風まかせ

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備中の高橋氏

2022-09-09 19:26:03 | 歴史紀行
元弘年間(1331年~1334年)には、勢いの衰えた秋庭氏にかわって備後の三好氏の一族である高橋宗康(高橋九郎左衛門宗康)が大松山城に入りました。
このとき、城域が小松山まで拡大されたようで、小松山城には弟・高橋大五郎を居城させたとされます。
これが、現在の備中・松山城がある小松山城の初見です。

九郎左衛門、又四郎(範時(のりとき))の親子は同3年(1333)5月7日、京都の合戦に北条氏に従い、六波羅軍に属し楠氏を攻めたが、これに敗れ、9日近江国(現・滋賀県) 番場の米山の麓、蓮華寺一向堂前で、六波羅探題 北条仲時以下 432人と共に討死・自害しました。

高橋氏は1331年頃から1355年頃まで城主だったようだ。

その後、高橋一族の末裔は備中窪屋郡流山(るざん)の城に移りました。輿光の代に毛利によって滅亡させられ、一族は毛利の配下となった模様。高橋伸賢家は毛利水軍である三田尻御舟倉床」(現在の山口県防府市)において明治維新を迎えることとなります。








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