80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

署名運動へのお礼状

2011-09-30 00:32:33 | 戦争体験
 先日のHARUKOさんの姪御さんからの署名運動にご協力いただいて

どうもありがとうございました。

そのお礼状がHARUKOさんに届いたそうで、私のところへ転送してくだ

さいましたのでお載せします。

皆様ご協力どうもありがとうございました。m(__)m




状態 タイトル 投稿日時▼ 投稿者名 gooID 記事ごとに管理 閲覧

公開 署名 2011-09-29 20:51:09 HARUKO 放射能のホットスポット

在住者の...

みなさん ご協力ありがとうございました。

きのう、締切でしたが、2000名以上集まったそうです。市長の反応も

良かったようです。

奥州市に住む姪からのお礼のメールを転送します。少し省略しています




お陰様で全部で2043名の署名が集まりました。2000名に達する

とは思っていなかったので感動です。

忙しい中声がけしてくれたおば様に本当に感謝してます。ありがとう

ございました。また署名して下さった方々にも本当に感謝の気持ちで

いっぱいです。よろしくお伝えくださいませ。

奥州市長も他の自治体の方からもこれだけ心配されていることを知って

何とかしなければ、思ったことでしょう。

本当にありがとうございました!

今日は私は仕事でいけませんでしたが、昼過ぎに代表者8人で奥州市長

へ放射能対策を要望するための面会に行ってきました。

その結果、市長さんは前回面会の時とだいぶ違って、放射能対策の具体

的方針を打ち出してくれた、とのことでした。

半年以上たってようやく動き始めてくれることになりそうです。他の

自治体に比べれば遅い出発ですが、それでも子供のための第1歩なので

嬉しいです。


今回、放射能対策への第1歩を踏み出せたと思っています。

ご協力いただいた皆様へよろしくお伝えいただければ幸いです。

本当にありがとうございました。




小さな小さな旅(3)

2011-09-30 00:09:48 | 最近のできごと


 NAKAMICHIと書いたアーチをくぐり、暫くゆっくりと両側のお店を

見ながら歩いていったが、なかなかテレビで拝見したお店には行

き着けなかった。

ふと、左側にレースや、いろいろの服飾品が並んでいるお店を見つけ

なんとなく入ってみたら、銀色のイヤリングに目が留まった。

スイス製ですといわれて、手にとって見るとイヤリングのつけ方が


ちょっと変ってしゃれているように思えてつい買ってしまった。

もちろん私が買うくらいだからお安いものである。


そのお店を出て数十メートル行ったら右側にテレビで拝見したイタリヤ

男性のお店があった。

テレビで女優さんが欲しいと言っておられたネックレスがあったが、

テレビで見たのは、ちょっとブルーがかった落ち着いた色のものであっ

たが、実物はもっと明るいグリーンで、なんとなくイタリヤの日光の

明るさの中で引き立ちそうな派手な色のもので、私も欲しいと思って

行ったのだが、とても着こなせる自信がなく、御遠慮申し上げる

ことにしたのだが、多分お若い溌剌とした方にはお似合いだと思う。

そのお店のすぐ先、左側に、目指すお茶屋さんがあった。

表から覘いてみると、テレビで見たとおりの日本的な桐の箱にお茶

が入ったものがずらりと並んでいて、ご店主のフランス人の方が、

日本の若者の店員さんと水出しのフレバリーティを振舞っておられる

ところだった。

 カシスのお茶を私にも入れてくださったが、いい香りがして、おい

しかった。 お店にはいろいろなものがあった。

夏みかん、桃、ラ・フランス、スモモ、カシス、巨峰、あんず、チョ

コミントその他いろいろあったが、まあ、お後はご覧になっての

お楽しみということで・・・。

私は八女茶二本と、夏みかん、桃をいただくことにしたが、チョコミ

ントをプレゼントしてくださった。

お店の定休日は毎週火曜日、第2、第4の水曜日もお休みで祝日は

営業しておられるそうだ。(営業時間は11;00から20;00)

お茶屋さんを出たら、もう外は薄暗くなり始めていたので、それ以上

遠くまで行かずに帰ろうと思ったが、すぐ近くに,佇まいが素敵な

お店を見つけて、入ってしまった。

そこで見つけた、ネックレス二本が、私のクロゼット行きに決まった。

帰りに焼き小籠包を買おうと思っていたが、行列ができていた。

 "後何分ぐらい待ったら買えるかしら?”と一応聞いてみたが、

 迷った挙句に、"10分ぐらい"という答えが返ってきたので、

 多分20分以上かもと勝手に解釈して、他の店でジャンボ餃子を

 買ってきたが、私の好きなお味ではなかった。 まあ、人、それ

 ぞれ、好き好きだから、他の方はおいしいと思われるのだろうか。

 家に帰ったのは19時半。5時間半の小さな小さな旅であった。

 テレビで拝見した素敵なスイスの方のお店や、チェコのか方の

 お店には行かれなかったのが多少心残りだったが、それでも、

 何とか無事家に戻れたのだから、まあ、いいとしようか?≪笑い)

 それなりに楽しかったっけ。





人気ブログランキングへ

小さな小さな旅(2)

2011-09-29 10:50:04 | 最近のできごと
 京王線吉祥寺で下車して、すぐ駅員さんに
 
”公園口でない方に行くようにと言われてきたのですが、どのように

  行ったらいいでしょうか?”と、聞いてみたら、

 ”すぐ前のエスカレーターで降りて、左へ曲がって,又,エスカレー

 ターで左へ行き、又、左へ降りてください。ちょうど、この下に

 なります。右へまっすぐ行くと北口へ出ます。”と教えてくれた。

 目の前には、なんだかごちゃごちゃした小さなお店が立ち並んでいて 

 どうも雰囲気が私の思っていたものと、全く違うので、目の前の薬屋

 さんで、栄養ドリンクと膝下ストッキング を買って、聞いてみる

 ことに。

 私はいつも忙しくしておられる方に何か伺うときには、いつか使いそう

 な物を買い、レジでお金を払いながら質問をすることにしているのだ。

 ハモニカ横丁というパンフレットを下さったが、NHK テレビのことは

 ご存じなく、一応真ん中の道辺りを行っては見たが、駅前に出てし

 まって、どうもおかしいと思ってその近くにあったベンチに座って

 おられたおばあちゃまに聞いてみることにしたのだが、ご存じなか

 った。

  其処へ自転車で後ろに可愛い二、三歳のお子さんを乗せて来られた

 お若い方が、赤信号で、すぐ、そばに止まられたので、ちょっと

 伺ってみたら、丁寧に教えてくださった。

 ”右へ行って、あの角を曲がって又右の方へまっすぐ行くと

  細い道のあるところに出ます。” と言うことだった。

 やや暫く行くと、スクランブル交差点の向こう側に、NAKAMICHI

 と書いたアーチが見えてきた。(つづく)
 




人気ブログランキングへ

小さな小さな旅(1)

2011-09-28 18:05:09 | 最近のできごと
昨日の12時半頃、テレビをつけたら、NHKで”ひるブラ、東京

吉祥寺で世界旅行気分“をやっていた。

面白そうだなと思っているうちにどんどん引き込まれていってし

まった。

二階で嫁さんが掃除機をかけている音がしていたので、嫁さんが

この番組のことを知っているかどうかと思って声をかけようかどう

しようかと迷っていたら、画面の下の方に場所はウェブでご確認

くださいと出て、アドレスが表示されていた。

多分、これは多くの方が興味をもたれて、NHKに電話が殺到して

いるに違いないのではと思った。

番組が終わった後、二階へのこのこと上っていって、嫁さんに場所

を聞いてみたら、

”よく知っていますよ。娘の学校の近くだから。
 
井の頭線の吉祥寺で降りたら公園口でない方へ出てください“

といいながら

“でも、お母さん、それほど素敵ではないと思いますけれどね。“

と付け加えたのである。

“そうなの、私にはとっても素敵に見えたのだけれど、では、そう

思って行ってみたら、あまりがっかりしないですむかもしれないわ。"

と言い、

”今度、体調を整えて行って見ようかしら。当分は混むかも知れない

から“と言って降りてきた。

食事をしながら、何時行って見ようかとそればかり考えていたのだが、

大抵の方はお友達を誘っていかれるに違いない。

それでは、それぞれのご都合があって、すぐには行かれないだろうか

ら、今日なら、多分すぐ行かれる方は少ないだろうから、あまり混ま

 ないかもしれないと思って急にその気になってしまった。

一応友達を誘うことも考えてはみたのだが、この年になると

一緒に出かける友達にはいろいろ障害がある。ご主人様の具合がお悪い

とか、足、腰が痛いとか、遠くまでは行きたくないなど、又、お元気な

方は、スケジュールが一杯で、なかなかご一緒するのが大変ということ

もありで、グループで行くことはなかなかまとまらないので、一人で

ともかく行ってみようと思い立ったのだ。

昨夜はあまり寝ていないし、今朝は町のお掃除に行って疲れたからと

思ったが、それでも暫く休んだし、ええい、ままよと冒険に(?)乗り

出した。

夕方は寒くなりそうだと言うことを今朝テレビで言っておられたと

思ったので、上に羽織るものとか、下着を一枚リュックにつめ、飲み物

とか、疲れたときに塗るための“バンテリン”と、風邪薬や、いつも

飲んでいるお薬を数日間分入れた。 どうも震災以来、電車が止まる

ことが多いような気がしたり、地震が多いので、必要以上に用心深く

 なっているのだ。

それで、バスの時間表を調べ,二時ちょっと前に家を出た。

(つづく)


人気ブログランキングへ

日本は何故戦争に向かったか(9)

2011-09-26 14:56:18 | 戦争体験
NHK テレビ "日本は何故戦争に向かったか"よりの抜粋

今回彼が同期の仲間と密会したと言われルホテルが今も残っている

ことが判りました。

集まったのは旧ロシア陸軍武官小畑敏郎少佐、欧州出張中の岡村寧次

少佐、スイス駐在武官永田鉄山でした。

時に彼等は何を語ったのか、資料を基に再現しました。

1921年10月27日 ステファニーホテル。

午後10時過ぎ到着するやすぐに議論が 始まりました。

 ”陸軍の装備は日露戦争当時から進歩がない。”
 
 ”しかし山形元帥の息のかかる古い考えの上層部では変革は

  できない”
 
 ”国民と乖離している現状では、新しい戦争に備えられない。”

話題は祖国の立ち遅れに集中して部屋中に危機感がみなぎりました。

 そして三人の考えが一致、"古い陸軍を刷新する。”

彼等がヨーロッパで目にしていたものは国家どうしがすべての資源を

投じてぶつかり合う所謂総力戦でした。

 視察を終えて帰国した永田は日本も戦争に向けて準備を急ぐべき

だと報告します。

それは国内産業を軽工業から重工業へと転換させる中、国家全体の

改造を含む急進的なものでした。



 "広い目で世の中を見てだ、やはり多少改革をやらなきゃいかんと

 言う考えをもっていたのだ。 永田君だけは第一次大戦後のドイツ

 を見て日本を振り返って見て、やはりこれではいかんと言う考えを

 もたれたんですね。"とは元、鈴木貞一中将の弁。



 そして彼等は或るグループを発足させました。

 その会名は"一夕会(いっせきかい)”。

 永田鉄山が陸軍士官学校16期生を中心に40名のエリート集団

 を結集しました。


 
 政治の混迷が彼等の行動を加速させました。

 当時民生党と政友会の二大政党選挙目当ての政争に明け暮れ、

 贈収賄事件が相次いでいました。



 国際日本文化研究センター戸部良一教授のお話。

 "議会政治を見て何に本質があるかと言うことと、やはり二つの政党

の間のつばぜり合いと、擦り合い、党利党略、議会政治,政党政治

 と言うのは、要するに、私の利益を掲げ自分たちの権力欲のために

 やっているのではないかと言う見方が強く出てしまった。

 だから、彼等があれに期待しても駄目だと思ってしまった。

 一夕会は陸軍改革を実行に移していきます。

(つづく)


人気ブログランキングへ



 ”






















日本は何故戦争に向かったか(8)

2011-09-25 10:10:37 | 戦争体験
 NHKテレビ”日本は何故戦争に向かったか”よりの抜粋



第二回巨大組織"陸軍暴走のメカニズム

 所謂太平洋戦争が起きて、70年前日本人は何故戦争へ向かった

のかと言う事を検証するシリーズ、今日は陸軍とりわけ組織の問題

を取り上げようと思います。

陸軍は戦前は最大の官僚組織と言うべきものでありました。

日本を戦争に引きずり込んだ元凶とか主犯者とか言われてきました。

しかし、新しい資料から浮かび上がったものはその戦争への道を陸軍

が一丸となって乱れず、まっしぐらに進んできたという事ではなくて

いくつかの誤算が重なりあって戦争へと進んでしまったと言う事実。

先ず、1920年に起こった改革運動でした。

先ずそれは陸軍にどんな影響をあたえたでしょうか。

千葉県山武郡に陸軍の組織を知る上で鍵となる人物が晩年を過ごした

場所があります。

 戦後A級戦犯となった元陸軍の鈴木貞一中将は太平洋戦の責任者の

一人として、終身刑を言い渡され10年間服役しました。

亡くなって22年間空けられることのなかった金庫が開けられました。

鈴木は昭和の初めから常に陸軍の中枢を歩いてきました。

資料からも陸軍の転機となる多くの部分に立ち会っていたことが判り

ます。

ご遺族の鈴木光範さんのお話。

 ”会戦前夜のこととか、戦争を遂行するに当たって資源の調達とか

 陛下に上奏していたようです。

金庫に保管されていた1920年代の日記には鈴木が若手将校として

活躍し始め、すでに組織の改造を議論されていたことがわかりました。

鈴木は肉声のテープを大量に残していました。

改革の始まりについて語っています。

 ”これはね。根本は非常に深いのですけれど、ご承知のように

日本の陸軍と言うものはほとんど山形さんがやってたんですよ。

山形さんと言う者がおって、ペン先のように動いたわけだね。

目を開いてものをやると言う事がないわけだ。だから下の方の永田

とか言うような優秀な人が見ると、ああ馬鹿らしいと言うことに

になるのですよ。”

元老が支配する古い組織に疑問を抱いていたと言うのは、永田鉄山、

その明晰な頭脳で、永田の前に永田なし、永田の後に永田なし言われ

ていた陸軍きっての逸材でした。

永田は軍事研究のためヨーロッパに6年間駐在、改革への思いを募ら

せました。 (つづく)人気ブログランキングへ


日本は何故戦争に向かったか(7)

2011-09-24 11:49:03 | 戦争体験
NHKテレビ"日本は何故戦争に向かったかよりの抜粋

 大日本帝国陸軍、国家を戦争へと導いた所謂、巨大な組織です。

陸軍の組織が変質をきたしたのは太平洋戦争の20年前。

南ドイツホテルの一室に三人の若き将校が集まりました。

議題は新しい時代の戦争でした。

圧倒的な破壊力と殺戮、はるかに遅れをとる日本の現実に彼等

は危機感を募らせました。

そして同志を募ります。その会の名は”一夕会(いっせきかい)”

古い体質の陸軍を刷新すると言う改革の理念に基づいて共鳴した

40人のエリート達でした。

しかし、その改革は思いもよらぬ結果を生みました。

1928年河本大作の張作霖爆殺事件、(中国の要人の暗殺)

日本が国際社会から孤立するきっかけとなった謀略,1931年

満州事変(板垣征四郎、石原莞爾)、日中全面戦争の先端を開く

ことになった1937年(牟田口廉也)盧溝橋事件、そして、

1941年、太平洋戦争の開戦(東条英機)

合理的に改革を目指したはずの彼等が何故無謀な戦争へと向かっ

ていったのか、戦争にいたった理由を、戦後、当事者達が語って

いました。その肉声のテープの存在が今次々と明らかになって

います。残された証言記録はおよそ百人、そこから浮かび上がる

のは、派閥抗争や肥大化などの巨大組織特有の負の側面でした。



元、陸軍大佐の証言

 "兵力を減らせとなると、結局60万のうち五万でも減らすと

 なると、今の行政整理と同じで、血が出る訳ですね。”




元、陸軍中将の証言

 "何かやろうとしてもきしりがあるわけですよね。そのきしりを

  出ないようにしようとすると、あっち言ったりこっち言ったり

  何もしないで終わることになる。”



 元、陸軍少将の証言

  "大東亜戦争をやろうなんて誰も思ったことはありませんよ。

  それを越えちゃった訳ですよね。”



 元、陸軍大佐の証言

 もう,支那事変だけだってうんざりしておるのに本当にアメリカと

戦をしなければならないのじゃないかという、黒いいやな空気が肩に

かかってきたと言う気がしましたね。”

最大550万人巨大組織陸軍、発掘された肉声証言を手がかりに戦争

に至った暴走メカニズムに迫ります。

(つづく)


人気ブログランキングへ

放射能のホットスポット在住者の方からのお願い

2011-09-22 19:12:44 | 健康

以下の文章は私のお知り合いの方から転送されたメールです。

奥州から一関が放射能のホットスポットになっていて、お子さん方

のために運動を展開されておられるのだそうですが、なかなか

署名が集まらないのだそうです。何とかご協力いただきたい

のです。どうぞよろしくお願いいたします。



こんにちは。



実は奥州~一関が放射能のホットスポットになっていて、その対策に少々

忙しい生活を送っていました。

奥州市でたくさんの学校校庭・敷地内や公園で高い放射線量が測定されて

いるのに、岩手県や奥州市、教育委員会はほとんど子供を守る対策をとっ

てくれません。

牛乳でもセシウムが検出されているにもかかわらず基準値以内だからと

学校で飲ませ続けられ、市や県、教育委員会へお願いをしてきましたが、

全く聞く耳を持ってくれませんでした。

そのため「放射能被曝から子供を守る会・いわて」を奥州市の保護者が

たちあげ、子供の教育環境(学校、公園など)の除染や、学校給食の

安全性などを、市に訴えてきていました。

それでも奥州市長は、いまだに子供の年間被曝量20mSV目標を撤回しよう

とせず(たくさんの自治体が子供は1mSV/年と言ってきている中で)、

おまけに市の広報では安全寄りの発言ばかりしていました。

報道で岩手県南がホットスポットだと騒がれ始めたら「奥州市がホット

スポットと報道などで言われているが信憑性に欠けるので注意」

「放射能を心配しすぎて心の病になった人もいるので注意」という

コメントを9月の広報で新たに出したんです。

放射能汚染されている事実を市民に周知せず、基準値以内なので安心です、

ということばかり言っています。これでは子供は守れません。

他の自治体、栃木、茨城、千葉などでは学校の除染した(奥州一関よりも

だいぶ低い放射線量の校庭でも除染しています。というよりそれだけ奥州

一関が高いということですが)、あるいは除染の方針をたてた、という

記事がたくさんでてきている中、奥州市だけは何も動いてくれません。

しかも私たちのように子供の安全性を訴える人達を特別視されるような

記事さえ書いているのです。



今、WEBと書面での署名集めをしています。私も途中から仲間入りをして

署名集めの手伝いをしていました。

来週28日に、市長さんへ署名を持って子供の放射能対策の要望に行く

のですが、署名数が足りません。最初はWEBのみでやっていたのですが、

この辺はWEBを使う人が多くないことと、この活動を知らない人も多い

ということです。最近書面で集め始めましたが目標の1000まではまだ

まだです。県外からの署名も大歓迎です。

奥州市にゆかりのある方(実家がある、親戚がいる、友人がいる、

故郷である、など)はコメント欄にぜひ記載してほしいのです。

賛同していただけるならぜひ署名をお願いできないでしょうか。

また治子おば様のお知り合いで賛同してくださりそうな方がいましたら

お願いできないでしょうか。



会のホームページはこちらです。

http://ameblo.jp/miraieforchildren-iwate



署名はここです。http://ameblo.jp/miraieforchildren-iwate/entry-11005481094.html



お願いできますと嬉しいです。よろしくお願いします。







以上です。 どうぞよろしくお願いいたします。


m(__)m人気ブログランキングへ

日本は何故戦争に向かったか(6)

2011-09-21 12:40:27 | 戦争体験
NHKテレビ "日本は何故戦争に向かったか "よりの抜粋です。


大島は早い段階からイギリスが防共協定に消極的だということを

つかんでいました。 ヒトラーの腹心のリッベントロップはすでに


イギリスとの連携を模索し失敗していたのです。

 リッベントロップは

 ”イギリスは到底友にはならんと言うことをしっかり報告しよう。

 どうも総統はイギリス贔屓だから”と大島に言っていました。

 又してもこの陸軍側の情報は外務省側に伝えられませんでした。

  一方の吉田もイギリスとの交渉を独自の考えで進めだしました。

 東京の意向を確認せず、イギリスに中国の共同開発を打診したのです。

 有田外相の弁。

 "吉田君がイギリスと支那の問題を一緒にやろうとプロポーズしたと

 ところが日本の政府はそうは思っていなかったと。”

 そこでイギリス側は違いが判って、戸惑いました。

 ベルリンの大島等の動きを監視していました。

 イギリスはすべてがちぐはぐな日本側の真意を疑って、不信感を募

 らせてゆきました。

 "今日も吉田がやって来たが、どうも日本側の本当の意図がわから

 ない。”

 ”まともに相手にする必要はない。このまま暫く遊んでやればよい。”

 世界を股にかけ何とか孤立を回避しようとした防共外交の試み、しかし

 自らを統制できない日本外交の現実は、返って日本への信頼を失わせて

 いました。

 最初に防共協定をもちかけた中国でも日本のまとまりのなさが影を落と

 していました。

  1936年10月8日 日中外交交渉

 蒋介石と川越茂大使の間で防共協定をめぐる交渉が大詰めを迎えようと

 していたとき、中国を何とかつなぎとめようと日本はあせっていました。

 "ただ親善を口にしていても意味はないでしょう。共産主義に対抗する

 共通の目標を掲げましょう。”と、川越大使。

 蒋介石は
 
 ”わが国にはソビエトに反対することを好まぬ空気があります。

  先ず、それをどうするかなのです。”

 だが、この時点で国民政府が日本の呼びかけに応じる可能性はなかった。

 1935年の暮れ、すでに、中国が日本を見限り、ソビエトとの関係の

 強化に踏み出していたことが、このほど、ソ連側の資料で初めて確かめ

 られました。

 大東文化大学(日中外交史)の鹿錫俊教授はこのときの蒋介石の心理を

 新たにしました。

 10月18日の資料の中で、対日関係と対ソ関係の利害及び軽重関係に

 ついて注意しなければならないとある。

 これは日本の出方を注意深く見守って行かなければいけないということ

 で蒋介石は、日本が外交関係について統一できないと見るや、ついに

 決心を固めました。

 12月15日の注意の中で蒋介石はいろいろと悩んできましたが、

 ソ連との提携に傾いた。日本はまとまりがない。一体外交は外に向かっ

 てやっているのか、陸軍がやっているのか、何回もやられると、外務省

 は軍の意見を隠すための何か姿勢だけのものではないのか、そういう

 意見がだんだん中国の対日認識の中心になりつつあった。



 イギリスやポーランドとの交渉は進展がなく、日本が側の思惑とは

 関係なく、その中に避けたかったドイツとの交渉だけが着々と進展

 してしまった。

 外相有田八郎は

 "申し入れを入れてから返事を待つも待たぬもなくドイツの方が進行

 してしまって、それについての論争がはじまってくるというふうな、

 だから、振り返ってみると言うと、やっぱり日本のいろんなやり方が

 間違っておったんだろうと思う。

 
ロンドン大学教授アントニー・ベスト氏は

 ”日本のやり方はいろんな無理があったんだろうと思います。

 外から見れば、日本内部の混乱と言うか信頼が失われていたのです。

 1936年11月25日、日、独 防共協定が成立、ソビエトは

 もちろん欧米諸国の猛反対を引き起こしました。

この世界の反応については、大島等陸軍も読み違えを起こしていました。

イギリスはああドイツに反対すると思ってはいなかった。

赤化≪共産主義化)と、いうことをもっと何処の国も警戒している

だろうと、イギリスあたりも協定に対して非常な反感を持つと思って

いたのです。

孤立した日本は翌年中国との全面戦争に突入しました。

(1937年7月7日)日中戦争


世界との関係を回復しようとした日本は気がつけばドイツ以外の世界中

を敵に回していました。

アメリカルーズベルト大統領の演説

 ”世界には不幸にも無法と言う名の疫病が広がっている。

  人々はこの隔離に賛同し参加しなければならない。。”


 孤立を避けようとした日本が逆に後の世界戦争への道を歩むことに

 なるのです。

最後まで日独単独協定を避けたいと思っていた有田八郎は、皮肉にも

調印時の外務大臣として、その名を歴史にとどめました。

 遺族に残されたものはドイツから送られた感謝の勲章でした。

ご遺族は

"もっとやりようがあったんじゃないかと疑問はありました。しかし

実際にはできなかったと思う。もう一歩踏み込んでいっても良かった

んではないかと言う部分もありますとおっしゃっていました。

何故日本は孤立化への道を歩んでしまったのか、それはその時代の

一つ一つがきちんとした長期計画のもとで行われたということでは

なかったと言うことです。むしろ見えてきたのは、はっきりとした

国家戦略もなく、甘い想定の元に次から次へと起こることへの対応に

汲汲とした姿、一体誰が情報をまとめ、方針を決めたのか、そして

いったん決めたことを何故覆すのか、そういったことが何も見えない

日本がやがて世界の信用を失っていくことになるのです。

方針も情報も一本化できずに打ち向きの都合のいい現実だけを見続

けた果てに日本は所謂太平洋戦争に向かうのです。

外交敗戦というべき国家の現実はあの敗戦の日まで繰り返されたの

です。

欧米との対立が激化した1940年かつての国際連盟を脱退した

時の全権大使松岡洋右が外務大臣に就任しました。

松岡の期待は日独伊三国同盟でした。1940年9月27日。

いろいろ日本を太平洋戦争へと追い込んでいきました。

松岡は戦争を防ぐためと思って藁をもつかむ思いでこの同盟を結んだ

のですが、それが裏目に出ました。


人気ブログランキングへ

 

なでしこジャパン佐々木監督(2)

2011-09-20 05:09:26 | スポーツ・趣味
 今年一月に出版された佐々木監督の”なでしこ力”と言うタイトル

のご本は6万部も売れたと言う。出版社の予測した数の十倍だそうで、

出版社には"サッカ-本と言うよりはリーダーシップやマネジメント

の本のようだとか、佐々木監督は理想の上司だと言う話が寄せられて

いるとか。

佐々木監督に関心が集まる中、NHKでは街頭で、いろいろな方に

佐々木監督に対する質問を聞いたところ、いろいろと質問がでてきた。



・個性的な選手に対する操縦術はという質問には、(デザイン会社社長)


 "個性的な選手は確かにいるんですけれども、僕自身、個性がある

 からどうのこうのと、今のところ偏差しないで或る意味、自分たち

 のなでしこたちの一員としてある程度一線を引いた中で自分たちの

 やることをやっているかどうか、後は経験の或る選手達が、失敗

 するかどうか、と言う事、それが一番チームにとって非常に重要視

 されるんです。

 若い選手が失敗すると言うのはまだまだ経験がないためで若い選手

 の失敗は改めて叱るよりも、それよりも経験の或る選手の失敗は

 強く叱ったり叱咤することはあります。”


 ・面倒くさい女性の扱い方について、(30代女性)

 ”なんで女性の方自身が女性は面倒くさいと言うのでしょうね。

 僕自身も女性って大変だらうと、男性のあるコーチから言われる

 んですが、日本はどちらかと言うと、男性の目線で判断するんですが

 逆に、僕は女性のサッカーチームに入れてもらっているわけなのです

 から、僕もあまり自信がないわけですから、僕自身も女性に学んで

 いると言うか、格好をつけずに自分を打ちだしていく、その中で反応

 が悪いものは、僕自身反省しますし、反応がいいものはこれでいいん

 だなと思い、逆に言うと、難しい女性をコントロールするという意味

 ではやってきていないので、・・・・・。”


・いらっとすることはありますか?(保険会社 勤務 46歳 男性)

 

 ”いらっとするのは、自分の感情なので、自分の指導がうまくいって

 いないことが多いので反省します。ただ、本当に集中し切れていない

 ときも、なでしこにあるので、そのときは注意しますが、感情からと

 言うことでないように心がけています。



・勝つために一人一人のモチベーションを上げるためにはどうすれば

 いいのですか? (IT関連会社員二人)


 "勝つためのマニュアルなんてないんですよね。勝つために如何に

 準備をするかと言うことが大事で、お互いに目的を共有してお互いに

 それに邁進する。その中でいろんな要素があると思いますが、モチ

 ベーションとか、チームが一体になることが大きなモチベーション

 であって、勝ったり、成功すると言うマニュアルはなくして、その

 準備が大事だと思いますね。”


 以上であったが、アナウンサーの女性は

 ”理想の上司だと思いますと言うのはすごくよく分りますね。

 格好つけないというのは、そう言う風にしてくださると自分も

 本音を出せると言うかお互いに信用できると思うんですよね。”と、

 男性アナウンサーは子育てにも通用すると思います。
 
 いらっとするときは自分も反省し、子供に努力しろよと言うときは

 目標を共有すると言う・・・。”

 ”押し付けではだめですね。佐々木監督は今度はオリンピックに

 挑戦すると言うことですから、是非、金メダルに引き揚げて欲しい

 ですね。”とリポーターの方の弁でした。


人気ブログランキングへ