美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

初冬の夕暮れ、備前、金重有邦氏の窯を訪ねた。

2014-12-27 21:54:39 | 私が作家・芸術家・芸人
詩人の松尾正信氏に誘われて、夕暮れの備前で陶芸家の金重有邦氏に会った。叔父金重陶陽(古備前の再興者、人間国宝)、父金重素山(人間国宝)という名門の家系は、普通の個人の作家では一生かかっても会得できないような備前焼の精髄が、自然に身に付いていくような環境であったろう。その伝統を受け継いでいくのは当たり前のことで、むしろ、いかにそれを越えるかが、氏にとっての早い時期からの困難な課題となっていたかもしれない。

有邦氏の話は、モーツアルト、ベートーベン、ワグナー、バルトークと、好きな音楽の話が半分。そんな氏の嗜好を彷彿とさせて、話の途中次々と出して来られた茶碗、水指、花器など、歴史を受け継ぐ品格が漂う備前の器にも、どことなく音楽的なゆらぎが感ぜられて、それが氏の作風のオリジナリティにつながっているように思えた。しかし、音楽へのオマージュを語りつつ、「自分はかたちをつくりたくない」というのはかたちを抜きにしては成り立たない「陶芸家」にとって、何という矛盾なのだろう。何点か持って来られた徳利は、私の好きなモランディの絵のようでうれしくなって、何枚も写真をとった。(「モランディははまっちゃうんだよね」といったから、氏もそう言う時期があったのかもしれない。)

「花器であれ、見えない内側をきれいに。悪い波長を出さない。純粋にお金を得たいが創作の動機(誤解を恐れず、きれいごとではなく、そういえる人はなかなかいない。嘘から始めたらいいものはできるわけがない)。造形ということに疑問を覚える中、息子には暮らしの器から作らせている」。後からじっくり考えたくなる「音楽の人」の投げかけた無数の含蓄のある言葉とともに、最後に見せてくれたのは病を得て後、制作時間が限られる中で作った最新作(写真ー雲のように浮かぶようでありながら重心の定まった不思議な作品)であった。一般には見せ場と思われている紋切り型の備前の衣装を削ぎおとし、魂そのもののようになった、シンプルな美のかたちが、何とも愛おしく心に残った。

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