80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

隠れた偉人(1)

2009-08-31 18:52:09 | 戦争体験
オバマ大統領の発言のお蔭で核廃絶にむかって、少しづつ多くの

方々の意識が変わってきているような気がするが、それとは別に、

あの戦時中のアメリカにあって、原爆を落とすときには、2,3日前

に日本軍に警告するべきであると、職を賭して、当時のアメリカ

大統領トルーマンに進言していた海軍次官ラルフ・バードのこと

をどうしても書いておきたくなった。

以下はwikipedia より抜粋 (80ばあちゃん訳)

Ralph Austin Bard (ラルフ オースチン バード)は1884年、

7月29日オハイオ州クリーブランドで生まれた。 プリンストン

大学の出である。

彼は1944年6月24日海軍次官に任命され、1945年原爆投下に関して、

大領領Harry S. Truman(ハリー エス。トルーマン)にアドバイス

する8人の the Interim Committee(暫定的委員会)のメンバーに

指名された。

バードの参加していた委員会は、満場一致で日本の一般人を攻撃

目標として、警告なしで、できるだけ早く原爆を落とすように

進言したけれども、彼はもう一つの考えに到達した。

1945年6月27日付けのHenry L. Stimson(ヘンリー エル スティ

ムソン秘書官への覚書によるとバードは原子爆弾が投下される

2,3日前に、日本は事前警告を受けるべきであると主張している。

偉大な人道主義国家を標榜するアメリカの立場において、また、

わが国民の大体はフェアプレイの心構えであるから、こうした

考えに達したのである。

バードはさらに、”日本政府は降伏するための条件として使える

何かの機会を探しているのかもしれないと、彼が感じたことを付

け加えている。

最後まで頑張ったバードは、原爆の無警告投下が決まった時点で

辞表を提出し,7月1日に辞めたそうである。

 1975年4月5日、91歳、イリノイ州ディーアフイールドで亡くなった。




夏のお風呂

2009-08-30 07:56:54 | 健康
夏はシャワーで済ますと言う方もわりといらっしゃる

のではないでしょうか?

お風呂洗いが面倒だからと言われる方も居られますが、

私は健康の為にはやはりお風呂で体を温めるというのが

いいのではないかと思っています。

それにシャワーだと肥りますしね。冷房で冷えた体を

温めるのも悪くないと、思いますけれど・・・。

私には、夏になると、楽しんでやるお風呂の入り方が

あるのです。

 1)浴槽を洗う。

 2)髪の毛をシャンプーで洗って、よく流しておく。

 3)体も洗っておきましょう。

 4)浴槽に入って、シャワーを全開にして頭の上から、顔から、

   肩や背中、足、腰など身体のつぼのところにシャワーを当て

   ながら浴槽にお湯を溜めていくのです。

   足の方からお湯が溜まって行くので、足の方からがいいか

   もしれません。

   目の方に当てられるときにはあまり強すぎないように少し

   水勢を弱めた方がいいと思います。他のところは全開が

   とても気持ちがいいのです。

   ジャグジーもいいけれど、この方法だとお顔のマッサージが

   できてとても気持ちがいいのです。

 5)お湯がたっぷり溜まったら、ゆっくりと身体を温めて、今度は

   頭の体操です。

   両手を前に突き出して、両方の手でじゃんけんをします。

   左右どちらでもいいのですが、グー、チョキ、パーを一つづつ

   ずらして左右の手が同じにならないようにするのです。
 

 以上ですが、肩が凝った時は肩を重点的にするとなんだか

さっぱりすること請け合いです。

  でも、ご家族のいらっしゃる方はどうでしょうかね?

使い古したてんぷら油

2009-08-29 07:43:06 | 環境問題
以前団地に住んでいましたが、目の前の芝生の一ケ所

だけ何時でも雑草がきわっだってよく育っているとこ

ろがあって、どうしてなのかしらと、疑問に思ってい

たのですが、ある日の夕方、買い物から帰ってきて、

家の前に自転車を止めて荷物をおろしていると、そこへ

お隣の奥さんがサンダルを突っかけて手に油の入れ物を

持って、ふらふらと出てきたのです。

エッ、何するのかなあと思って見ていると、かねてから、

私が、気にしていたところへ、油の使い古しを捨て始め

たのです。

 私は聞いてみようと思って近づいていきました。

 ”ね、あなた何時も此処へ古い油を捨てていらっしゃ

  るの? ”

 ”そうよ。”彼女は悪びれもなく答えました。

 ”ああ、やっと分かったわ。何度草刈しても、このところ

  だけ草がよく育つのよ。不思議でしょうがなかったの。

  と、言うことは、使い古しの油でもちゃんと役に立って

  いると言うことだわね。”

  それからすぐ、今のところへ引っ越しましたが、以来、私は

  使い古しの油をちゃんと庭の実のなる木の下の方にばら撒い

  ているのですが、中々立派な実がつくのです。

  それに穴を掘って埋める面倒もありません。 

  何方かお試しを!

定年退職(5)

2009-08-28 10:59:16 | 定年退職
子供の頃、父が何か作り出すと、母が大変でした。

”おい、お母さん、あれ持ってきて。”とか、作業の

途中でいろいろ用事を頼むのです。

 始めから持っていって周りに置いておけばいいのに

なあと私は子供心に思っていました。

 ところが、定年後、夫が何か始めると全く同じこと

になるのです。”血は争えない。” いやいや、血の繋がって

いるのは私でした。 それはともかく、男の方は甘えん坊なの

でしょうか? 

 夫が何を作ってくれたかなあと思い出そうとするのですが、

中々思い出せません。しいて言えば、次男夫婦と昔作った

犬小屋でしょうかね。

 65歳で定年退職をして、其の頃はまだ元気だったのでしょう、

私の畑仕事も手伝ってやると称して、鍬で耕すのだけはやっ

てくれました。

 庭木の枝の剪定とか、鋸を使うのは好きだったようで、俺の

出番だとばかりに張り切っていました。鋸を使うと、必ず

てんぷら油を持って来いと言って、使い古したてんぷら油を

テイッシュペーパーに少しつけて,それで鋸を拭きながら、こう

すると、切れ味がよくなると言っていましたっけ。

でも、其の後の片付けは勿論私の仕事になりました。

 (つづく)


戦時中の生活用品と食糧事情(8)

2009-08-27 09:28:05 | 戦争体験
 農協へ行きますと精米機がおいてありますが、普通の白米に

精米するだけでなく、7分搗き、5分搗きと、上白米というの

があります。ためしに上白と言うのをやってみましたが、お米

粒が小さくなって、真っ白く輝いているかのように思えました。

勿論お味は上々でした。 でも、お米は半分になったかと思え

るほど小さくなりました。次のときには健康の為と思って7分

搗きにしてみましたが、まあ、おいしくいただけましたので、

その次には、5分にしてみましたが、これは全くおいしくあり

ませんでした。大体玄米を精米にすると一割は少なくなるそう

ですが、戦争中には、少しでも量を多くする為に、白米から

だんだんと7分搗き、5分、玄米と変わっていきました。

ですから、少しでもご飯をおいしくするためにそれぞれ家で

一升瓶やビール瓶にお米を少しづつ入れては、其の中に長い棒

を入れて、お米を搗いていたのです。

 内地米に混入される外米の比率も1941年1月頃には

二割未満だったのが、3月には外米5割未満に増やされて

いました。


 其の上、いろいろと増量するために、お米の中へ入れるもの

が配給されるようにもなりました。

 大豆、トウモロコシのくだいたもの、豆粕(大豆の油を絞った

後の滓を干してつぶしたもの)、高粱、押し麦、乾燥芋(さつま

芋の生を一口サイズに薄く小さく切って干したもの)粟,黍(上

記二つは生産量が少ないので、配給されなかったところもあり

ました)これらは別々に配られたときと中に配合されていた時

と、あったのです。

いろいろと混合されてくることが多くなってお米を家で搗く

こともできなくなりました。

私の家では玄米や大豆を短時間でやわらかく食べやすくすると

言うので、高圧釜を買いました。ところが、当時の高圧釜は

時々爆発することがあって、取り扱いに気を使いました。

祖母の弟が、何時も、苦虫をつぶしたような顔をしていると

みんなが言っていたのですが、其のおじの家で爆発したので、

其の音に驚いたおじさんが

”どうしたんだ!”と台所へ飛びこんだ来た時にちょうど

高圧釜の蓋が其のおじさんの頭の上に飛んで行き、熱い、

熱いお米粒がおじさんの顔中にばらばらとくっついたのだ

そうです。

おじさんが、頭から、湯気を出しながら、お米粒のついた

ままの真っ赤な顔をして怒ったというので、親戚中が大笑い

したのを思い出しました。

(つづく)

戦時中の生活用品と食糧事情(7)

2009-08-26 18:04:38 | 戦争体験
日支事変の頃はまだ、そう食料に困ることはありませんでした。

1930年代後半の話ですが、私の弟など、始めてお弁当を持

っていったときには体が比較的小さいのにクラス中で一番大き

いお弁当箱にたくさん詰めてもらって、一番最後まで悠然と食

べていたと、担任の先生が笑っておられたくらいでした。

 大東亜戦争に入る前でしたが、1940年の7月1日から

お砂糖が切符制なり、砂糖は一人一ヶ月240グラムと決

められましたが、だんだん少なくなり、1945年にはなくな

りました。

(闇値は80倍か、それ以上にまで跳ね上がったそうです)

その代わりにサッカリンとかズルチンとか言う甘味料が使われ

るようになりましたが、甘さ加減がちょっと違っていたように

思います。

やっぱりお砂糖のおいしさとは異なるものでした。

 私の下の弟は1944年の生まれでしたが、体が小さく

食も細いので、母がとても心配して、弟のご飯に貴重品の

お砂糖をかけて食べさせていたのを思い出します。

他においしいものも、栄養のあるものもなかったのでした。


その後、薪炭が配給制になるのですが、翌1941年2月には

牛乳が、4月にはお米と小麦粉が配給になり通帳を持って買い

に行くようになったのですが、南京米とか,外米とか言って、

日本のお米よりは少し長めのものが、少し混じっていました。 

其れでも其の頃は、まだ、日本米に対する外米の混入率は低い

ものだったので、全く食べられないと言う程のものではありま

せんでした。

 それから日増しにどんどん状況が悪くなっていきました。

1942年3月頃の横浜のデパーとでは麺米と言う乾麺を5ミ

リ程度に切ったものだけを炊いて食べさせていましたが、とて

も食べられるものではありませんでした。

 同じ頃大阪のデパートではまだ外米入りのご飯に、フルコー

スのお料理やフランス料理、和食、中国料理と分かれていて、

さすが、商業都市大阪と思ったものでした。


(つづく)

買出し

2009-08-25 18:21:46 | 戦争体験
買出しと一口に言いましても、ご商売で買出しに行き、それを闇で

売る方々と、ご自分の家庭用にすると言った方達とあったのです。

大体お知り合いを訪ねていかれる方々と、全く知らないお宅へ行く

場合がありました。

一般的には帯とか着物などを持って行くのですが、中には時計や

宝石を持っていかれた方もあったようです。

 (大方の人は宝石類はお国のために無償で供出していたのです)

 農家の方にもいろいろあって、本当に助けてあげようと言う方

もあれば、この際だからできるだけ儲けようとあこぎな商売人と化

された方もありました。

 中には部屋いっぱいに着物や帯を並べていて、

 "見てご覧. これよりいいものを持って来ないいと取り替えて

 上げられないよ”と、言われたり、其の交換率も日増しに悪く

なっていきました。

お母さんの具合が悪いので、子供が行くと前もってお伝えして

おいたのに、険もほろろで、

 ”何もないよ。”と言いながら、隣の部屋から聞こえよがし

に大きな声で

 ”子供なんかよこすなんて話にもならないよ。”ということ

を言われた方々も居られました。

お米やお芋が欲しいと思っても、何軒訪ね歩いても、南瓜を押

し付けられたり、お茄子や胡瓜などのあまりお腹にたまらない

ものしか買えなかったりもしたのです。

私の家ではあまり遠くへは買出しに行かずに横浜市内や遠くても

神奈川縣内でしたが、列車で遠くまで行かれた方々もあったよう

です。

時々列車内で経済警察の取り締まりがあって、確かお一人お米

2升までは許されたように聞きましたが、それ以上は没収され

ました。

漁村の人たちは”ヒトデ”を干して肥料として、農家へ持って

行ったり貝類などでお米やお野菜などと交換してもらったりし

ていたようです。

戦争末期には制空権も、制海権もありませんでしたから、海の

上も機銃掃射が待っていて危険ですし、船を動かす燃料もなく、

人手も戦争にもっていかれて、漁業も大変な状況にあったのです。

 そうそう、うそか本当か分かりませんが、おまわりさんの家の

米びつが空になると、思いついて取り締まる御仁もあったとか。

 捕まってお米を没収されるのかと観念していたら、たまたま

友達であった為、助かったという話も聞きましたっけ。

戦時中の生活用品と食糧事情(6)配給と公定価格、闇価格

2009-08-24 09:31:03 | 戦争体験
戦争中には配給制度と言って政府から、いろいろの統制品が

隣組を通じたり、専門のお店から配られていました。

 それには配給と言う言葉が使われていました。

お若い方は、どうもお国から無料で支給されていると言う感覚の方

が多いようですが、いわゆる公定価格とか丸公という決められた

価格で買うことでした。

もっとも”配”は配る、”給”は目上の者から目下に物品を与える

と辞書にありますから、学のある方ほど、ただで貰うと言う風に思

われてしまうのでしょう。

それとは別に闇商売、闇価格と言うのがありました。

 これは配給ではなく、何か売りたい人が、買いたい人を探す、

あるいは、その反対に買いたい人が誰かに声をかけて、欲しい

物を売ってくれる人を見つけると言うことで、人の手から人の手

に渡る間に儲けが入るので、どんどん物価が上がっていきまし

た。ですから、この時代は殆ど店頭に商品を並べて売ると言う

ことが少なかったのです。闇のものは家の奥にしまわれていて


そういうことを取り締まる経済警察に見つからないように、

大丈夫そうな人にだけ声を掛けていました。


それを専門にやっている闇商人と呼ばれる人々が大勢暗躍して

いたのです。

日支事変が始まってから出征兵士が年々増えていき、いろいろ

なところで生産者の数が減って行くとともに、生産量も落ち、

その後大東亜戦争が始まってからは物資の不足がどんどん加速

していきました。

闇価格の値段はうなぎのぼり、何十倍にもなり、其の上いくら

出そうが買えない状態が続きました。

 戦地へかり出された男性の代わりに、人手不足を補う為に

それまで家にいた女性や子供たち迄が働かされたのです。

   (つづく)

終 戦後(2)

2009-08-23 10:28:28 | 戦争体験
 当時は戦災者たちはラジオはなく、中々落ち着いて住める家が

なく、いろいろ他人様のお世話になったり、あちこち引っ越した

りしていて、新聞も取っていない家も多かったと思いますが、

情報は結構口コミで伝えられていました。

終戦直後は若い女性は頭を丸めて、男装をし、山の中へ入らない

と、アメリカ兵が上陸すると捕まって陵辱されるとか言う話が

あり、ご親戚や、知人を頼って、地方へ行かれる方もありました。

私たちはどこへも行くところがなくて横浜に留まっていたのです

が、8月30日にダグラス・マッカーサー元帥が葉巻をくわえて

厚木の飛行場に降り立たれた後は、いろいろな事件が各地であっ

たようです。私も以前米兵に追いかけられた話を書いていますが、

ご主人とお二人でいたところを米兵に捕まって、陵辱され、夫人

は自殺されてしまったこともあり、特に基地の周辺では問題が多

かったようでした。神奈川県には厚木周辺や、横浜市内、横須賀

などにも兵隊が駐屯し、だんだんその家族もやってきましたが、

敗戦国の悲しさ、米兵は日本の裁判を受けることなく、米国に送

り返されるとか、たいした罰は受けなかったようでした。

終戦後(1)

2009-08-22 09:52:24 | 戦争体験
1945年の敗戦の翌日、私は母に言いつけられて、区役所へ移動

証明を貰いに行った。その日も朝からよく晴れ上がっていたが、

其処此処のお役所や軍関係の場所では大勢の人々が忙しく立ち

働いていて書類を焼く煙がもうもうと上がっていた。


 その翌日の夕方、急に父が帰ってきた。

 ”陸軍はもう一戦やると言っている。隊長はやると言うので、

私も副官として覚悟を決めた。隊長について行くしかない。

お前たちとももう逢えないかもしれないが・・・・。”と、

言ってそそくさと出て行った。

父は込み上げてくるものをそれ以上おさえきれず、言葉を

つなげられなかったのだろう。

 私たちはいよいよ来るものが来たかというような心境に襲われた。



ところが、その翌々日 父が、軍隊の毛布や食料などを持って帰っ

てきたのである。やはり交戦は陛下のご意思にそむくと言うことに

なり止めたのだと言う話で、残った物資を兵隊たちとできるだけ

平等に分けて帰ってきたと言うことであった。

(つづく)