「まさかこのチラシを作る日が来るとは…」 紙媒体のデザインが本業の夫。
16日夜、風呂からあがり髪を乾かしながら、大概この時間帯はデロンギのヒーターの前で丸まっている小梅の姿がなく、コタツの中にもいないので、家のなかのいくつかの定位置を見てまわるがいない。仕事部屋で作業していた夫に小梅がいないと告げ、それから押入れ、クローゼットから入る筈のない戸棚から家中開け放って探したがいない。
日付は変わって17日午前1時半頃、小梅がうちの中にいないことが判明。
この日の夜は来客があった。誰も気付かなかったが、隙をみて玄関ドアから出てしまったらしい。外は雨が降り出し、雨足は次第に強まっていた。我が家の前の道は車一台ぎりぎり通れるくらいの露路で住民以外は通らない。小梅は完全室内飼いだが、天気の良い日はリードを付けて玄関先で日向ぼっこしたりする。その程度にしか外の世界を知らない。縁あって吉野の山奥の家で生まれ仔猫のときにもらってきたので、野良の経験もない。そういう猫は慣れない外に警戒してあまり動かず、そう遠くには行けない。夫は懐中電灯片手にずぶ濡れになりながら近辺の車の下やバイクのカバーの中、物陰を覗きまわり、私は玄関を全開にして小梅を待った。何かが光るたび猫の目かと思って見るが、自転車の金具についた雫の反射だった。雨でにおいが消えて帰り道がわからなくなることを心配した。
猫 脱走 見つけ方 と検索すると猫探しの掲示板が出てくる。掲示した翌日に家の近所で確保という場合もあれば、数日後にやせ細って帰ってくる例、数ヶ月後思いも寄らない遠くで発見される例、1年経っても戻ってこないけれど些細な目撃情報でもお待ちしていますという例。すぐできる対処法として、いなくなってすぐならとにかく近所をしつこく探すこと、家の前に猫砂をまくというのがあったので、すぐに砂を撒いた。猫は自分のにおいのする場所に戻ってくるからだ。待っているのも落ち着かないのでレインブーツを履いて呼びながら近くを探した。4時頃、小雨になってきたが、小梅は見つからず帰っても来なかった。
その夜、玄関は開けたまま外の方を向いてコタツに潜りうたた寝した。その間に見た夢。警官に確認してほしいと交通事故にあった猫の写真を見せられた。道路に横たわる首から血を流した猫は間違いなく小梅だった。
夫は徹夜で例のチラシを作り、こんなときに運悪くプリンタが壊れているので、近くのセブンイレブンまで行き「猫をさがしています」を50枚刷ってきた。夫コタツで仮眠、私は起きて身支度をし、チラシを近所に配り歩いた。町内の家にはチャイムを押して手渡しする。近所の野良の世話をしている家があり、まずそこに伺うと親身に聞いてくださり、警察と保健所へ連絡するように言われる。半径30メートルくらいの近隣に限られた枚数のチラシをどう配ると効果的か考えた。
一昨年、国勢調査員をやるはめになり、ここ一帯の家々にどのような人が住んでいるかを大体把握していたことがここにきて役立った。外を出歩く機会が多い子供のいる家、猫、動物を飼っている家、活動的で人のよさそうな応対だった記憶のある家など、チラシと直筆の短い手紙を添えてポストに入れた。
それからかかりつけの動物病院へ。昔からある街の獣医さんという感じで、先生と病院を継がれている娘さんが主に看てくださる。小豆が腎不全末期のときは通いつめてお世話になった。そのときも、どんな治療をするのがこの子にとって最善かを考えましょうと薬や治療法について偏りのない考え方で選択肢を提示し、丁寧に説明してくださった信頼のおける先生である。
病院に入ると土曜の午前には珍しく待合室には誰もいなかった。診察室から先生が出てきて、事情を説明しようと、小梅が と言いかけて先生の顔を見ると気が緩んで涙がたらたら出た。
家猫の女の子は自分からそう遠くに行かないはずだが、家の周辺を縄張りにしている野良に追い立てられて闇雲に逃げて帰れなくなること、うっかりトラックの荷台などに隠れ、思いもよらぬ場所に運ばれてしまう、喧嘩して怪我、交通事故、という可能性があるので、近所を探すことと、警察、保健所への連絡をするよう言われる。チラシを病院の中と外に貼ってくださった。
家に戻りながらうちからは少し離れているがよく猫を散歩している家にもチラシを入れたおいた。
午後から仕事。途中でダンスの稽古へ向かう友達にばったり会い、小梅のことを漏らして心配させてしまった。
仕事場。制作している5人中猫を飼ったことのある人が3人いて、うちも脱走したけど帰ってきた、たぶん近くに隠れてるよと勇気づけられる。頭像のモデルで椅子に座っているのだが、昨夜の疲労と寝不足でどうがんばってもまぶたが落ちる。小梅のことを考えて意識を覚醒させようとするが意識がすぐにとぶ。顔を作られているのに申し訳ないこと甚だしかった。それをみて濃いめのコーヒーを淹れてくださった。20分ポーズ8回、その間の7回の休憩のたびに「小梅見つかりました!」とか「梅無事帰宅」というメールが来てないかと携帯を見たが、待ち受け画面の欠伸する小梅の画像が出るばかりだった。
仕事を終え、見つかりますようにと送り出され、すぐに夫に電話したがやはり進展はなかった。
6時前帰宅。夫は日中電柱にチラシを貼り、近所をひたすら探し歩いていた。夫もほとんど寝ないまま、ひとりだといつ帰ってくるかも知れないので眠れずにいたらしく、少し話すとすぐに眠った。
ご飯をあげる時間帯に器や袋の音を立てながら名前を呼ぶと出てくる可能性が高いそうなので、ちょうどその時間帯に小梅の白い琺瑯ボウルをカンカン鳴らし、めーちゃんめーちゃんと町内を探し歩いた。生け垣と広い庭のある古いお屋敷が町内にあり、いるとしたら庭の奥に見えるお屋敷の暗い縁の下などが怪しいような気がした。そこには誰も住んでいないが、持ち主の方はその隣の敷地を住居にしていた。お屋敷の奥は山につながっている。そっちまで迷い込んでいないことを祈りながら山の裾からも声をかけたが出てくる気配なし。
お腹がすいていた。朝、数日前に焼いたシフォンケーキの残りを食べたくらいだった。
開けっ放しの玄関に向かってテーブルにつき、冷蔵庫にあったカボチャサラダをタッパーから食べた。それで冷えたので湯を沸かし、ウェイパーを溶かしてキムチと水菜を入れた汁を飲み、冷やご飯をチンして卵かけごはんにしてかき込み空腹を満たした。夫には起きてから何か作る。
猫が行動的になるのは深夜らしい。もう少し遅くなってから捜索にでることにして、手持ち無沙汰なので、もやしのひげ根を取りながら帰ってこいと念じつつ玄関の方を見ていた。
鈴の音がした。黒が玄関から覗いていた。
黒は小梅を玄関に出しているときによく現れるオスの黒猫だった。威嚇したり手を出したりするでもなく、少し離れたところから見ていたり、鼻先を付き合わせてすんすんしたりする顔見知り猫だった。野良のようだったが、最近鈴がついた。餌付けをしている町内の人から春になる前に去勢と予防接種、ノミ取りをしたのだと聞いた。
黒に、小梅見たら帰ってくるように言ってくれんかなと頼んだ。
夫目覚める。彼もまたシフォンケーキのみで今日を生きていた。冷凍庫のバターライスにしたタイ米を解凍し、玉ねぎとソーセージを刻んで炒めて器に盛る。卵2個とミルクで半熟オムレツを作りその上にのせ、ソース程度にした残っていなかった牛肩ロースの塊を赤ワインとトマトで煮たのを熱くしてオムレツの上にかけた。それと水菜のサラダ。
飼い主のにおいのする風呂の残り湯を家のあたりに撒くのも良いらしいので、昨日風呂に入っていない夫からは濃い出汁がでるであろうと食後、落ち着いた頃に湯をはって夫のにおいを抽出。風呂からあがってすぐ自ら玄関に湯を撒いていた。
11時頃ふたりで夜の捜索に出た。もう無人でも玄関は開けっぱなしだった。よく考えたら雀の涙程の通帳以外金目のものも盗られるようなものも然程ない。
夫は昨夜と今日の日中、車の下を覗くのにグランプリエを繰り返した為に下半身筋肉痛で階段の昇降すら辛そう。
近所を歩き、猫が通りそうなところを覗き込み、器の音を鳴らしながらうめ~と呼ぶが現れず。
家に戻ってきて、小梅帰ってないかとコタツを覗くがいない。
ふと思い付いて玄関先で煮干しをかじってみた。丸一日何も食べていないからお腹をすかせているはずである。煮干しおいしいなぁ、うまいにゃあと 言いながらパリパリ煮干しをかじり、袋の音をさせてみた。お腹が空いているときに誰かが食べているのを見るとやたらうまそうに見える原理を利用したこの作戦だが功を奏することはなかった。
諦めて風呂に入る。
あがって髪を乾かし終えたあたりで、タバコついでに外を見ていた夫が小梅いた!という。
暗闇にチラッと見えた歩き方が小梅やったと言う。急いで厚着して外に出た。
やはりお屋敷の庭だった。黒の鈴の音も近くでしている。
生垣から庭を覗き、うめ~うめ~と呼びながら、この機を逃すまいと、小梅の好物をすべて持って来てあけた。
苔の細かい先端に小さな水滴があちこちで光っている。その奥の茂みの陰にふたつある青い発光体がどうやら小梅らしかった。
光は強くなったりかげったりする。呼ぶとこっちを見ているようだった。
青い光に向かってふたりでしつこく呼び続け、夫は駐車場から庭に侵入しようとしたが、その音で光は消えてしまう。
粘って待ってみても向こうから来てはくれないようだった。
家で待機することにした。夫は風呂の残り湯を生け垣からうちへの導線に撒いた。帰ってこなくても一先ず居場所がわかっただけで気持ちは随分楽だった。
玄関を開けたままにしていることに慣れてきた。私はコタツでうたた寝し、夫はノートパソコンをひらいていた。
3時過ぎ、にゃ、と子猫のような鳴き声が聞こえた。ぱっと目覚めてすぐ夢でないことを祈ったが、夫の顔を見てそれが夢でないことがわかった。斜め上に目をやると小梅がそこにいた。
夫が脅かさないようにそっとドアを閉めた。
家を出てから約27時間後、小梅は何事もなかった様子で帰宅したのだった。
足の裏を拭いてやり、お腹すいてる?と聞くとにゃーと返事し、猫缶を開けると一気に平らげ、口のまわりをぺろぺろ舐めてトイレに行き、いつものデロンギの前で眠った。
一時はもう会えない可能性もあると思ったけれど、またお腹をみせて無防備に眠る姿が傍に戻ってきた。