2月頃から続いていたマイグラノーラブームがようやく終わりを迎えたもよう。いろいろ食べ比べた。しかし常食するにはやや高いので、最終的には好みのものを自作するに至り、大量買いしたオートミールがまだ半分くらいあるけれど保存が効くし、オートミールとして食べるなら秋冬の朝食に向くに違いない。でグラノーラの次はトーストブームが来ている。
同じものを食べ続けてしまう癖がある。一人暮らしのときには抑止力がなかったので、それを続けて痩せ細ったりしていたけれど、一緒に食べる人に食事を作るようになってからは、毎日同じというわけにもいかないので、手を替え品を替え献立を考えるようになった。食べる人がいればこそ下処理のいる肉のかたまりを料理する気概も起こる。そういうことを思ってみれば、人生に幅を持たせること、多様なもののさまやそれに準じる動作なりを知るにはノイズが必要なことが分かる。自分ひとりだとノイズが入り込む余地がなかなかない。というか積極的に切る方向に走りがちで、ノイズを取り込むのが下手な質というのもあるのかも知れない。
そんなふうに思うところがあるので、東浩紀氏の『弱いつながり』を読んで旅に出るススメとノイズを取り込むこと、検索ワードを探すというのはおもしろかったし、頷けるところがあった。
アウシュビッツのことが書かれていて、大学生の頃にワルシャワ学生演劇祭の招待で『小町風伝』の上演でポーランドに行く機会があって、そのときにアウシュビッツを訪れたことを思い出した。
収容棟は博物館のようになっていて、中に大量の靴など遺品の山や写真が展示されていた。中にはミュージアムショップ的なものもあり、ポスターなどのグッズも販売している。観光地化している想像をしていなかったからだ。ツアーで来ているらしき団体も見かけた。サンドイッチなんかも売っている。
その前日の夕方、果物を売っている露天で生のラズベリーを見つけて日本では見ないのでもの珍しさに買った。小春日和の陽気の下、一日路上で売られていたラズベリーはどうやら中に痛んだものがあったようで、食べながらどことなく不安な気配はあったのだけれど、案の定夜になってお腹を壊し、朝食は食べられなかった。
アウシュビッツに着いたのは昼で、そういう事情で何も食べていないのを知って気遣ってくれた恩師が、中のショップで売っていたサンドイッチをふたつ買ってくれた。ハムとチーズが挟まっていた気がする。最初こんな場所でものを買って食べる人もいるのかと思っていたけれど思わず自分が食べることになった。でも手渡されたら、お腹が空いている気がしてきて、その場でふたつとも胃に収めた。
遺品の圧倒的な物量や焼却施設、ガス室には確かにそこで行われたことのどうしようもない名残り、拭い去れない嫌な感じのこびりつきが空気に漂っているのを感じ去るを得なかった。
季節的には春だったので、地面は若い緑に覆われて、日本では見ないきつねの顔に似たかたちの黄色い小さな花が咲いたりしていた。順路を外れると原っぱが広がって誰もいない場所に出た。アウシュビッツにはそこで起こった悲劇の蓄積だけでなく、何事もなかったかのような長閑さや広大な土地に吹き抜けるいい風もあった。
ここに根を張る草花は、かつてのこの地面に同じように咲いていたことがあったのだろうかと、この同じ地面踏んだ足の行方を思ったとき、妙にリアルな恐怖が迫ってひとりでいるのが怖くなり、人のいるところに走って戻った。
こういうことは現地に行かなければ感じることのなかったもので、その体感は確かに忘れ難いものになっている。
でも『弱いつながり』を読んでいて引っかかった部分もあった。
痕跡について書かれたところで、例えに出されていた虐待されていると訴える子供がいたとして、その子がきれいな服を着て傷一つなかったら、虚言ではないかと思ってしまうけれど、その子がボロボロの服を着て、アザだらけなら、これはなんとかしなければと信じてしまう。というような動かぬ証拠としての痕跡のこと。言葉で証言されることの信憑性に限界があるということ。
痕跡を目にすること、視覚の絶対的優位性はあるとしても、見ることの出来ないものをいかに信じるか、イメージするかという問題がある。この手のつけようのなさをどうすればいいか。
あることを信じるか信じないかによって世界の様相はかわる。そのことを思うときネオアトラスというゲームを思い出す。航路をひらいて世界地図を作りながら貿易をするゲームで、途中、ある土地に関する噂というのが出てくる。あの大陸にはナントカという奇妙な石碑があるらしい、調査団を派遣するor信じない のどちらかを選択する。調査した場合、それが発見されれば、地図にあらわれ、信じなければ消えてしまう。そこには何もなかったことになる。その消えることがなんだか怖かった。
見えないものを信じることはリスキーに思えるところがある。同時にそれくらい私は見えること対する信頼があり、疑っていないことに気付く。
先日、京都造形大のスタジオ21で『パブリックアドレス』という作品の上演があった。この作品は、舞台上に俳優が出てくるのではなくて、配置されたスピーカーから録音された音声が流れるという方法で上演される。まず音響作家でこの作品の録音/構成をしている荒木優光氏がスピーカーを舞台上に設置し、六畳くらいの部屋と思われるアウトラインを角材を置いてざっくりあらわす。その部屋の中に箱馬に乗せた人の顔くらいの大きさのスピーカーが二台置かれ、そこから荒木氏がインタビューする会話が流れてくる。
インタビューされる横田さんは27歳のA型で長崎出身の京都在住で生まれつき全盲の男性だった。インタビューは横田さんの一人暮らしのアパートの部屋に訪れるところからはじまる。僕の文化では電気を付けないんですよといいながら、電灯の付くパチという音がする。横田さんは気さくで話し上手で生まれつき全盲であるということの興味と共に聴き手を引き込む。音声だけでもちろん本人の姿はそこにない。
話しの中で横田さんはトカゲがどういうものか知らないけど、恐竜に近い感じなんじゃないかと言った。そのときイメージをつなぎとめる言葉と記憶のあり方が私とはまったく違う様相をしていることに気付かされた。けれどそのように縁取られた横田さんの世界はリアル以外の何ものでもない。
自分目で確かめられないものは信じない、証拠がなければ信じない、ということはどうしても視覚を中心に据えたものの捉え方になる。それが何かずっとひっかかっている。