるのか」というのでなく、私たちの心がいったいどこにあるのか。あなたはどこを向いているのか?そしてこれは、私たちにも絶えず、折に触れ、事に当たって、神様が問うていることです。神様と共にいるために、私たちに必要なことは何でしょうか?
イザヤ書57章14,15節を朗読。
神様はどのような方か、それが15節に「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者」と言われる。聖なる方でいらっしゃる。これは神様のご性質です。私達とは違う。雲泥の差どころではない。月とすっぽんどころでもない。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住み給う御方」「聖なる御方」。そのような神様と私たちが住むといいますか、結び合う接点がどこにあるのか? ないのです。私たちは自分を考えてご覧なさい。そのような「聖なる、潔(きよ)い方、光なる方」と、自分が一緒におれるでしょうか。私たちは、そのように潔(きよ)い者ではありません。いや、それどころか、泥亀のような本当に穢(けが)れ果てた者でしかないことは自分が良く知っています。心に思い計ることは、人をあしざまにののしってみたり、つぶやいてみたり、あるいは自分の人生を嘆いてみたり、悲しんでみたり、不平不満、憤りばかりがある。聖人君子ではありません。そんな私たちがどうして、神様と共にあることができるでしょうか。そうなると私たちは誠に絶望的です。ところが、その後に「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」。ここに「心砕けて、へりくだる者と共に住み」、共にいてくださる。これは素晴らしいことです。何と大きな望みであるか分かりません。砕けた、謙そんな思いになること、自分の力ではない、自分を捨てて、へりくだって神様を求めていくとき、神様は私たちと共に住んでくださる。私たちと共に生きてくださる。これなのです。
アダムとエバが、エデンの園から追放されました。ところが、彼らが追放されたのは、罪を犯したことは確かでありますが、その罪は高慢になったこと、自分を神とした。だから、先ほどの記事に、神様が「お前たちに裸であることを教えたのは誰か? 」と聞かれました。「食べてはならない木の実を採って食べたのか? 」と、そのときに人であるアダムは「あなたが置いてくれたこの女が、私に……」でしょう。確かにエバがアダムに勧めはしましたが、採って食べた行為は、本人の責任です。自分がしたことを他人に、しかも「神様!あなたが連れてきた人ですよ」と言った。「私がこの罪を犯した原因は、神様、あなたではないですか!」という言い方です。まさに神様を恐れない、自分を神様と対等だという意識、思いがそこにある。それでは神様と一緒に住むわけにはいかない。神様はそのような者と共におることができないから、やむなくエデンの東、ノドの地に追いやられてしまうのです。決して、神様は彼らを捨てたかったのではない。彼らを追放したいと思ったのではない。もう一度、楽園といいますか、エデンの園の生活を彼らに回復しようと願っておられたのです。ところが、彼らがそれを受け入れなかった。そのとき、へりくだって謙そんになって、「申し訳ありませんでした。神様、あなたの前に罪を犯しました」と、心砕けて神様の憐(あわ)れみを求めたならば、神様は決してそれを許さない方ではなかったと思います。しかし、言われたとき、心をかたくなにしたのです。ガチンと。「何を神様、私を責められても、大体あなたがこの女を『助け手』なんて、偉そうに造ってきたからですよ」と。だから、今度は、神様は女の人に「あなたはどうして……」と。そのときその女の人は「蛇が……」と言うのです。私が正しい、私はどこも悪くない。これが、私たちの神様と共におれない最大の原因です。だから、心に喜びがなくなる、感謝できなくなる。何かいろいろなことで苛立つ。家族のすることなすことが、目の端にチカチカ痛い。「こん畜生」と思う。そのような時は、私たちの心が神様から離れている。高慢になっている。神と共に住めなくなっている。そのとき、神様が「あなたはどこにいるのか」と呼びかけているときです。どうぞ、もう一度、神様の前にへりくだって謙そんになりたい。
そこ15節の後半に「心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」と。神と共にいること、これが実はパラダイスの生涯。エデンの園の生活です。たとえこの地上にあっても、既にその恵みの中に生きることができます。そのただ一つの秘けつは、へりくだった砕けた者となること。イエス様の十字架は私たちの証詞です。私が砕かれた者、心へりくだった者になれるのは十字架を通してです。私の罪の故にイエス様が十字架の激しい苦しみを耐えてくださる。その故にこそ私たちもへりくだって、死んだ者となって、神様を第一として、神様に心をささげていく。そこで初めて神様と私たちが結び合うところが生まれてくる。そうでない限り、それはあり得ないのです。
サムエル記上15章20節から23節までを朗読。
これはサウル王様が、神様から退けられた事態、事柄です。「アマレク人をすべて皆殺しにせよ」と、「家畜も子供も女もすべてのものを殺せ」と命じられたのです。そして、サウルは戦いに出かけました。その戦いに神様は勝利を与えてくださったのですが、あろうことか、王様のアガクを生け捕りにし、羊や牛などの家畜の肥えた良いもの、傷のないものを選んで連れて来た。神様の言葉に背いたのです。そのために神様は「サウルを王としたことを悔いる」とおっしゃいました。そのときサムエルは神様の前に一晩泣いて執り成しをしました。そしてサウルのところに来たのです。「あなたは何ということをしたのですか」と言ったとき、サウルは「何がいけないのですか? 」と居直っている。「わたしたちは神様にささげるためにこれを取ってきたのです。神様の言われるとおり、わたしたちは全部殺しました。心外だ!」と。そのとき、神様は22節にあるように「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか」。このときのサウル王様の心は、自分が王様だから、自分のすることを義としたのです。「自分は正しいのだ。何がいけないのだ!」という思い。それは、アダムとエバもそうだった。「どうして私が非難されるのか。この女の人が……」「いや、蛇が……」ひいては「あなたが造った者がいけなかった」と言う。そこまで心が高慢になる、かたくなになる。これは私たちが最も警戒しなければならないことであり、また、気がつかないうちに、恵みに慣れてしまって、喜び感謝している間はいいのですが、だんだんとそのような高慢な思いに変わっていく。どこから変わっていくか、私どもは分からない。だから、いつもみ言葉の光に自分を照らして、謙そんになることです。
このときもサムエルは、何とかしてサウル王様の失敗を償おうといていたのでしょうが、それを聞き入れなかったのです。そのために23節に「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。神様のさばきは決定的でした。そこでサウル王様に「あなたは神様から捨てられた」と。その後、彼は悔い改めましたが、許してもらえないのです。
24、25節をお読みいたしますと「24サウルはサムエルに言った、『わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。25 どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください』」。彼ははじめて自分のしたことの大きさ、重大な事態であることを知ったときに、大慌てをしました。ところが、このことをきっかけに、神様はサウルから離れてしまいました。それまでサウル王様と共に神様はいてくださいました。知恵を与え、すべての必要なものを備えてくださって……。ところが、それから後、サウル王様は神様から捨てられて、悪霊に取り付かれるのです。心に疑心暗鬼、不安と恐れと苛立ちと怒りと憤りが、日々の生活を支配し始めた。これは苦しい人生だろうと思うのです。皆さん、私たちもこのサウル王様のように、神様のいない、エデンの東、ノドの地の生活を強いられているなら、誠に気の毒としか言い様がない。そのためにこそ主イエス・キリストは来てくださった。謙そんの限りを尽くして、父なる神様の前に従順な道を歩んで、このように歩みなさいと、模範を示してくださいました。心を低くして、感謝と喜びをもって主に仕えていくこと、神様と共におらせていただく場所に絶えずとどまる。このことを心がけたいと思います。もし高ぶって、神様に背くことがあるならば、そこで悔い改めて、主に立ち返ろうではありませんか。
サムエル記下12章7節から9節までを朗読。
これはダビデが高慢になったときに犯した罪なのです。彼は王の位につきました。だんだんと自分の思いどおりに国を動かすようになって、アマレク人との戦いが起こったときも、彼は王宮に残って部下たちだけを戦場にやっている。暇をもて余して、とうとう罪を犯すのです。忠実なウリヤという部下の奥さんを奪って、主人を戦場で殺してしまう。悪逆非道、大変なことをしたと、私どもも思います。そのとき、ナタンという預言者を神様は送って、ダビデの罪を指摘しました。7節に「あなたがその人です」と。このとき神様が、ダビデを責められましたが、ダビデの何を責めたのでしょうか? 神様はダビデのしたこと、その仕方が悪らつであった、あるいは極悪非道なやり方だったから「駄目だ」と言っているのではない。あるいは「そのような不倫をしてはいけない」と言うのでもない。もちろん、「不倫」はとがめられることでありますが、もっと根本のところで、8節に「あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」とおっしゃっている。「あなたが、今王の位に立ち、そして多くの妻たちを持ち、家倉財産を持ち、そして国を治める。いったいそれを誰が与えたのか? もしお前が足らないのだったらなぜわたしに言わないのだ!」と。自分の手で、自分の力で、王としての権威をかさに着て、神様をないがしろにした。そこにダビデの罪があるのです。それは神様の前に高慢な、「神様に頼らなくても、おれはできる」と思ったのです。これが、このときナタンをして神様が責められた事です。
することの悪質であるとか、あるいはやり方がひどすぎるといって怒られるのではない。そのすること自体、それがどんなに小さなことでも大きなことでも、重大なことであろうと軽いことであろうと、問題はそのことをしたとき、私たちの心のうちに自分を王とし、神とし、自分の義を立てたのか、それとも神様の前に謙そんに歩んでいるのか、ここが絶えず問われているのです。私たちはすぐ見えるところで人を裁きます。「あんなことをしたから」と、「こんなやり方でしたから」と、「同じ人を殺すなら、もっと楽に、苦痛を与えないで殺すべきだ」と。ところが、神様が言われるのはそのような問題ではない。私どもが今何を神としているのか。心低く、謙そんにへりくだって、神と共に歩むことを願っているのかどうか。
もう一度初めに戻りますが、創世記3章9節に「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。私たちのおるべき場所はどこでしょうか。心へりくだり、砕けたる魂となること、それは取りも直さず、滅ぶべき者が、今日も主の十字架のいさおしによって罪を赦され、神様がすべての必要を豊かに満たして命を与えてくださっているという感謝と喜びのところにいることです。パウロは、「わたしは罪人のかしらである」(1テモテ1:15)と告白しました。それは絶えず神様の前に謙そんであろうとすることの証詞です。私たちは何者でもありません。死んで当然、滅びて当然、あって邪魔な者が、今日も主の憐れみ、イエス様の十字架の愛の故に生かされていること、そして生活のすべてを神様が豊かに恵んでくださっている。そして「足らなければ、わたしに求めればいいではないか」と、そのとおりです。私どもは神様をそっちのけにして、自分の浅知恵を働かせ、人を頼みとして神様から離れていく。そのとき、神と共にあることができなくなる。いつも十字架の御許に自分を置いて、主にあがなわれた者であり、神様の命によって買われた者であること、その主のいさおしなくしては、生きることもできない自分であることを絶えず認めて、神様の前に謙そんになって、神と共に生きるパラダイスの生涯、エデンの園の生涯を味わおうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。