とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

仮面ノリダーはパロディか(1)

2006年02月11日 16時53分52秒 | とんねるずコント研究



前回記事「仮面ノリダーは黄飛鴻だ」において、「ノリダー」が内包していた倫理観について指摘した。

ノリダーコントは、当時の子供に圧倒的な人気があったことなど、いくつかの理由により、単なるナンセンスパロディに終わるのではなく、至極正当なメッセージを発するある種のモラルリーダー的な存在でもあった(*1)。

それはあたかも、主たる視聴者である子供達に対して負っている責任を、とんねるずとスタッフたちが懸命に果たそうとしていたかのようにも見える。時代のヒーローが同時にモラルリーダーともなるあり方が、ウルトラマンや仮面ライダー、戦隊物ヒーローなどの伝統的なあり方だったのだろう。そしてそれを、仮面ノリダーが引き継いだといえるのかもしれない。


いまわたしが関心があるのは、このような「仮面ノリダー」のありようは、真の意味での"パロディ"ヒーローといえるのだろうか?ということだ。

手元の辞書で「パロディ」を引いてみると、

「有名な作品の文体・韻律・曲を滑稽にまねたもの。諷刺と文明批評の要素を多く持つ。」(新明解国語辞典 三省堂)

とある。

パロディという語を、わたし自身、感覚でわかったつもりで、日頃実になにげなく使っている。一般的には、オリジナルをデフォルメしたり、ものまねしたりして滑稽なショーとして見せるものを、総称して「パロディ」と呼んでいるだろう。かつてはギャグ全体をなんとなく「パロディ」と呼んでしまう誤用の時代もあったようなので、それにくらべれば、多少はわれわれも「パロディ慣れ」してきているのかもしれない。

しかし、厳密にかんがえてみれば、本来パロディというものは、「諷刺」であり「文明批評」なのである(*2)。新聞のひとコマ漫画に端を発した"諷刺"は、他のあらゆるメディアに波及して、「権力」や「体制」や「組織」や「文明」を批判する装置となった。それがもっともきわどい皮肉としてあらわれるのが、宗教のパロディであろう。

実例には事欠かないが、たとえばモンティ・パイソンの映画『ライフ・オブ・ブライアン』は、キリスト教への冒涜だとして猛烈な反発を受けた。わざわざテレビで討論番組が組まれ、パイソン自身が宗教関係者と論戦をまじえねばならないほどだった。

またケヴィン・スミス監督『ドグマ』も、聖書の内容を思いきって脚色したコメディであり、公開前から非難が予想された。監督は"賢明"にも、さらにそれを逆手にとり、本編が始まる前に長々と"弁明"のコメントを映し出している。しかしそれもかなりふざけた内容である。つまりそれ自体が、宗教団体との論争をもパロディにしているのである。

こういったパロディ作品を見るにつけ、わたしは思う。われわれが日本で呼ぶところの「パロディ」とは、明らかに違う、と。

誰の目にも明らかであろうが、いま日本で一般に「パロディ」とされているものは、「批評」ではない。「茶化し」、「模倣」、「誇張」それがわれわれのパロディなのである。もっとも、茶化すという行為自体の中にははじめから批評精神が含まれている、というのはたしかだ。しかし、決定的に違うのは、茶化しの対象である。


*1 80年代に「オレたちひょうきん族」から生まれた超人気ヒーローはタケちゃんマンであったが、筆者が記憶する感じでは、タケちゃんマンコントは徹底したナンセンスで、湿っぽいモラルとはまったく別次元で作られていたように思う。モラルリーダーの系譜としては、ノリダーはむしろドリフターズに近かったかもしれない。「8時だよ!全員集合」で毎週加藤ちゃんが「歯みがけよ!宿題しろよ!」と呼びかけていたが、それと同じ事を、ノリダーもしていた。


*2 パロディを諷刺と同一視する伝統的な定義のしかたは、リンダ・ハッチオンの『パロディの理論』(未來社、1993)において明確に否定されている(すくなくとも現代のパロディについては)。現時点でわたしもハッチオン女史に賛成するので、パロディ=諷刺とみなす定義についてはいまのところ保留としておく。ただし、とんねるずのパロディが、伝統的なパロディの定義とは異なると考えている点では、主張は一貫している。07年1月22日追記。



(2)へ続くよ。








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