美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

巨大画、神戸に行く

2013-02-21 18:36:24 | レビュー/感想
加川広重氏の巨大水彩画が神戸へ遠征し、「デザイン・クリェーティブセンター神戸」に展示されることになった。昨年の7月、巨大水彩画の前で神戸の詩人松尾正信氏が「長旅のいしずえ」を上演した際、同郷のギャラリーオーナーS氏を招いた。それがきっかけとなった。

25,000人の人々を呑み込んだその規模も意味も人間の叡智では図りしれないない出来事に迫るには、俳句や和歌ではだめで大叙事詩が必要なのだ。それを描いて、個人の心情を越えたドキュメンタリーとなるためには、この大きさとそれを描ききる才能が必要であった。以前からなぜこんな巨大水彩画を描き続けているのだろうと思っていたが、彼は自分でも分からず、この未曾有の出来事の証言者となるための訓練を続けていたのかもしれない。次のステップはモニュメンタルなこの作品を永久保存する手だてを考えることだろう。

(写真は「長旅のいしずえ」上演シーン。巨大画の前の松尾氏と加川氏。)

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畏るべきもの、がやってきた

2013-02-12 21:27:40 | レビュー/感想
意図通りにできるようになったら、こんなつまらないことはない。しかし、精進してそうなることが美に近づく道であると多くの者が思っている。ただ美の宇宙の広大無辺さの中で、自らの思い込みを堅固にしているのに過ぎないのに。夜郎自大の折り紙細工師たちが跋扈する世界。しかし、大海の中のちっぽけな堡塁にしがみついているだけの存在に、畏るべきものがやってくる。それはある時は地震や津波など自然災害かもしれない。あるいは戦争のような出来事かもしれない。またそんなことがなくても人はいつか個々に誰一人逃れるべくもない死に平等に直面せねばならない。本来、美とはこういった戦慄的なものと向き合っていた。だが、人間の文明は、それをひたすら忘却するための知恵の総動員システムとして世界を覆っている。

畏るべきものすら、人間の努力や善意によってどうにかなると思わせる詐欺的なシステム……政治、教育、そして芸術。そこに西洋、東洋の、特殊カテゴリー同士の対立的二分法はない。江戸時代、日本にも巧みに創作された近代が誕生した。キリスト教から仏教まであらゆる宗教勢力を滅ぼして立てられた人間の知恵の王国。徳川家康という名のパターナリズムの元祖、ある意味、史上まれに見る「大審問官」によって創始された、古来からのムラ社会の暗黙知に基づいて安心と安全を約束する人間的システムが、未だ効力を失わずに居座っている。

美が真実の探求なら、そして生命の進化と密接に関わるものであるなら、これらとは本来相容れないはずなのに、それなりに居心地のよいカテゴリーの中で疑いも持たずに自足している。しかも、そのカテゴリー維持に用いられた様々なテクノロジーたるや、西洋の表層的なコピーがほとんどなのだから、何をかいわんやだ。例えば、そのひとつ、遠近法といっても、単純に現実らしく見せる「だまし絵」の技術のことではない。その一点を不可視の彼方にすえることの意味は、見えざる神によって世界が創られているという信仰告白に結びついている。また、こうすることで個々の物との距離感が生まれる。フェティシズムを克服して、写実がはじめて可能になるのだ。元来日本人には納得しがたいテクノロジーだ。しかし、本来ならその自覚から出発すべきだったのに、それを安易に模倣可能のように受け止めて、これまた西洋模倣の制度の中で発展させてきた歴史がある。

その幾重にもなったねじれを解きほぐしてピュアな状態に戻すには縄文あたりまでさかのぼらなければならないのか。しかし、そこで出て来る「爆発」がありふれたロマンチシズムしか呼び寄せないとしたら。これまた、そんなロマンチシズムならもうたくさんではないか。西洋でも信仰の喪失は、この一点において世界をまとめるテクノロジーを時代錯誤として久しい。今希求されているのは、西洋と東洋の違いを越えた魂の同質性に基づく「中心性」の再獲得なのだ。これまた現代西洋思想の受け売りで、絵の構造を現象学的に分解しつくしてみても何が残るのだろう?また、それをまた模倣対象とするとしたら、何と二重に愚かなことだろう。今、想定を越えて次々起こる危機の同時代性が、個々の物語に収斂させる特殊性の神話を越えて、普遍性への指向をわれわれのうちに自然に芽生えさせようとしている。

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