民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

非行少年の論理

2017-06-08 05:44:20 | 政治

勤めているときには、たくさんの問題行動を起こす少年・少女たちとつきあってきました。彼らには彼らの事情があって、問題行動を繰り返すのですが、総じて言えるのはよほどのことが無い限り自分の非は認めないということです。大人がいうのだから、先生がいうのだから、警察がいうのだから改心して本当のことをいうだろう、などと甘く考えたら痛い目にあいます。それどころか、指導の途中で腕をつかんだとか、胸倉をつかんだとか、そんなことを先生がしていいのかとすごまれます。たとえば、A君が見慣れぬ物をもっており、万引きに違いないと思って話しても、人からもらったとか借りたとかいう話になります。それはB君の物であることが明らかで、今持っているA君がかすめとったに違いないとしても、俺がとったとこを見たのか、すぐそうやって俺を犯人にしたがるといいます。暴力行為にしても、C君がA君に殴られたと訴えてきてA君を呼んで話すと、俺はやってない、どうしてCの言い分ばかり信用するのか、先生は俺が殴るところを見たのか、といいます。要するに現行犯でない限り、言い逃れはいくらでもできると高をくくっているのです。今政府のやっていることは、この非行少年と同じ幼稚な論理ではないでしょうか。明らかに政府が関与したと判断されることであっても、現行犯でなければしらを切り続ける。やったことでも、やらないといえば、現行犯でない限り通ってしまう。こんな恥ずべき行為を国の先頭に立つ人々がしていて、子どもの教育ができるのでしょうか。非行少年たちに、良いモデルを与えているようなもので、もちろんこの場合のヨイは彼らの論理にとっての「良い」なのですが、学校でまっとうなことを教えることはできません。真面目な大人の論理、世の中の常識を政治家に教えなければなりません。


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