三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

聖霊降臨の主日のミサ

2012年05月29日 | ミサ聖祭
カトリック喜多見教会の聖母像
(住所:東京都世田谷区喜多見9-7-10)

5月27日(日)、喜多見教会で聖霊降臨の主日のミサに与った。風薫る5月は聖母月。そこで、今月のミサは「聖母の名を戴く教会で」と決めた。今週は自宅から京王線、JR南武線、小田急線を乗り継ぎ、世田谷の喜多見教会(ルルドの聖母)へ。この日は、復活の主日から始まった復活節の最終日。「キリストを信じるすべての者よ・・」。八王子教会で「復活の続唱」を先唱された稲川圭三神父の歌声が、今も私の耳に残る。あれから約1ヶ月半が過ぎた。

昨年の聖霊降臨祭の記事でも触れたが、私は名古屋市にあるカトリック系の聖霊病院で生まれた。当時、私の両親は目黒区に住んでいたが、母は里帰り出産で名古屋に戻ったのだ。カトリック信徒の祖父(母の父)の薦めもあり、母は聖霊病院を選んだ。その十数年後、同じ場所で祖父は病魔と闘い、主のもとへ旅立った。葬儀ミサは近くの南山教会で行われ、ヨハネ・リータス神父が司式された。新緑の季節になると、つい個人的な回想が多くなってしまう。

午前7時30分、ミサ開祭。信徒席には礼拝会シスターの姿も見える。福音朗読は、イエスが聖霊の働きについて語られた場面(ヨハネ15・26-27、16・12-15)。赤い祭服を召された主任司祭の安次嶺晴実神父は、「聖霊は祈りを通して注がれ、弱い私たちは変えられる。必死の祈りに応える神様からの力、聖霊によって導かれるのです」と話された。一昨年、私は自分の精神的な苦しみを通して、再び教会へ通うようになった。まさしく、聖霊のお導きである。


カトリック喜多見教会聖堂(礼拝会修道院旧聖堂)

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲(4つの賛歌)は読誦。 入祭:典礼聖歌345「わたしは復活し」、続唱:典礼聖歌352「聖霊の続唱」、閉祭:典礼聖歌388「ガリラヤの風かおる丘で」。
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ブルトン司教と聖母訪問会<後編>

2012年05月27日 | 神奈川のカトリック教会
聖テレジア病院 鎌倉福祉の丘聖堂
(住所:神奈川県鎌倉市腰越1-2-1)

前編の続き>。聖母訪問会の本部聖堂を巡礼した後、私は相模湾に臨む聖テレジア病院を訪れた。ここは、1929年にブルトン司教が結核患者のために開いた聖テレジア七里ガ浜療養所が前身。敷地内には高齢者や重症心身障害児の福祉施設もあり、聖母訪問会の七里ガ浜修道院が隣接している。病院の裏手に回ると、聖テレジア会鎌倉福祉の丘聖堂があった。1998年に献堂された瀟洒なチャペルで、毎月第一水曜日にミサが捧げられている。

七里ガ浜修道院にあるブルトン司教の墓を訪ねようとしたが、場所が分からない。玄関前を徘徊していると(挙動不審)、親切なシスターが声を掛けてくださった。来意をお伝えすると、「ブルトン司教のお墓参り?まァ、うれしい」と大喜びされ、何と院長シスターもお越しになった。ブルトン司教の墓は修道院の一角、相模湾の絶景を望む崖上にあった。 両脇にはパリ外国宣教会司祭、そして聖母訪問会創立時のシスターたちの墓が寄り添うように並んでいる。

先ほど、この怪しい男に声を掛けられたシスターは、とてもお元気な88歳(米寿)。生前のブルトン司教をご存じだった。お話しを伺うと、チマッティ神父にもお会いしたことがあるという。まさにカトリック昭和史の語り部である。この日、私は修道院内の聖堂を拝観する恩恵にも浴した。窓からは相模湾が一望のもとに。今回の墓参を通して、私は多くのお恵みをいただいた。改めて、訪問会シスターの皆さんに御礼申し上げたい。そして、聖母のお導きに感謝。


異国の地に眠るブルトン司教の墓
<聖母訪問会七里ガ浜修道院内>


<ブルトン司教の墓前は相模湾の大海原!>

◆主な参考文献など:
「マリアとともに急ぎ山道を 聖母訪問会の歩み・1915年-2001年」 早船洋美編著(聖母訪問会・2002年)

<付記>
聖母訪問会の名称は、ルカ福音書の「聖母のエリサベト訪問」(ルカ1・39-45)に由来。訪問会の会憲によれば、その使徒活動は「マリアのように、わたしたちもイエス・キリストと共に、必要に応じて人々を訪れ、その愛を分かち合う」とあります。なお、教会暦の5月31日(木)は、聖母の訪問の祝日です。
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ブルトン司教と聖母訪問会<前編>

2012年05月25日 | 神奈川のカトリック教会
聖母訪問会本部聖堂
(住所:神奈川県鎌倉市津550)

私はカトリック教会巡礼のかたわら、来日した外国人宣教師たちの足跡をたどるのが好きで、その蒔かれた「からし種」の現在も訪ねている。全世界に福音を宣べ伝えるため、宣教地の言葉や文化の障壁を乗り越えて、教会を献堂し、病院や学校を建て、社会的・経済的弱者を救済した情熱に強く惹かれる。パリ外国宣教会のテストヴィド神父、フロジャク神父、サレジオ修道会のチマッティ神父らは「一粒の麦」となり、首都圏にも福音の種を蒔かれていた。

パリ外国宣教会のアルベルト・ブルトン司教(Albert Breton:1882-1954年)もその一人。フランスで司祭叙階された1905年、ブルトン神父は仙台教区に赴任。その後、米国の日本人移民への宣教活動を経て、日本初の邦人女子修道会である聖母訪問会を創立。大森教会を献堂する一方、病院や学校などの福祉・教育施設を建てた。戦後も横須賀に聖ヨゼフ病院を開いたが、持病の心筋梗塞が悪化し、鎌倉の聖母訪問会本部の司祭館で亡くなった。

江ノ電の鎌倉高校前駅で下車。目の前は相模湾の絶景である。その崖上に聳える聖テレジア病院は、ブルトン司教が創立した結核療養所が前身。そこを過ぎてから、徒歩数分で新緑の木々に包まれた聖母訪問会の本部に到着。山麓の敷地内には修道院、ブルトン司教の終の棲家となった旧司祭館などがある。美しい本部聖堂の設計は東京の上野毛教会聖堂成城教会聖堂、長崎の日本二十六聖人記念聖堂などを手掛けた今井兼次氏。 <後編に続く>


現聖堂献堂:1965年

◆主な参考文献など:
「マリアとともに急ぎ山道を 聖母訪問会の歩み・1915年-2001年」 早船洋美編著(聖母訪問会・2002年)
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カトリック溝ノ口教会

2012年05月23日 | 神奈川のカトリック教会
カトリック溝ノ口教会(教会堂名:使徒聖ヨハネ)
創立:1961年 ◇ 住所:神奈川県川崎市高津区二子5-15-7

JR南武線の武蔵溝ノ口(みぞのくち)駅で東急田園都市線に乗り換えて、高津駅で下車。南武線は「溝ノ口」、田園都市線は「溝の口」と表記するが、溝ノ口教会の最寄り駅は田園都市線の「高津駅」である。なお、溝の口駅発の東急大井町線は、高津駅を通過する列車が含まれるので、注意が必要だ。さて、府中街道を歩くこと数分、溝ノ口教会に着いた。屋上の十字架が無ければ、公民館や研修所のように見える白亜の聖堂は、2005年に新築されたばかり。

1961年、溝ノ口教会はケベック外国宣教会によって献堂された。「1921年、カナダのケベック州の司教団によって創立されたケベック外国宣教会は、教皇ピオ12世の宣教の依頼によって1948年に来日しました」(赤堤教会サイトより)。神奈川県内では、川崎市麻生区の百合ヶ丘教会、横浜市青葉区の藤が丘教会などが、ケベック外国宣教会によって創立されている。なお、ケベック外国宣教会の日本管区本部は、今も東京都世田谷区の赤堤教会にある。

溝ノ口教会の主任司祭は、ミラノ外国宣教会のヴィンチェンツォ・パスカーレ神父。私は鹿島田教会を再訪したとき、偶然にもパスカーレ神父(ご本人は「パスクヮーレ」と発音)とお会いする機会に恵まれた。パスカーレ神父は中原教会に常駐され、溝ノ口教会、鹿島田教会の主任も兼務(!)。何れかの教会で、神父様司式のミサに与りたいと思う。さて、今回の溝ノ口教会を訪ねたことにより、私は横浜市を除く神奈川県内のカトリック教会の巡礼をすべて終えた。


現聖堂献堂:2005年

◆主な参考文献など:
・「カトリック溝ノ口教会 ご案内」第3版 (カトリック溝ノ口教会・2011年)

<付記>
次回の教会巡りの記事は、聖母月特集(?)「ブルトン司教と聖母訪問会<前・後編>」の予定です。聖母訪問会本部聖堂の巡礼、及び同会創立者のブルトン司教の墓参を兼ねて、鎌倉・七里ヶ浜を訪ねます。 来月は、「横浜のカトリック教会巡り」を不定期連載いたします。
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主の昇天の祭日ミサ

2012年05月21日 | ミサ聖祭
カトリック碑文谷教会の被昇天の聖母像
(住所:東京都目黒区碑文谷1-26-24)

5月20日(日)、碑文谷教会で主の昇天の祭日ミサに与った。風薫る5月は聖母月。そこで、今月のミサは「聖母の名を戴く教会で」と決めた。今週は自宅から京王線、東急東横線を乗り継ぎ、目黒の碑文谷教会(江戸のサンタマリア)へ。ここはサレジオ教会の名で親しまれ、松田聖子が結婚式を挙げた場所としても知られている。この昭和の代表的アイドル歌手は、カトリック系の久留米信愛女学院高校に在籍していた。なお、私は松田聖子のファンではない。

午前10時30分、ミサ開祭。この日はバザーが開催されることもあり、聖堂の内外は華やかな雰囲気。都内で最も有名な教会の一つ、サレジオ教会で、私がミサに与るのは今回が初めて。聖堂内に響き渡る厳かなミサ曲は、チマッティ神父が1940年に作曲したもの。私はこれを調布のチマッティ神父記念ミサで聴いたが、日本語ミサ曲の嚆矢とも言うべき作品である。福音朗読は、イエスが福音宣教の使命を伝えた後、天に上げられた場面(マルコ16・15-20)。

主任司祭のアキレ・ロロピアナ神父は、「イエスは地上から離れましたが、それは新しい現存の始まりでした。今もキリストは私たちの間におられます」と話された。聖体拝領のとき。「洗礼を受けていない方は、それぞれの席でお待ちください」との告知があった。遠い昔、カトリック信徒の祖父が聖体拝領の行列に並ぶのを、幼い私は信徒席で見送っていたことを思い出す。この日、私は未信者への祝福を授からなかったが、なぜか万感胸に迫るものがあった。


カトリック碑文谷教会聖堂
<右脇祭壇の隣にシドッティ師の「悲しみの聖母」の複写がある>

◆この日のミサ中の主な歌:
チマッティ神父のミサ曲(1940年作の日本語ミサ曲)、入祭:典礼聖歌147「天は神の栄光を語り」、奉納:典礼聖歌50「神の名は」、拝領:典礼聖歌158「門よ とびらを開け」、閉祭:カトリック聖歌217「すみわたる」。

◆参考CD:
「チマッティ神父のミサ曲」 合唱:調布カルメル修道会ほか(チマッティ資料館・VCCD-007)
※チマッティ神父の日本語ミサ曲は、1966年版「カトリック聖歌集」に収録された「第二ミサ」(56-60番)の原曲。
コメント (2)
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