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Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

夏の読書日記(続)

2009-09-02 | Weblog
前回の続きを少々。

反タクシン勢力の国際空港占拠事件以来、すっかり不安定な政治の国というイメージが染み付いてしまったタイですが、80年代後半の経済ブーム以降現在までの同国の足取りを堅実な筆致で綴っているのが末廣昭著「タイ 中進国の模索」(岩波新書 2009)です。タイの政治・経済動向を押さえるには最適の書物となっていますが、同時に急速な経済のグローバル化に伴う伝統社会の変容も印象的に語られます。著者は社会変容の源を、消費社会化、少子高齢化とストレス社会の到来、高等教育の大衆化の3点に求めているのですが、それは「微笑みの国」と称されたタイの「タイらしさ」が喪われていく過程でもあります。

興味深いのは国王による「足るを知る経済」の理念の提唱です。「節度を守り、道理をわきまえ、外から襲ってくるリスクに抵抗できる自己免疫力を社会の内部につくる」と定義されるこの理念は、タクシン政権下では反故にされたものの、タクシンの失脚により再びクローズアップされているようです。実際、2006年から始まる第10次5ヵ年開発計画では「寂静な生き方にもとづくタイの幸福」をスローガンとし、仏法の中道に従った政策を経済運営の基本に置くとされています(末廣昭 アジアの幸福と希望、東大社研・玄田有史・宇野重規編「希望学1 希望を語る」所収)。

もっとも、著者はこの「足るを知る経済」という開発理念がどの程度成功を納めているかについては積極的な結論を留保しています。仏教に基づいた開発政策としてはGross National Happinessのブータンの例が有名ですが、人口サイズ、国民の凝集性、経済の発展段階等を考慮すると、ブータンのようなアプローチを採れる国は限られているように思われます。むしろ著者が述べるように、「足るを知る経済」に象徴されるような「社会的公正の道」と、グローバル化と自由主義に基づく「現代化の道」の適切なバランスを探っていくのが現実の姿でしょう。

同書でもう1点印象的なのが、タクシン元首相その人です。同書を読むと、タクシンが良くも悪くも稀代の政治イノベーターであったことが判ります。企業経営の感覚を政治の世界に持ち込み、国王と並ぶ「もうひとりの国民の父」として振舞ったタクシンはその急進性と縁故主義ゆえに国民の離反を招いてしまったものの、タイ政治史において前例のない強い首相でした。

ここで想起されるのが、中根千枝著「タテ社会の力学」(講談社学術文庫 2009、初版は1978)です。同書によれば、東南アジア社会には、日本的な小集団(場を共有する仕事仲間や家族経営体など)も中国・インド・西欧などに見られる個人参加による類別集団(ギルド、組合、宗教団体など)も見られなません。代わりに見られるのが、個人と個人を結ぶネットワークの累積・連続を基盤とした人間関係です。ベースはあくまで個人と個人であり、著者いわく、東南アジアの人は日本人と比べ、ずっと個人に主体性があり、日本的集団規制から自由であるといいます。しかし、それ故に人々をある目的のために動員するには強力なリーダーシップが必要だということでもあります。実のところ、この学説がどの程度信憑性があるのか判然としないのですが、確かに東南アジアにはホー・チ・ミン、スカルノ、リー・クァン・ユー、マハティールなど、国の歴史を塗り替えてしまうような政治家が出ているのは偶然ではないのかもしれません。


夏の読書日記

2009-09-01 | Weblog
8月に読んだ本から幾つか、徒然に感想など書いてみます。

夏といえば、近現代史もの、戦争ものがいっせいに書店に並ぶ季節、その中でもリーダブルな1冊が加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社 2009)です。高校生を相手に、日清戦争から太平洋戦争までの日本の選択を講義するというスタイルをとっているため読みやすいのですが、何せ講義の相手が栄光学園歴史研究部の生徒だけに、並みの社会人よりはるかに歴史を知ってます。質疑のレベルは高いです(と思います)。講義のスタイルも、外交や軍事の当事者が、どのようなことを頭に思い描きながら行動したのかが明快に伝わってきて、単なる客観的歴史叙述とは一線を画しています。各戦争において中国サイドからの視点が強調されている点も注目されます。

続いて「チェーザレ」(惣領冬実著)の7巻。モーニング連載中の漫画ですが、単行本は一応発売のたびにチェックしております。この巻では主人公のチェーザレ・ボルジアらの活躍は後景に退き、逆に歴史薀蓄ものとしてのおもしろさが際立っています。カノッサの屈辱(おぉ、何と懐かしい響き)は「その時代においては皇帝の勝利。だが後世においては教皇の勝利」であったとの解釈に、うーむ、そうでしたか、と唸ることしきり。教皇派と皇帝派の闘争にダンテの「神曲」まで飛び出し、重厚な展開になってます。

もう少し軽い歴史ものでは木村雄一著「LSE物語-現代イギリス経済学者たちの熱き戦い」(NTT出版 2009)も楽しく読めます。London School of Economics and Political Scienceの創立以来の歴史を、その中興の祖ともいうべきライオネル・ロビンスを軸に描き出した作品です。フェビアン社会主義、オックスフォード流の歴史主義経済学、ベヴァリッジの福祉国家論、ハイエクの自由主義経済学などが共存しえた自由な学風と個性的なファカルティ、それらが簡潔な筆致で語られます。今でこそLSEは英国における経済学の主流派中の主流ですが、かつてはケンブリッジの後塵を拝する存在でした。この本を読んでいて、逆にケインズの時代には世界のトップを走っていたケンブリッジの経済学が、なぜ現在のような、どちらかというと異端派的存在になっていしまったのか不思議に感じました。森嶋通夫著「終わりよければすべてよし」にあるように、英国の経済学者は戦争により、ハロッド、ヒックス、J.ロビンソン、ミードらの下の世代がすっぽりといなくなってしまい、世代間の継承がうまくいかなかったという事情はあるでしょう。しかし、LSEやオックスフォードに比べ、ケンブリッジがその後辿った道は、いささか特殊だったようにも思えます(マルクシアンやスラッフィアンの影響が強かったという事情はあるのかもしれません)。

当世ポジティブ心理学事情

2009-08-18 | Weblog
Marginal Revolutionのリンクから、ポジティブ心理学の現況のレポート記事へ行ってみました。

ポジティブ心理学は、マーティン・セリグマンがこの分野を創設して以来10年の間に大きな成功を収めましたが、他方でガイド本の乱造に代表されるポジティブ心理学マーケットの膨張などの問題も引き起こしています。ニューエイジっぽい自己啓発への安易な応用には、本職のポジティブ心理学者も懸念を抱いている模様ですが、記事では、ポジティブ心理学者自身の言説や行動自体がそうした傾向を生んでいる面も否めないことを指摘しています。

また、ポジティブ心理学の政策への応用についても慎重な見解が示されています。
例えば、イリノイ大学のEd Dienerはポジティブ心理学の政策への適用を最も声高に主張してきた人であり、ポジティブ心理学の研究は人々が本当に幸せになれるような「善き社会」をつくるためにあると唱導してきました。
セリグマン自身、「幸福になるスキル」の教授を盛り込んだPositive Educationというカリキュラムを行うパイロット・プログラムを試行したり、Ed Dienerの息子であるRobert Biswas-DienerによるStrength Projectと呼ばれる慈善活動(カルカッタのスラムの住民の支援をするプロジェクト)が始まったりと、ポジティブ心理学の名のもと「善き社会」を目指す実践活動は現実のものになっています。

しかし、記事では、ポジティブ心理学が個々人の幸福から一足跳びに「善き社会」の建設にジャンプしてしまうことに幾ばくかの懸念を示しています。実際、今年の国際ポジティブ心理学会では、ポジティブ心理学には、より緻密なアプローチが必要だという意見と、一般市民にも理解できるよう、簡潔で明快なメッセージを打ち出すべきだという意見が相半ばしたとのこと。例えば、政策や実践への応用に積極的なポジティブ心理学者に混じって、幸福の経済学の著名な研究者であるRichard Layardも、政策当局へのアピールを失わないよう、幸福研究の複雑化は避けるべきだという意見を述べています。

今のところ、ポジティブ心理学の研究成果の多くは、Layard流の単純化志向とは一線を画しており、比較文化的・行動科学的な視点を取り入れたり、より長期のデータセットを利用したりする方向へ関心が向いているようです。しかし、政策や実践への応用が進むにつれ、ポジティブ心理学の方向性に関する議論は、より過熱していくと思われます。

個人的にはセリグマンの著書には感銘を受けましたし、ポジティブ心理学により救われたり、癒しを得たりする人は数多いと思います。しかし、政策への応用は、まだ手探りの状態なのかな、という気もします。幸福の経済学や行動経済学の動向も含め、これらの新しい科学の政策への応用過程は今後もウォッチしていきたい分野です。

やっぱり教育が大事?

2009-08-15 | Weblog
VoxEUでHanushekとWoessmannが「やっぱり教育は経済成長にとって重要だ」という論説を書いています。「教育は人的資本を高め、したがって経済成長に寄与する」という命題は一見自明に見え、また、それを支持する研究も多数存在しますが、他方でこれに疑義を呈する学説も少なくありません。

例えば、W.イースタリーの「エコノミスト、南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)では、1960年から1990年にかけて、各国の就学率は大幅に上昇したが、その間の経済成長にはほとんど効果がなかったと結論づけています。1960年から1987年の間に、アフリカ各国では人的資本が急成長したが、経済成長は惨憺たる結果に終わり、逆に、この期間に高い経済成長率を達成したアジア諸国は、人的資本も成長したものの、アフリカ諸国ほどの成長率ではなかった(Pritchett 1999)、とされます。(つまり、クロス・カントリーでみれば、人的資本成長率と経済成長率の間に明瞭な正の相関はない、ということです。)また、因果関係は「教育から成長」ではなく「成長から教育」だという説もあります(Bils and Krenow 1998)。つまり、将来の経済成長が予測できれば、教育投資の期待収益率が高まるため、結果として教育水準が上昇することになります。

これに対し、Hanushek and Woessmannは就学率などの教育の「量」ではなく、教育の「質」を考慮すれば、依然として教育は経済成長の重要な決定因だと考えます。読み・書き・算数等の認知能力(cognitive skills)が長期的な経済成長の鍵を握るというのが彼らの主張です。

ラテンアメリカ諸国は就学年数等の教育の「量」については高い水準にありますが、マクロ経済のパフォーマンスは良いとはいえません。実際に、1964年から2003年までの国際的な数学・科学のテストの結果と、経済成長のパフォーマンスとの関係を調べてみると、テストのスコアの悪いラテンアメリカとサブサハラ・アフリカ諸国は低い成長実績しか残しておらず、逆にアジア諸国はテストも経済成長も高いパフォーマンスを達成しています。また、ラテンアメリカ諸国内でも認知能力と経済成長には正の相関が見られます。

「就学率や就学年数よりも、教育の成果そのものが重要だ」とは自明に思えますが、教育の質を明示的に取り入れた実証研究は、まだまだ蓄積が不足しているということなのでしょう。更に言えば、Hanushek and Woessmannが取り上げたのは計測が容易な認知能力であり、数字に表れないヒューマン・スキルや組織資本、文化などの影響はブラックボックスです。

再び、ライフワークについて

2009-08-08 | Weblog
前回、ライフワークについて書いたので、その続きを少々。

ライフワークと一口に言っても、仕事がそのままライフワークとなるケースもあるでしょうし、趣味が高じてライフワークの域に達するといったケースも考えられます。どちらも同じくらい重要といえますが、後者にフォーカスした場合、「余暇」をどう過ごすかがキーポイントとなるでしょう。

経営コンサルタントにして哲学者であるジョシュア・ハルバースタムは、その著書「仕事と幸福、そして、人生について」(ディスカバー、2009年)において、「時間管理の本質とは、余暇を管理すること」と喝破しています。さらに引用すると、

”仕事は外向きの創造であり、余暇は内向きの創造だ。余暇はレクリエーション (recreation)ともいうが、余暇で再生(re-create)するべきものは、わたしたち自身のスピリットだ。よい仕事をすればそれだけ世界を豊かにすることができるのと同様に、よい余暇を過ごせば自分自身を豊かにできる。”

そして充実した余暇を過ごす妨げになる元凶として、テレビの見すぎを挙げています。
(これについては出版者あとがきにもあるように、原著が2000年発行ゆえに、やや古さを感じさせます。同あとがきでは、今ならネットやゲーム、ケータイのほうが影響が大きいのではないかと指摘しています。)

ブルーノ・フライとアロイス・スタッツァー著「幸福の政治経済学」(ダイヤモンド社、2005年)によれば、余暇活動のうち、「抑鬱や不安を軽減させるスポーツ活動や、社交クラブ、音楽・演劇団体、スポーツ・チームへの参加といったグループ活動」は特に満足をもたらすのに対し、最もポピュラーな余暇の過ごし方であるテレビについては、「テレビの見すぎは不幸との相関関係を示している」としています。

しかし、同書において余暇と幸福の関係を述べた箇所はわずか十数行であり、雇用・失業と幸福の関係や、同書の著しい特徴である政治制度・政治参加と幸福の関係に関する記述と比べると、その分量の差は歴然としています。

これは別に同書の責任ではなく(同書は、いまだに日本語で読める幸福の経済学研究のなかでは最も包括的な文献です)、先行研究の蓄積の差、ひいては現代人の生活における余暇と仕事のバランスの不均衡の反映ということになるでしょう。余暇の質についての研究には、まだ深める余地が残されているようです。




ライフワークとエディターシップ

2009-07-26 | Weblog
外山滋比古氏の「ライフワークの思想」(ちくま文庫)、タイトルにつられて購入しました。人生の後半をいかに充実させるかというテーマは、先日エントリーした「遅咲きのひと」(足立則夫著)にも通じるものがあって興味をそそられます。

ライフワークに直接関連する論稿は、第1章「フィナーレの思想」に収められた「ライフワークの花」と「フィナーレの思想」の2つのみですが、いずれも味わい深い小品です。

著者は人生80年のうち、10歳から45歳までを往路、45歳から80歳までを復路とみて、45歳をマラソンでいう折り返し点と位置づけています。ところが「サラリーマンの多くは、帰ってきても、前に進むことしか関心を示さない。前進だけがこれ人生と思っている。これではいつまでたっても、人生のゴールに入れない。」

実際、人生の行程は紆余曲折はあっても直進する時間を前提として認識されるのが普通でしょう。しかし、著者によれば人生は円環する時間のなかにある。折り返し点を過ぎれば、自分の原点を目指して進むことになる。ここに価値観の転換があるわけです。逆に、折り返しなしにひたすら前進する人は年とともにつまらない人間になってしまう、とのこと。

では、どうしたらライフワークを実らせることができるか?
著者の箴言を連ねてみると、

・何もしないでボーッとした時間をつくる。
・空白の時間から、自分の知的関心をそそるものを探し出す。
・それは当面の仕事となるべく関係のないものが望ましい。つまり、囲碁の布石のようなもの。
・人生の収穫期に達したとき、その布石が生きてライフワークに結実する。

なるほどー、という感じですが、もう少し具体的な方法論がほしいような気もします。個人的には、そのヒントになるのが第2章「知的生活考」で展開されるエディターシップ論ではないか、と思っています。いわく、現代人の生活は雑誌の中味のように多元的であり、人はめいめいの人生のエディターでなければならない。編集の巧拙によって、「人生の雑誌」のおもしろさは違ってくる。

さらに著者は「学習における編集理論」を展開します。知識はバラバラに頭のなかに入ってくるが、それを統合するにはどうしたらよいか?実は、知識を頭に定着させるために、人は無意識に「編集」を行っている。おもしろいのは、幼いときに聞いたお伽噺が編集の有力なモデルとなっているらしいという指摘。人は知らず知らずのうちに物語性のモデルを頭のなかに組み込んでいるというワケ。こうした編集統合は人それぞれ独自のものであるゆえ、与えられた知識はそのまま頭に刻み込まれるのではなく、編集という「第2次的創造」を加えられていることになる。

ここまでくると、最近の脳科学や認知科学の本の祖型のようにも思えますね。オリジナルは30年以上前に書かれているので、いかに先駆的な内容であったかが判ります。

ジェイ・ルービンとHaruki Murakami

2009-07-16 | Weblog
一時書店から姿を消していた村上春樹の「1Q84」もようやく再入荷されるようになりましたが、売れ行きは依然衰えを見せていません。14日の「クローズアップ現代」(NHK)でも取り上げられるなど、いまや社会現象化しているといってよいでしょう。
私にとっても村上春樹は大好きな作家ですが、同時に翻訳家としての活動や、世界各国への受容のされ方にも興味を覚えます。翻訳する側としても、される対象としても村上春樹は極めて重要な位置を占めていますが、ここでは村上作品の翻訳者として前から気になる存在だったジェイ・ルービンについて、少し書いてみたいと思います。

私が最初にジェイ・ルービンの名を目にしたのはEnglish Journalという雑誌の2007年6月号に掲載された彼のインタビューでした。同誌は英語の学習誌なので、付属のCDで彼の肉声も同時に聴くことができました。抑えたトーンで村上作品の翻訳にまつわるエピソードを語るその語り口には、彼の人柄が滲み出ているように思えたものです。

インタビューの中で、「自身の翻訳の文体をどうやって磨いているのか?」という質問に対し、彼は"Yeah, practice."と答え、以下のように続けています。

..., my work habits are a lot like Murakami's. You know, I wake up early in the morning, I go to the computer and I write. And it's not very exciting to other people, but it's exciting to me. I have a wonderful time doing it.

私の仕事のやり方は、村上のやり方とよく似ています。そう、朝早く起きて、コンピュータに向かい、書くわけです。これは、ほかの人たちにとっては、あまり刺激的ではないのですが、私にとっては刺激的なのです。仕事中は素晴らしい時間を過ごしています。(丸山敬子訳)

村上春樹という、ある意味で非常にストイックな作家の翻訳をするに、とても相応しい受け答えではないでしょうか。この静かな、しかし充実したライフスタイルには共感せずにはおれません。

最近では村上春樹関連本が書店にところ狭しと置いてありますが、先日その中にジェイ・ルービン著「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」が埋もれているのを発見、即座に購入しました(気になる存在の割りにはまだ読んでなかったのか、というツッコミは敢えて置いておくとして)。

以前から、どのようないきさつでアメリカの大学の教壇に立つようになったのか、他の日本人作家と比べ圧倒的に海外に受け入れられるようになったのか、といった疑問を感じていたのですが、本書によってそれらの理由がかなり明らかになりました。本書は、評論のかたちをとりながら、それ自体が村上春樹を主人公としたビルドゥングス・ロマン(教養小説)のように読むことができます。

「クローズアップ現代」では、1995年の地下鉄サリン事件と「アンダーグラウンド」の執筆を、村上のキャリアにおける転換点と解釈していました。社会問題への注目という視点に立てば、この解釈は首肯しえます。しかし、ルービンは「羊をめぐる冒険」と「ねじまき鳥クロニクル」を、作家としてのより重要な転機ととらえているように感じられます。前者はストーリーテリングへの傾斜を、後者は日本の近現代史へのコミットメントを、それぞれ具現化した作品だといえます。
ルービンは「アンダーグラウンド」を村上の現代日本社会への回帰が生み出した作品として位置づけていますが、そこに至るまでには「羊をめぐる冒険」以来の、自国の歴史とその記憶への関心が通奏低音として響いているはずです。
そこから「卵と壁」のスピーチまでの距離は、おそらくあと僅かです。

グローバル経済と宗教の関係について

2009-07-10 | Weblog
宗教と経済との関係は普通に日本に暮らしている身としては、今ひとつピンとこないテーマといえます。どちらかというと、マックス・ウェーバーやマルクスなどの文献のなかにのみ存在する問題という印象であって、実体験として意識することはあまりないというのが一般的ではないでしょうか。

とはいえ、海外では時々要人が発言したりしています。7月7日にはローマ法王ベネディクト16世が「経済的正義の新たな時代」の実現を訴える回勅を出しました。一般市民にどれだけインパクトを与えているのか、何かと批判されることの多い法王だけに、ちょっと疑問な感じもします。

しかしBloombergによれば、イタリアの中央銀行のドラギ総裁が「経済危機によって倫理と経済を関連付ける必要が確認された」という発言をしたり、カトリックの米民主党議員らが、オバマ大統領の政治課題を教会の教義と関連付けるキャンペーンをスタートさせたりと、政治的な動きが出てきているのも事実なようです。さらにオバマ大統領が7月10日に回勅の経済メッセージについて法王と話し合うとも報道されています。

The Economistは、その一貫して自由主義的な立場から、法王の回勅の国連中心主義的バイアスと左派的傾向(記事によれば、ローマ教皇庁の組織である「正義と平和評議会」の影響であることが示唆されています)を批判しており、それと対比する形でイスラムの宗教指導者やイスタンブールやロシアのキリスト教聖職者の環境問題へのコミットメントにより高い評価を与えています。

今般の経済危機と経済学への信用失墜に対し、新たな倫理性をもって対処するというアプローチは、宗教とは切り離した立場からも既になされています。しかし、世界経済を動かす原動力としての宗教という視点も、それを受け入れるか拒絶するかに関わらず、ますます重要になっていくと思われます。

IQ in 経済学

2009-06-27 | Weblog
再びMalcom GladwellのOutliersから。
Outliersの第3、4章は並外れた知性の持ち主であるChris Langanの数奇な半生をモチーフに、IQの高さは成功のための十分条件ではなく、生きていくうえでの世知とも言うべきpractical intelligenceや、権利意識the sense of entitlement、自分を支えてくれるコミュニティなどの重要性を訴えます。IQのみでは不十分というのは確かに誰しも実感するところでしょう。

IQの話が出ましたので、ここでは経済学の中でIQがどのように扱われてきたかを眺めてみます。

例えば「行動経済学とIQ」なるエントリー。ここでは「(数学の試験の点数等で測った)認知能力が高いほど忍耐強い」という行動経済学の知見を紹介しています。ここでいう「忍耐強い」は「将来の報酬をディスカウントする割合が低い」、逆に「忍耐強くない」とは「将来の報酬をより低く評価する」ことを指します。例えば、行動経済学者の実験で、「今すぐ100ドル貰うのと、来年140ドル貰うのと、どちらを選ぶ?」と聞かれた際、認知テストの点数の高いグループのほうが、点数の低いグループより来年の140ドルを選ぶ人の比率が高い、といった結果が確かめられています。

もっと直接的に「より高いIQは、より賢い経済的意思決定をもたらす」というエントリーもあります。ここでは、高い認知能力とは、リスク計算に長けているだけでなく、戦略的な状況のもとでより協調的に振舞うことも含んでおり、より広義の概念として扱われています。つまり、Gladwellの言うpractical intelligenceも含んでいるといえます。

Chris Langanのケースは文字通りoutlier(外れ値)なので、一般論として、認知能力が高ければ、経済的に見てより合理的な意思決定(将来に備えて貯蓄する、自己投資に励む、衝動的な消費行動をしない、等々)を行うことができる、というのは納得がいきます(Gladwell自身もノーベル賞をとるにはイリノイ大学やノートルダム大学に入る程度の学力は必要だと言っています)。もっともこれらの知見は、「並外れた成功」を勝ち取るためにはIQだけでは不十分というGladwellの命題を否定するものではないでしょう。

その他、「保守主義的傾向と認知能力は逆相関する」という論文もあるようで。中味は見れないのですが、ちょっと気になる内容です。

最後に取り上げるのは、経済的不平等とIQの関係です。この分野のサーベイ論文であるBowles and Gintis(2002)では、「米国における親の所得レベルと子の所得レベルは、従来考えられてきた以上に強く相関している」、つまり、経済的な成功は世代間を通じて伝播される傾向にあり、裕福な家庭に生まれた子は裕福になりやすく、貧困家庭に生まれた子は貧困に陥りやすい、という事実から議論を始めます。そして世代間を通じた経済的不平等の要因を探っていくのですが、その中でもIQが世代間の所得レベルの継承に与える影響は極めて小さいと結論づけています。親のIQと子のIQは一般に高い相関を示しますが、IQの遺伝は所得レベルの世代間伝播には限定的な影響しか与えないということになります。

にも関わらず、Bowles and Gintisは別の結論にも達しています。曰く「親と子の収入レベルの相関のうち1/3は遺伝的要因で説明できる(残りの2/3は環境的要因)。」

ん?先程はIQの遺伝の影響は小さいということだったので、素直に読むとIQ以外の遺伝的要因が強い影響をもたらしているということのようですが。実際、パーソナリティや人種といった要因が影響を与えているという実証研究もあるようです。遺伝以外の要因としては、教育や富の移転、家庭環境などが挙げられます。

結局のところ、世代間の所得レベルの伝播は複合的な要因によって決まるというのが無難な結論ですが、まだまだ説明しきれていない部分が多いというのが実態のようです。

10,000時間ルールと「遅咲きのひと」

2009-06-04 | Weblog
Malcolm Gladwellは著書Outliersにおいて、様々な分野において抜きん出た成功を収めた人たちの経歴・生育環境を調査し、著しい成功をもたらす要因は何なのかを探っています。その中で紹介されているのが(すでにかなりそこここで言及されておりますが)「10,000時間ルール」、即ち1つのことに抜きん出るためには10,000時間の投入が必要だ、という法則です。1日平均3時間の投入で、9年強かかる計算です。天才と呼ばれる人は子供の頃から1つのことに集中的に時間を投入している、というのがここでのポイントなのですが、そこから直ちに別の疑問が湧いてきます。「では、普通の人が大人になってから何かを始め、その分野で抜きん出た成功を収めることは可能か?」

そこで取り上げるのが、足立則夫著「遅咲きのひと」(2005年、日本経済新聞社)。ちょっと前の本ですが、日経新聞の連載コラムを1冊にまとめたものですので、ご存知の方もいるかもしれません。ある程度の高齢に達してから成功を収めた人(かならずしも物質的な成功ではなく、「充実した人生を過ごした」という意味合いが強いのですが)51人の人生(半生)を綴った本です。ピタゴラスやダーウィンから、瀬戸内寂聴や日野原重明に至るまで多様な時代の多様な人物が取り上げられていますが、その中から印象的な人物を何人か拾ってみます。

まずはグランマ・モーゼス。米国の画家です。

1860年、ニューヨーク州の農家に生まれる。
12歳から15年間、農家に住み込んで働く。
27歳で結婚。10人の子を産む(うち5人を亡くす)。
以後、育児と農園経営を続ける。
66歳で夫が死去。
70歳頃、リウマチにかかり手指が自由に動かなくなる。その頃から絵を書き始める。
75歳、初めて油絵を描く。
80歳、ニューヨークの個展で脚光を浴びる。フォークアートの第一人者に。
101歳で死去。およそ1600点の作品を残す。

グランマ・モーゼスは本書中でも極めて稀なケースです。70歳まで絵のキャリアはまったくなかったにも関わらず、絵画の世界で第一人者となりました。世の脚光を浴びたのが80歳ですから、大成するまでちょうど10年。投入した時間がどの程度かは判りませんが、10,000時間は可能な年数です。

続いて民俗学者の吉野裕子。

1916年、東京に生まれる。
津田塾大学卒業後、学習院女子短大で英語講師を務める。
その後、専業主婦に戻る。
趣味で日本舞踊を習う。
「なぜ日本舞踊で扇を使うのか?扇の起源は何か?」という疑問を抱いたことから、50歳で民俗学の研究を開始。
53歳、「扇」という本を上梓。
60歳で文学博士号。
以後、矢継ぎ早に作品を発表。日本民俗学の第一人者となる。

このケースも、50歳から民俗学の世界を志したという点ではかなりのスロー・スターターだと言ます。博士号の授与が60歳ですから、やはり研究開始からちょうど10年で大成しています。
しかし、注目すべきは短大の英語講師を務めていたという点でしょう。おそらく、その頃から学びのディシプリンを十分身に着けていたと想像されます。終戦後、苦学して8年かけて津田塾を卒業したことも、その証左といえます。これらの経験が、その後の研究生活の礎となっているのではないでしょうか。

本書で紹介された51人のうち、グランマ・モーゼスのように高齢になってから、まったく新しいキャリアを築いたケースは稀で、ほとんどは若い頃に培ったキャリアを生かす形で大成しています。例えば、俳人の与謝蕪村は20歳で俳諧の道を志しますが、宗匠になったのは55歳、彼の作品のうち6割は60歳を過ぎてからの作だといわれています。そう考えると、やはり累積投入時間はかなり重要な要素であることが推察されます。

51人の事例を定量的に分析できれば面白いのですが、モーゼス、吉野のケースのようにキャリアの始期と大成した時期を特定できないケースが多いので、それは断念。代わりに、目につく点を2つほど挙げると、

・結婚や離婚、病気、メンターともいうべき人物との出会いなどが画期となるケース多し。
・好きなことに思い切り時間を投入できる環境に身をおいて成果を出したケースもまた多い(東京都の局長職を辞して作家になった童門冬二、新聞記者を辞めて作家を志した横山秀夫、隠居後に後世に残る仕事を成した伊能忠敬など)。

最後に著者自身が語る「遅咲きの生き方」をするための5つの心得を紹介します。

1.伴侶や近隣とのコミュニケーションを図る
2.目標を持つ
3.みずみずしい心を失わない
4.足腰を鍛える
5.経済基盤を整える