いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(143)「死んで生きる」

2014年02月20日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書12章20節から28節までを朗読。

 24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
 この御言葉はよくご存じの一粒の麦のたとえです。20節に「祭で礼拝するために」とあります、この「祭」とは、12章1節に「過越の祭の六日まえに」と記されていますが、ちょうどイエス様が十字架におかかりになる1週間ほど前のことでした。「過越の祭」はユダヤ人にとって最も大切な祭り事の一つであります。

それは、エジプトで奴隷の生涯を送っていた神の民・イスラエルが、苦しみと困難の中から救いを呼び求め祈り続けた結果、モーセという一人の指導者を神様は立ててくださいました。そして、そこからカナンの地、約束の地に導き出してくださったのです。ところが、エジプトから出て行くことは、並大抵のことではない。パロ王様という非常にかたくなな王様がいる。モーセは王様の所に行って、たびたび「わが民を去らせよ。神様がそのようにお命じになっている。神の民を奴隷から解放するように」と求めました。しかし、王様は繰り返し、繰り返し心を翻(ひるがえ)して、なかなか承知しようとしない。そのようなやり取りが何回となく続きましたが、とうとう最後に神様は、大変大きな事をなさいました。それはエジプトに住む動物も人間も、すべてのもののういご、最初に生まれたものを一切滅ぼす、と言われたのです。そのとき一つだけ条件がありました。その滅びから免(まぬが)れる道が備えられたのです。それはイスラエルの民ばかりでなくエジプトの人でもそうなのですが、「子羊の血をかもいに塗りなさい」というのです。その具体的なことは省きますけれども、傷のない子羊を選んで、その子羊をほふって入り口のかもいにその血を塗りなさいと。たとえエジプト人であっても、その血を塗ればイスラエル人と同様なのです。逆に言いますとイスラエル人であっても、それを信じないで塗らなかったら、その災いに遭うとおっしゃる。

これは厳粛な神様の、私たちに対する姿勢です。自分は生まれながらにクリスチャンだからとか、あるいは家がクリスチャンだからとか、私はもう救われているから、ということで済ましてしまうならば、いつまでも神様の民となり得ないのです。その救いにあずかる、滅びから免れるただ一つの道は、家柄であるとか、自分の努力であるとか、あるいは自分の修行や何かによって得られるのではなくて、ただ神様のお言葉に従う。「かもいに血を塗れ」という。「塗ってどうなる?」と疑った人は塗らない。「血を塗ったからといって、何の役に立つか」。まだその結果が分かりません。私どもは聖書を読んでどうなるかを知っているから、「それはそうだよ。子羊の血を塗らなかったら駄目だよ」と言えますが、もし皆さんがその結果を知らなかったら、恐らくそのようにしたかどうかは分からない。荒唐無けいといいますか、そんなことが何の役に立つのかと、人の知恵で考えても、その理由は分からないけれども、主がそのように「せよ」と言われるのですから、神様の約束の言葉を信じて従う。ここが実は信仰です。私たちも聖書にある言葉を信じて、「はい、そのとおりにします」と、従う所に救いの道があるのです。ところが、いくらいいことでも、それが救いにあずかる道であることが分かっていても、しようとしなければ、それに従わなければ得られないのです。これは紙一重の厳しい神様のお取り扱いだと思います。「まぁ、いいか。知っていたのだろうけれども忘れていたのだろう。今回はもう目をつぶる」なんて言われる神様ではない。

ですから、今聖書の約束の言葉をたくさんいただいていますが、神様が与えてくださる約束のお言葉を一つ一つ信じて、結果がどうなるか分からないけれども、それに従う。そうするといのちにつながってくるのです。このことを、イスラエルの民は体験をしました。文字どおり神様が約束されたその夜、神の使いがエジプト中を行き巡って、すべてのういごを打たれた。ただ、かもいに血を塗った家だけは、災いが過ぎ越していった。そうやってとうとうパロ王様のかたくなな心を砕かれてイスラエルの民は解放されました。その解放の記念、奴隷の生涯から救いにあずかった記念として、過越の祭を代々にわたって長い年月守り続けたのです。これは、ただに祭を守るばかりでなく、そのことを通して自分たちの恵みが何であるか、どれほど大きな神様の御愛がそこに注がれているかを味わう、あるいは感謝するための時でもあるのです。ですから、この過越の祭はイスラエルの民が奴隷の生涯から、永遠の御国であるカナンの地に入れていただいたことを感謝する祭でもあります。

そして、その過越の祭のときに、イエス様が十字架におかかりになるのです。これは過越の祭の起源、始まりの事柄とイエス様の十字架を一つに結びつける事態でもあります。ですから、ただ単に過越の祭を選ばれたというのではありません。祭はほかにも仮庵の祭とかあります。しかし、なかんずくこの過越の祭は大切な意味があったのです。イエス様はイスラエルの人々がかもいに血を塗るごとく「子羊の血を塗りなさい」と言われます。その子羊とは誰のこと? 私たちは家に羊を飼っている人なんていません。また血を自分の家に塗ってご覧なさい。すぐ110番されますよ。「とんでもないことをする」と。今はそのような形のある動物の血を塗ることはしませんが、その代わりにもっと徹底した救いの道をイエス様が開いてくださった。過越の祭、言い換えますと、永遠の滅びから救い出され、カナンの地、神様の約束の地に私たちを移し替えてくださいます。その大きな恵みがこの十字架、イエス様の十字架です。ところが、その当時の人々は誰もそんなこととはつゆ知らない、思いもしない、考えもしない。ただ、いつものように過越の祭を守っていた。この祭のとき、ユダヤ人が全国各地、世界中から来る。ユダヤ人にとっては神の民ですから、これは欠かせない大切なお祭です。故郷を離れて異国の地に移住しているユダヤ人たちも、戻ってくる程のものです。

ですから、20節に「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた」とあります。もちろん、ギリシャに移住してそこに帰化してしまったユダヤ人であっただろうと思います。だから、言うならば日系アメリカ人というような感じですね。ギリシャ人ではあるけれどもイスラエルの民であった人たちだと思いますが、彼らがその過越の祭のためにエルサレムにやって来た。そして、知り合いであったと思いますが、ピリポの所に来て「イエス様にお目にかかりたい」と。その当時イエス様はかなりの有名人ですから、全国に名が知られていた。五つのパンと二ひきの魚で五千人を養う、あるいは目の見えなかった人の目を開けたり、足がなえていた人の足を立たせてくださった。そして、あの罪人であった強欲なザアカイが悔い改める。次から次へといろいろな不思議が行われていたから、これがうわさとなって一気に国中に広がった。だから、イエス様の行く所どこにでも群集が待ち受けていたのです。ザアカイが住んでいたエリコの町に来られたときも、たくさんの人たちが、一目イエス様を見ようとして、集まったのです。今でもよくそのようなことがありますね。韓国の何とかというスターが来たとき、成田空港におばさんたちがたくさん集まるという現象がありましたが、イエス様の時代、テレビも新聞も、そのような情報機関は何もありません。ただ、口コミで広がる。それでたくさんの人たちが集まる。だから、たまに外国から来たギリシャ人たちも、一度この有名人であるイエス様にサインの一つでももらいたいと思ったのでしょう。それで、知り合いのピリポに頼んだら、何とか取り次いでもらえると期待した。ピリポは自分だけでは判断がつかないので、仲間のアンデレに相談した。そしてアンデレとピリポは、とりあえずイエス様にお話してみることになった。

イエス様の反応は23節に「すると、イエスは答えて言われた。『人の子が栄光を受ける時がきた』」。「イエスにお目にかかりたいのですが」というこの問いかけに対してイエス様の答えはかみ合いません。これは当然だと思いますね。このときのピリポもアンデレももちろんそうですが、このギリシャ人もイエス様がどのような方で、これからどのような苦しみを受けようとしているか、そのようなことは全く知りません。ただ、単に有名人だからあるいは、何か自分にとって目先のご利益があるからとイエス様を求めていたのです。だから、その真意をイエス様は見抜いて、本当にイエス様の救いにあずかりたいのか、ただ物見遊山、ただ有名人に会いたいだけの事なのか、イエス様はちゃんとわきまえている。ですから、ここでイエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」とおっしゃったのです。

政治家やスポーツ選手にしろ、経済人にしろ、有名人に一目会いたいと言って人が集まる。それはその人にとって一つの栄光です。勲章のようなもの。犯罪で有名になった人を見たい、というのもあるでしょうけれども、普通は世の人々から慕われて、多くの人々から賞賛されて、期待される人物になることは、これほど栄誉なこと、その人にとって栄光はないのです。だから、はるばる遠くからイエス様の話を聞いて会いにまで来てくれる、これはイエス様にとってまたとない栄誉を受けるとき、賞賛を受けるときだ、と思います。それに対してイエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われる。同じ栄光ではあるけれども、イエス様が受けるべき事柄と、彼らがそうやって訪ねて来るほど有名になったという、この世の栄光とは内容が違っているのです。

そこで24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」と。ここでイエス様は一つのたとえをもって話されました。これは麦の種がどのように命を増やしていくかという、まさに農家の人の知恵であります。イエス様のたとえの中にはよく農業や作物に関するものがあります。ぶどうの木のたとえもそうですし、種まきのたとえもそうです。ここ24節に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」とあります。これは一般的に考えて、すべての種もそうでありますが、種は見栄えもなく形も小さなものです。それがいったい何の役に立つかと思うようなものです。私どもがよく花屋さんの店先で買ってくる種なんて、小さな袋に少し入っている。そんなのを見ても何の種かしら、と思うくらい変哲のない、何一つ見栄えのない、取り柄のないものです。その種をその状態のままでズーッと大切に金庫か何か保管庫に入れて持ち続けていたら、種としての身分、あるいは種としてはそのままズーッと続くでしょうが、決して増えることはない。多くなることはありません。何か特別なジャーの中に入れて、保管したり、乾燥させていたら、十年たったら倍になっていたという、そのような種はありません。種はやはり地面に捨てられ植えられること。このことをイエス様は「地に落ちて死ななければ」という言葉で表しているのです。

一粒の種を畑の土に埋めてしまう。そのためには、種が自分はこの殻でいいのだ、私はこれで十分だ、と思っていたら駄目です。「自分を捨てて」ということです。自分を捨てて地面の中に、そこは居心地のよいところでは決してないと思います。暗いじめじめとした湿気のある、ある程度の温度が加わってきますと、そこに埋められたものはやがて死にます。言うならば分解します。種としての姿かたちはそこで消えます。殻は破れて中から全く違った新しい芽が出てくる。それがどんどん成長し伸びていきますと、時が来て今度は豊かな実を結ぶ。一粒の麦からいくつも株が出てきて、そこからまたさらに株が出て、たった一粒の麦から何万というたくさんの実が実る。これは神様の定められた祝福の道でもあります。ところが、種としては自分の存在を消してしまうことになります。自分というものを無にしないと新しい命につながらないのです。

それは私たちにとっても同じです。このときイエス様が「一粒の麦」と言われたのは、誰のことでもない、実はご自身のことです。イエス様ご自身がそのように一粒の種なのだと、そして「一粒の麦が死んだなら」と。その後に「豊かに実を結ぶようになる」とあります。この後イエス様は最後の晩餐(ばんさん)の席につき、さらに、それからゲツセマネの園で捕らえられ、カヤパの屋敷、ヘロデの所で、あるいはピラトの法廷でと三度にわたって裁きを受けます。そしてついにイエス様は十字架に釘づけられます。十字架でイエス様は死に絶えてしまう。その当時、イエス様に対して多くの人々は期待しました。イエス様が何かしてくれるに違いない。ですから、12節に「その翌日」とありますから、過越の祭の六日前が1節で、12節がその翌日、あのロバに乗ってエルサレムに入ってきたのです。その時、多くの人々は歓声をあげてイエス様を迎えました。この13節以下に「しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、『ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に』」と。多くの人々がイエス様を期待して迎えたのです。イエス様が何かやってくれるに違いない。と言うのは、当時のイスラエルはローマ帝国の属領といいますか、支配下に置かれていました。誇り高いイスラエルの民にとって、異邦人の支配の中におかれている屈辱(くつじょく)をはねのけて、かつて栄華を誇ったダビデ王やソロモン王の時代のような国づくり、これが長年の悲願だったのです。だから、この人、イエス様こそこのユダヤを救ってくれる人に違いない。革命を起こしてくれるに違いない。あるいはクーデターを起こして敵であるローマの支配からイスラエルを救い出して、新しい国を興(おこ)してくれるものと期待しました。だから多くの人々はイエス様を迎えたのです。ところが、捕らえられてしまって、見ていると何もしないまま、ついに十字架にかかられました。その時もイエス様は一言も激しい言葉を出さない。まるで無能無力、ただされるがままになっている。その様子を見て多くの人々は失望したのです。「何だ、今まで期待していたのに!」と。その思い入れが激しかっただけに、今度は逆にイエス様に対して憎しみと憤りがわいてきた。そして、とうとうイエス様を十字架につけました。それでも、イエス様が十字架の上で何かするかな、と思ったら何にもしないままで終わってしまった。イスラエルの人々は大きな失望に包まれました。そしてローマの人々がイエス様を取り下ろして墓に葬りました。もうこれでキリストはおしまい、イエス様のことはこれで終わった、と封印をしたのです。大きな石で墓を閉じて、ローマの兵隊を昼夜監視役として置きまして、もう二度とイエスの名がこの世に出ないように全く封印したのです。

ところがどうだったのか? それから三日目の朝、イエス様はその大きな石を取りのけて、墓からよみがえってくださいました。その後二千年以上にわたって、世界にイエス様の名が伝えられ、この救いが広がっていったのです。あの小さな中近東の一小国であるユダヤの地に、あのエルサレムのゴルゴダの丘に、イエス様がたった一粒の麦となって死に絶えてくださった。何一つあらがうことをしない、抵抗することをしない、ただ、唯々諾々と言われるがまま、なされるがままに、自分を委ねきっていく。これが「一粒の麦が死ぬ」ということです。

このとき、イエス様はそのような自分であることをここで預言しているのです。24節に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。イエス様はそこで葬られましたが、父なる神様はそのイエス様をよみがえらせて、今度は弟子たち、力もなく隠れていた弟子たちにご自身を現してくださいました。そしてやがて50日目、五旬節を迎えた時、ペンテコステの日に聖霊を注いで、イエス様のよみがえりのいのち、よみがえってくださったイエス様の霊が一人一人のうちに宿って、キリストと共に生きるものと変えてくださいました。これはすごい。たった一粒のイエス様が、今度は姿かたちを変えて、ペテロの中に、ヨハネの中に、あるいはパウロの中にまで、イエス様がよみがえって、いのちとなり、宿ってくださいました。

やがて時を経て、世界中の人々に、島国日本のその中のほんの小さな九州の、北九州の私たちの所にまで、今もよみがえったイエス様の力が、私たちのうちに宿ってくださる。イエス様ご自身が、皆さんのうちに住んでくださって、私たちではできない新しい業へ、私たちが考えもしなかった生活や事柄の中で、生きるものとしてくださいました。いのちとなって私たちを生かしてくださる。言うならば、一粒の麦から生まれた、死んだはずの麦から芽生え育ち、そして実を結んだ結果が私たちです。これは驚くべきことです。イエス様を亡き者として葬った、当時栄華を誇ったローマ帝国は今はありません。イエス様を永遠にこれでおしまいだ、と言って封印した、当時の指導者や実力者、権力者はもうとっくの昔に消えています。しかし、葬られたはずであった、封印されて二度とその名が知られるはずのなかったイエス様こそが、よみがえって、そして今も変わらないいのちの源となってくださっている。これは本当に素晴らしい神様の御業と言うほかはない。だから、そのこと一つを考えてみましても、神様という方はなんと大きなことをしてくださるかと思います。私たちがこの救いにあずかるために、イエス様がまずご自分を捨ててくださった。

ピリピ人への手紙2章6節から8節までを朗読。

これはイエス様のご生涯を言い表した短い一節ですが、6節に「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。「神のかたちである」と言うのは、取りも直さず、イエス様は神そのものでもある。神様のご性質、神様の位にいた方、神なる方があえて、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」と。「固守する」というのは、絶対譲れない、これはもう私から離せない、と言って頑張ること、突っ張ることです。私たちにもよくそのようなことがあります。「こう決めたんだから、これしかならない。これ以外は駄目!」と、私どもは突っ張る。それを「固守する」というのです。ところが、イエス様はご自分の大切な神聖、神のご性質、神の位に、あるいは神と等しくある、という絶対要件といいますか、欠くべからざる立場を捨ててしまった。まずイエス様が一粒の麦となって死んでしまうことです。父なる神様のみ心に自分を委ねきってしまう。これが、一粒の麦となって死ぬことです。

そうやって、神の位を捨てて人の世に下ってくださった。人の世は、まさに土の中であります。種が畑の土の中に埋められてしまったら、土と同化していく。土の成分やそのようなものと一緒になって、どこに種があるのか分からないくらいに土と混じってしまう。やがて死んで芽が出てきます。イエス様もまさに私たちと同じ人の姿になって、この世の闇の中に、地面の中に埋められてくださった。「その有様は人と異ならず」とあります。イエス様は全く人と同じになって、私たちの世の中に埋められてくださいました。やがて、世にあって種であられるイエス様が、今度は新しいいのちによみがえり、復活の主となってくださいました。「十字架の死に至るまで」、イエス様はご自分を捨てて、父なる神様が求められる厳しいあがない、十字架に神の子羊としての使命を担ってくださいました。

マタイによる福音書26章36節から46節までを朗読。

これはゲツセマネの園での祈りであります。人となった主は、この世にあってイザヤ書53章のお言葉にありますように「悲しみの人で病を知っていた。また私たちの罪を担い、そのために打たれてくださった」とあります。このときイエス様は、人の世に住んで、人と同じ悲しみと悩みを知ってくださいました。この37節に「悲しみを催しまた悩みはじめられた」とあります。決してイエス様は「私は一粒の麦だから、何にも心配はない。私は死ぬために来たのだから、私は平気だ」という方ではない。私たちと同じように苦しみがあり、悩みを感じてくださった。罪を犯さなかったが、すべて人と等しく、私たちと同じものになってくださった、と記されています。私たちの弱さを知り、悲しみを知り、悩みを知ってくださる方です。この時のゲツセマネの祈りは、イエス様にとってまさに最後の自分を捨てる、自分に死にきっていくための大切な時でした。イエス様は39節に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。イエス様は喜んで十字架を受けることができる方ではもちろんない。私たちだってそうです。何かに直面するとうろたえおじ惑い、力をなくして、悲しみ嘆きます。イエス様もそのような悲しみを担ってくださった。しかし、同時にイエス様は私たちのお手本となるために、この苦しみを通ってくださったのです。この時、イエス様は祈りました。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と。ここまで読みますと「やはりイエス様はわれわれとちょっと違うな。お祈りして『みこころのままに』と言えるな」と、そうでもないのです。

思い出しますけれども、昨年の今ぐらいだったと思いますが、T兄が病で苦しみの中にいらっしゃいました。病室にお訪ねした時に、一言「先生、イエス様のように『御心をなしてください』と私は祈れません」といわれました。お医者さんですから、自分が弱ってきて、大体状況はよく分かっている。まさにイエス様と同じで死を目前にして、そう言って涙を流されたことを今でも忘れることができません。私は「そうですね。本当にそうですよ。私たちは弱いから決して『神様、あなたの御心のままになさってください』と言えない。それは決して罪でもなければ、悪い事でもない。そのとおり正直にイエス様の前に告白してください」。格好をつけて、クリスチャンだからこの際、人の手前、ここは「御心のままに、私は大丈夫です。たとえ死のうとこれは神様のなさる事ですから……」と、そのようなことは言えない。言えないのが当たり前です。だから「言えません」と言えた彼は、素晴らしかったと思います。それを神様は知っていてくださるのです。

このときもイエス様は「思いのままになさってください」と祈ってはいますが、そのようにできる、と言っているのではない。そうだったら、これでお祈りは終わりです。ところがイエス様は二度も三度も、42節に「また二度目に行って、祈って言われた、『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』」。「みこころが行われますように」と言いながらも、まだ戦いがある。一粒の麦となって「もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」とイエス様は言われる。そのイエス様ですらも、悩み、祈り、神様を求めます。ましてや、私達がここに至らないことは、当然です。だからそれでいいとはなりません。もしそうだったら、救いがありません。この戦いの中でイエス様はどのようにしたか?繰り返し、繰り返し同じ言葉で祈っているのです。どうぞ、私たちは、一粒の麦になりきって、死んで、己に死んでといいますが、その死ぬ場所はここなのです。確かに、イエス様はこの後十字架におかかりになられますが、十字架の苦しみは肉体的な苦しみです。やがて父なる神様から罪人として、父と子としての関係を絶たれ、精神的な苦しみに遭われます。しかし、一番の戦いはこのゲツセマネの園です。イエス様はここで徹底して祈り、祈って本当に神様の御心にしっかりと従えるまで、心の戦いを戦っています。イエス様は、そのような戦いも悩みもなかったのではありません。イエス様は「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。「世に勝つ」というのは、これは私たちが自分に打ち勝って、自分を神様のものとしてささげきって、一粒の麦のごとく地に落ちて死んだものとなりきってしまうことです。それには祈る以外にない。ここでイエス様が繰り返し、繰り返し何度もお祈りになられました。三度祈ったとありますが、三回と言うのは、決して回数を言っているのではなく、徹底して自分の思いが神様のみ思いと一つになるまで祈ることです。「神様の願っていらっしゃることはこのことですから、分かりました」と本当に心から言えるまで、どうぞ、祈っていただきたい。

やがて、イエス様はそのように祈り、祈って、心と思いが整えられ、神様の力に満たされて、変わります。45節に「それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、『まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ』」。先ほどの「悲しみを催しまた悩みはじめられた」イエス様が、この祈りを通して、46節に「立て、さあ行こう」と変わってしまう。この大きな変化はどこからくるのか。それはただ、自分を神様の御思いにささげきるまで祈り祈って、そして主の御思いと一つになって初めて自分を捨てる、一粒の麦になりきっていくことができる。私たちもそうです。いろいろなことで自分の思いどおりにいかない、願いどおりにいかない。いろいろな事柄で自分を捨てることが求められる。そのようなときにどうしても自分の力ではできない。イエス様のこの祈りをもう一度思い起こしていただいて、本当に主の御思いにピタッと一つになることを求める。これが死ぬことです。イエス様が父なる神様の御思いに一つになって、この世に来てくださいました。そして更にまた十字架を目前にして、ゲツセマネにおいて父なる神様の御心に自分を沿わせきって、委ねきっていく。ここに自分を捨てて、そして死にきったものとなって、新しいいのちの源となっていく。

もう一度初めのヨハネによる福音書12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。「もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。「もし死んだなら」というこの一言は、短いですけれども、これは大変苦しい、きつい。でもそこにしか、私たちのいのちはない。そのために、私たちに与えられている武器はただ一つ、祈ることです。祈って神様を求めて、神様のみこころにピタッと心を合わせていくことができるように、「みこころのままになさって下さい」と本当に心から喜んで言えるところまで祈って、心を変えていただく。神様の力によって新しくされるとき、私たちはイエス様のように捕らえに来たユダヤ人やローマの兵隊たちに真正面から正々堂々と立ち向かうことができる。いや、彼らに身を一切委ねることができるのです。何を言われようと、誤解曲解、どんなことの中にあっても、黙々と言われるがまま、なされるがまま委ねきっていく生涯です。どうぞ、主の御心に私どもはしっかりと自分をささげきって生きることができるまで、祈って、主を待ち望み、主の力に満たされていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。




最新の画像もっと見る