mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何処へ向かっているの、ニホン丸

2024-05-03 11:17:28 | 日記
 先日(4/30)取り上げた森岡正博『生きることの意味を問う哲学』(青土社、2023年)の、哲学者・小松原織香との対談、「”血塗られた”場所からの言葉と思考」に触れたい。
 小松原織香は自身の性被害をきっかけに、「被害と加害」、「加害者性」ということを問いはじめ、抽象と具体というモンダイに踏み込んでいる。ここには、ハンナ・アーレントのアイヒマンにかかわる考察を、もう一歩深める扉に手をかけている感触がある。
 森岡は《加害ー被害というとき、すでに血塗られた具体から抽象されている。さらに加害性というともっと抽象度が上がる》と、言葉によって一般化したり、抽象化したりすることが、当事者性のもつ具体的な肌身から離陸してしまう心的動きを目に留めている。こういうところがあるから、私はこの哲学者の書くものを読んでみようと好感を持って思ってるんだと、あらためて思う。
 それを受けて小松原織香は(性被害の当事者である)自分が(なにがしかの加害-被害事象の)加害者に哲学的に向き合おうとすることの、自身の感覚と思考との齟齬とかズレに触れた後に、次のようなことを述べている。

《(他国に対する戦争責任を問うとき)「日本人としての責任」という発言の裏で、自分を"善い日本人“として他の日本人と切り離すことで本来の加害から逃げているのではないか・・・つまり加害性を問うことが、日本人という集合的なアイデンティティに一体化して生身の「私」を集団責任のなかに溶かし込み、自己を忘却するための装置になっているのではないか》

 これは「戦争責任」を問うというとき、誰の何を誰が(戦争責任として)問うているかがまるごと取り上げられていてワケがわからなくなっていることを衝いている。もっと分節化せよというわけだ(おっ、そう言えば今日は「憲法記念日」。日本国憲法も77年。蹴飛ばされながらも、喜寿を迎えた)。
 ここでいう「日本人」って誰のことよ。
 天皇のこと? 国の政治を司っている政治家のこと? 軍人・将校らのこと? 下士官や兵士のこと? 銃後の庶民のこと?
 なぜ一緒くたなのよ、といつも感じてきた。戦争責任を追及する人は、国家を操縦している人たちをイメージして指弾し、それを自虐的だと擁護する人たちは、国民の誇りを突き出して非難する相手を間違えていると反駁する。それを論じる人たちは、では、ご自分は何処に身を置いているのよと詮議すると、あたかも皆、日本人というひとつの統治イメージであるかのように喋っている。書いている。
 どうしてそうなるのよ。先ずご自分の当事者性は何処にあるのかを明らかにしなさいよと思う。とは言えじつは、ワタシがこのニホンの、たとえば国の浮沈をかけたコトガラについてどういう立場にあるのかがワカラナイ。主権者といわれても、その「主権」がどれほどの、何に対する「権利?/権力?/権威?」をもっているかもワカラナイ。上記「権」のどれももっていないっていうか、法的に規定されていることは、侵犯されないかぎり、もっているかどうかワカラナイ。社会規範として、それが「ある」ことを実感できるかというと、それを手に入れるためには、先ず自分が動かなければならないと、81年の人生を通じて感じてきた。
 わからないのなら出しゃばるなというのが、伝統的ニホンの振る舞いだ。が、引っ込んでいると表舞台では何だかずいぶん勝手に振る舞っている。おいおいそういうことってあるのかよと口にしたくなる。それほど、政治家は国家機関を自在に解釈し操って好き勝手にしている。これで黙っていたら、主権者の沽券に関わると思う。でも、口からこぼれるのはせいぜいグチばかり。床屋談義にさえならない。
 ふんふんと聞く相手がいないっていうのではない。こちらがグチっぽく喋っても、オレそんなムツカシイこと、わかんねえよっていうようになった。うまいもの喰って、おもしろいことやって、その日その日をたのしく無事に送れてりゃあ、いいでしょっ、てえご時世になっちゃったんだよ。
 ここへきて私も、そうかココがワタシの当事者性だって思ったんだよね。「うまいもの喰っておもしろおかしく暮らす」ってことができりゃあ、お上のことはどうでもいいのか。イヤそんなこと言ってたら、ヤツら勝手なことをして世の中をむちゃくちゃにしてしまうんじゃないか。前の戦争がそうじゃないか。その結果、散々な目にあった。ヤツらが勝手にしないように見張ってなくちゃあならないって方もいる。それもしかし、メンドクサイ。そのヒマがあれば、それなりに働き稼ぎ、好きなように暮らしていきてえ。どちらもワタシだ。
 そう思うのに何でワタシは、「うまいもの喰っておもしろおかしく暮らす」ってことにテイコーを感じてるんだよ。
 我が身を振り返ってみると、子どもの頃の自分を裏切ってるんじゃないかと、我が身のどこかが反応しているようだ。そうだね、食べられるだけでアリガタイと心底思って生きてきた。アリとキリギリスじゃないが、おもしろおかしく暮らすってのは非日常のこと。たまさかの何かの折にそうだってのは構わないが、いつもそうであろうってのは、とんでもないロクでなし。それが肌身に染みこんでいる。
 禄がないと喰ってけない。食い扶持を手に入れるためには、好き嫌いをいわず、きちんと長く続ける仕事に就いて、真面目に働いてね。それが世のため人のためになってりゃあ、禄があるばかりか、人の生きる道にそぐうってものと考えてきた。
 じゃあ、それが実現したときに、なぜ子どもの頃の自分を裏切ってるって感触が出て来るのよ。そう、腑に落ちないというか、わが身の裡の落ち着きのなさを感じていたのであった。これって、食えるかどうかの問題ではなかったってコトなんじゃないか。おもしろおかしく暮らすっていうのは、一つの(抽象的な)譬えであって、生きるってことの根幹が感じられていたのに、それを裏切って生きてるってことじゃないのかい?
 その端境に「主権者」と「自由人」との繋ぎ目がある。その継ぎ目の仕組みが、欧米では社会契約とか三権分立とか抵抗権とか革命権という恰好で考えられてきて、ニホンはようやく明治維新になってそのスタート地点に立ち、WWⅡで敗戦を迎えてやっと、人類史的理念を(日本国憲法ってかたちで)携えてやり直すところに来た。
 たぶんそのときワタシは、相反する二つの思いを抱え込んだと思う。
 一つは、親の世代の「ふがいなさ」というか、「いいかげんさ」に呆れた。世界をみる目どころか、国をどの方向にもっていこうとするのか、理知的に考える体制をつくろうとしてなかったことに、気づいた。むろん敗戦時に3歳だったから、いろんなことがわかったのは全部あとのことだ。戦争に負けたことを不甲斐ないと思ったのではない。戦う前に(国力中枢の叡智を集めて)シミュレートした結果「敗北する」と「明白に結論が出た」にもかかわらず、それに箝口令を敷き、先端を拓く道を選び取ったという。「昭和16年の敗戦」という本に書いてあった。イチかバチか、まるで博打だね。
 博打を打ったってのなら、じゃあ、賭けた「国体」ってやつを、負けたときに差し出したか。そうじゃないんだね。そればかりはお見逃しをと懇願這々の態であった。負けるとわかっている戦争を率先垂範した軍人上がりの政治家・統率者らも、「戦争裁判」で逃げ回った。責任回避をして、みっともなく刑死することになった。
 イヤ負けるとわかってても戦わなきゃあならないことがある、ということはわかる。「正義」を争ったのであれば、「戦争裁判」において堂々とニホンの正義を開陳展開して、裁判をも全力で戦えばいい。それを、そういう論理を駆使して戦うって気概も持たなかった。それが、親世代が、子どもたちに受け継いだWWⅡの教訓であった。
 ところがあろうことか、その後を継いだ国の統率者らは、その「いいかげんさ」を受け継ぎ、ずるずるとポイントをずらして、憲法の理念どころか、戦争に突入した「ふがいなさ」さえもしっかりと受け継いで、国家の何をどうしようというのかさえ、ぼかしてしまった。
 その全結果とその始末経過を目の前にしてワタシは、これは文化のモンダイだと理解した。政治理念や政治体制のところは、欧米的な民主主義でとりあえずやっていくしかないし、それがベターだろう。だが、それをいくら整えていっても、たぶん、仏作って魂入れず、形ばかりが先行して中味が取りこぼされてしまう。そう考えた。
 国家と社会を切り離して考えていこうと肚を決めた。
 切り離すってのが、お上のことは知らねえよ、勝手にさらせって啖呵を切ることでもあった。でもそんなこと独りごちていても、屁のつっかえにもならない。だから市井の庶民らしく、選挙で投票して、誠実な政治家を選ぼうぜって、投票所に足を運ぶくらいのことはした。
 社会的な関係のなかで、自律的に決めて実行することは、そうするように努めた。ときどきは、行政や市井の権力と争うことも厭わなかった。つまり社会的関係において「民主的な」関係を根付かせるように、ずいぶんいろいろなかかわりをしては来た。
 もちろん私ばかりではない。日本国憲法育ちの、戦中生まれ戦後育ちの私たちも含めて、WWⅡという愚かな戦争をしてきた人類の理念的な反省の結晶である憲法の規定を、ただ単なる「理想」と受け止めて、現実政治をそちらへ向けていこうとするだけでも、思えば、戦後78年もニホンは戦場にならずにやってこられた。だが一向に、何処へ向かっているのか、ハッキリしない。
 その結果が「うまいもの喰っておもしろおかしく暮らす」一時の実現にもつながった。だから、それに満足するわけにはいかないという思いが、恥ずかしさになっているのだ。(つづく)

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