市場原理主義批判そして行動ファイナンス
概論
市場原理主義という言い方で批判されるのは、市場競争に任せることが最善だという一つの「宗教」であるが、この宗教に帰依している学者やマスコミ人、物書きは少なくない。この宗教のもとでは、国家による介入はできだけ小さくするべきで、市場の効率性を高めればすべての問題は市場が解決してくれるというのである。しかし私たちはたとえば、経済恐慌、格差、戦争、差別、環境といったように、市場が解決に失敗した問題を挙げることができる。これに対して市場原理主義の人たちは、たとえば医療・年金・公企業の事例を挙げて国家による介入の非効率を主張する。おそらくこれらの非効率批判は正しいし是正すべき点はある。しかし同時に私は非効率でも維持すべき制度はあり、公的な医療・年金制度はその一つだと考える。
(Cf.Robert Heilbrroner and Lester Thurow, "Why do we need policy"in Policy Issues for Business edited by Vivek Suneja, Sage Publications:2002, pp.19-28 Heilbronnerたちは、まず市場システムでは、市場参加者が市場について正確な情報をもち、かつ合理的に行動することが前提されているが、それが現実には成り立っていないことを日常的な経験から指摘する。そして、公共財と外部経済性という2つの市場が解決に失敗している例を挙げる。また研究開発、教育、社会的インフラなど有益さがわかっていても、投資の回収に時間がかかり、不確実性が大きいものには、市場は過少供給になりがちだとする。最後に独占寡占市場で消費者主権が脅かされている可能性を指摘したあと、主権者であるはずの消費者の行動が実際には広告宣伝の影響を強く受けていること、あるいは、大企業が非効率的とは必ずしも言えないことなど、コインの裏側を指摘している。)
1)ソロスの均衡論批判の衝撃
ところで投資理論が教える市場の均衡理論を正面から批判する人が、誰よりも市場を知っている投資家George Sorosその人だったとき、ファイナンス論の教授の多くは声を失ったに違いない。ファイナンスの教科書の理屈など知らなくても自分たち実務家はまったく困らないと書かれて、ファイナンスの教授たちは泣いたかもしれない。失業の危機だからである。困った学者たちはSorosの本を読まなかったことにした。しかしBusiness SchoolでSorosは幅広く読まれることになった。
Sorosは均衡理論は自分の経験と全く一致しないと言っている。Sorosは市場というのは常にどちらかに偏りをもつもので、株価が企業価値に収斂するのではなくむしろ株価が企業価値に影響すると主張している。Sorosは自分の考え方を受動理論the theory of reflexivityと呼んでいる。(See George Soros The Alchemy of Finance originally in 1987 2003ed.)
ソロスは1930年ハンガリー生まれ。1947年に英国に移住。ロンドン大学経済学部を卒業。1956年に米国に移り、ヘッジファンドの総帥として知られる。Sorosから学ぶべきことは均衡理論はfictionだということである。そして現実をfictionに近付けようといった考え方の非科学性を認識することであろう。
2)スティグリッツの市場原理主義批判
スティグリッツのIMF批判の話を持ち出すと困った顔をする経済学者がいる。スティグリッツの発言は知ってはいるが、市場原理主義の頭では理解できないからだろう。つまり日本でもアメリカ同様にスティグリッツの指摘の評価は分かれる。そこで日本の一部の経済学者たちは最近のスティグリッツは変だと言いはじめた。しかし私はスティグリッツの学問的姿勢は変わっていないし、彼の市場原理主義批判は正論だと考える。
スティグリッツは、IMFという組織に染み付いている市場原理主義market fundamentalismと官僚主義を批判した。市場がすべての問題の解決の鍵になるという単純な信念にしがみついていると、現実を見て必要な政策判断の調整をするという現実的な対応が取れないということだろう。背景には色々な問題があるが、その一つは新古典派経済学が想定しているような完全競争市場の条件が実際には満たされないということだろう。たとえば、情報をとってみると想定では完全な情報が行き渡っているということだが実際には、情報は不完全であり、取引当事者間で非対称である。だからこうした実際の市場での均衡は効率的だという意味ですら望ましい資源配分になるとは限らない。まして公平という意味で望ましい配分の議論は最初から封印されており、望ましい配分になるとは言えないのではないか。経済の規模や発展段階を無視して資本や貿易の自由化を強制することは、資本の吸い上げや所得格差の拡大につながると指摘している。
(cf.Joseph E.Stiglitz, "The insider:what I learned at the world economic crisis"in Policy Issues for Business edited by Vivek Suneja, Sage Publications:2002, pp.9-16.
Do, Globalization and Its Discontents 2002.藪下史郎『非対称情報の経済学』2002.
Do, Making Globalization Work 2006.楡井浩一『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』2006.)
スティグリッツは1943年アメリカ生まれ。アマーコスト大学を経てMITでPh.Dを取得。プリンストン、スタンフォードなどの教授を経て1993年クリントン政権成立とともに政権に参画。1997年からは世銀副総裁を勤めた。現在はコロンビア大教授。スティグリッツから学ぶべきことは市場原理主義は、それを信じている人にとっては宗教的信念になっていて、そうした人が政策の責任者になると政策の柔軟性が失われることが多いということである。
原理主義は理論を機械的に現実にあてはめようとする人々が陥るワナのようなものであるが現実に密着していない点で、大学に巣くって学問の新たな展開を妨害するのもこうした原理主義にとらわれた人々である。
3)注目される行動ファイナンスbehaviourial finance or economics
他方、均衡理論では説明できない市場の実際の投資家の動きについて説明しようとするのが行動ファイナンスの議論である。日本では心理学的な分析用具を使ったところがとくに注目されている。また最近はその成果をマーケテイングなどに応用することにも関心が集まっている。
しかし行動ファイナンスの議論といったとき、市場の規制やコスト、さらに不完全さが投資家の裁定行動(arbitrage)の制約になっていることを説明する議論を意味していることもある。
このような議論は、投資家がしばしば自分の経済活動の合理性を過信していること、感情や錯覚のとりこになっていることを明らかにしてくれる。
心理学的な分析で基本となる概念は二つ。ヒューリステックheuristicとプロスペクト理論である。
ここではヒューリステックから述べる。
人は行動するときの判断で直感に近い判断であるヒューリステックに頼っている。しかしこの種の判断ではしばしば、様々な不合理な判断が生ずる。なぜか。すべての情報を考慮せず、先入観に頼り情報を単純にしてたとえば一つの数値にだけ絞って判断する傾向がある(単純化)。与えられた情報で判断をゆがめられることがある(アンカーリング)。また目の前に情報があっても期待している情報だけを見ようとしたり(選択的観察)、先に与えられた情報に引きずられたり(プライミング効果)、一番最後に与えられた情報の影響を強く受ける傾向がある(初頭効果)。単純に思いこみに引きずられることもある(フレーミング効果)。
このような意志決定の議論は、Hertbert Simon(1916-2000)により早い段階(1957)に展開されている。合理的な(最適な)行動をとるためには、目的関数が分かっていてすべての選択肢の属性・数量・結果が既知でなければならないが、それは不可能。つまり私たち人間がとりうる合理性というのは限定合理性(bounded rationality)とならざるを得ない(rational choice by Gary Becker 1930-)。最適化ではなく限定された情報の中での満足化(satisfying)が私たち人間の行動でそのときheuristicな判断がしばしば用いられると。
直前に知らされた無関係な情報に影響される。
アフリカの国の数はいくつですか
たくさんの○を見せてから質問する
少数の○を見せてから質問する
回答は見せた○の数に影響される
参照:Nassim Nicholas Taleb, The Black Swan, Penguin Books, 2007, p.158.
論理的結論より知っている情報に影響される
以下のうちいずれが蓋然性が高いか
今後10年間に中国で震度5の地震が発生する
今後10年間に四川で震度5の地震が発生する
回答は知っている情報に影響され、shortcutsが生じる
参照:Ibid., pp.76, 81を参照して書き換えた
実はこの意志決定の問題は、あまりにも理念的に人間の行動をモデル化する伝統的<経済学>への痛烈な批判にもなっている。
もう一つがプロスペクト理論。これは利益をなるべく早く手に入れたいとする一方、損失についてはできるだけ先送りしたいとする人間の傾向だとされる。投資で損切りがなかなかできないのはこの傾向があるからだ。背景にあるのは人間の価値関数の形状なのだが、低い確率の宝くじの当選を期待する一方、確かに交通事故だとか海外での事故などとの遭遇には案外に私たちは鈍感である。これは自分で調整できると思いこんだリスクを私たちは低く評価する一方、宝くじを買った行為を正当化する心理が働くからだ。
宝くじを買う 宝くじの確率は低いのに、なぜ当選を期待するのか 当選する確率の過大評価に原因がある
保険をかける 確率は低いのに、なぜ保険金の受取を期待するのか 受取の可能性の過大評価に原因がある
参照:Nassim Nicholas Taleb, The Black Swan, Penguin Books, 2007, p.77を参照して書き換えた.
なお保険については以下を参照
保険と正規分布
新車を買う 新車を買うと人生が変わる ステータスが上がる 満足が続くとなぜ考えるのか 将来の出来事(愉快なことと不愉快なことの双方について)を過大評価に原因がある
参照:Ibid., p.195.
プロスペクト理論prospect theoryを研究したカーネマン(Daniel Kahneman 1934-)とトヴァルスキー(Amos Tversky 1937-1996)は、<リスク機会の評価は、最終的な資産的価値よりも、利得あるいは損失のいずれが生じるという参照基準点reference pointの方に、はるかに依存することを発見した。>とされる(ピーター・バーンスタイン 青山護訳『リスク下』日経ビジネス文庫, 2001年, p.169)。トヴァルスキーは<人間が快感を得る仕組みの最も重要で大きな特徴は、人々はプラスの刺激よりもマイナスの刺激に対してずっと鈍感である、ということである>と述べているとのこと(同前、p.170)。
また損切りができない損失回避loss aversionの行動は、過去の意思決定の失敗という不協和という心理的コストを表面化させたくないという認知的不協和cognitive dissonance*と呼ばれる理論で説明される。
人々が同一商品を喜んで買ったり売ったりする価格が質問の方法で大きく変化することに注目したリチャード・タラー(Richard H.Thaler)は、<追加のリスクを負いたくない>人々は<後悔しないように選択を行っている>ことを見い出した(同前p.196)。
*人間には自分のもっている原則や信念にそむきたくないという基本的な衝動があり、一貫性を欠いた時には悪いことをしたという感情を経験する傾向がある(ロバート・シラー(Robert J.Shiller)『新しい金融秩序』日本経済新聞社, 2004, 142)。
表1 risk aversion 失敗を認めたくない意識 成功を認めたい意識に原因
行動 | 説明 |
株価下落局面で株を売ろうとしない | 損失を利得より大きく評価する。損失が表面化して失敗を認めたくないから |
儲かっている株をすぐ売ろうとする | 成功を楽しもうとする |
買いはそれ自体がポジテブで自己満足であるのに、売りはネガテブで不安とストレスを伴う。売りが回避されるのは正当化(保有すること、所有していることへの自己満足 自己の信念の披瀝)、過ちを認めることの拒否、幕を閉じること(失敗の確定)への躊躇、苦痛の回避(利益よりも損失の価値を重んじる、買いという次の失敗のストレスの回避)、自我の保護などが重なっている。リフリン=ガイスト 林康史監訳『投資の心理学』東洋経済新報社、2001年、第3章。
表2 illusion of control 事態を把握しているとの幻想あるいはover confidence 過剰な自信
行動 | 説明 |
ランダムな株価運動に法則性を見出す | 法則やルールを自分が把握し、将来を予測できると考えたいから |
指数運用で長期保有に徹しないでプロのように売買したがる | 株式の選択眼や売買時期などの選択に過剰な自信 |
この心理学的な用具を使った分析でとくに精緻化されたのは、株価が合理的な限界を超えて高騰するバブル現象の分析である。それは、過剰な自信(overconfidence)や群集行動(herding)から説明されている。
市場参加者の過剰な自信は、過去の成功から成功だけを記憶したり(confirmation bias)、成功は自分の技量によるものと判断したり(self-attribution bias)といった認識の歪みがもたらす。また群集行動は、不確実性の高い状況では、より確実つまり自分がたまたま知っているものを選好したり(ambiguity aversion)、たまたま知っている知識で短絡的に判断したり(representative heuristic)といったことが起こることに基礎がある。
その結果、効率的市場仮説の世界では不合理である、投資における後追い戦略(momentum strategy)が起こる。こうしたことを根拠に投資における群集行動が起こり、バブル現象に至るとされる。(Goldberg and Nitzsch Behavioral Finance 1999 Brandon Adams and Brian Finn The Story of Bahavioral Finance 2006)
A.Shleiferは、心理学者の記録からC:conservtismとRH:representative heuristicという2つの重要な心理現象を取り上げ議論している。保守主義は新しい情報をなかなか受け入れない。RHでは人々はランダムな動きの中にpatternsを見つける。その結果、何か一つの事象について、C(保守主義)では過少反応underreactingが、他方RHでは過剰反応overreactingが導かれる。この説明の仕方は、行動経済学という学問の本質をとらえている。つまり、行動経済学の観察する現象は単純ではない。さまざまな現象、この設例では真逆の現象もその観察対象だ。そうした複雑な現実(矛盾する現象)を説明する道具がそこには用意されている。それがこの学問の魅力になっている。(Andrei Shleifer, Inefficient Markets an introduction to behavioral finance, Oxford University Press, 2000, pp.127-130.)
表3 判断能力を曇らせるものの事例
アンカリング効果 | 先に示された情報に判断が強く影響されること。 |
利用可能性の誤謬 | 新たな出来事をすでに心理的に慣れ親しんでいる物事と結びつけてとらえること。 |
追認バイアス | 仮説を肯定する現象ばかりに注目し否定する現象を無視する傾向。 |
現状維持バイアス | 現状維持を肯定する現象ばかりに注目する傾向 消極的にしてこうむった損失は積極的に関与して生じた損失ほどの後悔をもたらさない 昔からの投資対象に固執することに生じた損失は新たに選んだ投資からの損失ほどの狼狽を与えない。 |
所有効果バイアス | 所有していることに高い価値を与える傾向。 |
後悔する可能性(損失)を最小化しようとする傾向 | 利益をとるためより損失を回避するためにより多くのリスクを取る傾向がある。 |
参照、ジョン・アレン・パウロス 望月衛・林康史訳『天才数学者、株にはまる』ダイヤモンド社、2004年、第2章。この章では経済の過去データのマイニングから一定の法則性が必ず発見されるが、それが将来のデータにも適用可能とは限らないこと。またデータには「生き残りバイアス」、すなわち破綻したファンド、企業などのデータが取り除かれて、実態がこれらのデータを入れた場合よりもよく見えてしまう問題が指摘されている。
人は本質的に同じ事柄であっても提示方法(フレーミング)によって異なる選択をする(フレーミング効果)。
手術を受けるとき「成功率90%」といわれるか「失敗率10%」といわれるか。
時間的非整合性:われわれの判断や好みは、時間の経過に大きく影響される。近視眼的に目先のことに囚われるなど。
社会的選好:人は自分の利益だけでなく他人の利益にも配慮する。
行動経済学に関する大和証券のCM
株式投資と心理学
アノマリーズanomalies
友野典男「行動経済学入門」『エコノミスト』2011年3月22日, pp.78-81.
友野典男『行動経済学』光文社新書, 2006年5月.
リフソン=ガイスト共編 林康史監訳『投資の心理学』東洋経済新報社, 2001年10月.
Written by Hiroshi Fukumitsu. You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.
originally appeared in March 14, 2008
corrected and reposted in July 10, 2010 and Sept.10, 2011.
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