80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

思い出の北京(続編21)北京空港にて

2011-02-06 14:41:14 | 思い出の北京


 いよいよ帰国。

夕方の4時過ぎ。 JAL便に乗ることになって北京空港まで戻ってきたが、

息子たちはお土産を買うために最後のショッピング。

私は一人でお茶を飲みながら荷物の番をしていたのだが、写真の北京

ダックは次男が買ったもの。

他にも次男の方の孫が、イギリスにいたときに大好きだったというキャン

デイを見つけて、たくさん買ったといって喜んでいた。

中国製のカップラーメンを買って写真に撮ったのだが、80ばあちゃんの手が

震えていて、ぶれてしまってお見せできないのがとても残念。

時間の余裕があるつもりで改札を通ったのだがなぜか構内に入ったら、

 ”タクシー。タクシー。”扉のない車が近づいてきて、私たちに乗るように

言っていたのだが、最初のうち

 は、こんな中でどういうことかと思いながら、ひたすら、前を向いて歩いて

いたのだが、それでも何度も同じ人がしつこくついてくるし、先がなかなか

見えないので、息子たちが、”じゃあ乗ろう。”といって三人で乗った。

先に歩いていった孫たちを追い越して暫く行ったらたらやっと飛行機に乗れる

ところへついた。

 長男がいくらかと聞いたら”千円でいい”というので、次男が、

 ”気が利いているなあ。もう中国のお金はあまり残っていないものなあ。”

 と感心していた。

 入り口で切符をきってもらってから、もし歩いていたら乗り遅れていた

 かもしれないと思ったのだが、他の方たちも、こんなに長い距離を歩か

 されるとは思っておられなかったのだろう。飛行機の出る間際に慌てて

 乗り込んでこられた方が多かったのである。

 帰りの飛行機は結構混んでいたが、座席の背もたれが改良されていて

 まっすぐで、首を曲げずにすんでいたので、わたしには、とっても

 具合よかった。

 今まで乗った飛行機はいつも、背もたれの上の方に枕のようなものが

 ついていて、背の低い私には頭をまっすぐにすると枕のようなものに

 ほんの少しかかり、首を曲げているのは苦痛以外の何物でもなかった

 のである。

 多分優秀な方が設計しておられるのだろうに、何故こういうものが

 具合が悪いということをお考えになっておられないのだろうかと

 いつも不満に思っていたのだが、それか改良されたのか、背もたれに

 枕はなく、本当に楽しい旅になったのである。


 
  二品の中から選べといわれたお弁当。私はすき焼き弁当のような

 ものをいただいたが、おいしかった。

 付け麺のようなお蕎麦がついていたのだが、以前北京から帰る飛行機

 の中でお目にかかった中国へぶどう酒の造り方を教えに行かれた方の

 ことを思い出した。 お弁当のお蕎麦をとてもうれしいといっておいし

 そうに食べておられたので、私のを差し上げたことから、中国での

 いろいろとお話を聞くことができたのである。 お元気でおられるの

 だろうか?

  羽田空港に降り立ってから荷物が出てくるのを待っている間に、長男

 の息子に、
 

 ”今回の中国行きの切符はおじちゃんが手配してくれたのだけれど、

 尖閣諸島問題などいろいろの事件があったので、切符を買っていいのか

 悪いのか何時買ったらいいのかと随分、悩んだと思うよ。おじちゃん

 が大変だったということは忘れないでね。”と私は言った。

 
今回の旅は本当にみんなの助けがあって何とか行ってこられたのだと

心から感謝して終わりたいと思います。

 お読み下さったみなさま、本当にありがとうございました。m(__)m

 半ボケばあちゃんのこと、何とか忘れないうちに書き上げることが

 できまして、ほっとしております。(大笑い)


 

思い出の北京(続編20)チェックアウトの前に

2011-02-04 10:43:11 | 思い出の北京


 いよいよ北京飯店をチェックアウトするという前に、ちょっとの

時間があったので、次男と孫たちは最初の日に行った王府井の串揚げ

のヒトデが気になって、また行って買ってきた。

誰が食べるか、わいわい騒いでいたが、結局一口づつ食べて見るかと

いうことになって、かじり始めたのだが、おいしくなかったようで

どうもこれ以上は無理と言うことで撮ったのが二枚目の写真。




私は、空港まで大分時間がかかるからトイレに行っておこうと思い立ち

荷物やコートを息子たちに預けて出かけて行った。

ところが、用を足して出てきたときに、ふと、かぶっていた帽子の

ことを思い出した。

あれ、帽子はかぶっていたかしらと立ち止まって、ほんの一瞬、考えて

いたら、中国の可愛いお嬢さんが通りがかって

 ”どうしたのですか?”

と、聞かれたので、

”帽子を忘れた・・・?”と言いかけたら、すべてを察して、

トイレをくまなく探してくれて、

”フロントへ行って聞きましょう”

と言って、手をとらんばかりに親切にしてくれたのだが、

 ”もしかしたら、息子たちに預けてきたかもしれないから

  見てきます”

 と言って、息子たちのところへ行ったら、ちゃんと帽子が

 荷物の上に鎮座ましましていた。

 私は彼女の方に手を振って頭を下げて、帽子があったことを告げた

 のだが、彼女はにこっとして、

 ”よかったですね。再見!”といってくれた。

 本当に感じのよいお嬢さんであった。謝謝了。




 今回の旅行では中国にはたくさんの美人さんがいるという感じが

 したのだが、”人造美人”というのが中国でも流行っているとは

 聞いたが、やさしさが美人の条件の一つだと私は思っているので、

 本当にそういう方が多かった気がするのである。


 お蔭で楽しい旅になりました。

 

思い出の北京(続編19)お茶専門店

2011-02-03 16:22:40 | 思い出の北京



お土産に中国茶を買うことにしたら、長男が昨日いいお店を見つけた

と言うので、車でそこまで行った。

なかなか店の設えも凝ったお店で、ガードマンが警戒していたので、

びっくりした。 日本ではお店のなかにガードマンが歩いて警戒して

いるのは考えられないことである。

缶に入ったお茶をいろいろと買った後、変わったお茶を見つけたので、

ご披露させていただくことに。

八宝菊花茶は何種類かの菊の他、竜眼という、むくろじの木の実とか、

干し葡萄、氷砂糖、紅棗のみ、銀耳(白きくらげ)などが入っていた。

数回、入れることができるものであって、御茶を出した後、竜眼だとか

白きくらげ、紅棗は食べられると書いてあった。

中国茶は一煎めを捨てる場合が多いが、砂埃の飛ぶお国柄だから埃

くさい場合にはお捨てになった方がいいと思う。

丸い方のお茶は、お湯を注ぎいれるとだんだんお花が写真のように

開いてくるのだが、これは意外とお高い感じだった。

中国では蓋付のお茶碗の場合は蓋を少しずらして飲むようである。

 それにしても売り子さんが断っても断ってもついてきて、

 ”必ず買うので、はじめによく見せてほしい”といったのだが、

 それでもついてきた。

 本当に薦め上手で、いろいろ買った後に、これはお肌によいお茶

 ですとか言って、高級茶を出してきた。

 私は大分疲れて、すっかり値切ることを忘れていたのだが、いろ

 いろ買ったので申し訳ないと思ったのか、多少お値段を引いて

 くれたようだった。

(つづく)

思い出の北京(続編18)お土産ショッピングで

2011-02-02 12:39:19 | 思い出の北京


お土産ショッピングの途中で見た風景である。

公衆電話があったが、先日アップさせていただいたものとは違っていたので、

ちょっと載せさせていただく。

 
 
 二番目のは北京の雑誌やさんである。 雑誌専門に売っているようであった。



 次の写真は以前この場所に秀水市場と言う市場があったのだが、それが再開発と

言うことで、1994年頃、とり壊されて悲しい思いをしていたのだが、こんな立派

な建物に変わっていた。

 以前には、ここには小さな露店が狭い道の両側にずらりと並んで衣類を売っ

ていて、すごい賑わいであったが、時々、ロシア人のバイヤーが買い物に来たり

して、中国人の売り子さんとお互いの計算機を打ちながら打打発止と値段の交渉

をしていた。

お互い言葉はまったくわからないようで、それぞれの言葉で、品物を前にして

計算機を見せ合いながら、延々とやっていたのだ。 貿易とはこういう風に始ま

ったのかなどと思いながら、傍で見ていて、彼らの商売がまとまると、

”私も同じ値段で買いたいわ”と言うと、売り子さんがにやっとして

”いいよ”と言ってくれたりするのが、とっても楽しかったのだが、もうその

光景はなくなってしまった。


こんな立派な建物に変身していたのだが、時間がなくて中へ入れなかった

のはとっても残念至極。


次の二枚の写真はアイスクリ-ムやさんである。

アイスクリームはどれも輸入品であると書いてあるのが、一枚目。

二枚目のは、そのネーミングがいかにも中国らしくて面白いと思って

載せて見た、

 ”足球迷” 何のことやらわからずに考えていたら、”ミント”だと

 言うことであったが、中国では音から外来語をネーミングするそうだが、

 それにしても食べ物の名前に足がつくとは日本ではとっても考えられない

 ことではないかと思ってしまったが・・・?

思い出の北京(続編17)頤和園と友誼商店

2011-02-01 17:51:35 | 思い出の北京


1月4日は私たちにとって北京飯店にHISの方がお迎えに来られるまでの数時間が

北京で観光や、買い物できる貴重な時間になると言うので、みんなで話し

合った結果、二手に分かれることになった。

次男と孫たちは、頤和園を見に行き、長男と私が、お土産を買いに行くことに

なった。

頤和園は、昔夫と一緒に行った所で、私は見ているからいいのだが、長男が行っ

たことがないので、なんか申し訳ないと思ったが、それでいいというので、

とうとう、そういうことになってしまった。

 
 
 写真の友誼商店と言うのは、約20年も前、私たちがよく買い物に行った

お店で、何でも売っているいわゆる百貨店であったが、私はそこで、お野菜や

果物以外の日用品をよく買っていたのである。

ちょっと脱線すると、当時、お野菜や果物は友誼商店にもあったが、あまり新鮮な

ものとはいえず、天安門大通りに面したところには、野外マーケットがあったが、

そこでも、いつもしなびたお野菜が山になっていたのだが、林の中の永安里の自由

市場には新鮮なお野菜やみずみずしい数々の果物が、きれいに並べられていた。

林の中で、そよ風に吹かれながらの買い物は楽しくて忘れられないものであった。

 当時は友諠商店も大通りのマーケットも、公の売り場であって、日本で言えば

公務員が売っているようなものだったのだが、自由市場は彼らが、儲けを自分

の懐に入れられる場所だったから、自然に、力の入れ方が違っていたのだろうが

そこには本当に大きな差があったのである。

今では、個人の企業が認められるようになって久しいので、大分事情が違ってき

ているのであろうが、今回行ってみたかったところの一つが、その永安里の自由

市場だったのだが、大好きだった市場はもちろんのこと、林そのものがなくなって

しまっていて、巨大なかっこいいビルが建っていたので、がっかりした。



 一月の一日に、新空港を見学がてら、羽田まで見送りに来てくれていた長男の嫁

さんから、お土産には真珠の粉入りのクリームが欲しいとリクエストがあった。

リクエストしてくれたことはとっても嬉しいことではあるが、十数年以上もたって

いるので、まだそのお化粧品があるかどうかと心配になった。

多分あるならば、友諠商店だろうと思ったが、中国では、なかなかこれが買いたい

と思っても、買えなくて、目にした時に買わなければ買えないのだと夫がよく言って

いたので、リクエストを聞いた時から、心の重荷になっていたのである。

 それでまづ最初に行ったのが、以前、そのクリームを買った友諠商店であった。

ところが、まったく装いも同じ商品があったのである。本当に嬉しかった。

一個百元で、三個買った。

嫁さんのこととなると目の色が変わる長男もほっとしたらしかった。

まあ、めでたし、めでたし。後はゆっくりあるもので買えばいいと思ったのである。

友諠商店では、以前25元で買ったローヤルゼリーが、同じもので、58元になっていた。

中国では、普通のお店ではあまりレシートを出さないが、昔の友誼商店では担当の

売り子さんが必ず伝票を書き、その売り場の属する切符を切るところへ行って、伝票

を承認してもらい、レジのあるところへ戻ってきてお金を払いレシートが出されてい

たが、今回はあるところではまだ、そのままの習慣が残っていたが、レジによっては、

伝票も書かないで売っていたところもあり、伝票の書き方もすごい雑なものであった。

女の孫たちに何がいいかと、いろいろ探したが、気に入ってくれそうなものがなかなか

見つからなくて苦労したが、やっと携帯に付けるような小さい可愛い物を見つけた。

二階の孫には赤い小さな革靴、長男の孫には、長男が、娘にはこれがいいと選んだ同じ

ようなものになった。

 その時に私たちにいろいろな品物を見せてくれた男性が、日本語がとても上手で、

横浜に何年も住んでいたというので、すっかりお互いに嬉しくなって話し込んでしまった。

そこへ、売り場の担当者の女性が現れたが、その男性にどこへ行っていたんだと文句を

言われていたが、私は風船のセットが手元に二個だけ残っていたので、それを二人に

上げたら、とっても喜んでくれた。


 (つづく)



思い出の北京(続編16)京劇

2011-01-29 12:23:14 | 思い出の北京


三日目の夜は、かねてから、息子たちに京劇を見てもらいたいと思っていたので、

 ”私はマッサージを予約しているので、夕飯はパンか何かそこらで買うから、

 あなたたちは京劇を見に行ったらどうかしら?”と薦めてみた。

 彼らも、お昼にはちょっと食べすぎだから、あまり大して食べたくないので夕飯は何か

 軽くとればいいということになって、次男が、私のために、先にパンを買いに行って

 くれたのである。

 私は以前夫と、お菓子とお茶つきの席で京劇を見たことがあったが、そのときは孫悟空

 をやっていてたのだが、なんだか日本の演劇と比べると見劣りがするなあと言う感じで、

 多分観光客用のものだったのだろうと思っていたが、今回は、まあ、写真で見ても、

 以前のものよりは、多少大掛かりだと思ったが、孫たちは行ってよかったととても

 喜んでいたのである。

 今回も前の方の席は、お茶菓子つきであったらしい。

 


  以前に私の夫の会社で働いておられた方のお母さんが、京劇の主役を演じる女優

 さんで その後、京劇の歴史を、大学の教授として、多くの方々とご一緒に研究

 されていると言うお話を聞いていた。

 お宅へ招かれたり、私の家にもおいでいただいて、横浜を 夫の車でご案内した

 こともあったし、その後、娘さんご夫婦が 日本に来られて山梨県で働いておられた

 りして、夫と山梨まで会いに行ったりしたこともあったのだが、今回は夫が亡くなっ

 てしまったし、他にもいろいろとお目にかかりたい方々もあったのだが、たった三泊

 四日では、と言う気持ちもあったし、息子たちの知らない方々ばかりなので、そのため

 に息子や孫たちが見たいところも見れないのではと思ってあきらめてしまったのである。

 どこかでひょこっとお目にかかれたらいいなあなんて思っていたのだが、残念ながら、

 そういうことはなかった。


思い出の北京(続編15-5)胡同

2011-01-27 06:18:08 | 思い出の北京
大通りへ出たらタクシーが拾えるだろうから,そこまで歩こうという

ことになったが、いわゆる小街(道幅6歩以上12歩までの道を言う)

通ることになっていろいろと面白いものを拝見することができた。



胡同のようなビル群の建っていないところに、こういう健康にいいものが何個か

作られていて、ミニスポーツセンターとして役立っているようであった。

日本の漢字では柳蔭健身園という字に書くのだが、さしずめ、柳の木の蔭で体を

鍛えようという場所である。

お年寄りや時には子供さんがやってきて、運動していたが、最初に私が声を掛け

たおばあちゃまは83歳だとおっしゃったが、耳が遠いから、あまりおしゃべり

してもわからないと言われたので、私のバッグから金貨の形のチョコレートを

取り出して一袋差し上げたが、最初一つを私が食べて見せて差し上げたのだが、

おいしいととっても喜ばれた。

そこへ、私と同い年だと言うおじいちゃんが現れて、

 ”あんたは、60歳ぐらいにしか見えないよ。”と言われた。

お世辞200%のと思いつつも、すっかり舞い上がってしまった。

まだ、まだ修業が足りない。(笑い)


 そこで、また、チョコレートを差し上げたのだが、とっても相好をくづされて、

”日本と中国はお隣の国だから、仲良くしていかなければいけないんだ。”とおっ

しゃって、握手をしてくれた。

 ちょっとおしゃべりを楽しんだ後、最後に

 ”祝 你 身体 健康 和 幸福!”(ご健康とご幸福を祈ります)と、言う

 つもりで、 幸福(シンフー)を辛苦(シンクー)と言い間違えてしまって大慌て

 で訂正したが、彼はおかしそうに笑っていた。
 
 旅行して一番うれしいのはその国の人との交流ができたときだと私はいつも思って

いる。

思い出の北京(続編15-4)胡同

2011-01-25 17:52:45 | 思い出の北京


杭州から北京迄何代にもわたって整備されてきた京抗運河の終点が北京の前海、

后海と言う湖であるのだそうで、昔は水運業が運送の主力を成していた時代には

大いに栄えた場所である。この周りには、まだ、多くの胡同が残されている。

その一つが写真に撮った東明胡同である。

胡同(ふーとん)とは、三歩から六歩までの道幅を意味するそうだが、そこに

できているいわゆる共同住宅のこともさすようで、いわゆる壁のない共同トイレが

まだ残っているのは北京でも多分ここだけのようだ。


 科挙の試験(文官のためには文科挙の試験が、武官のためには武科挙試験があった。

 科挙とは、試験による選挙で、推薦によって試験を受けるが、試験の方が重要視

 されたそうである。

 隋の文帝の時代に始まり、清の光緒帝の光緒30年(1904年)まで続いていた。)


 の文科挙に受かった人の家の前には四角い石が門前の両脇に置かれ、これは、墨や

 硯を意味するとか、武科挙に合格した武官の家の前には丸い形の石がおかれている

 そうであった。

 胡同の家は四合院と呼ばれているが、(四合院の四の字は東西南北の四面を表して

 いるそうで、北京の四合院は伝統的な住宅として建てられたもので、大部分は清の

 時代から1930年代に建てられたものだが、元の時代から建てられ始めたそうである。

 ”合”とは中国語で取り囲むと言う意味があるようで大きさや、組み合わせに

 よって、大四合院、四合院、三合院とか呼ばれているそうで、一般に小さな窓が

 上の方にあるだけで、窓はなく、南向きの部屋から採光し、門を閉じてしまえば、

 外の世界と遮断されるそうで、天井が高く、冬は温かく、夏は涼しいようである。)

 
 そんな道を歩いていたときに、通りの奥の方から、ジャラジャラと音がしてきた。

 60に手が届くかと思うような背の高い男性が戸を開けて出てきたが、長男が、

 ”マージャン?” と声を掛けたら、と、その男性が、寄っていかないかと

 誘ってくれたが、夕暮れも近づいていたので、ご遠慮した。

  (続く)

思い出の北京(続編15-3)胡同

2011-01-25 01:14:27 | 思い出の北京
 氷の張った湖なんて、孫たちはあまり見るチャンスがなかったのか

とっても氷の上に乗りたがって、近くのあまり氷が厚くないところ

から湖面に降りようとしていたので、危険だと思って声をかけた。

 ”そこはまだ氷が張っている所と水のところとあるから、あまり

 氷だって厚くないから、そんなところから降りたら、危ないわよ。”と。
 
 ”いや、木の枝か何かで氷をつついて,確かめて見るから。”

 ”そんな。あなたたちの力でつついたぐらいでは、あなたたちの体重を

 支えきれるのかどうか、わからないわよ。”

 孫たちは早く氷の上に降りたくて、うずうずしていた。

 ”そこの桟橋から降りるよ。”

 ”だめよ。もっと氷の厚いところで、大勢人がいるところへ行ったらどう

  なの。”私は、はらはらして、いた。

 私の後ろから、長男が孫たちに声を掛けた。

 ”おい。お前たち。カメラ持ってるか?”

 ”ああ、カメラは持っているよ。”

 ”水中カメラ 持っているか?”

 孫たちはぎくりとしたらしい。

 暫く声がなかったが、そのうち孫の一人が、小さな声で、

 ”大勢いるところだって、氷が大きく割れることだってないとは

 限らないし・・・。”

 と言った。

 それでも、水中には入る気持ちはなかったようで、氷の厚いところまで

 歩いていったのであった。