mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

肉体から離れ「普遍」に実在する魂

2014-11-23 10:52:04 | 日記

 昨日は10月に亡くなった長兄の49日。長兄宅に集まり、お坊さんを呼んで読経してもらい、阿弥陀浄土に行くのを見送った。遠くは鹿児島から、あるいは岡山、大阪、奈良、名古屋から、故人の兄弟夫婦、甥や姪、その子どもたちが駆けつけて、冥福を祈る。長兄の奥さん、息子夫婦、孫が、いそしく世話を焼いて、お坊さんならずとも「仏縁」を感じる。

 

 行き帰りに矢作直樹『魂と肉体のゆくえ――与えられた命を生きる』(きずな出版、2013年)を読む。昨年4月に出版されていた本が、ようやく図書館の予約順が到来して、手元に届けられた。著者が「東大病院・集中治療部部長/医学部教授」という肩書なので、読んでみる気になった。だが記述されていることは、医学部教授という立場に関係がない。

 

 《この世は人智を超えた力により動かされていると感じています。……摂理を富士山に例えると、直感(内なる声に従う)により富士山全体が見える人も少なからずいました。……この本は(…)私の理性と直感とのバランスの中で認識していることを述べています。》

 

 と述べている。カントではないが、証明できないことは信じるか信じないか、しかない。

 

 一昨日にとりあげた、宮部みゆきの『震える岩――霊験お初捕り物控』がそうだが、お初という若い娘の「霊験あらたかなる直感」によって「事件」を感知し謎を解いてゆくという物語は、『雨月物語』でも小泉八雲の「怪談」でも、一般的である。私たち人間のもっている記憶力と想像力と、たぶん他の人の存在や感性に共振・共感する能力とが、ことばにならない次元で作用しているのであろう。そのように考えることを私は、嫌いではない。宮部みゆきの小説を好ましく思いながら「うまいなあ」と褒めるのも、私の共感能力の発露と言える。もちろん今の科学の想定する「合理性」で始末しきれない事象もあって、いろいろな「仮説」が登場する。矢作の「仮説」も、そのひとつとして私は読み取った。

 

 だが、矢作は「仮説」とは考えていない。魂が肉体から離れ次元の異なるかたちで私たちの世界にとどまっていると説明する。さらに魂は、より高い次元へ磨かれていくものと考えている。最高の次元に達した魂はもはや転生することなく、「普遍」に至る、と。その根拠は、上記引用部分の「摂理が……見える人が少なからずいる」にある。彼には見えているのだ。宮部みゆきの「お初」も、なぜ、どのようなときに、自分に感じられるのかはわからない。宮部はしかし「虚構」だから、「わからない」というだけで十分である。私たちの実在感にしたがっている。だが矢作は「虚構」として提出しているのではない。「少なからずいる」で、十分だろうか。

 

 矢作のように考えることは、「死への恐怖」を「死後の新しい可能性」に目を向ける役割をする。それは、それなりに現世の魂を落ち着かせ、平静に、あるいは希望に満ちて死を迎える心の準備にふさわしい。希望を語っている。あるいはまた、現世をそのまま受け入れて誠実に生きることへと気持ちを向かわせる。なぜ「そのまま受け入れる」か。「(神の)摂理」だからである。

 

 ここには、不思議なアンビバレンツが存在する。「摂理」を見て取る/感じとる力をもった魂が「普遍」に至るように「磨きをかける」という、いわばマクロ次元から観る観点と、「現世をそのまま受け入れて誠実に生きる」というミクロ次元の存在とを両立させる論理は、達観とか諦念という(宗教的/イデオロギー的)観念を介在させなければ、人間の論理としては通用しない。言葉を換えていうと、信仰や宗教を介在させて、論理をすっ飛ばす「跳躍」が必要なのではないか。その「跳躍」をしているという自己認識が、矢作にない。だから著者としての東大教授という「肩書」と「記述」とがそぐわない。ただ、「東大病院・集中治療部部長」という「肩書」が、「死」と常に向かい合ってきた矢作の経験則を思わせる。だから、私たちは宮部みゆきの場合と違った「まことらしさ」を付け加えて、彼の言説を受け取っている。その受け取る感性は知的な態度につながるのであろうか。

 

 長兄が極楽浄土に行くという49日。午前11時ころから午後4時ころまで、故人の眷属が集って、現生のあれこれを交歓しているのを、祭壇の長兄は、静かに笑ってみているようであった。肉体から離れ「普遍」に実在する魂というのは、こういうのを言うのだろうかと思いながら、私は祭壇の傍らでワインを傾けていた。いまだに長兄が、ちょっと姿を消しているだけという感じが身の裡に残っていた。  


コメントを投稿