風 雑記

建築とその周辺で感じたこと、思ったこと

徳富旧邸(徳富蘇峰・蘆花)03

2022-04-13 13:32:31 | 日記

2021年1月初めから、解体した部材は敷地内の仮作業場に並べて、そのまま再利用する材、繕いをして使う材、劣化が酷く新補材に交換する材を調べながら、

分別していきます。

柱、梁には多くの仕口や土壁の間渡し竹などの痕跡が残っているので、長さ、幅寸、痕跡位置と大きさを記録しました。

  

 

再利用できる部材も部分的な痛みや欠損があり、その部分を別の部材で繕い、目立つ部材は古色塗りを行いました。

 

 

2021年4月から移動した基礎上に建て方を始めました。

 

 

屋根下地→瓦葺き

 

 

古い目板瓦は選別した上で、瓦自体に穴を空け一枚ずつ銅線で固定、屋根葺き土で位置を調整しながら葺いていきました。

 

目板瓦は裏側に突起が無く、重ねていくだけなので屋根端部周辺瓦は漆喰で押さえ雨漏り対策とします。

 

目板瓦に妻部分の役物が無いので、漆喰押え(棒破風仕上)を行いました。

 

屋根瓦を葺き終わり屋根荷重が掛かってから、土壁の竹小舞を組みます。荒縄で縛り、荒壁を塗り(藁を縦に埋め込みながら)しばらく乾燥させます。

 

 

外部腰部分は元の縦羽目板(目板押え)仕上を行います。腰下は雨掛りなので、土壁保護の役目があります。

  

 

床の大引、根太を番号札に基づき元に位置に戻し、部材の劣化などで強度が足りない部分は新補材を添わせて補強しました。

徳富旧邸は内部が鼠漆喰でしたので、墨を混ぜる割合確認の塗り見本製作し、濃さを確認しました。

 

 

壁仕上げが終わり、建具を元に戻します。襖は下張り紙に昔の墨書や新聞などが貼られているので確認しました。

張り替えず、残した方が良いと判断した襖は、小屋裏に保管し、代わりの襖は新調しました。

 

 

明治期の旧邸は雨樋は無かったはずですが、近年になって雨樋が設置されています。L字の広縁のある和室部分は、雨戸をコーナーで回転させて開け閉めする

必要がありますが、コーナーに竪樋があるため回転させることが出来なくなっていました。

復旧工事では元の姿に戻すことにし、雨樋自体を無くし、外構に雨落ちを設けて、雨水排水桝を設置しました。昔の踏み石も元の位置に戻しました。

縁側の建具は元々木製雨戸でしたが、見学者用に嵌め殺しの木製ガラス戸に改修され、風雨にさらされ木製ガラス戸が腐朽してました。

今回、見学用と空気の入れ替えも必要なため、引き違いの木製ガラス戸を新調しました。

 

2020年4月から2022年3月の2年をかけて、徳富旧邸の地震復旧工事は完了しました。

解体調査では棟札は見つかりませんでしたが、今回の復旧工事は将来の改修の為、復旧工事の棟札を小屋裏に設置しました。

  

 

復旧工事の工事監理を通して感じたことは、揚屋曳家で行うのと解体修理で行う事にはメリットもデメリットもある事です。

古い建物の木構造痕跡をそのまま残すには揚屋曳家する方が良いと思います。

ただ徳富旧邸が永い時間を経る過程で、暮らしの中で必要になった改修や自然災害で、建物自体が弱り切り悲鳴を上げているように思いました。

今回、解体修理できたことで傷んだ部分は全て改善されました。

 

    左手前が明治天皇行在所移築部、右奥が大江義塾として使われた和室                  大江義塾として使われた部分

 

 

            和室(9)から南庭を見る                               2階の和室からの眺め

 

徳富旧邸の復旧工事では熟練の大工さん(熊本城に永く携わっている)や熟練の左官さんの技術を見ることが出来、とても勉強になりました。

訪れる人達が徳富蘇峰・蘆花の歴史や足跡に触れ、歴史の証である徳富旧邸が永く親しまれることに関われて良かったです。

災害調査、調査図作成から6年かかりました。文化財の復旧工事は時間と技術とお金が必要で、とても難しいと言うのが感想です。


徳富旧邸(徳富蘇峰・蘆花)02

2022-04-11 18:20:05 | 日記

 

徳富旧邸の復旧工事は2020年4月から始まりました。熊本地震のあった2016年4月16日から4年後になります。

徳富記念館(RC造3階建て)は地震後も開館してましたが、復旧工事に入り敷地全体が休館することになりました。

 

徳富旧邸は配置図上(西側)河川の間に隣接地の進入通路があり、軒先が越境していました。

今回の復旧工事で1.3M東側に建物位置を移動させる事と旧邸下を地震による断層が走り、基礎補強(コンクリートベタ基礎)が必要でした。

古い建物の移動は既存木構造をそのままの状態で、揚屋、曳家する方が建物の保存には良く、当初の復旧方針もその方向で検討していました。

 

工事着工し、屋根瓦下し、土壁、天井、畳などを取り外して、建物の骨組や状態を確認して行きます。

部材は全て番号札をつけて、仮小屋などに保管します。

部分毎に取外しを進めていくと、徳富旧邸は3つの建物の集合体で夫々の構造は切り離され、簡易な根太受けや垂木受けでつながっていることが解りました。

特に江戸期の建物と思われる北側母屋は曲がり梁が多く使われ、材も細く仕口も複雑になっていました。

長年の間に改修が繰り返された痕跡が多く見つかり、特に中央の和室(9)は東、西、、南、北の開口位置が全て変更されていました。

畳、根太を取り外していくと、床下の土が柔らかく、不陸が多いこと、大引、根太材に敷居の転用や削った柱材などが使われていました。

不思議に思っていたのですが、調べるとこの地域は昭和29年6月26日の熊本大水害で水深2.0Mの被害記録が残っています。

水害後、建物内の流入土が全て除去できず、床は畳や根太、大引などにも被害が及んで修理、復旧する必要があった思います。

熊本市内全域に水害被害が及び修理する木材も手に入り難かったと想像出来ます。

 

多くの柱根元の劣化や改造痕が多々有る事も水害の被害を考えると頷けます。

木造軸組の状態にしてみて、このまま揚屋、曳家するのは、建物を持ち上げた下で基礎コンクリートの施工、束石、敷石の調査、再据付の作業は危険すぎる

と思いました。施工者は一度解体し、部材の繕い、補強をして再組立てすることで、安全に基礎工事、束石、敷石の据付工事をしたいとの意見でした。

木構造の脆弱さと改造痕の多さから、監理者としても解体修理が適していると判断に至りました。

 

  

北側母屋と2階て部分は解体修理とし、南側は明治天皇行在所移築部は主要構造部は補強の上クレーンで吊り上げ、元に戻すことにしました。

 

 

(写真上)母屋の梁の交差部に高さ調整の木材が挟み込まれ、桁の交差部にも高さ調整と思われる木材が挟み込まれていました。

あまり見たことが無い仕口ですが、ある意味曲がり梁(捻じれたSの字)を上手に組み、材を挟んで高さ調整するなど当時の木架構の自由さも感じられました。

 

 

上部建物の解体後は、束石、敷石の調査を行いました。土に埋もれた敷石も見つかり、それに番号札を仮付けし、墨を打ち、全て別の場所に保管します。

 

 

 

熊本市で遺跡調査と断層調査(活断層と判明)を行いました。

   

補強用のコンクリート基礎を施工し、束石、敷石を元の位置に据え直していきます。

母屋部分は全て束石立で、2階建て部分は大きな敷石300mm×300mmが並べられ、明治天皇行在所移築部の敷石は200mm×100mm程度と小さめでした。

その為コンクリート基礎高さは3段にレベル差を付けで施工しました。

  

 

現場施工と並行し、土壁の材料を準備します。土は和水町の工場で練り込み、現場に運び土置き場を設けて一年ほど寝かせます。

 

和水町の工場での土練り

 

その間2度、藁スサを加えながら練り返しを行います。土の臭いはほぼ「ドブの臭い」です。

仕上の漆喰の材料も貝灰、ツノマタ、スサを混ぜ込み、しばらく寝かせておきます。

 

藁スサ混入の練り直し                               漆喰材料の練り合わせ

 

これから、解体材の繕いや軸組の組直しに入って行きます。

長くなったので、次回にご紹介します。

 

 


徳富旧邸(徳富蘇峰・蘆花)01

2022-04-08 10:53:00 | 日記

  

夏目漱石内坪井旧居と同時に徳富旧邸の熊本地震の災害調査、復旧図面作成、災害復旧工事の調査報告書作成、工事監理に携わりました。

 

徳富家

明治3年に父徳富一敬が熊本藩の民生局大属に任命され、水俣市から熊本に移り住みます。徳富家は代々水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄でした。

この徳富旧邸は父一敬と徳富蘇峰が一緒に私塾「大江義塾」を創設した建物です。

 

熊本洋学校

明治4年に熊本洋学校が開校、教師としてアメリカから元軍人のジェーンズ氏が招聘され、教育を行います。

全寮制で授業は全て英語で行われ、英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物と幅広い授業が行われ、成績が悪いとすぐ退学と言う厳しいものでした。

自主性を重んじる教育のもと多彩な人材を輩出し、明治7年には日本で初めての男女共学も行い、蘇峰の二人の姉も入学しています。

徳富蘇峰は明治5年に一度入学しますが、年少(10、11才)の為退学させられ、明治8年に再入学しています。

熊本洋学校では授業とは別に放課後、キリスト教の新約、旧約聖書を読む集まりがあり、藩政の解体で忠誠の対象を失った青年たちに新しい目標を与えます。

明治9年1月30日、35名が自主的にキリスト教を広める奉教趣意書に署名し花岡山で盟約を交わします。この集まりが後に「熊本バンド」と呼ばれます。

この集まりに対する守旧派の反発と共に明治新政府に対する士族の反乱「神風連の乱」(明治9年10月)が起こり、洋学校も閉鎖になります。

 

同志社英学校

青年たちは京都の同志社英学校(新島襄)に転校し、同志社の中で大きな位置を占めるようになります。

ジェーンズの元で一般教養課程を学び、厳しい教育を受けたことで、青年たちは英語で討論出来る程の語学力持って成績も優秀だったことから

「特異な存在」として宣教師から「熊本バンド」と呼ばれました。

その後、青年たちは牧師、教職、官公史、政治家などで活躍し、日本YMCAの設立にも関与しています。

 

大江義塾

徳富蘇峰は学生騒動の影響で同志社を卒業間際で退学し、東京に行き新聞記者を志しますが志しかなわず、明治14年に帰熊します。

新島襄とは師弟以上の関係が続き、新島襄の薦めもあり、明治15年大江村のこの地で、父一敬と私塾「大江義塾」を開設し、

英学、歴史、政治学、経済学の講義を行い青年たちの啓蒙に努めます。

ただ、明治16年頃徴兵制改正により塾生が激減し、大江義塾も存続も厳しくなります。その時励まそうとして送られたのが「カタルパの種」です。

徳富旧邸の庭には新島襄から送られたカタルパの種から育った木が毎年5月に白い花を咲かせます。

 

 

東京に移り住む

明治19年に家族全員で東京へ移り住み、徳富蘇峰は明治から昭和戦後期にかけての日本ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家として活躍します。

徳富旧邸は姉婿の川田氏に譲られ、昭和37年に熊本市に寄贈されて現在に至ります。

 

徳富旧邸と熊本地震

建物は主要な東側母屋(大江義塾として使われた)は江戸期には建っていたと思われます。

明治5年に2階建て部分と、その南側に明治天皇行在所(実際に使用されなかった厠部分)を移築されています。

100年以上の歳月の中で間取りの改修なども行われ、木構造自体も改造跡が多く残っていました。

2016年4月の熊本地震では、揺れによる建物自体が傾き、余震による倒壊防止対策として外部からはサポート、内部は開口部すべてに木の仮筋交いで補強されました。

 

 

2017年11月から2018年3月まで地震被害調査と復旧図面作成、2020年4月から2022年3月まで2年間の復旧工事の工事監理と調査報告書作成を行いました。

復旧工事の詳細については次のブログで紹介します。


夏目漱石内坪井旧居

2022-04-07 14:04:58 | 日記

 

 

夏目漱石は明治29年から33年(当時30才から34才)の5年間、熊本大学(旧第五高等学校)の英文学の教授として、熊本で暮らしています。

その間6回転居しており、内坪井旧居は5番目の住まいで一年8か月暮らし、鏡子さんが「熊本で住んだ家の中で一番良かった」と語っています。

新婚で長女筆子さんが生まれたのが内坪井旧居で、産湯に使った井戸が残っています。

2016年4月16日の熊本地震で、土壁や洋館の外壁の剥落などの被害が出て、災害復旧工事を2020年3月から2年間を掛けて行い、2022年3月に完了しました。

2017年11月から2018年3月まで地震被害の調査と復旧図面の作成をし、工事の調査記録と監理を行いました。

 

夏目漱石が実際暮らした住まい部分はピンクの部分になります。当時は北側に水回りの部分が建っていたはずですが、大正時代に増改築されています。

大正4年に水色の玄関、洋館、便所が増改築され、緑の部分もほぼ近い時期に増改築されたと思われます。

南庭も広く、木々で鬱蒼としています。明治期も広縁に面した庭が南、西、北それぞれにあり、風通しが良く、明るい気持ちの良い住まいだったと思います。

元は陸軍法務官が住んでいた家との事で、鴨居高が6尺と高く開放的です。

 

 

大正時代になり銀行員(後に銀行支店長)の自宅となり、社宅としても使われています。大正4年に玄関、洋館を増改築した記録があり、

続いて西側和室、北側台所、お手伝いさんの部屋が増改築されたようです。

洋館はアールデコ風の凝ったデザインで、外壁は荒い骨材が入ったドイツ壁が陰影がある表情を持っています。ただ地震では窓腰下の壁の

剥落が発生し、しばらく風雨に晒される状況が続いていました。

 

洋館被害

 

 

 洋館以外は伝統的な木造建築ですが、洋館外壁は両面斜め木摺の上、外壁側はドイツ壁、内壁は漆喰塗りとなっています。塗り厚も厚く、

壁式構造になっています。そのことで地震の揺れが異なり、和室側との接点部分は損傷が大きくなっていました。

洋館の両面斜め木摺下地は、強度も高く強固なのですが、内壁の腰板部だけが内部木摺が無く、構造的なバランスが悪く、被害が発生して

いました。災害復旧工事では弱点を解消する為、内壁腰壁部に斜め木摺を増設しました。

 

 

土 壁

伝統的な木造部分は、土壁を解体し、新しい土と解体土を混ぜ合わせた土を約一年ほど寝かせます。

その間に2度藁スサを加え、練り返しを行います。

竹小舞の締め直しの上、荒壁→斑直し→中塗り→仕上塗りの順番で復旧していきます。最初土はどぶ臭い臭いがしますが、乾燥すると臭いは消えます。

最終的には漆喰、ジュラク塗で仕上げますが、中塗り状態の土壁の表情はとても魅力的で惹かれます。

 

 

洋館外壁

洋館は窓周りの骨材入りモルタル洗い出しとドイツ壁仕上げの復旧工事については、経年変化による色合いと新しい壁の色が全く同じにはならないので、

心配しましたが、経験豊富な左官さんで上手に復旧してくれました。

 

  

 

終わりに

文化財の地震災害復旧に携わるのは初めての経験でした。調査から監理まで悩み、考える手探りの仕事でした。

熟練の職人さんに頼る部分も多く、時に意見の衝突もあり言い合いもしましたが、良い経験になりました。

 

夏目漱石が暮らした雰囲気が良く残っている旧居だと言われます。近くには坪井川が流れ、川風も吹いていたと思います。

漱石先生、鏡子夫人と赤ちゃんの暮らしや、「二百十日」のもとになる阿蘇行にこの家から出かける様子など想像すると楽しいですね。