mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

時代の変化と私たちの感性の変貌

2016-02-28 14:14:32 | 日記
 
 「異変」が私に生じて、奥日光の案内を友人二人に丸投げしたのですが、無事昨日夜7時過ぎに彼らは帰着し、Kさんは「順調に行きました」と言い、Sさんは「若い人が明るくて、愉しかった」と笑顔で話してくれました。ガイドした7人のうちの6人が20歳代、4人が外国人だったことも、またSさんにとっては、今年自分のスノーシューを買い込んで(たぶん)三度目の雪山という初心のフレッシュさも手伝って、愉しくおしゃべりしながらガイドしたのだろうと推察しています。
 
 案内を受けた(私の元同僚)Hくんからも「楽しい一日でした」とメールが入り、喜んでもらえたと胸をなでおろしています。私の「異変」もだいぶ良くなり、じんじんとした痛みがじわあっと緩く面積を持った痛みに変わり、何かをしているときには痛みを忘れていられるくらいに治まってきています。「痛みは3日から7日」と医者の言った3日目なので、案外早めに治るのかもしれません。
 
 痛みを忘れるためもあって、3月26日の「第19回Seminarのご案内」を作成しました。今回のお題は「小さな窓口から」。町医者の奥さんとして務めてきた方の「医院・患者事情レポート」になるはずです。その「お題」へのコメントを考えていて、ふと三波春夫の言葉を思い出しました。
 
 歌手の三波春夫が「お客様は神様です」と言ったのは1960年代前半。それは、神にささげる歌を歌っていると思って毎回舞台に立っているという意味だと、三波自身がいつかどこかで話していました。それを聞いたとき、ウタの原義に思いが飛んだことを覚えています。むろん日本のウタは主には和歌を指すのでしょう。いま手元にある本に引用されている「古今和歌集序文」は、読むだけで、私などが日頃忘れてすごしている、なかなかふくよかな感覚を感じさせる名文です。
 
 やまとうたは、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかわずのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをうまざりける。ちからをいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをも、やはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。
 
 この中の「あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」が、ウタの原義を感じさせます。つまり、祈りの言葉としてのウタであったわけです。
 
 大野晋『古典基礎語辞典』では「歌」について《もともとは声に出し、節をつけて、音数律という形式によって、自然に美しさや自分の感情を表現した作品をいい、この場合は、大体、拍子をとって表現する》とし、「畏みて 仕へ奉らむ 拝みて 仕へ奉らむ 歌付きまつる」と〈書紀歌謡〉を引いています。三波春夫は、神にささげる原義を忘れず舞台に立とうと、自戒の言葉として「お客様は神様です」と言ったと思えます。
 
 ところが1960年代前半は高度経済成長の助走の時期でした。それは60年代後半から70年代にかけて飛躍的に伸び、私たちの生活も大きく変わってきました。それが後に、「一億総中流」時代を生み出し、高度消費社会に至ったわけです。その高度消費社会の波に浮かされてか、三波春夫のことばは「お客が神だ」と(消費者を)持ち上げる言葉に解釈される結果になった、と言われています。これは、時代の変化と、伝統的な社会のおもてなし感覚に媒介されて、異なった意味に使われるようになったのでしょう。消費者が調子に乗ってしまったのです。それは80年ころの「不思議大好き」とか「おいしい生活」という欲望拡大の商業路線と符節を併せて日本社会の一大流行になったとさえいえます。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が「エコノミック・アニマル」と西欧で揶揄される事態でした。とは言え、「お客様」は「貧乏神」だ「疫病神」だとまで話しは転がっていっていますから、一概にもてはやされたとばかりは言えないのかもしれません。
 
 そこには、「神にささげる」という歌うスタンスも忘れられてきたことも示されています。神に対する「畏敬の念」も「畏れおおいという感覚」も失われ、それは私たち自身に対する自省の念をも消してしまったように思います。質素倹約して暮らすことも忘れらました。自分たちの暮らしに対する謙虚な見返しはどこかに蒸発してしまい、たぶん私たち自身の自然に対する敬意や、絶対的なものに対する「感性」が変容してしまったのだと、今になって思います。
 
 「小さな医院の窓口から」という次回Seminarのテーマについてコメントしようとして上記のことを思い出したのは、「言葉」の持つ意味の変化が、医療分野においても同様に大きく変わってきたとどこかで思っているからでしょう。
 
 医は仁術といわれるよりも錬金術と言われるようになっています。医は仁術という原義は、患者側にはいまだ変わらぬ医師に対する敬意・期待として残っていると私は思います。ですが、医療の高度化・機械化の波の中で、医師はTVモニター画面をみて診断を下し、患者の顔色をみることも目を合わせることもなく診察を終えてしまうといわれるようになりました。あるいは、病気の断片を診るばかりで患者の身全体をみる力を医師は失っているとも非難されています。それは「仁術」という人格全体に対する働きかけではなく、身体の機能性だけに着目した治療に目が行っていることでもあります。ここに、医師と患者のかかわり方にも大きな変化が見られます。
 
 あるいは、医療費負担の厖大化の中で浮かび上がっているのが、医薬の高額化と錬金術としての医業。最近町医者を家庭の主治医として位置づけ、大病院を専門的医療機関として二次診療機関とする動きになってきました。医療制度全体の大きな変更に、患者はどう対応しているのか。医師はそれをどう受け止めているのか。医療費負担という経済効率の論理で考えられているだけだとしたら、患者は自己防衛の術すら持たなくなるのではないか。そんなことが気になって仕方がありません。
 
 それらの「情況」を、「赤ひげ」と呼ばれた町医者の窓口からどう見てきたか。興味津々の、テーマです。岡目八目と言いますが、医師や看護師という医療の当事者としてではなく、傍らにいて患者側と医療側の仲立ちをする役割を担ってきたH.K.さんが、どう長年の変化を見てきたか。どう解析するか。おそらくそこには、彼女の人生そのものが浮かび上がってくるのではないかと思います。愉しみですね。

「雪の奥日光」余聞――晴天の霹靂

2016-02-27 11:30:09 | 日記
 
 山に行ってきた後は、片づけにすぐとりかかる。放っておくと面倒になり、ぐずぐずと尾を引く。今回は、24日に帰宅して、2日置いて土曜日にまた、奥日光の雪山を案内することにしていたから、装備は選択したり乾かさなければならない。カミサンが白馬に行ってしまっていたから、あれこれ全部自分でやるほかない。幸い、3時半ころに帰着した。
 
 まず、土曜日に必要な地図と「案内プリント」をつくった。今回は、むかし私の同僚であった49歳の男。「劇団ぴゅあ」の主宰者でもある。彼には2年前の冬、雪の奥日光のスノーシューを案内したことがあった。湯元から三つ岳の肩を越えて光徳へ抜けるルート。かつて光徳~湯元間の古道であったが、今の車道が開鑿されてからは使われず、夏はすっかり藪に覆われている。だから雪がかぶさっているときしか使えないし、冬は使える。樹林の中を抜け、なかなか急な斜面のトラバースもあって面白いルートである。(たぶん)彼はこれが気に入って今回の案内話になった(と私は思っている)。
 
 この男の仕事仲間6人が同行する。そのうち4人が外国人。アメリカ2人、イギリスとオーストラリアが各1人。男女各2人。この組み合わせが面白そうだ。それ以外の日本人2人も含めて、皆20代というから、これもまた、私がいつも案内する還暦過ぎの人たちと違う。体力はあるが、早く歩きすぎてばててしまうかもしれない。そんなことを考えながら、スノーシューを使うときの注意点、歩行中に気をつけてほしいことをメモし、英訳を添える。
 
 むろん名簿と、ガイドするこちらのメンバー紹介を記す。いつも山へ行くときに同行してくれるKさんはフェンシングの指導者であり、かつ、トレイル・ランニングや鉄人レースのアスリート。もう一人同行するSさんは、外国人のための日本観光のスーパーバイザーであり、日本百名山に挑戦中、あと8山を残すという前期高齢者になったばかりの女性。どちらも私の山の会のメンバーである。
 
 地図は国土地理院1/25000地図にポイントを書き込み、これにも英訳をつける。案内ルートの行程時間をポイントごとに記しておく。こういう作業はやっているだけで愉しい。私にとって山というのは、どこに行こうかな、どうやってどんな人たちと一緒するのかなと、コースや時間や歩き方を考えているだけで、すでに山に浸っている気分になる。ことに初めての人たちを高い山とか雪山とかに案内するときには、モチベーションをどう整えて保つかもあって、私自身にとって初体験の山行という感触が湧き起る。
 
 その夜少し、右足の親指のあたりがひりひりとするかなと思った。よく朝起きてみると、歩くときに親指の付け根辺りに軽い痛みが走る。ひょっとしたら疲労骨折かと思う。2日間のスノーシュー歩きで、凍った急斜面の登りをしたとき、たしかに親指の先に力を入れてスノーシューの爪をひっかけてごりごりと這い登った記憶がよみがえる。でも今日は木曜日。医者は休み。ま、明日になったら整形外科の医者に行ってみるか。でも、疲労骨折はほとんど手当てをしない。いつかもそうであったとき、山靴を履くと、ちょうどギブスを入れたようになって、歩くのに支障はなかったことがあった。土曜日に支障はあるまいと、タカをくくる。
 
 良く晴れている。洗濯をして干す。荷物を解いて、オーバーズボンや冬用の防寒ジャケット、帽子手袋、ザック、ストックやスノーシューも乾かす。濡れた靴も陰干しにする。こういうことをしているとき、用具の傷んでくるのが目に止まる。そう言えばこのジャケットはもう15年になるとか、ストックはまだ3年だけど、このあたりが撓んで、出し入れが難しくなってきている、お役に立っているんだな、と思うことになる。
 
 お昼頃に足の痛みが少し強くなってきた。車にガソリンを入れておかねばならない。ついでに買い物もしておこうと出掛ける。買い物かごを持つと身体が不安定になるから、リュックを使う。ところが、足の痛みがだんだん強くなるように感じる。それでも何かに集中していると忘れていられるから、23日からの山の記録を書きつける。全部書き終わることができず、(つづく)としてップする。洗濯物を取り入れ、干しておいた山用具を土曜日用に整え、夕食の準備をする。
 
 夜になって、いっそう痛みがきつくなる。足をみると、親指の付け根辺りが腫れてきている。痛みがじんじんと響く。その間隔が脈動と呼応している。血液が毛細血管を通過するときに痛みが生じているようだ。ということは、疲労骨折ではない。整形外科へ行っても治らない。とすると、ひょっとすると、痛風ではないのか。尿酸値が高く、気をつけなさいと10年ほど前に言われたことがあった。風呂に入る気分にもなれない。コタツで横になってTVをみていると気がまぎれる。いつもなら9時には床に就くのに、とうとう11時までTVドラマを見てしまった。布団を敷いて横になるが、右を向いても左を向いても、足の置き方を変えてもジンジンジンは変わらない。ほとんど寝られないように感じたが、ふと時計を見ると、夜中の1時半ころ。次に時計を見ると4時になっていたから、それなりに眠ってはいるのだろうが、終始痛みを意識して眠れなかったと思っている。
 
 6時に起きだすが、いつものようにコーヒーを淹れる気にならない。もし痛風なら水を飲めと言っていたことを思い出して、お茶を飲む。どんどん飲み、次のお茶をつくって冷やしておく。やはり作業に集中するに限ると、山行記録の続きに手を付ける。すぐに書きやめてしまう。根気よりも痛みが上回った。
 
 朝食を食べる気にもならず、8時になるのを待って医者に出かける。200mほど離れた駐車場まで歩くことができない。自転車で行こうとペダルに左足を掛けるがうまく漕ぎ出せない。そうか、跨ってから漕ぎ出せばいいかと両足を伸ばし、左足をペダルに乗せようとして右足に力を掛けると、そのまま右へ体が(自転車ごと)倒れてしまった。今度は、左ペダルを中ほどの位置において左足を掛けると同時に右足を持ち上げてサドルを跨ぐようにしたらうまくいった。動き始めれば、左足を強く漕いで、右足は軽く添えるだけで何とか前へすすむ。こうして車のところに行き、車に乗って700m先の医者へ向かう。入り口わきの駐車場に止めて、ドアが開くのを待つ。8時半にドアが開き、受付をしてソファに腰掛ける。
 
 先週血液と尿の検査をしてくれていた医者は、その「成績表」をみながら、「尿酸値も悪くないし、腎臓の肝臓も数値は全部いいですよね。でもこれは、たしかに痛風ですよ」と、脇のケースから「痛風の写真」を取り出してみせる。それも右足。
 
「ほらっ、そっくりでしょ。2日間、山へ行ってたんですか。何を食べました? 湯葉、豆腐じゃないし……。お酒は? ははあ、ビールね。どれくらいのみました? ほほう、それくらいねえ。」
 
 といたって静かなふつうの調子で尋ね、痛み止めと尿酸値を下げる薬を処方してくれた。明日山の案内があるので、何とかすぐに速く効く痛み止めを処方してくれと頼んだが、1週間はかかりますよと笑って取り合わない。「安静にしてなさい。お大事に」と診察してくれたわけ。
 
  こうして薬をもらって帰り、さっそく服用。Kさんに電話をして「異変」を知らせ、明日のことを頼む。まあ、山ガイドは全部丸投げになるが、仕方がない。Kさんも痛風の発作を経験したことがあるようで、100kmマラソンを走ったのちに発作が起こったが、何とか薬で抑えることができて、そのあとすぐに富士山に登ったと話す。よくなればよし、治らなければ全部引き受けると了解してくれる。Sさんは、自分の車を出してもいいですよと言ってくれる。昔の同僚は「わかりました。」と快く返事。こうして土曜日の山案内は、こなすことができる。
 
 今朝ほど、我が家に来たKさんと駅で待っていたSさんを送り出した。9時半ころに、湯元で出会って、これから出発すると電話もあった。やれやれ。今回の釣風の発作は、青天の霹靂。こういうことがふつうに起こるようになって、高齢者は彼岸へ旅立つのかもしれない。そんなことを考えながら、和らいだ痛みは、薬のせいばかりではないなと、思っている。

雪の奥日光(2)刈込湖

2016-02-26 18:34:41 | 日記
 
 23日に宿泊したのは、湯元休暇村。昨年はおおるり山荘に泊まった。おおるり山荘は1泊2食6000円と格安。古びてはいるが、むかし皇太子(今上天皇)が疎開していたという宿を買い取って営業している。建物は古びているが湯は悪くない、と私は思っていた。ところが今年は、「もう少し食事のいいところにしませんか。高くてもいいから」と注文が入った。参加の意思を表明している方々にも意見を聞かなくちゃとメールを打ったら、
「誰ですか、そんなぜいたくを言っているのは。大賛成です。」
 と返信があり、老舗旅館の12000円に決めた。ところが休暇村から送られてきたパンフレットに、10500円とある。そちらに変更する。人数と男女差があって、3人部屋も生じたのだが、すると、そこは9000円でよいとのこと。早速、2000円追加の湯葉会席にグレードアップした。「部屋の去年とは違うね」とご機嫌。ひとつ失敗した。風呂上がりの5時ころから夕食までの1時間半ばかりを、ビールやワインを飲みながら歓談して過ごしたのだが、ついついおつまみに手を出してしまった。夕食はずいぶん多種多様で、食べきれないほどであった。
 
 24日、朝の食事もゆっくりと済ませ、湯元駐車場へ車を移す。そこからスノーシューを手にもって温泉寺から泉源へ向かい、登り口の雪の上でスノーシューを装着する。皆さん要領を覚えて、手際が良い。ゆっくりと歩き始める。確かに雪は少ない。昨年は、この登山口の少し先でたっぷりの雪がつもっていた。そこで小さな子どもたちが、急斜面を這い上り、シリセードで滑り降りていたこともあった。今年は笹が顔を出して、上るどころではない。金精道路に15分で上った。小峠への夏道には、「通行御遠慮ください。国土交通省」の札を紐で掛けてある。ルトはしかし、踏み固められていて、歩きやすそうだ。この分なら、小峠までのトラバース道が雪崩れたり滑落したりする心配はなさそうだ。一人ゴム長靴の若い人が「ここは通れるんでしょう?」と聞く。彼は刈込湖を往復するつもりのようだ。アイゼンはない。彼が先行する。私たちはスノーシューを踏んで転ばないように気をつけながらすすむ。Mrさんは慎重すぎて、足の運びがゆっくりだから、よけいバランス感覚が要求される。ますます慎重になるという悪循環だとみえる。それでも慣れてきたのか、半ばまで来ると、他の人たちと速さが変わらなくなってきた。小峠の手前の夏道にも、向こうへ向けて、「通行御遠慮ください」の札を下げている。帰りはここから蓼の湖に下る。Kwさんが先行する。女性ながら急な斜面をずんずんと登る。すぐに小峠に着いた。泉源を出てから55分。夏とほとんど変わらない。
 
 ここからMsさんに先導してもらう。夏道との分岐から土瓶沢への冬道は、まだ誰も入っていないらしく、踏み跡がない。吹きだまってたっぷりある雪に、笹はすっかり覆い隠されている。沢の広い平坦な土瓶沢は、どこを歩いても新雪のように心地が良い。いつのまにか横に広く広がって刈込湖方面へ向かっている。MrさんもMsさんを後にして、さかさかと先へ歩を進めている。スノーシューの後ろが跳ね上がるように動いているから、ご機嫌であることがわかる。土瓶沢はその先が狭い渓になり、斜面も急に下る。Kwmさんが快調に先頭をすすむ。10時に刈込湖に着いた。
 
 刈込湖の水位がずいぶん低い。こんなに水が少なかったのだろうか。雪はたっぷりとつもり、湖面は凍り付いて雪をかぶっている。湖面に降りてみる。固い。これなら上を歩いても崩れる心配はない。Khさんがずいぶん沖合の方へ歩いていく。皆さん湖面に降り立って、写真を撮ったりしている。Mrさんは雪の上にバタンと倒れて、写真を撮ってくれとはしゃいでいる「ティーパーティにしましょう」と声をかけて、昨日のビールのおつまみを出す。ほんの少しずつ口に入れて、お茶を飲んだりする。空は青い。山王帽子山と太郎山が両側から低くなっている稜線の合間に、すっきりとした姿を見せている。
 
 帰路に就く。Msさんを先頭に、来た道を戻る。小峠までがほんの20分ほど。どうしてこんなに早いのかとKhさんが驚く。小峠からKmさんとKwrさんが下りを先導する。森の中に入る。下から一人、スノーシューで歩いてくる人がいる。凹凸の大きい森の中は、どこを歩いてもいいように見える。ばらばらに散らばりはじめ、後ろの方の人は最短距離をとるようになるから、歩行順序が、また、入れ代わる。面白い。
 
 蓼の湖は半分が凍らずに、青々とした水を湛えている。残り半分が薄い雪をかぶり、凍っている。果たして渡れるか、Khさんが慎重に歩を進めて、OKを出す。間を5メートルくらい空けて、一人ずつ氷上に踏み出す。湖を囲む小山を回り込んで越え、金精道路の真下に出る。急な斜面をたどって金精道路へ上がるが、ペースが落ちない。
 
 泉源に帰り着いたのは11時31分。なんと3時間で往復したことになる。泉源で4人の若者がスノーシューを履いてこれから出かけようとしている。刈込湖まで行ってきたい、と。私たちのルートを紹介して、往復の時間を告げる。でもこれから往復すると、3時ころ帰着になる。暗くなるし、寒くなると思う。でも、若いから大丈夫か。
 
 こうして、車に分乗し、中禅寺湖畔の「とんかつ定食」を食べに行く。ここのソースカツ丼は「カツ」が5枚も入っており、食べるときに用意された取り皿にカツを分け置いて取りかからねばならない。食べきれない人のために、油紙の持ち帰り用袋が用意されている。半分ほど持ち帰る人がいた。
 
 バスの停留所もすぐそばにあったので、ここで解散。私とKhさんはスノーシューを返却し、高速で帰路に就いたのだが、どういうわけか、私は途中で眠くなって運転がおぼつかなくなる。PAに入って座席を倒して少し眠る。20分ほど寝たらしい。気分もすっきりとして順調に帰宅した。
 
 土曜日にも奥日光のスノーシューのガイドが入っている。今回のハイキングが下見のようになった。コースを決定しメールで送信する。その名簿と地図をつくる。外国人が4人入っているので、地図やスノーシューの扱い方や歩行中の留意点に、英文を添える。さてやれやれと思ったのだが、その次の日、つまり昨日、異変が発生した。それはまたの機会に。

雪の奥日光・茶ノ木平

2016-02-25 16:15:35 | 日記
 
 23日から1泊2日で、奥日光の山を歩いてきた。山の会の月例山行。昨年も泊りで行ってきたのだが、今年は人数が増えた。日帰りの一人もいて、1日目は中宮祠から茶ノ木平にのぼり、冬季は閉鎖になる半月峠への車道へ降り下って歌が浜までのコース。9時40分に登りはじめる。
 
 2月初めに下見をしたときにも雪は少なかったが、それでも山腹全面を覆う程度にはあった。ところが、それ以降雪がほとんど降らず、暖かい日がつづいて融けて凍りつき、がりがりになって、スノーシューの爪が立たない。わずかに何日か前に壷足で歩いた跡にスノーシューの爪をひっかけてトラバースするが、左側は切れ落ちているから、慣れない人は膝がしらがぶるぶると震えている。このまま行くよりも、急な斜面を登った方が、稜線沿いのなだらかな斜面に乗れると判断して、急登をやってみる。最後の5メートルくらいが凍りついて固く締まり、ちょっと苦労する。何とか私が先行はしたものの、上から見下ろすと、右へ上がる方が緩やかだと分かる。声をかけて、3番手からそちらへまわってもらう。2番手は私の後をすでにかなり上っていて、最後の5メートルにかかっている。
 
 ところが、彼が身体を起ちあげたときに、足が滑り、身体を立て直そうとした勢いで後ろへもんどりうって転がってしまった。雪の斜面を滑り落ちる。下にいたKhさんが彼をつかんで一瞬止めたが、そのまま二人とも転げ落ち、下の木にぶつかり、2本目にぶつかってようやく止まった。あとで聞くと、落ちた2番手さんはどのように落ちたか覚えていない、という。身体を木にぶつけたとき、背中にしょっていたザックがクッションになって、ひどく痛めてはいないのが幸いした。帽子がない、メガネがないというので、落ちたルートを登って探すと、上の方で難なく見つけることができた。Khさんは2番手さんに軽アイゼンをつけて、トラバース道を歩けるようにしている。
 
 その他の面々は、滑落を目の当たりにして、腰が引けてしまった。だが、トラバースするよりここを登り切った方がよいとはわかるから、愚痴をこぼしやいのやいのと文句を言いながら、上り切った。稜線の笹原の雪は解けていたから、スノーシューを外し、笹を踏んで稜線をさらに登る。ひとつのピークを過ぎたあたりでトラバース道と合流して、雪から顔を出した夏道をたどる。再び雪の少し深いところに出くわし、またスノーシューをつける。山腹を北側へ回り込むように回り、最後の急な斜面を突き上げる。ここは木立もそこそこあって、滑落する恐れをあまり感じないで済んだ。歩いているうちに馴れて来て、上手に足を運べるようにもなっている。
 
 山頂付近に上がって振り返ると、男体山が半分雲をかぶり、遠くの白根山が雪をたっぷり付けた姿を見事に現して、山歩きの醍醐味を味わわせてくれた。その少し先に、広い山頂があり、昼食にする。12時10分。2脚の木のベンチと太い倒木に腰かけて、ここまでの悪戦苦闘を笑い話にする。登りはもうないと分かって、気分が軽くなってもいるようだ。
 
 30分ほどで女性陣は出掛ける用意を始めた。陽ざしはあるからもっとのんびりしていたい男たちは、「早いなあ」とこぼしながら、腰を上げる。Msさんに地図を見て先行してもらおうとするが、やはりルートを探しながら行くのは不安があると見えて、「どうぞ、どうぞ」と遠慮をしている。結局私が先行する。踏み跡はついていたり、風で飛ばされたりしてか、消えているところが多い。こういうところが歩き甲斐があろうってものよといいながら、細い稜線を北へすすむ。シカが一頭、飛び出して私たちの行く稜線上をピョンピョンと飛ぶように逃げていった。
 
 半月峠への車道との合流点の手前の展望台の雪はすっかり消えていて、春の気配さえ感じるようであった。男体山が北半分をみせている。太平洋側の気象が南半分を隠しているわけだ。北の白根山はよく見えている。中禅寺湖全体が見渡せて、風のない湖面が水ぬるむ感触を湛えている。
 
 車道に出てスノーシューを外し、肩にかついで歩いて降りる。軽くなった脚が心地よく前へ前へと調子が良い。おしゃべりをしながら、調子よく歩いていると、融けた雪が凍りついた路面に足をとられてつるりとすべる。おっとっと。右へ左へと道路と雪と凍りついた様子を見極めながら1時間ほど歩いて、ひと休憩をとる。Msさんが地図を出して、いまここだからあとどれくらいと地図読みをしている。降りはじめた道路の上の方がう~んと高いところにみえている。こんなに来たんだ。人間の脚ってけっこう歩けるものなんだなと思う。
 
 2時40分頃歌が浜の駐車場に到着。今日歩き始めてから5時間の行程であった。日帰りの方を中禅寺温泉のバス停まで送ってから、今日の宿へと移動する。3時5分。途中湯の湖の氷上を3人の人が歩いている。「あんなに薄そうだのに」とみている方が心配している。宿につき、手続きをして部屋に落ち着いたのは4時前。「去年の部屋よりいいねえ」とKmさん。窓の外に雪の降り積もった樹林が広がり、木道が通っている。その先に湯の湖の、湖面の凍っていない半分がみえている。さらにその先に、男体山が姿を見せている。雪がついていないようにみえる。
 
 6時45分の夕食までまだ、だいぶ時間がある。風呂に入ってから、一部屋に集まり、ビールを飲みながら、来年度(今年4月から)半年の山行計画を検討する。これが面白かった。
 
「これまでに比べて歩行時間が格段に多くなっている。これじゃ参加したくてもできない人が出てくる。もう少し軽くできないか。」
「そうだねえ、5時間くらいがいいじゃないの。この案では、ほとんどが6時間、7時間、夏には8時間になっている。ちょっときついよね。」
「でもねえ。軽く行けるところなら、もう皆さんは、ご自分で計画して行けるんじゃないか。上限を見計らって計画してみたんだけど、むつかしいかなあ。」
「そうだよ。立案者の山に付き合うなら、軽いところは自分で歩いて、きたえなくちゃ。」
「貴方はどれくらい山を歩いているの?」
「週に一回くらいは行こうと思っているんだけど。」
「……」
「でも、途中で歩けないかなとなると、ロングコースのプランは全部やめなければならないんですよ。この山の会の人たちと一緒に歩くのがいいと思っているんですが。」
「では、エスケープのコースも組み込んでみましょうか。」
「一人で下山するんですか。」
「誰かがついて行かなくちゃいけませんかね。着くとすると、リーダー格のKmさんとかKhさんとかFさんになりますね」
「私は途中で下山するのはいやですね。エスケープルートは、下見をするわけでもないでしょう。」
「……」
「鳥海山は一日8時間でしょ。ちょっと長いよね。」
「鳥海山は一度Okさんと一緒に足を運んだんだけど、途中で天候が崩れて引き返したのよ。行ってみたい山ですよ。」
「麓の国民宿舎から往復するんじゃないと、寝袋と食糧もって避難小屋に泊まるようになるから、もっと無理ですよね。今の皆さんの力量からすると、大丈夫だと思うのですがね。」
「往復のコースだから、くたびれたらそこから引き返せばいいんですよ。」
 
 とまあ、そんな調子。まとまったわけじゃないから、あとで手を加えて、軽めのルートも組み込まなければならないかもしれない。そんなことを言っている私自身が、あとどれくらい歩けるか、不安ではあるのですが。(つづく)

交換から贈与の世界に移行しているのか

2016-02-22 17:31:09 | 日記
 
 古代ギリシャでは、家庭の財政はプライバシーであったから、それに触れないことが市民たちの モラルであった。資本家社会の今のご時世の個別家計も、未だ公のことにはならず、一般的には口にしてもプライバシーはそれとして保たれている。やはり秘すればスマートということか。古稀を過ぎた高校の同級生が集まって話をしていても、懐具合を気にするような話しは出たことがない。まあ、私たちは、おおむね「一億総中流」と揶揄された世代であるから、あまり違いがないのかもしれないし、困らない程度の収入を得てきた人たちが顔を出しているだけなのかもしれない。
 
 バブル経済の真っ盛りころだったと思うが、大学の同窓生で長く銀行員をしてきた男が、これからは出向先の配属に切り替わると嘆いていたので、「何が変わるの?」と尋ねたら、収入が半減すると言って口をついた額が、私の年収の倍近く合って驚いたことがあった。もちろん地方公務員を務めてきた私は、年収額がそれほどでないことは承知していたが、実業世界の年収がそれほどに多いとは、思いもよらなかったのであった。つまり、収入を比較対照するような世界で暮らしていなかったことが、頓着しない気性を育てたもかもしれない。お蔭で、お金に関しては静穏な人生であったと思う。
 
 若いころにはやりくりに四苦八苦した。ボーナスまで家計がもたず、カミサンの実家から借りて、ボーナスで返済することが何年かつづいたことを覚えている。結婚してからも「共稼ぎ」をつづけたのは、カミサンが仕事を望んだからというより、私の収入一人分では貧しく暮らすことになるとみて、カミサンが頑張ったからだと思っている。そのおかげで私は、30歳を過ぎるころから収入を気にしないで、仕事に取りかかることができた。
 
 今も、投資や事業やでお金儲けに勤しんでいる人たちを見るにつけ、この人たちはお金が欲しいのではなく、ゲームを楽しんでいるんじゃないかと思っている。お金はいくらあっても困らないという人がいる。困るほど持ったことがないからわからないが、いくらでも欲しいってものじゃないよなあと、思う。ことに年を取って仕事を離れてみると、暮らしに困らない程度にあって、ときどき子や孫に贈り物をし、兄弟や友人たちとつきあうに困らなければ、お金は要らないとさえ思う。これは、交換の社会から半分離脱して、贈与の世界に入り込んでいるからなのだろうか。
 
 仕事を離れてからの遊行をみてみると、勉強会やSeminarをセットしたりされたち、山歩きをガイドしたりされたり、お酒を飲む会に顔を出したりと、コトをコーディネートしたりされたりして、行き来を愉しんでいる。つまり、集まりの贈与を施しあっているようなものだ。むろんそれに必要な準備をするために、本を読んだり、パソコンをいじったり、文章を書いたりする作業もまた、贈与の一部に含まれる。いつしか、自分のためにそうしていることに気づいている。もちろん「集まり」の出来不出来もある。みなさんが喜んでくれればなによりという感じになり、それが励みになっている。我が身のイメージを他の人に投射して、内心のばねにする、それが贈与なのだと思う。そこに経費が掛かろうと、何ほどのことがあろうか。むろん、分不相応の出費が必要となれば、そうも軽く言っていられないであろう。だが幸か不幸か、分を超えるほどのネットワーク世界を引き寄せたことがない。則を超えずとは、こういうことか。
 
 明日から泊りで、雪山のガイド。ボランティアという名の贈与である。