mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「国家独占暴力団」の面目躍如

2016-12-18 10:06:09 | 日記

 東洋経済online(12/17)が「日本版カジノは大きな成功が約束されている」と、いかにも経済紙らしい論評記事を掲載している。それにしても、「カジノ法」に関しては景気刺激の浮揚のとお金の話がアップビートの交わされているが、肝心なことを忘れていないかと思う。いや、「バクチ依存症/中毒」の話ではない。

 「国家は最強の暴力団である」と言ったのが誰であったか忘れたが、このことばは「暴力装置」のことを指していた。だが「カジノ法」の本題は、「暴力装置」ばかりでない「資金源」としての「国家は最強の暴力団」にある。暴力団対策法が「粛々と」遂行され、暴力団は、然るべきは地下に潜り、表向きはいまや、ほぼ装いをあらためて民間企業に変身しつつある。近頃ラジオで盛んに繰り返される「過剰返済金を取り戻そう」という法律事務所のコマーシャルも、「闇金」を撲滅して暴力団の資金源を断とうという国家戦略の掌中にある。「麻薬撲滅」もそう。「大麻を合法に」と主張する元女優を逮捕したときの、元麻薬取締官のTVでの発言は、麻薬も大麻もみな「薬物」としてひっくくって「取り締まりは必要だ」と言っているにすぎない。つまり子細の論議に分け入らないで、玄関払いしようとしている。これも暴力団の資金源を断つ裾野を焼き払っている積りなんでしょうね。あるいは「元暴力団組員」が改名して「堅気に戻る」ことを裁判所が承認するというのも、「国家暴力団」の独占がすすんでいることを証明している。

 えっ? ――「市民」とか「国民」という名の「組員」として国家が独占するって意味さ。

 それと同様に、「カジノ法」は暴力団の資金源を「国家暴力団」の手に取り戻そうという戦略。だが経済の話にしてしまえば、市民社会の話になる。パチンコの「景品交換チケット」は「賭博」に変わらないのではないかという「国会質問」に、「景品交換所とパチンコ経営者が別だからそうとは言えない」と法制局が見解を変えたというのも、「国家暴力団」がこれからは「賭博」の御開帳をつかさどるぞというちらり宣言みたいなものだ。むろん暴力団も「国家暴力団」も「依存症」のことなどは顧客の「自己責任」を基本としているから、知ったことではない。そういう態度をとってきた。首相の国会答弁も、カジノそのものよりも周りにつくられるリゾート施設やレジャーランドが投資を呼び込むと、おとぼけエコノミックアニマルに終始して、滑稽であった。さすが「組長」、市民社会に溶け込んでいる姿勢を崩さない。「国家独占資本主義」ならぬ「国家独占暴力団」の面目躍如である。

 もっとも、日本の「国家暴力団」も、日本国内の暴力団を視野に入れているだけでは間尺に合わないと思ってきた。だから、今回の「日本版カジノ法」も、「諸国国家暴力団」に富裕層のお金を占有させるわけにはいかないと、そちらも視野に入れていると、国会の答弁に力を入れていた。そして今や時代は、20世紀初頭のような、各国国家利益を最優先にして駆け引きをする「戦国時代」に突入している。なりふり構わず、というわけである。私たち日本の「国家暴力団の組員」としては、組長に頑張ってもらうほかないと日頃の暮らし向きだけを考えて、つまらない思案をしている。

 そんなことを考えながら東谷暁『戦略的思考の虚妄』(筑摩書房、2016年)を読んでいると、論壇で使われている「地政学などの戦略論ブーム」というのは、せいぜい数年を視野に入れた「ご都合主義的な使い方」、戦術や技術に属する論議だ、と手厳しい。グランド・ステラテジー(大戦略)を考えよと、力説している。「大戦略」って何か? 「人間が判断可能な二十年単位の未来予測が要求する戦略上の問題」と東谷は言葉にしている。まさに「国家暴力団」的な視野こそ、本命だと言っているのではないか。カジノ法にまつわって、そんなことを考えるともなく思っている。

 一体どういう日本にしたいと考えているの? そこを明快にして論議をしないと「戦略」もへったくれもないんじゃないか。でも、そういうと、当面、日本会議のような「日本イメージ」しか描けないのだろうか。それも何だか陳腐で、あの戦争の「反省」がないやね。

 そう、まさにこういう「情況」を、「大戦略」がないって言うんだろうと、腑に落ちた。


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