三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

年間第17主日のミサ<後編>

2011年07月28日 | ミサ聖祭
カトリック泉町教会の聖母子像
(住所:東京都八王子市泉町1287)

7月24日(日)、八王子教会で年間第17主日のミサに与ったあと、私は市内北西にある泉町教会のミサにも参列することにした。本町の八王子教会から、路線バスで約20分ほどの距離である。多摩カトリック小史(前編)の記事でも触れたが、私が多摩地域のカトリック信仰に惹かれたのは、この泉町教会の存在を知ったことが大きい。八王子城跡の険しい山を見ながら、バスは南浅川を渡る。中央高速のガード下をくぐり、右折した細い道が泉町の入口である。

西東京バスの泉町停留所で下車。明治初期、テストヴィド神父と泉町出身の山上卓樹らによって、この地に教会が建てられた。封建時代の不条理に苦しんできた村人たちはカトリックに改宗する者が続出し、その勢いは山上卓樹が「燎原の火のごとく」と評したほどであった。テストヴィド神父も「全村こぞってカトリックになる」と喜んだ。だが、村の大火や不況などによって、多くの若者がここを離れてしまう。そして、テストヴィド神父の死。 燎原の火は消えかかる。

現在、泉町教会は常駐の神父を持たず、八王子教会の主任司祭が第二・第四日曜日のミサなどに訪れている。今回は、東京教区本部の藤岡和滋神父が司式された。戦前の古い聖堂内には、パイプ椅子が30席ほど並んでいる。以前は畳敷きだったという。この日の会衆は十数人であったが、足踏み式オルガンの懐かしい音色に合わせて、カトリック聖歌「あまつみはは」などを歌う。小さな泉町教会で、私は豊かなお恵みを授かった。燎原の火、いまだ消えず。


カトリック泉町教会聖堂
(聖堂の外観は本記事の前編を参照)

<謝辞>
「こちらの教会は初めてですか?」。この日、泉町教会信徒の方々は、闖入者である私に温かく声をかけてくださった。特にオルガン奏者の方からは、聖堂のご説明をいただいた上、聖堂内(及び御像)撮影のご快諾も賜った。この場をかりて心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。

◆主な参考文献など:
「多摩の百年(上)悲劇の群像」 朝日新聞東京本社社会部著(朝日新聞社・1976年)
「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
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年間第17主日のミサ<前編>

2011年07月25日 | ミサ聖祭
年間第17主日を迎えたカトリック泉町教会
(住所:東京都八王子市泉町1287)

7月24日(日)、八王子教会で年間第17主日のミサに与った。先週の台風が過ぎ去ったあと、初秋のような涼しい日が続いている。酷暑による電力不足を煽って、原発死守を企んでいた政府・東電にとっては「想定外」であろう。私は午前7時のミサに参列したが、聖堂内はエアコンの必要もなく、早朝の冷気に満たされていた。大きく開かれた窓から、涼風が入り込んでくる。お囃子の調べも聞こえてきた。この日は八王子まつりの「山車巡行」が行われるという。

八王子教会では、今月から伏木幹育氏の「ミサ曲6」を歌うようになった。その荘重な調べに、私はすっかり魅了された。「栄光の賛歌」でさえ、静かな悲しみが漂っている。ところで、古い「カトリック要理」をひもとくと、「ミサ聖祭にあずかるときの心構え」として、まず「イエズスの十字架の犠牲を思うこと」とある。私は一方的な「お恵み」を望むだけで、「十字架の犠牲」は疎かになっていた。 レクイエムのような「ミサ曲6」を歌いながら、深く恥じ入るばかりであった。

ミサ開祭。福音朗読は、天の国のたとえ話「畑に隠された宝」の場面(マタイ13・44-52)。主任司祭の稲川圭三神父は、「天の国のような宝を発見した徴税人ザアカイを思い起こしてください。私たちもそれを見出し、共におられる神を信頼しましょう」と話された。私のような罪びとの家にも、主はお泊りになるだろうか。このあと、私は市内北西の丘陵上に立つ泉町教会のミサに参列することにした。本町の八王子教会から、路線バスで約20分ほどの距離である。 <後編に続く


カトリック泉町教会聖堂
<戦前の1927年に竣工された貴重な建物>

<カトリック泉町教会の関連記事>
多摩カトリック小史(前編)」、及び「復活節第3主日のミサ

◆主な参考文献など:
「カトリック要理」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1965年版)
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カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)

2011年07月23日 | 東京のカトリック教会
カトリック碑文谷教会(教会堂名:江戸のサンタマリア)
創立:1948年 ◇ 住所:東京都目黒区碑文谷1-26-24

東急東横線の都立大学駅で降りる。駅名の由来となった東京都立大学(八雲キャンパス)は八王子市に移転し、この地には存在しない。また、校名も石原慎太郎都知事の“強権発動”で、首都大学東京に変更されてしまった。この男のネーミング・センスはまことに素晴らしく、「俺は、君のためにこそ死ににいく」「たちあがれ日本」など、天賦の才能が花開いている。 現在、都立大学の跡地は複合施設「めぐろ区民キャンパス」となり、ホールや図書館などがある。

碑文谷(ひもんや)教会に着いた。一般的には、サレジオ修道会の担当教会であることから、目黒サレジオ教会の名が広く親しまれている。教会前の道は「サレジオ通り」と称し、その付近にはカトリック系の目黒星美学園などがあり、サレジオの小さな城下町を形成している。さて、鐘楼を戴く大聖堂に入ると、パイプオルガンの荘厳な音色が響いていた。オルガニストが練習しているらしい。誰もいない聖堂で、私は贅沢な時間を過ごす。神の豊かなお恵みに感謝。

碑文谷教会は「江戸のサンタマリア」に捧げられている。1954年、現聖堂の建設中に「東京国立博物館で古い聖母画が発見され、江戸時代に渡来したシドッティ神父(注)の所持品であること」が分かった。それは神父を尋問した新井白石の調書によって判明したという。その中に、聖母画の模写があったのだ。 碑文谷教会の壮麗な大聖堂には、この「江戸のサンタマリア」の複製が掲げられている。 その表情は、江戸の殉教者を悼むような悲しみを湛えている。


現聖堂献堂:1954年


聖堂外観

(注):シドッティ神父(1668-1714年)は鎖国中の日本へ潜入したイタリア人宣教師。江戸の切支丹屋敷に幽閉され殉教。シドッティ神父の人格に惹かれた新井白石は、その対話から得た知識を「西洋紀聞」などの著作にまとめた。なお、カルロ・ドルチ作「悲しみの聖母(江戸のサンタマリア)」の原画は東京国立博物館蔵。

◆主な参考文献など:
「東京きりしたん巡礼」 山田野理夫著(東京新聞出版局・1982年)
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年間第16主日のミサ

2011年07月19日 | ミサ聖祭
年間第16主日を迎えたカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

7月17日(日)、八王子教会で年間第16主日のミサに与った。「復活節第3主日のミサ」の記事でも触れたが、八王子教会では主日の午前10時ミサが始まる前に、会衆全員でロザリオの祈り一環を捧げている。この日は、司教団で新しく改訂された「アヴェ・マリアの祈り」を唱えていた。古い「天使祝詞」で育った私は、これまでの「聖母マリアへの祈り」に少し戸惑っていたが、今回は喜んで覚えることができた。 特に「ご胎内の御子」の敬称が復活したのは嬉しい。

ミサ開祭。本日の福音朗読は、イエスのたとえ話「良い種と毒麦」の場面(マタイ13・24-30)。主任司祭の稲川圭三神父は、「私たちの内にも、悪い心が混じっています。だから、神は共におられるのです。罪びとの回心を望まれています」と話された。私は毒麦のたとえ話を、「悪人は地獄で焼かれる」恐ろしい戒めと考えていたが、そこに神の「慈しみ」「あわれみ」が注がれているとは思わなかった。ああ、信仰の薄き者。またもや、「共におられる神」を忘れていた。

閉祭の歌は、カトリック聖歌288番「うるわしき」。 どこかで聴いたことのある調べである。私はリスト作曲の「十字軍騎士の行進」を思い出した。これに「うるわしき」がコラールのように登場する。東欧へ旅行した時、ブダペストで入手したCDに、「十字軍騎士の行進」が収録されていた。それはハンガリーの軍楽隊が奏でる行進曲集であったが、原盤の解説によれば、リストのオラトリオ「聖エリザベトの物語」からの編曲という(注)。私は八王子での予期せぬ恵みに感激した。


カトリック八王子教会聖堂
<聖堂背面の大きな十字架のレリーフ>

(注):リストはこのオラトリオを、後に4つのピアノ連弾曲に編曲した。その中に「十字軍騎士の行進」が入っている。なお、ハンガリーの聖エリザベトについては、板橋教会の記事を参照。

◆主な参考文献など:
「リスト 大音楽家・人と作品8」 諸井三郎著(音楽之友社・1965年)
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カトリック松原教会

2011年07月17日 | 東京のカトリック教会
カトリック松原教会(教会堂名:聖母の汚れなきみ心)
創立:1965年 ◇ 住所:東京都世田谷区松原2-28-5

京王線の明大前駅で降りる。ここは京王井の頭線と交差しており、また駅名の由来となった明治大学和泉キャンパスがある。松原教会は学生街とは反対方向の、閑静な住宅街の中にある。一見すると、小さな会社の事務所棟のようであるが、この教会の「母体である淳心会(スクート会)は、1862年にテオフィル・ヴェルビスト神父によって、ベルギーの首都ブリュッセル郊外のスクート村で創立され、日本では1948年から宣教活動をしています」(松原教会サイト)。

ベルギーと言えば、幼い頃に見たテレビまんが「フランダースの犬」を思い出す。少年ネロと老犬パトラッシュの悲しい物語について、多言は要しないだろう。当時、「なぜ神さまは、こんな酷い仕打ちをするのかな?」と考えていた。それでも、私は「フランダースの犬」の絵本と主題歌レコードが欲しくてたまらず、母にせがんで買ってもらったほど、この物語の世界に魅せられた。その舞台となったのが、ベルギー王国の州都アントワープと、その近郊の田園地帯である。

この番組のスポンサーだったカルピスの会長は、敬虔なクリスチャンであった。その強い意向により、「フランダースの犬」の放映が決定されたうえ、「ネロとパトラッシュが昇天するラスト」まで指定(!)。そして、アントワープ大聖堂の「ルーベンスの2枚の絵(注)」との関連。 テレビを通して、イエスの福音を伝えていたように思う。だが、私は「こんな酷い仕打ち」の意味に気づくまで、かなりの時間を浪費した。「コゼツのだんな」でさえ、最後は悔い改めたというのに。


現聖堂献堂:1965年
<教会の敷地内には「オリエンス宗教研究所」の建物がある>

(注):バロック時代の画家ルーベンス(1577-1640年)が描いた「キリスト昇架」と「キリスト降架」の2枚。

◆主な参考文献など:
「フランダースの犬」 ウィーダ著、村岡花子訳(新潮文庫・1954年)
「別冊宝島 私たちの好きなフランダースの犬」 (宝島社・2003年)
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